アフリカにおける最古の埋葬

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、アフリカにおける最古の埋葬に関する研究(Martinón-Torres et al., 2021)が報道されました。アフリカにおける現生人類(Homo sapiens)の起源と生物学的および文化的進化について、ますます精密に調べられています(関連記事1および関連記事2)。埋葬慣行は現生人類の進化の重要な構成要素です。正式な埋葬は掘られた墓に死体を埋めることとして定義され、ホモ属においてより曖昧な慣行が先行していたかもしれません。この過程の検証はとくにアフリカでは困難で、それは死体処理の明確で年代のはっきりした証拠のある遺跡が少ないためです。

 ケニアの湿潤な沿岸森林地帯に位置するパンガヤサイディ(Panga ya Saidi)洞窟遺跡(PYS)は、環境代理指標の優れた保存状態(関連記事)、技術革新と象徴的特色の特有の系列、生体分子情報の保存状態(関連記事)から、アフリカにおける中期石器時代(MSA)および後期石器時代(LSA)の重要な遺跡の一つとして注目されています。発掘された洞窟系列は約3mの深さで、19層に及びます(図1)。一連の層序的に順序づけられた放射性炭素年代とルミネッセンス(発光)年代は、ベイズモデルに組み込まれる場合、50万~78000年前頃のヒトの居住を示唆し、直近の海洋酸素同位体ステージ(MIS)5段階のほとんどを占めています。

 PYSの2013年の発掘調査では、横向きの部分的な土坑遺構(pit feature)が明らかになり、全体的な系列を特徴づける緩やかな色の変化とは著しく対照的で、周囲の環境と比較して独得な質感と色を示しています(図1)。遺跡に発光管(OSL4)と微細標本(PYS 13_1)が置かれ、ひじょうに劣化した骨の存在が明らかになりました。発掘は2017年に拡大され、第18層の下部に位置する遺構の上部が明らかになりました。土坑の平面図は亜円形で、南北36.7cm、東西39.8cm、深さ12.5cmでした。土坑上部の限定的な発掘調査では、遺構は脆く劣化した骨が集中的に含まれており、MSA石器と関連しており、第19層の周囲の堆積物とは異なる環境に埋められていた、と示唆されました。発掘面は、子供の頭蓋骨基部および関節でつながった脊椎骨と後に示された、分解された骨の存在を示唆しました。以下は本論文の図1です。
画像

 2017年の発掘調査では、いくつかの骨の小断片が露出していましたが、保存状態が悪かったため、全体を石膏で覆い、慎重に実験室で調べるため輸送されることに決まりました。石膏で固められた遺骸は、まずケニア国立博物館(NMK)へ、次にスペインのブルゴスの国立人類進化研究センター(CENIEH)の保存修復研究所に運ばれ、機械的およびデジタル洗浄が行なわれました。注意深く調べると、未成年のヒトの関節のある部分的な骨格が明らかになりました(図2)。

 2013年にこの遺構から直接的に採取されたOSL4標本は、ロンドンのロイヤル・ホロウェイで処理され、76000±7400年前という層序的に一貫した年代を提示しました(ルミネッセンス年代は全体で68.2%の信頼区間で示されます)。この年代をベイズモデルに組み込むと、土坑埋積では78300±4100年前という推定年代が得られました。骨格要素を含む堆積物塊の発掘調査により、周囲のMSA層と一致する石器および動物相の存在が明らかになりました。第17~19層では、上部のLSA層(関連記事)とは異なり、アフリカ東部の他のMSA石器群と一致する大型のMSA石器群(2180点)が見つかりました。古代DNAに関する堆積物と骨格の判別検査では、結論は得られませんでした。以下は本論文の図2です。
画像


●一次および意図的な堆積

 PYSの人類遺骸は、頭蓋底のかなりの部分、完全な下顎枝のある左側下顎骨、5点の歯(右下顎第一大臼歯、右上顎第一大臼歯、左上顎第二乳大臼歯、未萌出の左下顎第一大臼歯、左上顎第一大臼歯)、肋骨と関連する頸椎および胸椎、右鎖骨、左上腕骨で構成されています(図2および図3)。さらに、頭蓋と顔面と胸部と骨盤と四肢の領域に対応するいくつかの断片がありましたが、骨の堆積後の変化(生物侵食および再結晶)により解剖学的識別は困難です。

 左橈骨および尺骨の断片および左頭頂骨の変形した断片も、主要な塊から剥がれていたものの、回収されました。石膏で固められる前に野外で回収された、いくつかの識別できない骨片は、おそらくは頭蓋冠が押しつぶされてひどく歪んでいることに対応します。骨の進んだ堆積後の変化は、残っている骨格要素の保存および/または回収を妨げました。2013年の微細形態標本抽出後に撮影された写真は、断片内の右大腿骨の近位部分を示し、2017年の平面図の写真は左大腿骨の近位端を示します(図1b)。PYSの人類遺骸は歯の発達に基づいて2.5~3.0歳で死亡したと推定され、スワヒリ語で「子供」を意味する「ムトト(Mtoto)」と命名されました。以下は本論文の図3です。
画像

 死後間もない身体が分解の全過程の起きた場所に置かれたことを示す4点の特徴は、以下の通りです。(1)身体の巨視的な解剖学的保全性、とくに不安定な関節です。(2)分解の結果として説明される移動を伴う、最小限の骨の変位です。(3)死体の近くでミミズを餌にする陸生腹足類が豊富なことです。(4)その場での分解および腐敗過程を示唆する地球化学的および組織学的分析です。ムトトは、これら4点の基準を全て満たします。

 ムトトの骨の大半は、厳密な関節もしくは良好な解剖学的関連のいずれかで現れ、わずかな変異は分解およびその後の二次的空間の形成の結果として説明できます。写真と表面スキャナーと微小断層撮影データを、土坑的遺構の座標と合わせると、遺骸は右側に向かって曲がった姿勢で、大腿は動態に向かって90度未満の角度で曲がっている、と確認されます(図3)。脊椎は警部から遠位胸部に伸びる弧を形成します。これは、下肢の相対的位置とともに、体のしっかりと湾曲した位置を示します。

 体は平らに横たわっていませんが、背骨は水平軸から約12度の角度に位置します。胸部は横方向に圧縮されています。右側肋骨は平らになっており、左側肋骨はより高い屈曲角形成になっています。同じ脊椎水準の左右の肋骨の前端間に空隙があり、ムトトの体は元々右側に横たわっていた、という解釈と一致します。堆積物の圧力は胸部を平らにしましたが、胸郭は崩壊しませんでした。これにより肋骨の元々の空間的関係と湾曲が保護され、充填空間での分解が示されます。

 ほとんどの胸部関節と胸郭体積の保存から、軟組織と内臓の破壊が大きな一時的空間を生み出さなかった、と示唆されます。この現象はとくに、浸透による流動性堆積物を特徴とする状況で発生する傾向があり、間接的ではあるものの、その場で堆積が進行した確かな証拠です。粒子分析により、第17~19層の比較において(例外は第18層最上部の標本2点)埋葬内の堆積物は沈泥(シルト)と砂の両方の割合がより高く、粘土の割合がより低い、と確認されています。これは、死体が分解するにつれて内部空間の漸進的な充填に有利に作用し、死体がその場で分解した、という仮説を補強します。

 右鎖骨は斜めに向いており、胸骨の端はほぼ90度下降しています。同様に、第一および第二右肋骨も遠位で変位し、内側に約90度回転しますが、胸帯の胸骨関節の変位を最小限に抑えて、肋間腔を維持します。鎖骨の窪みと斜め向きは、しっかりと覆われた埋葬の典型です。これは、腐敗しやすい布もしくは物質に上半身が覆われていたことか、土坑構造内で遺体が密集して詰められていたことと一致します。いずれにしても、遺体のこのような意図的な扱いは、張り出した腕の肩甲骨と上腕骨がその場で例外的に保存されていることや、脊椎と肋骨の関節が無傷で残っていることを説明できるでしょう。遺体を意図的に扱わねば、分解が進むにつれてこれらの骨は崩壊した可能性が高いでしょう。

 頭の回転は重力と崩壊の結果として埋葬においては一般的で、頭蓋の重量により頭蓋と脊椎の付着から離れ、不安定な位置となります。ムトトの場合、頭蓋と最初の3点の脊椎は1単位として関節離断し、部分的に脊柱から関節が外れます。頭の動きは、その周囲のいくらかの空間の存在を示し、遺体の残りの漸進的な充填および最小限の変位とは対照的です。死後間もない遺体では、この型の頸椎を含む頭の脱臼は、頭の下に置かれた腐敗しやすい物質の腐敗による崩壊を示唆するかもしれません。ムトトの頭の脱臼は、鎖骨および最初の2つの肋骨の窪みとともに、上半身が覆われ、頭が腐敗しやすい物質で支えられていたことと一致します。上半身と下半身の保存の違いは、この保護的扱いの追加の証拠となるかもしれません。この証拠は、死体の構造化された放棄や偶然の埋葬ではなく、葬儀における共同体のより念入りな関与があった、という考えを裏づけます。

 解剖学的に完全で、いくつかの不安定な関節が厳密に連結されていることから、一時的で攪乱されていない堆積物であることと、ムトトがその場に置かれた後、急速に堆積物で覆われたことが示唆されます。化石生成論や組織学や地球化学的分析は、その場での分解と腐敗を裏づけます。ムトトの解剖学的整合性と高度な続成作用は、第17~19層の動物遺骸のひじょうに断片化された状態および変成作用の状況とは対照的です。利用可能な全ての証拠は、死後の急速な埋葬と、周囲の層の動物遺骸に起きた堆積後の激しい破損からの骨格の保護を裏づけます。

 ムトトの上肢骨断片の光学顕微鏡分析は、ヒトおよび非ヒト動物の骨が異なる化石生成論的過程を経た、と示します。ヒトの骨への生物侵食と再結晶と酸化鉄沈着パターン、および埋葬堆積物の微細形態的特徴の最も節約的な解釈は、ムトトの身体が死後間もなく埋葬されて分解し、それは偶発的に浸水した埋葬環境においてだった、というものです。頭蓋骨は、昆虫と腹足類の活動を示唆するいくつかの星型の痕跡と骨の穴を示しており、その場での分解と一致します。土坑における酸化マンガンと酸化カルシウムのより高い濃度も、腐敗細菌により媒介される身体のその場の分解と一致します。

 堆積物基質には、小木炭か灰か他の微視的な(推定上の)ヒトが投入したものはありません。5点のアフリカマイマイ属の陸生カタツムリ(Achatina sp.)の殻の断片が、ムトトの後頭部周辺の骨格と密接に関連して見つかりました。これら殻の断片のうち1点は、周囲の層からの断片には見られない、点により刻まれた線があります。しかし、アフリカマイマイ属種の殻の断片は、準同時代の第18層に豊富に存在し、加熱と消費の痕跡を示します。したがって、土坑内の殻の断片の意図的な配置を示唆する充分な証拠はありません。それにも関わらず、土坑からのアフリカマイマイ属の殻は、準同時代の第18層のものよりも顕著に大きく、踏みつぶすといった過程による激しい破損はなかったもと示唆されます。ムトトの発掘中に発見された赤みかがった塊の分析から、それらの塊は人為起源ではない、と示されました。


●埋葬と遺体隠しの区別

 埋葬の認識には、遺骸の主要な配置に加えて、意図的に掘削された土坑と、それに続く意図的に遺骸を覆うことの確認が必要です。新たな地層の区別は、埋葬と、「遺体隠し(funerary caching)」として知られる慣行である、洞窟の裂け目や窪みなど自然の場所への遺体の収容とを区別する鍵となります。PYSの層序からは、意図的埋葬を裏づける証拠が提供されます。試掘坑4号の発掘により、明確な特徴が明らかになりました。これは、堆積物基質のある境界を確定した土坑で、色と質感が他の土坑系列とは異なり、第19層への意図的掘削でのみ生じる可能性があります。

 埋没物は含鉄沈泥(シルト)と砂の混合で、組成的には第18層上部および第17層底部と類似しており、土坑が発掘された第19層とは異なります。骨格内基質のきめ細かい質感は、埋葬堆積物の元々の組成を表しているか、遺骸が骨格化するにつれての骨の間での堆積物の浸入の結果だったかもしれません。これは、露地の堆積物における漸進的な充填の証拠と一致します。埋没堆積物には洪水および/もしくは大量流の計測的特徴が欠如しており、遺骸堆積直後の洪水時に堆積物が土坑に流れ込んだ可能性は低そうです。最も節約的な解釈は、ムトトの身体が、第18層の洞窟の床を構成する崩積土から掬い上げられた埋め戻し用の堆積物で意図的に覆われた、というものです。

 まとめると、ムトトが意図的に埋葬されたという解釈は、以下の証拠に基づきます。(1)第19層に掘られた明確な土坑的遺構の識別です。(2)埋葬充填物を周囲の層と区別する地球化学的および粒度測定証拠で、堆積物はムトトの分解と昆虫の活動により形成された空間をじょじょに埋めていった、と示唆されます。(3)ムトト骨格の全体的な完全性と解剖学的に完全な状態、および土坑におけるしっかりと湾曲した身体の配置です。(4)ムトト遺骸の独特な堆積および化石生成論的歴史と、同じ層の動物遺骸のそれとの間の顕著な違いです。


●分類学的評価

 ムトトの歯が、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と最近および化石現生人類(Homo sapiens)を表す大規模な歯の標本と比較されました。いくつかの小円鋸歯(crenulation)と近心辺縁結節(mesial accessory tubercle)では、ムトトの左上顎第二乳大臼歯は最近の標本よりも祖先的です。ムトトの上顎第一大臼歯標本は、現生人類の変異内に収まりますが、その顕著なカラベリー(歯の異常形態)発現および例外的に大きく細分化された次突起(hypocone)において、形態学的により複雑な中期石器時代となるアテリアン(Aterian)個体群と類似しています。ムトトの左上顎第二乳大臼歯と第一大臼歯の両方で、咬合多角形は化石および最近の現生人類よりも菱形ですが、ネアンデルタール人ほど歪んではいません。

 ムトトの第一大臼歯の先端サイズは、一方では最近の現生人類と上部旧石器時代現生人類の間に、他方ではネアンデルタール人とイスラエルのカフゼー(Qafzeh)遺跡個体との間に位置します。ムトトの第一大臼歯の形態は現生人類と一致しますが、そのエナメル質の大量の小円鋸歯は、最近の現生人類およびアフリカとレヴァントとヨーロッパとアジア東部(関連記事)の一部の化石現生人類よりも複雑です。ムトトの第一大臼歯の先端サイズ系列は、初期現生人類標本とネアンデルタール人および最近の現生人類との間の中間です。EDJ(象牙質とエナメル質の接合部)の咬合輪郭の形態分析により、全てのムトトの歯は、ネアンデルタール人とより密接な下顎第一大臼歯を除いて、現生人類とクラスタ化する、と明らかになります。

 ムトトの歯の面積は、最近の現生人類の範囲内に収まります。ムトトの乳歯と永久歯の大臼歯両方のエナメル質は厚く、現生人類および、ネアンデルタール人を除く人類化石記録標本の大半と共有される状態です。ムトトの歯列は現生人類と一致しますが、他の広範な同年代の人口集団よりも形態学的に派生していないことを示唆する、いくつかの祖先的特徴を保持しています。下顎枝は対称的な下顎切痕を示し、歯の下顎頭および筋突起が水平になっています。これは、強く弓状になった側頭鱗とともに、ムトトを現生人類と一致させます。


●ヒトの文化的進化への影響

 中期更新世後期における「現代人的行動」の出現に関するアフリカの中心性との主張にも関わらず、アフリカにおける埋葬慣行の初期の証拠は稀です。これまで、アフリカにおける最初の埋葬の可能性がある遺跡として、エジプトのタラムサ(Taramsa)と南アフリカ共和国のボーダー洞窟(Border Cave)の2ヶ所があります。タラムサ遺跡では、68600±8000年前の子供の骨格が、近くのMSAの燵岩(チャート)採掘土坑と類似した土坑で発見されました。その土坑は燵岩の採掘と関連しているので、タラムサ遺跡は現生人類の長期の遺体隠し伝統の後期の事例として解釈されます。

 1941年にボーダー洞窟で発見された人類の乳児(BC3)は、年代が74000±4000年前と推定され、単一の穿孔されて着色されたイモガイの殻と明らかに関連していました。その証拠の最近の再評価により土坑の存在が確認されましたが、残念ながらこの埋葬に関する記録は限られています。ボーダー洞窟土坑内のBC3の関節の程度もしくは位置に関して利用可能な情報はなく、その年代は、電子スピン共鳴法により年代測定された、土坑から10m以上の場所に位置する区画との層序学的相関から推測されています。BC3の年代および層序学的データは58000年以上前で、おそらくは74000年前頃という点で一致していますが、骨格のより制約された年代は利用できません。

 PYSで利用可能な状況的および年代的および化石生成論的情報は、一次埋葬を裏づけ、後期更新世における人類の単純な初期土葬の基準を満たしています。複数の層序学的に一貫した光刺激ルミネッセンス法(OSL)年代に基づくと、PYSは78300±4100年前頃というアフリカにおける意図的埋葬の既知の最初の証拠を表しており、死者の複雑な扱いが海洋酸素同位体ステージ(MIS)5後半までに現生人類により行なわれていた、と示します。PYS遺跡の埋葬は、現生人類とMSA技術との間の明確で直接的な関連を明らかにします。この関連は、現生人類出現についての最近の想定に照らして適切です。その想定では、現生人類の出現におけるさまざまなアフリカの人口集団の共同の役割と、鍵となる現代的な解剖学的および文化的特徴の出現における地域的な非同時性の可能性とが強調されます(関連記事1および関連記事2)。

 PYSのムトトは、ボーダー洞窟の乳児(BC3)の埋葬およびタラムサ遺跡の子供の遺体隠しと合わせて、現生人類集団が78000~69000年前頃に集団の若い構成員の遺骸を意図的に保存していた、と示唆します。78000年以上前には、初期MSA人口集団が象徴的表現の洗練された形態を示しているにも関わらず(関連記事)、アフリカの現生人類における明確な埋葬は知られていません。その前には、60万年前頃となるエチオピアのボド(Bodo)遺跡の人類頭蓋や、同じくエチオピアの16万年前頃となるヘルト(Herto)遺跡の人類の子供の標本で、意図的な肉剥ぎが推測されてきました。スペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)の43万年前頃の人類集団と、南アフリカ共和国で発見された335000~226000年前頃(関連記事)のホモ・ナレディ(Homo naledi)の遺骸(関連記事)に関しては、遺体隠しが提案されてきました。

 アフリカの証拠は、ユーラシアにおけるネアンデルタール人と初期現生人類の埋葬行動との対比を示します。ネアンデルタール人と現生人類は一般的に、少なくとも12万年前頃から居住地に死者を埋葬しました。乳児と子供の埋葬はレヴァントとヨーロッパのネアンデルタール人と初期現生人類の遺跡では遍在しており、12万年前頃以後の全ての既知の中部旧石器時代およびMSA埋葬の35~55%を占めています。PYSのような居住地の埋葬は、追悼行動と死者を近くに留める意図を反映している、と提案されてきました。

 現生人類の起源地であるにも関わらず(関連記事)、アフリカではMSAの大半で埋葬慣行が稀で、来世および/もしくは死者の扱いに関する現代的概念の裏づけは、現在ほとんどありません。それにも関わらず、現生人類の文化間の証拠は、行動の欠如は必ずしもそうした行動のための能力が欠如していることを意味しない、と明確に強調します。高度な計画性と象徴性の証拠は32万年前頃までに、とくに10万年前頃以後のアフリカ東部および/南部に存在します(関連記事1および関連記事2)。

 32万年前頃までのMSAの開始(関連記事)以降の埋葬の欠如と、78000年前頃以後の稀な埋葬事例は、さまざまな要因のためかもしれません。それは、理解しにくい考古学的痕跡もしくは変化を残す文化的慣行や、15万~8万年前頃にアフリカ東部の遺跡で観察される、肉剥ぎと修正から遺体隠しと埋葬への変化などです。PYSの埋葬は、死者の土葬が最終間氷期にアフリカ内外の人口集団で共有されていた慣行であることを示します。

 78300年前頃のPYSの骨格遺骸は、アフリカにおける現生人類の進化への洞察という点で興味深いものです。ムトトの下顎および歯の評価は、現生人類への分類と一致しますが、他のほぼ同時代の人口集団との比較における一部の祖先的な歯の特徴から、現生人類は、細分されて地域的に異なる人口集団と、さまざまな古生態学的条件とで進化したかもしれない、と示唆されます。本論文は、現生人類の生物学的および社会文化的進化が複雑で地域的に多様な仮定だった、との提案を再確認します。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


人間行動学:アフリカの現生人類による最古の意図的埋葬

 ケニアの洞窟で発見された幼児の骨が約7万8300年前のものと推定され、これが意図的埋葬であり、アフリカの現生人類が埋葬目的で遺体を収容していたことを示す最古の証拠であることが明らかになった。今週、Nature に掲載されるこの発見は、アフリカの現生人類集団が死者をどのように処遇したのかを解明する新たな手掛かりとなる。

 現生人類の行動の進化に関する研究は、アフリカの中期石器時代(約28万0000~2万5000年前)に焦点に合わせたものが多いが、行動進化の重要な要素である正式な埋葬が、その時代のアフリカで行われたことを示す証拠は非常に少ない。今回María Martinón-Torresたちは、ケニアの海岸近くにあるパンガヤサイディ(Panga ya Saidi)と呼ばれる洞窟遺跡の中石器時代の地層から採集された2.5~3歳の幼児の部分的な骨格について記述しており、この骨格には、ホモ・サピエンスと同じ歯の特徴が認められた。

 Martinón-Torresたちは、この部分骨格を「ムトト(Mtoto)」(スワヒリ語で「子ども」を意味する)と命名し、約7万8300年前に埋葬されたと推定している。発見された骨の断片の配置からは、遺体の足が胸部まで引き上げられた状態で横向きに置かれていたことが分かった。ムトトが横たわっていた土坑は意図的に掘られたものとみられ、遺体は洞窟の地面から掘り取られた堆積物で覆われていた。これらの特徴は、遺体が堆積物で素早く覆われて、その場で分解したことを示す証拠とともに、意図的な埋葬であったことを示している。

 この証拠に加えて、以前の研究で中期石器時代に埋葬が行われていたとする仮説が提唱されたことから、アフリカの現生人類の埋葬行動が、少なくとも約12万年前頃から死者を居住地に埋葬するのが一般的だったネアンデルタール人やユーラシアの初期現生人類の埋葬行動とは異なっていたことが示唆されている。以上のMartinón-Torresたちの知見は、アフリカにおけるヒトの進化に関する新知見であるだけでなく、ヒトの進化の地域的多様性を明確に示している。


考古学:アフリカにおける既知最古のヒトの埋葬

Cover Story:アフリカにおける埋葬:アフリカでの現生人類の既知最古の埋葬を示す遺骨

 表紙は、約7万8000年前の幼児の部分骨格の再現図である。今回M Martinón-Torresたちは、ケニア沿海部のパンガヤサイディ(Panga ya Saidi)と呼ばれる洞窟遺跡でこの遺骨を発見し、それを調べた結果を報告している。発見されたのは、アフリカにおける現生人類の既知最古の意図的な埋葬である。ネアンデルタール人が死者を意図的に埋葬したことは知られているが、初期人類が埋葬を行った証拠はこれまでほとんどなかった。著者たちが「Mtoto(スワヒリ語で「子ども」の意)」と名付けたこの幼児は、3歳ほどで、脚を胸に引き寄せた形で横向きに寝かせられていた。Mtotoは、意図的に掘られたと思われる土坑に埋められており、洞窟の床から掘り出された土で覆われていた。この発見は、中期石器時代の人々が死者をどのように扱ったかについて新たな光を当てるものである。



参考文献:
Martinón-Torres M. et al.(2021): Earliest known human burial in Africa. Nature, 593, 7857, 95–100.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03457-8

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック