飯山陽『イスラム教再考 18億人が信仰する世界宗教の実相』

 扶桑社新書の一冊として、育鵬社から2021年3月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、現代日本社会におけるイスラム教認識には誤解が多く、その責任は日本のイスラム教専門家やそれを鵜呑みにするマスメディアにある、と主張し、日本におけるイスラム教認識の問題点を指摘していきます。まず、イスラム教は平和の宗教との言説については、2001年9月11日にアメリカ合衆国で起きた同時多発テロ事件以降と指摘されています。イスラム教徒への偏見を助長しないような配慮からも、そうした言説が強調された意味はあるかもしれません。しかし本書は、そうした言説の中には、イスラム教徒の多数派が平和を愛好していることを、イスラム教は平和の宗教と読み替えているものがある、と批判します。また本書は、そもそもイスラム教における「平和」は、現代日本人の多くが想定する平和とは大きく異なり、全世界がイスラム法により統治された状態のことだ、と指摘します。またこれと関連して、ジハードの本義を内面的努力とするような日本の知識人(イスラム教の専門家も非専門家も含めて)の言説が批判され、本来のジハードの義務では軍事的な意味が理解されていた、と本書は指摘します。しかし本書は、イスラム教の教義が平和的ではないからといって、イスラム教徒全員が戦争を望んでいるわけではなく、テロリストでもない、と注意を喚起します。本書はその理由を、宗教の区別による差別が不正だからと指摘します。イスラム教が人道主義に立脚していようといまいと、宗教の区別による差別は許されない、というわけです。

 現代日本社会では、イスラム教を「イスラム」もしくは「イスラーム」と表記して「教」を省くことが一定以上浸透しています。本書はその理由として、イスラームは宗教の範疇を超えて社会のあらゆる面の規律になっているからだ、とイスラム教の専門家たちが主張していることを挙げます。こうした専門家たちは、イスラム教こそ日本や欧米の現代社会の問題を解決する選択肢と考えている、と本書は批判的に指摘します。また本書は、こうした日本のイスラム教専門家が、抑圧体制のイランやその要人を称えることがあることも批判します。こうした日本のイスラム教専門家たちは、フランスの哲学者ベルナール=アンリ・レヴィが指摘する「イスラム左翼主義」で「反米教」なので、事実の客観的分析を期待できない、と本書は指摘します。本書でも言及されていますが、「イスラム国」を擁護する日本のイスラム教(もしくは中東)専門家がいることは、こうした姿勢の延長上として了解されます。さらに本書は、こうしたイスラム教(もしくは中東)専門家のイスラム教賛美を、「西洋近代」を批判するイスラム教の専門家ではない「知識人」が鵜呑みにしていることも、「反近代」という理由でイスラム教を安易に賛美する傾向がある、と批判します。

 イスラム教は平和の宗教との言説とともに現代日本社会において一定以上浸透していると思われるのが、イスラム教は異教徒に寛容な宗教との言説です。これは、キリスト教、とくに中世ヨーロッパ西部のキリスト教との対比で主張されています。しかし、イスラム教と他の宗教との共存は宗教による差別を大前提としたものであることを、本書は指摘します。また本書は、イスラム教において、キリスト教徒やユダヤ教徒のような啓典の民ではない多神教徒は犬などと同じ「不浄」に分類され、殺しても差し支えない存在とされている、と指摘します。また本書は、イスラム教が棄教や改宗を認めないことも問題視し、棄教者を自ら殺害するイスラム教徒はほとんどいないものの、棄教者は殺されて然るべきと考えているイスラム教徒は多い(2013年の調査で、エジプト人の86%、アフガニスタン人の79%、パキスタン人の76%、マレーシア人の62%)、と指摘します。

 イスラム過激派テロの原因は(貧困や疎外など)社会にある、との言説は日本に限らず広く世界に浸透しているように思いますが、本書はこれも批判します。まず本書が指摘するのは、イスラム過激派テロの原因は何よりもイスラム教の宗教イデオロギーに求められることです。本書はここで、イスラム教の教義には確かに、イスラム教による世界征服を信者に義務づけており、イスラム教徒の大多数はそれを信じていてもジハードを実行するわけではないので、イスラム主義とイスラム教を区別しなければならない、と注意を喚起します。イスラム主義は、イスラム教徒がジハードを実行しないことを咎め、イスラム教の全教義を実践しなければならない、と促すイデオロギーであることを、本書は指摘します。次に本書は、イスラム過激派戦闘員のほとんどはヨーロッパではなくイスラム諸国にいるので、イスラム教徒であるという理由で社会から疎外されたり差別されたりしているわけではない、と指摘します。イギリスの公的調査でも、イスラム教徒のテロ容疑者の2/3は中流か上流階級の出身で、90%は社交的な人物と報告されているそうです。さらに本書は、「イスラーム復興論」を主張して多額の科研費の獲得に成功したイスラム教研究者たちが、イスラームは宗教の範疇を超えて社会のあらゆる面の規律になっているから「教」をつけてはならない、と主張していたのに、イスラム過激派テロだけをイスラム教から切断することを詭弁と批判します。

 本書は、ヒジャーブ着用に関する日本のイスラム教研究者の言説も批判します。そうした言説では、ヒジャーブ着用によりイスラム教徒女性は守られており、自由が侵害されずにすむ、とされます。ヒジャーブは自由と解放の象徴である、というわけです。しかしそれは、ヒジャーブを着用しない女性の人権は守られなくても仕方ない(奴隷や売春婦とみなされ、強姦されても仕方ない、と認識されます)、ということだけではなく、男性は女性相手に理性を保てない、と言っていることにもなり、きわめて性差別的だ、と本書は批判します。ヒジャーブ着用擁護の言説は、女性が「ふしだらな」恰好をしていたから強姦されたのだ、と言って強姦した男性を擁護するような言説と通じる、と本書は指摘します。本書は、イスラム教徒女性がヒジャーブを着用してもしなくても、敬意を払うべきだ、と提言しています。女性の価値が外見によれ差別されることはあってはならない、というわけです。

 上述のように、イスラム教徒の大半は、イスラム教の教義を信じていてもジハードを実行するわけではありません。しかし本書は、イスラム過激派の支持者は看過できるほど少なくはない、とも指摘します。2015年の調査では、トルコ人のうち、9.3%が「イスラム国」をテロ組織ではないと考えており、5.4%がその行動を支持しています。同じく2015年の調査では、イラクとイエメンとヨルダンとシリアとリビアのイスラム教徒のうち15%が、「イスラム国」はテロ組織ではなく正当な抵抗運動と考えています。これらの調査結果から、「イスラム国」を支持するイスラム教徒の割合は、最低でも5.8%、最大では11.5%になる、と推定されています。さらに本書は、イスラム教徒に占めるイスラム過激派支持者の割合が10%程度だとしても、それ以外の多数派が穏健派とは必ずしも言えない、と指摘します。イスラム諸国では、イスラム法を国の法として施行することに72~99%のイスラム教徒が賛成しています。また、イスラム教徒の70~89%が、手首切断刑や投石による死刑など身体刑の執行に賛成しています。また、イスラム教徒の多数派は棄教を死罪に相当すると考えており、信教の自由を否定しています。さらに、イスラム教徒の9割ほどはLGBTにも否定的です。イスラム諸国では一般的に、同性愛は病気と信じられています。また、児童婚が広く行われているのもイスラム諸国の特徴です。本書は、イスラム教が全体的に、女性は男性より劣っているという大前提でさまざまな規定を設けている、と指摘します。これは、現代日本人の多くが想定する「穏健」の感覚とはかなりずれている、というわけです。

 本書の主張の根幹にあるのは、イスラム的価値観は、全ての人間に等しく自由や権利を与えるべきとする、ヨーロッパ発の近代的価値観とは大きく異なる、との認識です。次に本書が重視するのは、イスラム教は世界征服を目指す政治イデオロギーなので、そのための行動を促すイスラム主義の蔓延を許すと、亡国の危機に陥る可能性がある、ということです。本書は、イスラム教徒が移住先でもイスラム的価値観に従い続けることを擁護するリベラル勢力とその教義であるポリコレを批判します。イスラム教徒と関係を築き共存することは可能であるものの、それには法治を徹底せねばならず、ポリコレや文化相対主義を理由にイスラム教徒の違法行為を見逃したり寛大な措置をとったりしてはならない、というわけです。一方で本書は、イスラム教の教義と個人としてのイスラム教徒を同一視することを誤りと明言しています。イスラム教徒のほとんどは、イスラム教の教義の全てを実践しているわけではない、と本書は指摘します。さらに本書は、サウジアラビアやチュニジアやエジプトやアラブ首長国連邦など近年のイスラム諸国において、イスラム教と近代的価値観の矛盾に起因する問題について改善の兆しが見られることも指摘します。また本書は、最近になって進んだイスラエルとアラブ諸国との国交正常化にも、イスラム主義との決別との観点から注目します。イスラム主義者は多くの場合、イスラエルの殲滅とエルサレム支配を短期目標と定めているからです。

 本書は1章を割いて著者への批判に対する反論を提示しており、本書も多くのイスラム教や中東の専門家に酷評されることになりそうです。イスラム教の専門的な知見について、私の知見では本書の主張の方が妥当だと断定できませんが、ヨーロッパ発の近代的価値観に守られ、日本(や欧米)社会では普段それを声高に主張していながら、それと矛盾するイスラム教のさまざまな規定・慣習を擁護する専門家の姿勢には、根本的な矛盾があるとは思います。まあ、そこからさらに踏み込み、ヨーロッパ発の近代的価値観に覆われた社会のさまざまな問題はイスラム教により解消される、と考えている専門家ならば、矛盾ではなくなるわけですが。ただ、著者の「リベラル」や「左翼」、さらには「ポリコレ」への強い警戒は明らかで、その点は私も同様なだけに、そうした警戒・批判をつい全面的に受け入れてしまいたくなりますが、それだけに、私のような価値観・世界観の読者は、本書の指摘の中に誇張もあるのではないか、と慎重に考えて検証しつつ、本書を咀嚼していく必要があるとは思います。本書をよりよく理解するには、著者の『イスラム教の論理』(関連記事)と『イスラム2.0 SNSが変えた1400年の宗教観』(関連記事)を読むとよいでしょう。

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