田中創『ローマ史再考 なぜ「首都」コンスタンティノープルが生まれたのか』
NHK出版新書の一冊として、NHK出版から2020年8月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は4~7世紀のローマ東方(東ローマ帝国)史で、ローマ皇帝の役割を中心に、統治の仕組みを取り上げます。そのさい重要なのがコンスタンティノープルの役割で、統治の仕組みの変容とコンスタンティノープルの発展がどう関連しているのか、そもそも「都」とは何なのか、といった問題を論じます。コンスタンティノープルは324年に建設が始まり、330年に完成します。一般的には、これはローマ帝国の遷都と認識されていますが、本書は、そもそもローマ帝国の都とは何なのか、検証します。ローマ帝国の都は一般的にローマと考えられており、当時の人々もそう考えていましたが、実際には崩れている事例もある、と本書は指摘します。3世紀の歴史書には、皇帝のいる場所こそローマとの認識が見られます。
こうした認識の前提として、ローマ帝国が広大になり、一人の皇帝で統治することが難しくなったこととともに、帝国辺境の軍事情勢が不安定化し、皇帝が派遣した将軍の台頭を警戒して親征するようになった、という事情がありました。3世紀の軍人皇帝時代には、ローマから遠い地域でも軍隊が勝手に皇帝を擁立するようになり、複数の皇帝が並立するとともに、皇帝位や官職がイタリアから乖離していきます。この状況が後の分割統治につながります。軍人皇帝時代の混乱を収めたディオクレティアヌス帝は、ローマ帝国の四分割統治を実施し、各皇帝が大規模な軍隊を率います。皇帝は大規模な軍隊を維持するため、拠点としての大都市を定めますが、ローマは前線から遠いため、軍事拠点の候補地にはなりませんでした。こうした状況で、皇帝のいる場所こそローマとの理念が顕著になります。
ディオクレティアヌス帝の退位後に正帝に昇格した父の後継者として台頭したコンスタンティヌスが、コンスタンティノープルを建設します。コンスタンティノープルの建設は、ディオクレティアヌス帝以降の皇帝による大規模な拠点の建設という方針と、自身の名を冠した都市の建設という東地中海世界の伝統が組合わさったものでした。一方、分割統治時代に大発展した近くのニコメディアを拠点としなかったことは、新たな試みではないか、と本書は指摘します。また本書は、コンスタンティヌス帝が複数のローマを築こうとしたことも指摘します。
コンスタンティヌス帝は息子も含めて複数の親族を副帝としており、血縁による後継を企図していました。しかし、337年のコンスタンティヌス帝の死後に軍隊の暴動により多数のコンスタンティヌス帝の親族が殺害されます。その後も混乱が続いてコンスタンティヌス帝の親族が相次いで死に、ローマ帝国は東部を治めるコンスタンティウス2世と西部を治めるコンスタンス帝の二帝体制が確立し、10年近く政治情勢は安定します。この二帝体制は、複数皇帝体制でもその中で主導権を有する皇帝が明らかだったそれまでとは異なり、明瞭な上下関係がありませんでした。この二帝体制は、350年にコンスタンス帝が部下に殺害されたことで崩壊します。コンスタンティウス2世はこの混乱を収拾して帝国全土を掌握します。コンスタンティウス2世の統治期にコンスタンティノープルは発展していき、元老院も拡大します。コンスタンティウス2世は出自ではなく個人的実力を重視し、元老院議員に低い身分の家柄の者を登用していきました。コンスタンティウス2世が元老院を拡大していったことで、コンスタンティノープルには知識層が集まっていきます。
コンスタンティウス2世の方針をほとんど覆そうとしたのが、コンスタンティウス2世の後継者となったユリアヌスでした(関連記事)。ユリアヌスは正帝称号の承認をコンスタンティウス2世に認められず、ローマ帝国は内戦に発展しかけますが、コンスタンティウス2世は病に倒れ、ユリアヌスに帝国を委ねて没します。ユリアヌス帝はキリスト教への厚遇を撤回し、伝統重視の政策を打ち出しますが、サーサーン朝との戦いで重傷を負って陣没します。その後の皇帝選出で、後に多くの東ローマ皇帝が帝位を受けることになるコンスタンティノープル近郊のヘブドモンで、初めて皇帝が推戴されます。また、ユリアヌス帝没後の反乱でコンスタンティノープルが拠点とされたこともありました。こうして、コンスタンティノープルはじょじょに政治的中心の位置を確立していきます。
しかし、コンスタンティノープルの拡大に貢献したコンスタンティウス2世にしても、ユリアヌス帝没後の混乱を一旦は収拾したウァレンス帝にしても、コンスタンティノープルを訪れることは稀でした。これは、軍人皇帝の時代以降の皇帝は軍隊とともに戦線を移動していき、宮廷も皇帝に随行したからです。奴隷も含めると、この移動する宮廷には1万人以上の人々がいました。当時、大都市と言われるアンティオキアやアレクサンドリアでも、人口はせいぜい30万人程度と推測されています。これは、宮廷の移動先の地域に大きな負担を強いることになります。
このように皇帝および宮廷の移動が常態だったローマ帝国ですが、テオドシウス帝の治世においてコンスタンティノープルにほぼ定住するようになります。本書はその理由として、移動宮廷の弱点を指摘します。地方ごとに慣習や人間関係は大きく異なり、遠隔地の情報に疎い移動宮廷は現地の有力者に主導権を掌握されやすい、というわけです。ローマ皇帝がコンスタンティノープルから動かなくなった決定的な理由は、皇帝が拠点となる都市を定めることで、儀式の主導権を確保することにあったのではないか、と本書は推測します。それがテオドシウス帝によりなされたのは、皇帝が移動宮廷とともに前線に赴く統治方式では戦死する可能性が低くなかったこととに加えて、それまでの皇帝たちと血縁関係がなく、自らの権威を確立するとともに、ローマ帝国西部との対抗も考えねばならず、ローマ帝国東部を自らの支持基盤として、新たな秩序を築く必要があったからでした。帝国西部に対する東部の対抗意識は、キリスト教の教会会議がコンスタンティノープルでも開催されるようになったことに表れています。
395年のテオドシウス帝の死をもってローマ帝国は東西に分裂した、と一般的には言われますが、当時の人々にとっては以前からの分割統治の継続に見えただろう、と本書は指摘します。後にローマ帝国を単独で掌握する皇帝が出現せず、ローマ帝国西方はゲルマン人の諸勢力に侵食されて476年に「滅亡」したことに基づく、結果論的解釈だろう、というわけです。テオドシウス帝の死後も、儀礼空間の整備などコンスタンティノープルは発展していき、皇帝が基本的には配下の将軍に軍事遠征を任せて常駐したこともあり、コンスタンティノープルはローマ帝国の「都」としての地位を確立していきます。
こうしてコンスタンティノープルはローマ帝国東方、つまり東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の「首都」として発展していき、一方で西ローマ帝国は476年に「滅亡」します。ただ、476年に起きたのは、ローマ帝国西方の有力軍人だったオドアケルが幼帝のロムルスを廃位し、皇帝の標章をローマ帝国東方に変換しただけで、ローマの元老院は健在でした。同時代人には劇的な「滅亡」事件として把握されていなかっただろう、というわけです。コンスタンティノープルは、皇帝の常駐とともに、皇帝即位といった儀式が発展し、皇帝の存立条件として「首都」住民の支持が重要になっていきます。そのさいに大きな役割を果たしたのが宗教で、この時代では具体的にはキリスト教となります。キリスト教は大衆と有力者をつなぐ社会的接点となり、皇帝にとって無視できない存在でした。本書は、皇帝の選出および承認など、社会的合意形成の場としての儀式の整備が政治的安定をもたらし、東ローマ帝国長期存続を可能にした、と指摘します。一方、ローマ帝国西方では、ローマにおいて儀式の発展はあったものの、政治的拠点としてコンスタンティノープルほどには集約されず、イタリア北部のラウェンナが重要な役割を担い、広範な合意形成の場が確立しませんでした。これが、ローマ帝国の東西の運命を分けた一因になった可能性を、本書は指摘します。
上述のように、ローマ帝国西方における476年の幼帝廃位は、同時代人にとって「滅亡」や「衰退」と結びつける必要のないものでした。しかし、それから半世紀ほど経過した6世紀前半に、ローマ帝国東方ではローマ帝国西方の衰亡言説が流布していました。そうした状況を背景に即位したユスティニアヌスは、積極的にローマ帝国の「再興」に取り組みます。それは、軍事遠征とローマ法典の編纂事業に代表されます。ユスティニアヌス帝はこの過程で、ローマ帝国の過去を意識的に継承していきます。しかし、それは現実を踏まえた選択的なもので、法典編纂において現行の法習慣に敵うものだけを収録しました。これは、時代錯誤の法も収録した以前の法典の編纂方針とは大きく異なります。ユスティニアヌス帝は、過去を尊重する姿勢を示しつつも、現実の要請に応じて過去を加工していき、それは法典編纂でも見られます。また、すでに地中海東部地域ではギリシア語が支配層の共通言語になっていたのに、法典編纂ではほとんどラテン語が採用されており、ローマの伝統を自分のものにするという意志があったのではないか、と本書は推測します。また、法典編纂におけるラテン語の使用は、地中海西部のラテン語圏も視野に入れていたためではないか、と本書は指摘します。ユスティニアヌス帝は法典編纂と並行して軍事活動を進め、イタリア半島を支配下に置きます。
上述のようにユスティニアヌス帝はローマ帝国の「再興」に取り組み、復古的なところがありましたが、法典編纂で現行の法習慣に敵うものだけを収録するなど、現実的な側面も見られ、それはコンスルの廃止にも表れています。ユスティニアヌス帝は一方で、他の行政分野では官職の名称をローマの伝統的なものに「戻して」いますが、復古を謳いつつ実質的には新たな行政機構・官職を創設しており、復古的ではあるものの現実的であるユスティニアヌス帝の性格がよく示されています。ユスティニアヌス帝はキリスト教の内部抗争を懸念して教会再統合も試み、全面的な教会統一こそ達成できなかったものの、大半の司教はユスティニアヌス帝の主導下にまとまります。
ユスティニアヌス帝は意欲的にローマの「復興」に取り組みましたが、疫病や戦争の継続により領内が疲弊したことも否定できません。本書は、結果論ではあるものの、ローマを滅ぼしたのはゲルマン人以上に東ローマ帝国だっただろう、と指摘します。ユスティニアヌス帝の相次ぐ遠征により、水道橋などの社会資本は傷つき、ミラノなどイタリア北部の主要都市は何度も略奪され、主要な貴族はコンスタンティノープルなどへ避難しました。旧都ローマの歴史と権威は、新都コンスタンティノープルに奪われました。ローマはもう一つのローマにより「滅ぼされた」、というわけです。
こうした認識の前提として、ローマ帝国が広大になり、一人の皇帝で統治することが難しくなったこととともに、帝国辺境の軍事情勢が不安定化し、皇帝が派遣した将軍の台頭を警戒して親征するようになった、という事情がありました。3世紀の軍人皇帝時代には、ローマから遠い地域でも軍隊が勝手に皇帝を擁立するようになり、複数の皇帝が並立するとともに、皇帝位や官職がイタリアから乖離していきます。この状況が後の分割統治につながります。軍人皇帝時代の混乱を収めたディオクレティアヌス帝は、ローマ帝国の四分割統治を実施し、各皇帝が大規模な軍隊を率います。皇帝は大規模な軍隊を維持するため、拠点としての大都市を定めますが、ローマは前線から遠いため、軍事拠点の候補地にはなりませんでした。こうした状況で、皇帝のいる場所こそローマとの理念が顕著になります。
ディオクレティアヌス帝の退位後に正帝に昇格した父の後継者として台頭したコンスタンティヌスが、コンスタンティノープルを建設します。コンスタンティノープルの建設は、ディオクレティアヌス帝以降の皇帝による大規模な拠点の建設という方針と、自身の名を冠した都市の建設という東地中海世界の伝統が組合わさったものでした。一方、分割統治時代に大発展した近くのニコメディアを拠点としなかったことは、新たな試みではないか、と本書は指摘します。また本書は、コンスタンティヌス帝が複数のローマを築こうとしたことも指摘します。
コンスタンティヌス帝は息子も含めて複数の親族を副帝としており、血縁による後継を企図していました。しかし、337年のコンスタンティヌス帝の死後に軍隊の暴動により多数のコンスタンティヌス帝の親族が殺害されます。その後も混乱が続いてコンスタンティヌス帝の親族が相次いで死に、ローマ帝国は東部を治めるコンスタンティウス2世と西部を治めるコンスタンス帝の二帝体制が確立し、10年近く政治情勢は安定します。この二帝体制は、複数皇帝体制でもその中で主導権を有する皇帝が明らかだったそれまでとは異なり、明瞭な上下関係がありませんでした。この二帝体制は、350年にコンスタンス帝が部下に殺害されたことで崩壊します。コンスタンティウス2世はこの混乱を収拾して帝国全土を掌握します。コンスタンティウス2世の統治期にコンスタンティノープルは発展していき、元老院も拡大します。コンスタンティウス2世は出自ではなく個人的実力を重視し、元老院議員に低い身分の家柄の者を登用していきました。コンスタンティウス2世が元老院を拡大していったことで、コンスタンティノープルには知識層が集まっていきます。
コンスタンティウス2世の方針をほとんど覆そうとしたのが、コンスタンティウス2世の後継者となったユリアヌスでした(関連記事)。ユリアヌスは正帝称号の承認をコンスタンティウス2世に認められず、ローマ帝国は内戦に発展しかけますが、コンスタンティウス2世は病に倒れ、ユリアヌスに帝国を委ねて没します。ユリアヌス帝はキリスト教への厚遇を撤回し、伝統重視の政策を打ち出しますが、サーサーン朝との戦いで重傷を負って陣没します。その後の皇帝選出で、後に多くの東ローマ皇帝が帝位を受けることになるコンスタンティノープル近郊のヘブドモンで、初めて皇帝が推戴されます。また、ユリアヌス帝没後の反乱でコンスタンティノープルが拠点とされたこともありました。こうして、コンスタンティノープルはじょじょに政治的中心の位置を確立していきます。
しかし、コンスタンティノープルの拡大に貢献したコンスタンティウス2世にしても、ユリアヌス帝没後の混乱を一旦は収拾したウァレンス帝にしても、コンスタンティノープルを訪れることは稀でした。これは、軍人皇帝の時代以降の皇帝は軍隊とともに戦線を移動していき、宮廷も皇帝に随行したからです。奴隷も含めると、この移動する宮廷には1万人以上の人々がいました。当時、大都市と言われるアンティオキアやアレクサンドリアでも、人口はせいぜい30万人程度と推測されています。これは、宮廷の移動先の地域に大きな負担を強いることになります。
このように皇帝および宮廷の移動が常態だったローマ帝国ですが、テオドシウス帝の治世においてコンスタンティノープルにほぼ定住するようになります。本書はその理由として、移動宮廷の弱点を指摘します。地方ごとに慣習や人間関係は大きく異なり、遠隔地の情報に疎い移動宮廷は現地の有力者に主導権を掌握されやすい、というわけです。ローマ皇帝がコンスタンティノープルから動かなくなった決定的な理由は、皇帝が拠点となる都市を定めることで、儀式の主導権を確保することにあったのではないか、と本書は推測します。それがテオドシウス帝によりなされたのは、皇帝が移動宮廷とともに前線に赴く統治方式では戦死する可能性が低くなかったこととに加えて、それまでの皇帝たちと血縁関係がなく、自らの権威を確立するとともに、ローマ帝国西部との対抗も考えねばならず、ローマ帝国東部を自らの支持基盤として、新たな秩序を築く必要があったからでした。帝国西部に対する東部の対抗意識は、キリスト教の教会会議がコンスタンティノープルでも開催されるようになったことに表れています。
395年のテオドシウス帝の死をもってローマ帝国は東西に分裂した、と一般的には言われますが、当時の人々にとっては以前からの分割統治の継続に見えただろう、と本書は指摘します。後にローマ帝国を単独で掌握する皇帝が出現せず、ローマ帝国西方はゲルマン人の諸勢力に侵食されて476年に「滅亡」したことに基づく、結果論的解釈だろう、というわけです。テオドシウス帝の死後も、儀礼空間の整備などコンスタンティノープルは発展していき、皇帝が基本的には配下の将軍に軍事遠征を任せて常駐したこともあり、コンスタンティノープルはローマ帝国の「都」としての地位を確立していきます。
こうしてコンスタンティノープルはローマ帝国東方、つまり東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の「首都」として発展していき、一方で西ローマ帝国は476年に「滅亡」します。ただ、476年に起きたのは、ローマ帝国西方の有力軍人だったオドアケルが幼帝のロムルスを廃位し、皇帝の標章をローマ帝国東方に変換しただけで、ローマの元老院は健在でした。同時代人には劇的な「滅亡」事件として把握されていなかっただろう、というわけです。コンスタンティノープルは、皇帝の常駐とともに、皇帝即位といった儀式が発展し、皇帝の存立条件として「首都」住民の支持が重要になっていきます。そのさいに大きな役割を果たしたのが宗教で、この時代では具体的にはキリスト教となります。キリスト教は大衆と有力者をつなぐ社会的接点となり、皇帝にとって無視できない存在でした。本書は、皇帝の選出および承認など、社会的合意形成の場としての儀式の整備が政治的安定をもたらし、東ローマ帝国長期存続を可能にした、と指摘します。一方、ローマ帝国西方では、ローマにおいて儀式の発展はあったものの、政治的拠点としてコンスタンティノープルほどには集約されず、イタリア北部のラウェンナが重要な役割を担い、広範な合意形成の場が確立しませんでした。これが、ローマ帝国の東西の運命を分けた一因になった可能性を、本書は指摘します。
上述のように、ローマ帝国西方における476年の幼帝廃位は、同時代人にとって「滅亡」や「衰退」と結びつける必要のないものでした。しかし、それから半世紀ほど経過した6世紀前半に、ローマ帝国東方ではローマ帝国西方の衰亡言説が流布していました。そうした状況を背景に即位したユスティニアヌスは、積極的にローマ帝国の「再興」に取り組みます。それは、軍事遠征とローマ法典の編纂事業に代表されます。ユスティニアヌス帝はこの過程で、ローマ帝国の過去を意識的に継承していきます。しかし、それは現実を踏まえた選択的なもので、法典編纂において現行の法習慣に敵うものだけを収録しました。これは、時代錯誤の法も収録した以前の法典の編纂方針とは大きく異なります。ユスティニアヌス帝は、過去を尊重する姿勢を示しつつも、現実の要請に応じて過去を加工していき、それは法典編纂でも見られます。また、すでに地中海東部地域ではギリシア語が支配層の共通言語になっていたのに、法典編纂ではほとんどラテン語が採用されており、ローマの伝統を自分のものにするという意志があったのではないか、と本書は推測します。また、法典編纂におけるラテン語の使用は、地中海西部のラテン語圏も視野に入れていたためではないか、と本書は指摘します。ユスティニアヌス帝は法典編纂と並行して軍事活動を進め、イタリア半島を支配下に置きます。
上述のようにユスティニアヌス帝はローマ帝国の「再興」に取り組み、復古的なところがありましたが、法典編纂で現行の法習慣に敵うものだけを収録するなど、現実的な側面も見られ、それはコンスルの廃止にも表れています。ユスティニアヌス帝は一方で、他の行政分野では官職の名称をローマの伝統的なものに「戻して」いますが、復古を謳いつつ実質的には新たな行政機構・官職を創設しており、復古的ではあるものの現実的であるユスティニアヌス帝の性格がよく示されています。ユスティニアヌス帝はキリスト教の内部抗争を懸念して教会再統合も試み、全面的な教会統一こそ達成できなかったものの、大半の司教はユスティニアヌス帝の主導下にまとまります。
ユスティニアヌス帝は意欲的にローマの「復興」に取り組みましたが、疫病や戦争の継続により領内が疲弊したことも否定できません。本書は、結果論ではあるものの、ローマを滅ぼしたのはゲルマン人以上に東ローマ帝国だっただろう、と指摘します。ユスティニアヌス帝の相次ぐ遠征により、水道橋などの社会資本は傷つき、ミラノなどイタリア北部の主要都市は何度も略奪され、主要な貴族はコンスタンティノープルなどへ避難しました。旧都ローマの歴史と権威は、新都コンスタンティノープルに奪われました。ローマはもう一つのローマにより「滅ぼされた」、というわけです。
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