野口淳「日本列島における後期旧石器時代以前、または4万年前以前の遺跡の可能性」

 本論文は、日本列島において報告された、あるいはこれから報告されるであろう、「後期旧石器時代以前」または「4 万年前以前」の遺跡の存在を定量的に検討するための試論です。本論文はまず結論として、日本列島における「4 万年前以前」とされる「遺跡」の存在を高い蓋然性によって示す・説明することは現状では困難と指摘し、その理由を遺跡分布・立地と地形発達史の関係から説明し、日本列島外の事例と比較します。本論文は、静岡県井出丸山遺跡第1文化層を、2020 年時点で報告されている後期旧石器時代(上部旧石器時代)文化層の最古の年代として、それより以前を「後期旧石器時代以前」とする立場から、「4 万年前」を区切りの目安としています。

 手続き論上、考古学的に「不存在」を証明することはほぼ不可能で、可能なのは、提示・報告された資料・データの確からしさの検証か、状況証拠からの推論による、「存在」の妥当性・蓋然性の検討である、と本論文はまず指摘し、遺跡分布・立地を『日本列島の旧石器時代遺跡』データベース(JPRA-DB)に基づいて検討します。ただJPRA-DBには時期区分情報が含まれないので、本論文では主要石器の組み合わせが示標とされます。具体的には、「台形(様)石器」または「石斧」を含むものの、「剥片尖頭器」や「角錐状石器・三稜尖頭器」や「槍先形尖頭器」や「細石刃・細石核」や「神子柴型石斧」や「有茎(舌)尖頭器」や「草創期土器」を含まない遺跡・地点・文化層が、後期旧石器時代前半(EUP)とされます。JPRA-DB 刊行時のデータで計791件が該当し、地理的には北海道から奄美大島までが含まれます。一方、4 万年前以前とされる遺跡については異論も多く確定的ではありませんが、22ヶ所の 遺跡・地点・文化層を示す2016年の論文もあります。その後報告された長野県の木崎小丸山遺跡を含めて、発掘調査資料で火山灰層序・年代測定により4 万年前以前と言えるのは、8 遺跡12件です。

 まず本論文は、日本列島における4万年前頃以降の旧石器時代遺跡の大幅な増加を指摘します。4万年前頃を境目とした単純な比較では、それ以前に対してそれ以降は80倍以上の増加となります。継続期間を考慮した遺跡数は、4万年前以前が12万~4万年前頃として1000年あたり0.15件、EUPが4万~3万年前頃として1000年あたり79遺跡です。日本列島における4万年以上前の遺跡を認めるとしても、4万年前頃以降に大量の人口移動または増加があったことは間違いない、と本論文は指摘します。

 4 万年前以前と言える8 遺跡12件のうち、4万年前頃以降の文化層も検出されているのは4 遺跡で、重複率は50%です。逆に、EUP 遺跡から見ると、重複率はわずか0.76%です。他の時代との比較では、利用可能な日本列島全体の遺跡のデータ集成がないため、東京都の遺跡6286件のデータが参照されました。EUP以降(4万年前頃以降)の旧石器時代では、単独の立地は7%で、残りの93%は縄文時代以降の遺跡と重複します。「旧石器あり」の遺跡は全体の約11%なので、その後の増加率は約10倍となります。東京都のデータでは、4万年前頃以降の居住・活動の立地選択は、時代を超えて共通していると言えますが、4万年前頃以前は、それとは大きく異なることになります。

 日本列島内における遺跡数や分布・立地、重複率などの大きな変化について、人類集団の渡来・交替による、との説明があります。4万年前頃以降に渡来した集団(population)は、それ以前とは異なる土地利用・資源開発により、短期間に日本列島に適応し急速に多くの遺跡を残したという説明も可能である、と本論文は指摘します。そこで本論文は、日本列島外との比較を試みますが、日本列島内のように網羅的なデータを利用できないので、いくつかの断片的な情報を参照します。

 以前の研究では、韓国の事例の集成から、朝鮮半島南部における後期旧石器時代とそれ以前の遺跡の重複率は約30%、増加率は約3倍と示されています。これは日本列島のそれ(0.7%、80倍)とは大きく異なる緩やかな変化だ、と本論文は指摘します。他の国・地域については同等のデータの比較は困難ですが、アジア東部だけではなく、アジア南部やアジア南東部やアジア中央部やアジア北部など広く見渡しても、開地遺跡において同一地点での中期旧石器時代(中部旧石器時代)以前と後期旧石器時代遺跡の重複、または同一立地の遺跡・遺跡群内での検出が広く確認できます。中期旧石器時代以前の遺跡が存在するとき、同じ立地において後期旧石器時代相当の地形・地層が残されていれば、遺跡が見つかる確率はそれなりにあると言えるだろう、と本論文は指摘します。

 東京都において同一遺跡・地点内で6 以上の文化層が検出された遺跡は、野川流域に多いほか、武蔵野台地の各地にも分布しているので、繰り返し利用された立地が少なくない、と本論文は指摘します。立川面の遺跡を除くと、他はS(下末吉)面~M2b(田柄)面で、14万~7 万年前頃以降の地形・堆積が残されていますが、これまでに発掘されたすべての遺跡・地点で4 万年頃以前の文化層は検出されていません。ヒトの活動の痕跡は、37000年前頃以に出現し、同層準(立川ロームXb層)に多数の地点・文化層が検出されているのに対して、それ以下の層準からの文化層・人工物の報告は、遺跡の形成·遺存が可能な地形·地層があるにも関わらずありません。本論文はこれらの検証から、日本列島において4万年前頃前後に見られる遺跡数の急速な増加や立地選択の変化は、日本列島にのみ特徴的に見られるもので、地形発達史や堆積物の遺存などの要因によるものではない、と結論づけています。

 日本列島における4万年前頃以前とされる遺跡は、アジア各地の人類集団の交替·それに伴う生活や行動の変化のデータと整合性が低いので確実なものとは言えない、と本論文は指摘します。日本列島において4 万年前頃以降に多数の遺跡が「突如」として現れるのは、先行する人類集団のいない事実上空白のニッチに進出した人類集団が、短期間に人口を増やしたか、あるいは広範囲を開発利用したことを示しているのだろう、と本論文は推測します。ただ本論文は、こうした見解が「現在得られている情報にもとづくならば」という留保つきであることから、新発見により見解が変わる可能性も指摘します。日本列島における4万年前頃以前の人類の痕跡を示すならば、上述の日本列島固有に見える特徴を日本列島外との比較で説明できねばならず、合理的な説明は現時点でまだないだろう、と本論文は指摘します。

 日本列島に前期・中期旧石器時代遺跡はあるのか、または4 万年前頃より古い人類の痕跡はあるのかという学術的な問いは、日本列島に最初に到来した人類が何者でどのくらい古いのかという「わたしたちの歴史や来歴」に関する語りに変換され、広く一般市民を魅了するので、一般市民を対象とした場では、科学的手続きに基づいたより厳密な応答よりも、結論を先に明示した上で後から細かい条件を説明すべきなのかもしれない、と本論文は提起します。本論文は、学術的な議論とサイエンス・コミュニケーションを使い分けた上で、「分かりやすく」と「丁寧に」を両立させる配慮を目指し、本論文で提示したデータや分析の説明を行ないたい、と今後の方針を示しています。

 以上、本論文についてざっと見てきました。これまで当ブログでは、おそらく世界でも有数の更新世遺跡の発掘密度を誇るだろう日本列島において、4万年以上前となる人類の痕跡がきわめて少なく、また砂原遺跡のように強く疑問が呈されている事例もあることは、仮にそれらが本当に人類の痕跡だったとしても、4万年前以降の日本列島の人類とは遺伝的にも文化的にも関連がないことを強く示唆します、というようなことを述べてきました(関連記事)。これはかなり雑な印象論にすぎませんが、本論文で具体的な遺跡のデータおよび他地域との比較を知ることができ、この問題を考えるうえでたいへん有益でした。本論文も指摘するように、今後の発見により見解を大きく変える必要があるかもしれませんが、現時点では、4万年以上前に日本列島に人類が存在したとしても、4万年前頃以降の日本列島の人類には遺伝的にも文化的にも影響を及ぼしていない可能性が高いように思います。


参考文献:
野口淳(2020)「日本列島における後期旧石器時代以前、または4万年前以前の遺跡の可能性」『Communication of the Paleo Perspective』第2巻P31-34

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