黒田基樹『戦国大名・伊勢宗瑞』
角川選書の一冊として、角川学芸出版より2019年8月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、一般的には北条早雲として知られている伊勢宗瑞の伝記です。宗瑞は一般的に、「一介の素浪人」から戦国大名に成り上がった下剋上の典型で、当時としては高齢になって武将としての本格的な活動を開始した、と長く語られてきました。そうした通俗的な宗瑞像は過去数十年の研究の進展により大きく修正され、一般にも浸透しつつあるように思います。宗瑞の出自とともに、応仁の乱後の関東と京都の政治情勢の解明が進み、宗瑞の行動を当時の政治状況に的確に位置づけることが可能となりました。本書は、こうした宗瑞に関する研究の進展を踏まえた伝記となります。
すでに江戸時代初期から宗瑞の出自には諸説ありましたが、近年の研究の進展により、備中伊勢氏庶流の伊勢盛定の次男である盛時と明らかになっています。伊勢氏本宗家は、代々室町幕府政所頭人(長官)を務める重臣の家柄でした。備中伊勢氏とはいっても、生活の拠点は京都で、盛時も京都で生まれ育ちました。盛定は本宗家の有力一族として各地の有力大名への取次を務め、その縁で盛時の姉(北川殿)が今川義忠の正妻となります。盛時が生まれたのは1456年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)で、以前の通説1432年とは親子ほどの違いがあります。
京都時代の盛時は幕府直臣で、少年の頃の細川政元とすでに接点がありました。幕府官僚として活動していた盛時にとって転機となったのは、1487年10月頃の駿河行きでした。前駿河守護今川義忠の正妻は盛時の姉である北川殿で、盛時は両者の息子である竜王丸(氏親)を家督につけようとしました。1476年、義忠は戦死し、義忠の従兄弟で年長の小鹿範満と竜王丸との間で内乱が勃発して、扇谷上杉が堀越公方の足利政知と連携して範満を支持します。上杉の軍事圧力に竜王丸は屈し、範満が今川家を継承します。しかし、北川殿は息子への家督継承を諦めず、1587年、扇谷上杉の内乱に乗じて、その姿勢を明確にします。竜王丸側と足利政知との連携もあって同年11月に範満は攻め滅ぼされ、竜王丸が今川当主となり、盛時は守護代的役割を担いますが、竜王丸の家臣になったのではなく、叔父としての立場からの「後見役」だった、と本書は評価します。
竜王丸の家督継承に成功した盛時は、遅くとも1491年5月までには京都に戻りますが、盛時が再度駿河に行ったのは、堀越公方家の内紛のためでした。堀越公方家茶々丸がクーデタを起こし、足利政知から盛時に与えられた所領も没収されたと考えられることから、盛時も利害関係者だったようです。堀越公方の茶々丸も絡んで、東国では15世紀末以降、山内と扇谷の両上杉の対立が続き、甲斐の武田も内紛からこの争いに関わっていきます。今川も武田の内紛に関わり、盛時は元服前の竜王丸に代わって軍を指揮しただろう、と本書は推測します。1493年、盛時は伊豆に侵攻し、茶々丸を攻めます。以前は、これを盛時による下剋上の典型とみなす見解が有力でしたが、現在では、京都の明応の政変と連動しており、新将軍の義澄および政変主謀者の細川政元の承認を得ていた、と考えられています。盛時は伊豆侵攻にさいして、茶々丸が山内上杉と結んでいたのに対抗し、扇谷上杉と連携します。この頃、盛時は出家して宗瑞と名乗っています。本書は、盛時が幕府直臣を辞めて今川家の一員になると表明するためだった、と推測しています。宗瑞が京都に戻らず駿河に留まった理由は、応仁の乱後、在所していない所領の支配が難しくなっていたからではないか、と本書は推測します。
伊豆に侵攻した宗瑞は、そのまま伊豆攻略に専念したわけではなく、今川軍の総大将として遠江にも侵攻しています。一方、宗瑞は1493年9月に山内上杉と対立する扇谷上杉への援軍にも赴いていますが、これは今川家の後見人としてではなく、独自の軍事行動だったようです。伊豆への侵攻を始めてから2年後の1495年、宗瑞は茶々丸を追い落とし、伊豆北部の領国化に成功し、この頃今川から与えられた駿河の所領と居城(石脇城)を今川に返還したようです。宗瑞は新たに伊豆の韮山城を拠点とします。これにより、宗瑞は今川家当主で甥の竜王丸の後見人でありながら、領主としては今川に依存するのではなく、自立していきます。本書はこの時点の宗瑞を国衆と位置づけています。この頃竜王丸は元服し(氏親)、名実ともに駿河国主となります。
宗瑞と茶々丸の戦いは、上述のように1495年に宗瑞が一旦は茶々丸を追い落とすものの、1497年には茶々丸から反撃を受けたように、宗瑞が順調に勢力を拡大したわけではありませんでした。しかし、1498年に宗瑞は茶々丸を自害に追い込み、堀越公方を滅亡させ、伊豆攻略を完了します。伊豆は宗瑞の領国とされ、これは、今川からの援軍があったにしても、基本的には宗瑞のほぼ独力により伊豆攻略が達成されたことに対する今川氏親の配慮だろう、と本書は推測します。これ以降、宗瑞は周囲の政治勢力から「豆州」と称され、将軍の足利義澄からも伊豆国主として扱われます。宗瑞の伊豆攻略は義澄の母と弟の敵討ちとしての性格もあり、宗瑞が義澄から伊豆を領国として認められたのはその功賞だろう、と本書は推測します。
宗瑞の伊豆支配では、村落を対象にして諸役が賦課されていました(村請)。村請こそが領域権力である大名・国衆の特徴です。宗瑞の戦国大名化とは、支配下の村落への村請の適用の展開だった、と理解されます。この過程で、宗瑞は寺社支配と家臣団編成も進めます。宗瑞は土豪を直臣化していき、それは戦国時代における戦争の展開に伴うものでした。また、戦国大名・国衆による家臣団統制の基本となる寄親・寄子制も採用されていきます。
宗瑞の関東への侵攻は1500年に始まります。宗瑞は相模西郡の軍事拠点だった小田原城を攻略し、相模西郡を領国化します。本書は、宗瑞の小田原城攻略が1500年6月4日の相模湾地震に乗じたものだった、と推測します。この宗瑞の事例もそうですが、戦国時代における領国拡大は、既存の戦国大名・国衆により形成されていた領国を、そのまま編成する形で展開される、と本書は指摘します。北条家の検地として最初に確認されるのは相模西郡で、1506年のことです。これは、戦国大名による検地として明確に確認される最初の事例と考えられています。
このように伊豆だけではなく相模西郡を領国化していった宗瑞ですが、1501年には今川氏親に従って遠江に軍を進めており、この時点ではあくまでも氏親の配下だったことを明確に示しています。東国の諸勢力の対立・連合関係の中で動いていた宗瑞にとって、この頃の主要な敵は山内上杉およびその同盟者の甲斐武田でした。宗瑞は扇谷上杉と連携して山内上杉領へと侵攻します。宗瑞が扇谷上杉および今川とともに山内上杉を破ったこともありましたが、山内上杉は越後からの援軍を得て、1505年には扇谷上杉を降伏に追い込みます。これにより、長きにわたった長享の乱は終結し、宗瑞は本来の役割である今川家の一門衆・後見人として三河へと侵攻します。宗瑞は今川氏親の名代として1508年にも三河に侵攻しましたが、結果的にこれが、宗瑞の今川軍としての最後の行動となります。ただ本書は、その後も宗瑞は今川の軍事行動に関与するつもりで、それが叶わなかったのは、関東での軍事的負担が増えたからだ、と指摘します。
長享の乱に伴って関東に侵出した宗瑞が関東の情勢に再度関わり、それにより今川家の一門衆・後見人として活動できなくなるのは、1506年に始まった永正の乱が契機でした。本書は、この頃には戦国大名・国衆の抗争が基軸化し、関東の古河公方や両上杉といった上位権力がその抗争状況に規定されていった、と指摘します。永正の乱において、宗瑞は1508年頃より長年盟約関係にあった扇谷上杉と敵対するようになり、和睦を挟みつつ、扇谷上杉領へと侵攻していきます。宗瑞と扇谷上杉との対立要因は、伊豆諸島支配をめぐってのことでした。宗瑞は和睦関係にあった山内上杉とも敵対するようになり、宗瑞の一族(後北条家)と両上杉との抗争という構図は、宗瑞没後も長きにわたって関東の政治情勢を規定することになります(関連記事)。両上杉を敵に回した宗瑞は、1510年には小田原城に攻め込まれるなど苦戦し、1511年11月までに扇谷上杉と和睦しています。この時点でも、宗瑞は今川家の一員との意識を強く持ち続けたようです。宗瑞は苦戦しつつも1515年には相模をほぼ支配下に置き、伊豆と相模を領国とする有力な戦国大名の一人となります。
相模をほぼ支配下に収めた宗瑞の次の標的は、扇谷上杉領の武蔵ではなく、上総でした。当時、上総では真里谷武田と下総の千葉の家臣である小弓原との抗争が展開されており、宗瑞は真里谷武田を支援して上総に侵攻しています。真里谷武田は宗瑞が当時敵対していた扇谷上杉の与党ですが、宗瑞は東京湾の海上権益の問題を最優先したのではないか、と本書は推測します。永正の乱は1518年に集結しますが、対立構造が解消されたわけではなく、足利義明が真里谷武田の要請により上総の小弓城に入り、小弓公方家が成立します。こうして関東では、古河公方家と小弓公方家との抗争という大きな政治的枠組みが成立します。宗瑞は真里谷武田と盟約関係にあり、その真里谷武田は扇谷上杉の与党でしたから、宗瑞と扇谷上杉は1519年7月までに和睦します。これにより、それまで駿河今川の一員だった宗瑞が明確に関東の政治秩序に組み込まれた、と本書は評価します。上述のように宗瑞自身は晩年まで今川家の一員との意識を強く持ち続けたようですが、すでに伊勢家(後北条家)と今川家は別の勢力に分かれつつあり、宗瑞の後継者である氏綱の代にそれが明確化します。それが可能だったのは、宗瑞が伊豆と相模を独力で領国化していたからだ、と本書は指摘します。
すでに宗瑞はその生涯の晩年を迎えていましたが、まだ内政面での改革を進めており、虎朱印状を創出します。印判が押捺されて出された文書は印判状と呼ばれ、この文章様式は、戦国大名が領国における公権力として存立していたことを象徴するものとして、これ以降と東国の諸大名にも普及していきます。宗瑞は印判状により、郡代・代官の家来による大名権力の命令以上の挑発を防ごうとします。それと関連して、宗瑞は村落へ直接的に文書を発給します。それまで、大名の発給文書には花押が据えられたものしかなく、大名が文書を出せる目下の者は対面性のある家臣に限定されていました。そうした書札礼における障壁を乗り越えて村落にも大名が文書を発給できるよう、花押ではなく印判を用いた新たな文書様式が創出されました。中世において根強く浸透していた身分差の障壁を、花押ではなく印判の使用により克服した、というわけです(関連記事)。本書はこうした宗瑞の政治改革を、飢饉対策として評価しています。
宗瑞は1519年4月28日から6月20日までの間に隠居したと推測され、嫡子の氏綱が伊勢家の新たな当主となります。宗瑞の死は隠居から間もなくの1519年8月15日でした。本書は、一般的には北条早雲として知られている伊勢宗瑞の伝記として現時点ではまず推奨されるだけの充実した内容になっていると思います。宗瑞が「一介の素浪人」ではなく「中央政界」の名家出身だったことは、すでに一般層にも浸透しつつあるように思いますが、本書はそれを一般向けに詳しく解説するとともに、下剋上の典型とされてきた宗瑞の行動が「中央政界」の意向と連動していたことを改めて示しており、私のような後北条家に詳しくない読者にとってたいへん有益だと思います。
すでに江戸時代初期から宗瑞の出自には諸説ありましたが、近年の研究の進展により、備中伊勢氏庶流の伊勢盛定の次男である盛時と明らかになっています。伊勢氏本宗家は、代々室町幕府政所頭人(長官)を務める重臣の家柄でした。備中伊勢氏とはいっても、生活の拠点は京都で、盛時も京都で生まれ育ちました。盛定は本宗家の有力一族として各地の有力大名への取次を務め、その縁で盛時の姉(北川殿)が今川義忠の正妻となります。盛時が生まれたのは1456年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)で、以前の通説1432年とは親子ほどの違いがあります。
京都時代の盛時は幕府直臣で、少年の頃の細川政元とすでに接点がありました。幕府官僚として活動していた盛時にとって転機となったのは、1487年10月頃の駿河行きでした。前駿河守護今川義忠の正妻は盛時の姉である北川殿で、盛時は両者の息子である竜王丸(氏親)を家督につけようとしました。1476年、義忠は戦死し、義忠の従兄弟で年長の小鹿範満と竜王丸との間で内乱が勃発して、扇谷上杉が堀越公方の足利政知と連携して範満を支持します。上杉の軍事圧力に竜王丸は屈し、範満が今川家を継承します。しかし、北川殿は息子への家督継承を諦めず、1587年、扇谷上杉の内乱に乗じて、その姿勢を明確にします。竜王丸側と足利政知との連携もあって同年11月に範満は攻め滅ぼされ、竜王丸が今川当主となり、盛時は守護代的役割を担いますが、竜王丸の家臣になったのではなく、叔父としての立場からの「後見役」だった、と本書は評価します。
竜王丸の家督継承に成功した盛時は、遅くとも1491年5月までには京都に戻りますが、盛時が再度駿河に行ったのは、堀越公方家の内紛のためでした。堀越公方家茶々丸がクーデタを起こし、足利政知から盛時に与えられた所領も没収されたと考えられることから、盛時も利害関係者だったようです。堀越公方の茶々丸も絡んで、東国では15世紀末以降、山内と扇谷の両上杉の対立が続き、甲斐の武田も内紛からこの争いに関わっていきます。今川も武田の内紛に関わり、盛時は元服前の竜王丸に代わって軍を指揮しただろう、と本書は推測します。1493年、盛時は伊豆に侵攻し、茶々丸を攻めます。以前は、これを盛時による下剋上の典型とみなす見解が有力でしたが、現在では、京都の明応の政変と連動しており、新将軍の義澄および政変主謀者の細川政元の承認を得ていた、と考えられています。盛時は伊豆侵攻にさいして、茶々丸が山内上杉と結んでいたのに対抗し、扇谷上杉と連携します。この頃、盛時は出家して宗瑞と名乗っています。本書は、盛時が幕府直臣を辞めて今川家の一員になると表明するためだった、と推測しています。宗瑞が京都に戻らず駿河に留まった理由は、応仁の乱後、在所していない所領の支配が難しくなっていたからではないか、と本書は推測します。
伊豆に侵攻した宗瑞は、そのまま伊豆攻略に専念したわけではなく、今川軍の総大将として遠江にも侵攻しています。一方、宗瑞は1493年9月に山内上杉と対立する扇谷上杉への援軍にも赴いていますが、これは今川家の後見人としてではなく、独自の軍事行動だったようです。伊豆への侵攻を始めてから2年後の1495年、宗瑞は茶々丸を追い落とし、伊豆北部の領国化に成功し、この頃今川から与えられた駿河の所領と居城(石脇城)を今川に返還したようです。宗瑞は新たに伊豆の韮山城を拠点とします。これにより、宗瑞は今川家当主で甥の竜王丸の後見人でありながら、領主としては今川に依存するのではなく、自立していきます。本書はこの時点の宗瑞を国衆と位置づけています。この頃竜王丸は元服し(氏親)、名実ともに駿河国主となります。
宗瑞と茶々丸の戦いは、上述のように1495年に宗瑞が一旦は茶々丸を追い落とすものの、1497年には茶々丸から反撃を受けたように、宗瑞が順調に勢力を拡大したわけではありませんでした。しかし、1498年に宗瑞は茶々丸を自害に追い込み、堀越公方を滅亡させ、伊豆攻略を完了します。伊豆は宗瑞の領国とされ、これは、今川からの援軍があったにしても、基本的には宗瑞のほぼ独力により伊豆攻略が達成されたことに対する今川氏親の配慮だろう、と本書は推測します。これ以降、宗瑞は周囲の政治勢力から「豆州」と称され、将軍の足利義澄からも伊豆国主として扱われます。宗瑞の伊豆攻略は義澄の母と弟の敵討ちとしての性格もあり、宗瑞が義澄から伊豆を領国として認められたのはその功賞だろう、と本書は推測します。
宗瑞の伊豆支配では、村落を対象にして諸役が賦課されていました(村請)。村請こそが領域権力である大名・国衆の特徴です。宗瑞の戦国大名化とは、支配下の村落への村請の適用の展開だった、と理解されます。この過程で、宗瑞は寺社支配と家臣団編成も進めます。宗瑞は土豪を直臣化していき、それは戦国時代における戦争の展開に伴うものでした。また、戦国大名・国衆による家臣団統制の基本となる寄親・寄子制も採用されていきます。
宗瑞の関東への侵攻は1500年に始まります。宗瑞は相模西郡の軍事拠点だった小田原城を攻略し、相模西郡を領国化します。本書は、宗瑞の小田原城攻略が1500年6月4日の相模湾地震に乗じたものだった、と推測します。この宗瑞の事例もそうですが、戦国時代における領国拡大は、既存の戦国大名・国衆により形成されていた領国を、そのまま編成する形で展開される、と本書は指摘します。北条家の検地として最初に確認されるのは相模西郡で、1506年のことです。これは、戦国大名による検地として明確に確認される最初の事例と考えられています。
このように伊豆だけではなく相模西郡を領国化していった宗瑞ですが、1501年には今川氏親に従って遠江に軍を進めており、この時点ではあくまでも氏親の配下だったことを明確に示しています。東国の諸勢力の対立・連合関係の中で動いていた宗瑞にとって、この頃の主要な敵は山内上杉およびその同盟者の甲斐武田でした。宗瑞は扇谷上杉と連携して山内上杉領へと侵攻します。宗瑞が扇谷上杉および今川とともに山内上杉を破ったこともありましたが、山内上杉は越後からの援軍を得て、1505年には扇谷上杉を降伏に追い込みます。これにより、長きにわたった長享の乱は終結し、宗瑞は本来の役割である今川家の一門衆・後見人として三河へと侵攻します。宗瑞は今川氏親の名代として1508年にも三河に侵攻しましたが、結果的にこれが、宗瑞の今川軍としての最後の行動となります。ただ本書は、その後も宗瑞は今川の軍事行動に関与するつもりで、それが叶わなかったのは、関東での軍事的負担が増えたからだ、と指摘します。
長享の乱に伴って関東に侵出した宗瑞が関東の情勢に再度関わり、それにより今川家の一門衆・後見人として活動できなくなるのは、1506年に始まった永正の乱が契機でした。本書は、この頃には戦国大名・国衆の抗争が基軸化し、関東の古河公方や両上杉といった上位権力がその抗争状況に規定されていった、と指摘します。永正の乱において、宗瑞は1508年頃より長年盟約関係にあった扇谷上杉と敵対するようになり、和睦を挟みつつ、扇谷上杉領へと侵攻していきます。宗瑞と扇谷上杉との対立要因は、伊豆諸島支配をめぐってのことでした。宗瑞は和睦関係にあった山内上杉とも敵対するようになり、宗瑞の一族(後北条家)と両上杉との抗争という構図は、宗瑞没後も長きにわたって関東の政治情勢を規定することになります(関連記事)。両上杉を敵に回した宗瑞は、1510年には小田原城に攻め込まれるなど苦戦し、1511年11月までに扇谷上杉と和睦しています。この時点でも、宗瑞は今川家の一員との意識を強く持ち続けたようです。宗瑞は苦戦しつつも1515年には相模をほぼ支配下に置き、伊豆と相模を領国とする有力な戦国大名の一人となります。
相模をほぼ支配下に収めた宗瑞の次の標的は、扇谷上杉領の武蔵ではなく、上総でした。当時、上総では真里谷武田と下総の千葉の家臣である小弓原との抗争が展開されており、宗瑞は真里谷武田を支援して上総に侵攻しています。真里谷武田は宗瑞が当時敵対していた扇谷上杉の与党ですが、宗瑞は東京湾の海上権益の問題を最優先したのではないか、と本書は推測します。永正の乱は1518年に集結しますが、対立構造が解消されたわけではなく、足利義明が真里谷武田の要請により上総の小弓城に入り、小弓公方家が成立します。こうして関東では、古河公方家と小弓公方家との抗争という大きな政治的枠組みが成立します。宗瑞は真里谷武田と盟約関係にあり、その真里谷武田は扇谷上杉の与党でしたから、宗瑞と扇谷上杉は1519年7月までに和睦します。これにより、それまで駿河今川の一員だった宗瑞が明確に関東の政治秩序に組み込まれた、と本書は評価します。上述のように宗瑞自身は晩年まで今川家の一員との意識を強く持ち続けたようですが、すでに伊勢家(後北条家)と今川家は別の勢力に分かれつつあり、宗瑞の後継者である氏綱の代にそれが明確化します。それが可能だったのは、宗瑞が伊豆と相模を独力で領国化していたからだ、と本書は指摘します。
すでに宗瑞はその生涯の晩年を迎えていましたが、まだ内政面での改革を進めており、虎朱印状を創出します。印判が押捺されて出された文書は印判状と呼ばれ、この文章様式は、戦国大名が領国における公権力として存立していたことを象徴するものとして、これ以降と東国の諸大名にも普及していきます。宗瑞は印判状により、郡代・代官の家来による大名権力の命令以上の挑発を防ごうとします。それと関連して、宗瑞は村落へ直接的に文書を発給します。それまで、大名の発給文書には花押が据えられたものしかなく、大名が文書を出せる目下の者は対面性のある家臣に限定されていました。そうした書札礼における障壁を乗り越えて村落にも大名が文書を発給できるよう、花押ではなく印判を用いた新たな文書様式が創出されました。中世において根強く浸透していた身分差の障壁を、花押ではなく印判の使用により克服した、というわけです(関連記事)。本書はこうした宗瑞の政治改革を、飢饉対策として評価しています。
宗瑞は1519年4月28日から6月20日までの間に隠居したと推測され、嫡子の氏綱が伊勢家の新たな当主となります。宗瑞の死は隠居から間もなくの1519年8月15日でした。本書は、一般的には北条早雲として知られている伊勢宗瑞の伝記として現時点ではまず推奨されるだけの充実した内容になっていると思います。宗瑞が「一介の素浪人」ではなく「中央政界」の名家出身だったことは、すでに一般層にも浸透しつつあるように思いますが、本書はそれを一般向けに詳しく解説するとともに、下剋上の典型とされてきた宗瑞の行動が「中央政界」の意向と連動していたことを改めて示しており、私のような後北条家に詳しくない読者にとってたいへん有益だと思います。
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