アラビア半島のアシューリアン
アラビア半島のアシューリアン(Acheulian)に関する研究(Scerri et al., 2021)が公表されました。アシューリアンは、アフロユーラシアの多くの地域で長期にわたって広範に用いられた人類の石器技術です。独特なアシューリアン石器群は、170万年前頃(関連記事)から一部地域の13万年前頃までの大型切削器の製作により特徴づけられます(関連記事)。アシューリアンは技術的に均質でその後の石器文化段階と比較して変化に乏しいものとしてよく説明されます。これは、その広大な時空間的分布や、複数種の人類の所産だった可能性には直観的に反する事実です。この一般的な見解にも関わらず、人類化石が欠如している場合、一部地域、とくに人類の居住が古環境要因に強く調節される氷河地帯もしくは乾燥地帯における人口集団の交替を、物質文化の多様性と関連づけることができました。
中緯度の砂漠の繰り返される拡大と縮小は、そうした主要な生物地理学的制約の一つで、この場合、アフリカとアジア南西部間、および両者の内部の拡散です。降雨量増加を含む周期的な環境改善により、現在の超乾燥砂漠地域は河川や湿地や湖の広範なネットワークを有する草原に変わりました。とくにアラビア半島は、サハロ・アラビア乾燥地帯内の重要なつながりに位置しており、これまでの研究により、この地域は周期的に大陸全域の生態学的および水文学的障壁を変化させる劇的な環境変動を経てきた、と示されてきました(関連記事)。したがって、アシューリアンの通時的パターンには、アフリカとアジア南西部のさまざまな地域との間の、地域人口集団の交替の関連へのひじょうに必要な洞察を提供し、経時的な人類の景観行動の特徴の変化に光を当てる可能性があります。
その明確な地理的重要性にも関わらず、アラビア半島のアシューリアンに関する詳細な知識は、現時点で単一のよく報告された遺跡に限定されています。サウジアラビア中央部のサッファーカ(Saffaqah)は、望ましい石材としてひじょうに利用された安山岩の近くに位置します(関連記事1および関連記事2)。サッファーカでは、大きな安山岩石核から剥離された大型剥片で、最小限に調節されしばしば非対称的な握斧が製作されました。これらの握斧は洗練されていないように見えますが、年代は海洋酸素同位体ステージ(MIS)7(243000~192000年前頃)の後期となり、MIS6に続いたようです(関連記事)。
しかし、アラビア半島の他の場所では、とくにサウジアラビア北西部のネフド砂漠の古代湖の堆積物から、ひじょうに対称的で精密に調節された打製握斧が報告されています。それらは、ミコッキアン(Micoquian)様式の握斧から、長さ7cm~20cmもしくはそれ以上のさまざまな三角形や亜三角形や卵型まで、多様な石器があります。その精密に剥離され対称的な形態に基づくと、最小の握斧は、おそらく下部旧石器時代と中部旧石器時代の移行期にまで存在した、と仮定されます。
その河川と湖の関連は、かなりの湿潤状態を示しますが、最近まで、年代推定を可能とする年代測定された堆積物と密接に関連しているネフド砂漠の握斧群はありませんでした。さらに、古代湖の堆積物は多種多様に存在し、その年代や推定されるサイズと水深などもさまざまですが、詳細に研究されているものはほとんどありません(関連記事)。結果として、「緑のアラビア」におけるさまざまな湿潤段階で優占していたこの地域の気候および環境条件や、人類集団の存在と行動に影響を及ぼした程度については、ほとんど知られていません。
本論文は、アラビア半島北部のネフド砂漠で最初に年代測定されたことになる、アンナシム(An Nasim)遺跡を報告します。アンナシム遺跡は、古代砂漠計画による遠隔計測と古水文モデル化により2015年に発見されました。アンナシム遺跡は、他の湖の年代がMIS9(337000~301000年前頃)と年代測定されている地域の、とくに厚い(4m超)古代湖堆積物と関連しています。アンナシム遺跡の位置は、ネフド砂丘西部の西端から約20kmの砂丘間盆地です(図1のNSM-1)。南北方向の横断バルハン砂丘(三日月状砂丘)型巨大砂丘に囲まれ、盆地には以前の湖の段階を示す一連の泥灰土堆積物があります。この状況は、ネフド砂漠の大半の中期および後期更新世の記録に典型的で、乾燥期に形成された砂丘間の窪地が、湖および関連堆積物が湿潤期に形成された空間を提供します。
アンナシム遺跡は、ネフド砂漠西部内の古代湖堆積物を含むそうした多数の盆地の一つですが、盆地内の堆積物の厚さの点では非典型的です。しかし、遠隔計測分析では、これがアンナシム地域の特徴と示唆されており、他のいくつかのこの地域の盆地も厚い系列を示します。本論文は、より広範なアラビア半島のアシューリアンにおける比較的位置づけを考慮しながら、中期更新世に存在した盆地と湖の古地形と年代測定の詳細な説明を、古代湖のアシューリアン人工物の年代および特徴とともに提供します。以下は本論文の図1です。
●調査結果
アンナシムは深く狭い砂丘間盆地で構成されており、層状の湖沼泥灰土で覆われた一連の風成砂が保存されています(図2)。アンナシム盆地中央部では、これらの堆積物の露出が見られ、南北800m、東西350mに広がっています。しかし、泥灰土露頭は断片化されて不連続であり、いくつかの異なる高度で見られます。泥灰土の最も厚い目に見える露出は、盆地の東端に沿って見られます(図2)。これらの露出の基底部で、堆積物は以前の砂丘間の窪みを表しており、そこでは堆積物が蓄積し、形成された盆地の中心に向かって観察可能な露頭の端から急に傾斜する凹面の形となります。堆積物の層序もこの古盆地の中心に向かって傾斜しており、静止した水域に堆積し、既存の地形を覆っている、と示します。
堆積物の西端は海抜930m(MASL)にあり、深く侵食されて小さな崖(最大4mの高さ)を形成し、湖の堆積物が厚く露出しています。この崖の基底部の堆積物の大きな「丸石」が取り除かれ、現在の砂丘の窪みの中心に向かって移動しました。泥灰土は西端で最も厚く、現代の砂丘間古盆地の中心に向かって存在していると思われ、その端に向かって東方向で薄くなっています(最も薄いところで0.5m)。中央地域の泥灰土堆積物の厚さは、ネフド砂漠西部の他の場所で以前に発掘された同年代の中期および後期更新世堆積物と比較して例外的です。古代湖堆積物の追加の地域は、同じ高度で一次露出のすぐ南に存在し、おそらくは相違を示す侵食を経た地域における同じ堆積物の継続です。以下は本論文の図2です。
湖沼堆積物の下層接触部の起伏や複雑な地層構造は、既存の風化した砂丘地形の上にこれらの堆積物が蓄積されたことを反映しています。この状況では、泥灰土堆積物は水柱から沈殿して浮流から脱落し、その結果、湖底に保存されている砂丘形状を覆うように厚い層に蓄積されます。結果として、これらの層は盆地の中心に向かって傾斜し、露出部全体で起伏しています。この研究でとくに関連するのは、露頭端の泥灰土ユニットの表面近くに見られる、層序上の位置に石材を含む泥灰土に富む砂層を横方向に追跡すると、盆地の中心に向かって表面から3m下に存在すると明らかになった、という事実です。
区画の底部にある巨大な泥灰土層(図2a)は水が深い状態を示唆しますが、地層系列の上部に向かって、泥灰土と砂の層が相互に絡み合って乾燥亀裂が生じており、一時的な乾燥を経た浅い水域の典型例となっています(図2a)。上部の第11層および第12層は横方向に広がり、泥灰土の薄い層(第12層)で覆われた水平に層状の砂層(第11層)内の層序位置に石器が含まれます。この地層系列は、水位の低下と周囲の景観からの砂の表層浸食堆積を示唆しており、その後で水位が少し上昇しました。したがって、一次泥灰土系列の上部の堆積学、とくに石器が発見された第11層は、湖の水位が低く乾燥した時期に、アンナシム遺跡に人類が居住したことと一致します。
再加工が広く行なわれている広く起きている乾燥環境では、石器が堆積物の年代と同時代であると示すのが困難なことはよくあります。しかし、アンナシム遺跡では3点の観察が重要です。まず、石器は泥灰土内で回収されたので、特定の層に直接的に関連している可能性があります。次に、石(礫器)サイズは、砂と沈泥が優占する堆積物内のどの石の粒子サイズよりも顕著に粗いことです。この観察は、これら堆積物の堆積に関わる過程では、人工物の移動と再加工が可能ではなかったことを示します。最後に、主要な泥灰土層の表面はアンナシム遺跡で最も高い地点であり、石器が浸食されて泥灰土層に再堆積するような、より古くてより高い堆積物がないことを意味します。これらの観察を考慮すると、泥灰土層の表面で発見された石器の最も可能性の高い出所は、直接的に回収されたこのユニットの最上層です。
現在の砂丘間地域内のより低い地帯では追加の泥灰土堆積物が見られ、その全ては上述の一次堆積物よりもずっと明瞭ではなく、より劣化しているように見えます。海抜約930~923mの盆地の北側の側面には泥灰土の3点の小さな露出が存在し、巨大泥灰土の周辺露出の可能性があり、一方で盆地中央には、侵食された泥灰土の2ヶ所の異なる大きな塚が存在します。これらのうち最北端の1号塚の上面は湾曲しており、海抜約921m付近で砂丘間盆地に堆積した湖底を示唆します(図2B)。南方の2号塚(図2B)は海抜916m以下で不明瞭に大きく侵食された上面を有していますが、1号塚との関係は不明です。両方の塚とも侵食され、古代湖堆積物の収縮した残骸で覆われた側面を有する、海抜910mに位置する現在の砂丘間床の上の逆高低的特徴として保存されます。
これら下部堆積物の一次堆積物との層序関係は、それらの間の不整合を生み出した縮小のため、不確実なままです。しかし、1号塚の形態と、一次堆積物と比較してのこれら堆積物の標高が低いことから、それらが一次堆積物とは異なる湖沼段階に属する、と強く示唆されます。それらは、現在位置する砂丘間領域を形成したより最近の縮小の前に、後の砂丘間の窪みの床に形成された可能性が高そうです。したがってアンナシム遺跡は、ネフド砂漠西部内の周期的な気候変化と関連する、風成縮小事象により分離された古盆地の発展のいくつかの別々の段階を保存しています。
アンナシム遺跡における堆積学的観察は、より広範なネフド砂漠西部全域で観測された画像と一致しており、別々の湿潤期における地域的な地下水位の繰り返しの上昇により、砂丘間の窪地に湖と湿地が形成されました。以前の分析では、古代湖はネフド砂漠西部全域で広範に存在しており、地域内の大規模な河川活動の証拠の欠如にも関わらず、そうした砂丘間の湖の高密度により人類の拡散が促進された、と示唆されました。
アンナシム遺跡では、下部旧石器時代人工物の2つの別々の集中が、一次堆積物の表面と下部の塚全体に分布している、と明らかになりました(図3)。体系的な収集により354点の人工物が回収され、それはおもに握斧で、明確に区別できる両面薄化剥片を含むさまざまな剥片が共伴します。人工物はアンナシム遺跡で2つの主要なまとまりで発見され(図2B)、泥灰土堆積物から侵食されているようです。目に見える人工物は体系的に収集され、それらの位置は差分GPS(DGPS)を用いて記録されました。しかし、絶えず変化する砂は視覚から他の人工物を隠す可能性が高いので、収集されなかった人工物もあることに注意が必要です。したがって、石器群はより大きくて厚いため、剥片よりも容易に埋まらない握斧に偏っているかもしれません。この調査の結果は図3に示されており、人工物と湖との間の密接な関係を示します。以下は本論文の図3です。
アンナシム遺跡の石器群は、ネフド砂漠における以前に報告されたアシューリアン遺跡と類似しており、比較的厚く精密な剥離された両面石器(通常は三角形で尖っています)で構成されています。石器群は両面加工の系列全体を表しており、その全ては、含鉄珪岩質砂岩の大きな平板状の塊により作られました。これら平板状の塊の最小限に剥離された断片の存在から、石材がその場に持ちこまれ、その一部は端に沿って1個もしくは2個を除去して「検証」した後で、廃棄されたようです。他の剥離された断片は、破棄される前にひじょうに粗く形成されました。
握斧の多くはその中心に、しばしば両面において、平坦で板状の皮質表面の最後の痕跡を保持していました。握斧の基部も、しばしば板状の塊の厚くて平らな皮質端を保持しており、これはおそらく握りやすくするためです。両面は剥片から作られておらず、大型剥片製作の証拠はなく、おそらくは地元の石材の小さくて板状の性質のためです。じっさい、ネフド砂漠のより広範な調査では、この地元の板状の珪岩が、しばしば他の年代測定されていないアシューリアン表面採集石器群で用いられており、その全ては大型剥片製作の証拠を欠いている、と示唆されています。これは、地元の石材が握斧製作のこの手法を妨げた、と示唆します。
表面採集石器は類似の高度の風化を示しましたが、埋まっていたもしくは最近露出した状況の石器は真新しい状態でした。握斧の形態は多様で、卵型から心臓型や三角形まであり、ネフド砂漠の他のアシューリアン遺跡と同様で、サイズもさまざまでした(図3)。剥片の跡が観察できる全ての握斧は、形態に関係なく精密な剥離を示しました。50点の握斧の無作為の二次標本の2D幾何学的形態測定(GMM)分析から、この形状変化は連続的ではない、と示されました(図4)。しかし標本では、離散的形態と発見場所との間の空間的関係は観察されませんでした。以下は本論文の図4です。
調査により、一次泥灰土堆積物の上部10 cmの区画に見える1個の層状握斧の一方の面が明らかになりました。この場所の周辺の浅い1m×1mの形の小規模発掘により、この確実に埋められた握斧のその後の回収が可能になりました。この握斧は2DのGMM分析(図3)に含まれており、表面で発見された心臓型分類とクラスタ化します。心臓型握斧の緊密で形態に基づくクラスタ化は、製作と石材の類似性とともに、これらの形態が少なくとも、泥灰土において相互に同年代とみなされる可能性を示唆します。
アンナシム遺跡で表される全ての握斧形態間の類似性は、広範な同時代性も示唆しているかもしれません。年代測定の目的で堆積物標本を掘ることで、砂質の第11層内で固まった両面の薄い剥片の回収も可能になりました。ルミネッセンス年代測定の標本1点(NSM1-2017)は第11層から収集され、遺物も回収されました(図2A)。追加の標本は第8層(NSM1-OSL4)と第7層(NSM1-OSL3)の石器遺構近くで収集されました。これらの標本の線量率は厚いα線源とβ線源の集計により決定されましたが、γ線量率は野外γ分光計を用いて測定されました。
同じパラメータを用いて、カリウム長石粒子を分離し、次に温度制御下(RF70)での赤外放射蛍光(infrared-radiofluorescence、略してIR)手順を用いて分析されました。IR-RFの線量と年代推定値は表2に示されます。過分散値(OD)は20%未満で、このような堆積物に対する予測と一致します。3点の資料の年代は、NSM1-OSL3が310000±17000年前、NSM1-OSL4が243000±23000年前、NSM1-2017が330±23 年前です。これらの年代は2σで一貫していますが、標本NSM1-OSL4は、よく似た年代が得られている他の2標本よりもずっと新しい年代となります。より古い2点の年代もより新しい年代よりも過分散値が低く、おそらくは信頼性がより高いことを示唆します。
これらの年代決定をより当時の状況に当てはめて解釈するため、「緑のアラビア」と呼ばれる湿潤期の原動力となった、ネフド砂漠の緯度における夏の平均日射量と比較されました(図5)。埋没した握斧は年代測定された堆積物の上にある厚い泥灰土層と関連しています。堆積学的分析では、これらの泥灰土はかなりの湿潤状態で生成された、と示唆されます。MIS9および7両方の日射量の最大値は、高い離心率により変化しており(図5)、その強度は、巨大な長期の深い湖の形成に充分可能だったと知られている、MIS5aのそれと同等かそれ以上です。このように、MIS9の日射量の最大値は、より古い年代推定値に最も近く、アンナシム遺跡一帯の他の湖が形成されたと知られている時期と対応します(図5)。これらをまとめると、この証拠はアンナシム遺跡堆積物の形成がMIS9の時期だったことと一致していますが、より新しいMIS7の時期だった可能性も完全には無視できません。以下は本論文の図5です。
●考察
アンナシム遺跡のアシューリアン石器群の年代は35万~25万年前頃の中期更新世後期となり、MIS9間氷期に相当する可能性が高く、その頃には古代湖の形成がネフド砂漠で広がったようです。アンナシム遺跡の泥灰土の堆積学は、かなりの降雨量と地域的な地下水位の上昇を必要とするだろう、深い湖の存在を示唆します。石器出土層位内およびその下からのルミネッセンス年代測定では、湖はMIS9に形成され、ネフド砂漠に好適な生息条件を提供した、と示唆されます。アシューリアン石器群は一次湖堆積物の最終段階と関連しており、現在の盆地のほぼ全体に広がっています。アシューリアン石器群は古代湖堆積物の内部と上部で見つかり、上部は考古遺物を含むより上層の泥灰土堆積物の収縮の結果です。
ネフド砂漠におけるアンナシム遺跡と他の年代測定されていないアシューリアン遺跡群との間の類似性から、ネフド砂漠の古代湖は人類拡大の重要な回廊と、人類とおそらくは他の哺乳類にとって生存可能な生息地ネットワークを提供しました。注目すべきは、ネフド砂漠のアシューリアン石器群の技術的特徴が、アラビア半島中央部のサッファーカ遺跡のより新しいアシューリアン石器群(関連記事1および関連記事2)とは対照的であるように見えることです。サッファーカ遺跡の最小限に調節された大きな剥片の握斧とは異なり、アンナシム遺跡の打製握斧は精密に作られ、サイズはさまざまで、製作技術と対称性の程度と洗練度の共有性を特徴とします。これらの特徴は、アンナシム遺跡の石器群の同程度の風化と空間的に示される集中とともに、アンナシム遺跡における限定的な期間の居住を示唆します。
アンナシム遺跡とサッファーカ遺跡との間で観察された技術的違いは、石材と遺跡での活動の違いと関連しているかもしれません。サッファーカ遺跡は、一次剥離が行なわれる、巨大な安山岩の塊を特徴とする石材獲得供給源に位置します。しかし、アンナシム遺跡とサッファーカ遺跡との間の年代および地理的距離の違いから、両遺跡間の観察された物質文化の違いは、異なる握斧使用人口集団もしくは種さえも繁栄しているかもしれません。
アラビア半島内陸部の部分的もしくは完全な人口減少は、氷期における地域的な超乾燥化の支配的パターンを考えると、MIS8氷期の始まりに起きた可能性が高そうです。アシューリアン技術を有する人類は繰り返しレヴァント南部から南方へと拡散し、古水文学的回廊が繰り返しそうした移動を促進した、という観察と一致します。しかし、この仮説は、ネフド砂漠とレヴァント南部のアシューリアン遺跡群のさらなる年代測定が利用可能になった場合にのみ検証できます。レヴァントのホロン(Holon、図1の3)やレヴァディム(Revadim、図1の5)、ヨルダン東部砂漠地帯のアズラク(Azraq)といった後期アシューリアン遺跡群の年代は、50万~20万年前頃です。これらの遺跡の多くの年代測定は、以前の研究で論じられているようにかなり貧弱です。
エルサレムと死海の北側のレヴァントでは、アシュール・ヤブルディアン(Acheulo-Yabrudian)石器群のかなり異なる技術が、イスラエルのカルメル山にあるミスリヤ洞窟(Misliya Cave、図1の2)やケセム洞窟(Qesem Cave、図1の4)などの遺跡で40万~20万年前頃に見られます(関連記事)。レヴァントの証拠は、中期更新世後期における高水準の技術的変動性を示します。握斧の製作はさまざまな頻度と手法で行なわれ、たとえばケセム洞窟では、握斧は一部の層序系列ではほとんど存在しません。アシューリアン石器群内では、石核および剥片技術のさまざまな水準があります。
本論文においてアラビア半島内で明らかにされた、アンナシム遺跡とサッファーカ遺跡との間の技術の違いのような中期更新世後期の技術的多様性は、この時期のアジア南西部の技術的変異性の図をさらに追加します。レヴァント北部もしくはアフリカ東部のようなさらに遠くの地域の中期更新世後期技術の体系的な議論は、本論文の範囲を超えています。しかし、記録はひじょうに多様であるように見え、後期アシューリアンの事例では、しばしば年代測定が不充分である、と強調されます。したがって、現在利用可能なデータを用いて、証拠を単純に統合することは困難です。人口統計学および実際的要因(たとえば、石材の違い)の両方と関連している可能性が高い、この変動性の意味を解明することは、将来の研究にとって重要な目標であり続けます。
アラビア半島内では、アンナシム遺跡などMIS9のネフド砂漠における深く安定した淡水域の存在が、信頼性の高い淡水源と、関連する哺乳類の獲物と他の食資源を提供することにより、人類の拡大を促進したでしょう。多様な小型から大型の哺乳類の存在は、ネフド砂漠における間氷期の古代湖において明らかであり、湿潤期における動物のこの地域への拡大を示唆し、水場における食資源としての動物の利用可能性を示します。
古環境や行動学の証拠が出てきたことで、アラビア半島のアシューリアンの明確な特徴が浮き彫りになりました。アンナシム遺跡とサッファーカ遺跡の両方は、アラビア半島の中期更新世後期におけるアシューリアン石器群の異なる2形態を示しており、どちらも準同時代のレヴァントにおけるアシュール・ヤブルディアンや後期アシューリアン、およびアフリカにおける後期アシューリアンとは異なります。行動の柔軟なアシューリアン人口集団は、アラビア半島の位置および生態学的条件の中で、独自の文化的特性を育んだかもしれません。これが示唆するのは、アラビア半島を単純に人類集団にとって移動するための「何もない空間」として考えるべきではない、ということです。
●まとめ
本論文は、アラビア半島北部の新たなアシューリアン古代湖盆地遺跡である、アンナシム遺跡の調査結果を提示しました。このアンナシム遺跡の主要な層序系列は、湖の形成と消滅の単一の継続的な気候周期と関連しており、考古遺物を含む上部は古代湖の断続的な乾燥を反映しています。この古代湖の主要な系列は35万~25万年前頃で、石器を含む第11層の年代は330000±23000年前です。この第11層は、同じく石器群を含み、単一の気候周期の観点では下層の堆積物と明確に関連している、泥灰土の第12層に覆われています。本論文は、この範囲の古い方の年代の過分散値がより低いことと、この地域の複数の他の古代湖盆地の年代がMIS9だったという事実に基づいて、アンナシム遺跡石器群がMIS9の年代だと主張しました。
アンナシム遺跡石器群は、精密に作られたさまざまな形の打製握斧を特徴としており、その全ては含鉄珪岩性砂岩の大きく平板状の塊で作られています。これらの石器は、ネフド砂漠の同じ地域の他の年代測定されていない遺跡群の石器と類似しています。これらの石器は、年代がより新しいか古いかを問わず、この時期のアジア南西部では独特であり、アラビア半島が、その特定の環境および人口統計学的条件を反映しているかもしれない、独特な地域的アシューリアンの故地だったことを示唆します。
参考文献:
Scerri EML. et al.(2021): The expansion of Acheulean hominins into the Nefud Desert of Arabia. Scientific Reports, 11, 10111.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-89489-6
中緯度の砂漠の繰り返される拡大と縮小は、そうした主要な生物地理学的制約の一つで、この場合、アフリカとアジア南西部間、および両者の内部の拡散です。降雨量増加を含む周期的な環境改善により、現在の超乾燥砂漠地域は河川や湿地や湖の広範なネットワークを有する草原に変わりました。とくにアラビア半島は、サハロ・アラビア乾燥地帯内の重要なつながりに位置しており、これまでの研究により、この地域は周期的に大陸全域の生態学的および水文学的障壁を変化させる劇的な環境変動を経てきた、と示されてきました(関連記事)。したがって、アシューリアンの通時的パターンには、アフリカとアジア南西部のさまざまな地域との間の、地域人口集団の交替の関連へのひじょうに必要な洞察を提供し、経時的な人類の景観行動の特徴の変化に光を当てる可能性があります。
その明確な地理的重要性にも関わらず、アラビア半島のアシューリアンに関する詳細な知識は、現時点で単一のよく報告された遺跡に限定されています。サウジアラビア中央部のサッファーカ(Saffaqah)は、望ましい石材としてひじょうに利用された安山岩の近くに位置します(関連記事1および関連記事2)。サッファーカでは、大きな安山岩石核から剥離された大型剥片で、最小限に調節されしばしば非対称的な握斧が製作されました。これらの握斧は洗練されていないように見えますが、年代は海洋酸素同位体ステージ(MIS)7(243000~192000年前頃)の後期となり、MIS6に続いたようです(関連記事)。
しかし、アラビア半島の他の場所では、とくにサウジアラビア北西部のネフド砂漠の古代湖の堆積物から、ひじょうに対称的で精密に調節された打製握斧が報告されています。それらは、ミコッキアン(Micoquian)様式の握斧から、長さ7cm~20cmもしくはそれ以上のさまざまな三角形や亜三角形や卵型まで、多様な石器があります。その精密に剥離され対称的な形態に基づくと、最小の握斧は、おそらく下部旧石器時代と中部旧石器時代の移行期にまで存在した、と仮定されます。
その河川と湖の関連は、かなりの湿潤状態を示しますが、最近まで、年代推定を可能とする年代測定された堆積物と密接に関連しているネフド砂漠の握斧群はありませんでした。さらに、古代湖の堆積物は多種多様に存在し、その年代や推定されるサイズと水深などもさまざまですが、詳細に研究されているものはほとんどありません(関連記事)。結果として、「緑のアラビア」におけるさまざまな湿潤段階で優占していたこの地域の気候および環境条件や、人類集団の存在と行動に影響を及ぼした程度については、ほとんど知られていません。
本論文は、アラビア半島北部のネフド砂漠で最初に年代測定されたことになる、アンナシム(An Nasim)遺跡を報告します。アンナシム遺跡は、古代砂漠計画による遠隔計測と古水文モデル化により2015年に発見されました。アンナシム遺跡は、他の湖の年代がMIS9(337000~301000年前頃)と年代測定されている地域の、とくに厚い(4m超)古代湖堆積物と関連しています。アンナシム遺跡の位置は、ネフド砂丘西部の西端から約20kmの砂丘間盆地です(図1のNSM-1)。南北方向の横断バルハン砂丘(三日月状砂丘)型巨大砂丘に囲まれ、盆地には以前の湖の段階を示す一連の泥灰土堆積物があります。この状況は、ネフド砂漠の大半の中期および後期更新世の記録に典型的で、乾燥期に形成された砂丘間の窪地が、湖および関連堆積物が湿潤期に形成された空間を提供します。
アンナシム遺跡は、ネフド砂漠西部内の古代湖堆積物を含むそうした多数の盆地の一つですが、盆地内の堆積物の厚さの点では非典型的です。しかし、遠隔計測分析では、これがアンナシム地域の特徴と示唆されており、他のいくつかのこの地域の盆地も厚い系列を示します。本論文は、より広範なアラビア半島のアシューリアンにおける比較的位置づけを考慮しながら、中期更新世に存在した盆地と湖の古地形と年代測定の詳細な説明を、古代湖のアシューリアン人工物の年代および特徴とともに提供します。以下は本論文の図1です。
●調査結果
アンナシムは深く狭い砂丘間盆地で構成されており、層状の湖沼泥灰土で覆われた一連の風成砂が保存されています(図2)。アンナシム盆地中央部では、これらの堆積物の露出が見られ、南北800m、東西350mに広がっています。しかし、泥灰土露頭は断片化されて不連続であり、いくつかの異なる高度で見られます。泥灰土の最も厚い目に見える露出は、盆地の東端に沿って見られます(図2)。これらの露出の基底部で、堆積物は以前の砂丘間の窪みを表しており、そこでは堆積物が蓄積し、形成された盆地の中心に向かって観察可能な露頭の端から急に傾斜する凹面の形となります。堆積物の層序もこの古盆地の中心に向かって傾斜しており、静止した水域に堆積し、既存の地形を覆っている、と示します。
堆積物の西端は海抜930m(MASL)にあり、深く侵食されて小さな崖(最大4mの高さ)を形成し、湖の堆積物が厚く露出しています。この崖の基底部の堆積物の大きな「丸石」が取り除かれ、現在の砂丘の窪みの中心に向かって移動しました。泥灰土は西端で最も厚く、現代の砂丘間古盆地の中心に向かって存在していると思われ、その端に向かって東方向で薄くなっています(最も薄いところで0.5m)。中央地域の泥灰土堆積物の厚さは、ネフド砂漠西部の他の場所で以前に発掘された同年代の中期および後期更新世堆積物と比較して例外的です。古代湖堆積物の追加の地域は、同じ高度で一次露出のすぐ南に存在し、おそらくは相違を示す侵食を経た地域における同じ堆積物の継続です。以下は本論文の図2です。
湖沼堆積物の下層接触部の起伏や複雑な地層構造は、既存の風化した砂丘地形の上にこれらの堆積物が蓄積されたことを反映しています。この状況では、泥灰土堆積物は水柱から沈殿して浮流から脱落し、その結果、湖底に保存されている砂丘形状を覆うように厚い層に蓄積されます。結果として、これらの層は盆地の中心に向かって傾斜し、露出部全体で起伏しています。この研究でとくに関連するのは、露頭端の泥灰土ユニットの表面近くに見られる、層序上の位置に石材を含む泥灰土に富む砂層を横方向に追跡すると、盆地の中心に向かって表面から3m下に存在すると明らかになった、という事実です。
区画の底部にある巨大な泥灰土層(図2a)は水が深い状態を示唆しますが、地層系列の上部に向かって、泥灰土と砂の層が相互に絡み合って乾燥亀裂が生じており、一時的な乾燥を経た浅い水域の典型例となっています(図2a)。上部の第11層および第12層は横方向に広がり、泥灰土の薄い層(第12層)で覆われた水平に層状の砂層(第11層)内の層序位置に石器が含まれます。この地層系列は、水位の低下と周囲の景観からの砂の表層浸食堆積を示唆しており、その後で水位が少し上昇しました。したがって、一次泥灰土系列の上部の堆積学、とくに石器が発見された第11層は、湖の水位が低く乾燥した時期に、アンナシム遺跡に人類が居住したことと一致します。
再加工が広く行なわれている広く起きている乾燥環境では、石器が堆積物の年代と同時代であると示すのが困難なことはよくあります。しかし、アンナシム遺跡では3点の観察が重要です。まず、石器は泥灰土内で回収されたので、特定の層に直接的に関連している可能性があります。次に、石(礫器)サイズは、砂と沈泥が優占する堆積物内のどの石の粒子サイズよりも顕著に粗いことです。この観察は、これら堆積物の堆積に関わる過程では、人工物の移動と再加工が可能ではなかったことを示します。最後に、主要な泥灰土層の表面はアンナシム遺跡で最も高い地点であり、石器が浸食されて泥灰土層に再堆積するような、より古くてより高い堆積物がないことを意味します。これらの観察を考慮すると、泥灰土層の表面で発見された石器の最も可能性の高い出所は、直接的に回収されたこのユニットの最上層です。
現在の砂丘間地域内のより低い地帯では追加の泥灰土堆積物が見られ、その全ては上述の一次堆積物よりもずっと明瞭ではなく、より劣化しているように見えます。海抜約930~923mの盆地の北側の側面には泥灰土の3点の小さな露出が存在し、巨大泥灰土の周辺露出の可能性があり、一方で盆地中央には、侵食された泥灰土の2ヶ所の異なる大きな塚が存在します。これらのうち最北端の1号塚の上面は湾曲しており、海抜約921m付近で砂丘間盆地に堆積した湖底を示唆します(図2B)。南方の2号塚(図2B)は海抜916m以下で不明瞭に大きく侵食された上面を有していますが、1号塚との関係は不明です。両方の塚とも侵食され、古代湖堆積物の収縮した残骸で覆われた側面を有する、海抜910mに位置する現在の砂丘間床の上の逆高低的特徴として保存されます。
これら下部堆積物の一次堆積物との層序関係は、それらの間の不整合を生み出した縮小のため、不確実なままです。しかし、1号塚の形態と、一次堆積物と比較してのこれら堆積物の標高が低いことから、それらが一次堆積物とは異なる湖沼段階に属する、と強く示唆されます。それらは、現在位置する砂丘間領域を形成したより最近の縮小の前に、後の砂丘間の窪みの床に形成された可能性が高そうです。したがってアンナシム遺跡は、ネフド砂漠西部内の周期的な気候変化と関連する、風成縮小事象により分離された古盆地の発展のいくつかの別々の段階を保存しています。
アンナシム遺跡における堆積学的観察は、より広範なネフド砂漠西部全域で観測された画像と一致しており、別々の湿潤期における地域的な地下水位の繰り返しの上昇により、砂丘間の窪地に湖と湿地が形成されました。以前の分析では、古代湖はネフド砂漠西部全域で広範に存在しており、地域内の大規模な河川活動の証拠の欠如にも関わらず、そうした砂丘間の湖の高密度により人類の拡散が促進された、と示唆されました。
アンナシム遺跡では、下部旧石器時代人工物の2つの別々の集中が、一次堆積物の表面と下部の塚全体に分布している、と明らかになりました(図3)。体系的な収集により354点の人工物が回収され、それはおもに握斧で、明確に区別できる両面薄化剥片を含むさまざまな剥片が共伴します。人工物はアンナシム遺跡で2つの主要なまとまりで発見され(図2B)、泥灰土堆積物から侵食されているようです。目に見える人工物は体系的に収集され、それらの位置は差分GPS(DGPS)を用いて記録されました。しかし、絶えず変化する砂は視覚から他の人工物を隠す可能性が高いので、収集されなかった人工物もあることに注意が必要です。したがって、石器群はより大きくて厚いため、剥片よりも容易に埋まらない握斧に偏っているかもしれません。この調査の結果は図3に示されており、人工物と湖との間の密接な関係を示します。以下は本論文の図3です。
アンナシム遺跡の石器群は、ネフド砂漠における以前に報告されたアシューリアン遺跡と類似しており、比較的厚く精密な剥離された両面石器(通常は三角形で尖っています)で構成されています。石器群は両面加工の系列全体を表しており、その全ては、含鉄珪岩質砂岩の大きな平板状の塊により作られました。これら平板状の塊の最小限に剥離された断片の存在から、石材がその場に持ちこまれ、その一部は端に沿って1個もしくは2個を除去して「検証」した後で、廃棄されたようです。他の剥離された断片は、破棄される前にひじょうに粗く形成されました。
握斧の多くはその中心に、しばしば両面において、平坦で板状の皮質表面の最後の痕跡を保持していました。握斧の基部も、しばしば板状の塊の厚くて平らな皮質端を保持しており、これはおそらく握りやすくするためです。両面は剥片から作られておらず、大型剥片製作の証拠はなく、おそらくは地元の石材の小さくて板状の性質のためです。じっさい、ネフド砂漠のより広範な調査では、この地元の板状の珪岩が、しばしば他の年代測定されていないアシューリアン表面採集石器群で用いられており、その全ては大型剥片製作の証拠を欠いている、と示唆されています。これは、地元の石材が握斧製作のこの手法を妨げた、と示唆します。
表面採集石器は類似の高度の風化を示しましたが、埋まっていたもしくは最近露出した状況の石器は真新しい状態でした。握斧の形態は多様で、卵型から心臓型や三角形まであり、ネフド砂漠の他のアシューリアン遺跡と同様で、サイズもさまざまでした(図3)。剥片の跡が観察できる全ての握斧は、形態に関係なく精密な剥離を示しました。50点の握斧の無作為の二次標本の2D幾何学的形態測定(GMM)分析から、この形状変化は連続的ではない、と示されました(図4)。しかし標本では、離散的形態と発見場所との間の空間的関係は観察されませんでした。以下は本論文の図4です。
調査により、一次泥灰土堆積物の上部10 cmの区画に見える1個の層状握斧の一方の面が明らかになりました。この場所の周辺の浅い1m×1mの形の小規模発掘により、この確実に埋められた握斧のその後の回収が可能になりました。この握斧は2DのGMM分析(図3)に含まれており、表面で発見された心臓型分類とクラスタ化します。心臓型握斧の緊密で形態に基づくクラスタ化は、製作と石材の類似性とともに、これらの形態が少なくとも、泥灰土において相互に同年代とみなされる可能性を示唆します。
アンナシム遺跡で表される全ての握斧形態間の類似性は、広範な同時代性も示唆しているかもしれません。年代測定の目的で堆積物標本を掘ることで、砂質の第11層内で固まった両面の薄い剥片の回収も可能になりました。ルミネッセンス年代測定の標本1点(NSM1-2017)は第11層から収集され、遺物も回収されました(図2A)。追加の標本は第8層(NSM1-OSL4)と第7層(NSM1-OSL3)の石器遺構近くで収集されました。これらの標本の線量率は厚いα線源とβ線源の集計により決定されましたが、γ線量率は野外γ分光計を用いて測定されました。
同じパラメータを用いて、カリウム長石粒子を分離し、次に温度制御下(RF70)での赤外放射蛍光(infrared-radiofluorescence、略してIR)手順を用いて分析されました。IR-RFの線量と年代推定値は表2に示されます。過分散値(OD)は20%未満で、このような堆積物に対する予測と一致します。3点の資料の年代は、NSM1-OSL3が310000±17000年前、NSM1-OSL4が243000±23000年前、NSM1-2017が330±23 年前です。これらの年代は2σで一貫していますが、標本NSM1-OSL4は、よく似た年代が得られている他の2標本よりもずっと新しい年代となります。より古い2点の年代もより新しい年代よりも過分散値が低く、おそらくは信頼性がより高いことを示唆します。
これらの年代決定をより当時の状況に当てはめて解釈するため、「緑のアラビア」と呼ばれる湿潤期の原動力となった、ネフド砂漠の緯度における夏の平均日射量と比較されました(図5)。埋没した握斧は年代測定された堆積物の上にある厚い泥灰土層と関連しています。堆積学的分析では、これらの泥灰土はかなりの湿潤状態で生成された、と示唆されます。MIS9および7両方の日射量の最大値は、高い離心率により変化しており(図5)、その強度は、巨大な長期の深い湖の形成に充分可能だったと知られている、MIS5aのそれと同等かそれ以上です。このように、MIS9の日射量の最大値は、より古い年代推定値に最も近く、アンナシム遺跡一帯の他の湖が形成されたと知られている時期と対応します(図5)。これらをまとめると、この証拠はアンナシム遺跡堆積物の形成がMIS9の時期だったことと一致していますが、より新しいMIS7の時期だった可能性も完全には無視できません。以下は本論文の図5です。
●考察
アンナシム遺跡のアシューリアン石器群の年代は35万~25万年前頃の中期更新世後期となり、MIS9間氷期に相当する可能性が高く、その頃には古代湖の形成がネフド砂漠で広がったようです。アンナシム遺跡の泥灰土の堆積学は、かなりの降雨量と地域的な地下水位の上昇を必要とするだろう、深い湖の存在を示唆します。石器出土層位内およびその下からのルミネッセンス年代測定では、湖はMIS9に形成され、ネフド砂漠に好適な生息条件を提供した、と示唆されます。アシューリアン石器群は一次湖堆積物の最終段階と関連しており、現在の盆地のほぼ全体に広がっています。アシューリアン石器群は古代湖堆積物の内部と上部で見つかり、上部は考古遺物を含むより上層の泥灰土堆積物の収縮の結果です。
ネフド砂漠におけるアンナシム遺跡と他の年代測定されていないアシューリアン遺跡群との間の類似性から、ネフド砂漠の古代湖は人類拡大の重要な回廊と、人類とおそらくは他の哺乳類にとって生存可能な生息地ネットワークを提供しました。注目すべきは、ネフド砂漠のアシューリアン石器群の技術的特徴が、アラビア半島中央部のサッファーカ遺跡のより新しいアシューリアン石器群(関連記事1および関連記事2)とは対照的であるように見えることです。サッファーカ遺跡の最小限に調節された大きな剥片の握斧とは異なり、アンナシム遺跡の打製握斧は精密に作られ、サイズはさまざまで、製作技術と対称性の程度と洗練度の共有性を特徴とします。これらの特徴は、アンナシム遺跡の石器群の同程度の風化と空間的に示される集中とともに、アンナシム遺跡における限定的な期間の居住を示唆します。
アンナシム遺跡とサッファーカ遺跡との間で観察された技術的違いは、石材と遺跡での活動の違いと関連しているかもしれません。サッファーカ遺跡は、一次剥離が行なわれる、巨大な安山岩の塊を特徴とする石材獲得供給源に位置します。しかし、アンナシム遺跡とサッファーカ遺跡との間の年代および地理的距離の違いから、両遺跡間の観察された物質文化の違いは、異なる握斧使用人口集団もしくは種さえも繁栄しているかもしれません。
アラビア半島内陸部の部分的もしくは完全な人口減少は、氷期における地域的な超乾燥化の支配的パターンを考えると、MIS8氷期の始まりに起きた可能性が高そうです。アシューリアン技術を有する人類は繰り返しレヴァント南部から南方へと拡散し、古水文学的回廊が繰り返しそうした移動を促進した、という観察と一致します。しかし、この仮説は、ネフド砂漠とレヴァント南部のアシューリアン遺跡群のさらなる年代測定が利用可能になった場合にのみ検証できます。レヴァントのホロン(Holon、図1の3)やレヴァディム(Revadim、図1の5)、ヨルダン東部砂漠地帯のアズラク(Azraq)といった後期アシューリアン遺跡群の年代は、50万~20万年前頃です。これらの遺跡の多くの年代測定は、以前の研究で論じられているようにかなり貧弱です。
エルサレムと死海の北側のレヴァントでは、アシュール・ヤブルディアン(Acheulo-Yabrudian)石器群のかなり異なる技術が、イスラエルのカルメル山にあるミスリヤ洞窟(Misliya Cave、図1の2)やケセム洞窟(Qesem Cave、図1の4)などの遺跡で40万~20万年前頃に見られます(関連記事)。レヴァントの証拠は、中期更新世後期における高水準の技術的変動性を示します。握斧の製作はさまざまな頻度と手法で行なわれ、たとえばケセム洞窟では、握斧は一部の層序系列ではほとんど存在しません。アシューリアン石器群内では、石核および剥片技術のさまざまな水準があります。
本論文においてアラビア半島内で明らかにされた、アンナシム遺跡とサッファーカ遺跡との間の技術の違いのような中期更新世後期の技術的多様性は、この時期のアジア南西部の技術的変異性の図をさらに追加します。レヴァント北部もしくはアフリカ東部のようなさらに遠くの地域の中期更新世後期技術の体系的な議論は、本論文の範囲を超えています。しかし、記録はひじょうに多様であるように見え、後期アシューリアンの事例では、しばしば年代測定が不充分である、と強調されます。したがって、現在利用可能なデータを用いて、証拠を単純に統合することは困難です。人口統計学および実際的要因(たとえば、石材の違い)の両方と関連している可能性が高い、この変動性の意味を解明することは、将来の研究にとって重要な目標であり続けます。
アラビア半島内では、アンナシム遺跡などMIS9のネフド砂漠における深く安定した淡水域の存在が、信頼性の高い淡水源と、関連する哺乳類の獲物と他の食資源を提供することにより、人類の拡大を促進したでしょう。多様な小型から大型の哺乳類の存在は、ネフド砂漠における間氷期の古代湖において明らかであり、湿潤期における動物のこの地域への拡大を示唆し、水場における食資源としての動物の利用可能性を示します。
古環境や行動学の証拠が出てきたことで、アラビア半島のアシューリアンの明確な特徴が浮き彫りになりました。アンナシム遺跡とサッファーカ遺跡の両方は、アラビア半島の中期更新世後期におけるアシューリアン石器群の異なる2形態を示しており、どちらも準同時代のレヴァントにおけるアシュール・ヤブルディアンや後期アシューリアン、およびアフリカにおける後期アシューリアンとは異なります。行動の柔軟なアシューリアン人口集団は、アラビア半島の位置および生態学的条件の中で、独自の文化的特性を育んだかもしれません。これが示唆するのは、アラビア半島を単純に人類集団にとって移動するための「何もない空間」として考えるべきではない、ということです。
●まとめ
本論文は、アラビア半島北部の新たなアシューリアン古代湖盆地遺跡である、アンナシム遺跡の調査結果を提示しました。このアンナシム遺跡の主要な層序系列は、湖の形成と消滅の単一の継続的な気候周期と関連しており、考古遺物を含む上部は古代湖の断続的な乾燥を反映しています。この古代湖の主要な系列は35万~25万年前頃で、石器を含む第11層の年代は330000±23000年前です。この第11層は、同じく石器群を含み、単一の気候周期の観点では下層の堆積物と明確に関連している、泥灰土の第12層に覆われています。本論文は、この範囲の古い方の年代の過分散値がより低いことと、この地域の複数の他の古代湖盆地の年代がMIS9だったという事実に基づいて、アンナシム遺跡石器群がMIS9の年代だと主張しました。
アンナシム遺跡石器群は、精密に作られたさまざまな形の打製握斧を特徴としており、その全ては含鉄珪岩性砂岩の大きく平板状の塊で作られています。これらの石器は、ネフド砂漠の同じ地域の他の年代測定されていない遺跡群の石器と類似しています。これらの石器は、年代がより新しいか古いかを問わず、この時期のアジア南西部では独特であり、アラビア半島が、その特定の環境および人口統計学的条件を反映しているかもしれない、独特な地域的アシューリアンの故地だったことを示唆します。
参考文献:
Scerri EML. et al.(2021): The expansion of Acheulean hominins into the Nefud Desert of Arabia. Scientific Reports, 11, 10111.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-89489-6
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