愛知県清須市朝日遺跡の弥生時代人骨のmtDNA分析
本論文(篠田他.,2021)は、「新学術領域研究(研究領域提案型)計画研究B01【調査研究活動報告2019年度(1)】考古学データによるヤポネシア人の歴史の解明」の研究成果の一環となります。朝日遺跡は東海地方西部を代表する弥生時代の遺跡で、長期にわたる発掘調査により、多数の遺物とともに人骨が出土しています。1970年代の発掘では、弥生時代中期~後期の人骨6体が見つかりました。その形質は古墳時代人骨と類似しているとされますが、少数例からの結論なので確実ではありません。1980年代の発掘調査でも人骨が見つかり、人骨は合計で23体となります。人骨の保存状態は個体によりさまざまで、中には詳しく形態の分かる個体もありますが、全体的な集団の特徴は明らかになっていません。
こうした形態学的研究に対して、1990年代以降は人骨のDNA分析も行なわれ、その血縁や系統に関する研究も進められてきました。DNAは遺伝物質そのものなので、そこから得られる情報はひじょうに精度が高い、と期待されます。しかし、技術的制約から、初期の古代人骨のDNA研究は核DNAよりも分析の容易なミトコンドリアDNA(mtDNA)の一部領域でした。しかし、2010年以降には、次世代シーケンサー(NGS)が古代DNA研究でも利用されるようになったことで、古代人骨の核DNAの分析も以前よりはるかに容易となりました。
これにより、弥生時代の人々のDNA研究も進められていますが、これまでは西日本に偏っていました。自然人類学では、在来の「縄文人」の世界に、弥生時代勝機にアジア東部大陸部から「渡来系弥生人」が水田稲作とともに日本列島に到来し、両者の混血により現代日本人が成立した、と考えられています。しかし、この「渡来系弥生人」の影響がどのように日本列島全体に及んだのか、まだ充分に把握できていません。朝日遺跡は稲作とともに拡散したと考えられている遠賀川系土器の出土範囲の東限に位置するので、朝日遺跡の人々の遺伝的特徴は、「縄文系」集団と「渡来系弥生人」との混合の様子の解明において重要となります。本論文は、朝日遺跡出土の弥生時代人骨のmtDNA分析結果を報告します。
分析された10個体のDNA保存状態は悪く、明確に確認された「弥生人」のDNAに基づいてmtDNAハプログループ(mtHg)が決定されたのは2個体のみで、12号がD4g1b、13号がB4c1a1a1aです。13号の放射性炭素年代は紀元前775~紀元前540年となり、弥生時代前期に相当します。一方、朝日遺跡は発掘初見では弥生時代中期中葉以降か、古墳時代の可能性も指摘されていました。朝日遺跡12号と13号のmtHgはどちらも「縄文人」では検出されておらず、基本的には弥生時代以降にアジア東部大陸部からもたらされた、と考えられます。朝日遺跡は典型的な「渡来系弥生人」の遺跡と考えられており、その意味ではmtDNAの解析結果は不思議ではありません。
これらの知見から、北部九州に到来した稲作農耕民が、人口を増やしながら東進した、と推測されます。しかし、mtDNAは母系遺伝なので、2個体だけでは明確な結論を提示できません。さらに、上述のように朝日遺跡出土人骨のDNA保存状態は悪いので、多くの個体からmtDNAを解析することは難しそうなので、混血の状況をよりよく理解するには、核DNA解析が重要となります。現代日本人における割合は、mtHg-D4g1が3.1%、mtHg-B4c1が3.8%で、どちらも中部地方でやや高い割合となっています。mtHg-D4g1およびB4c1は、弥生時代から中部地方でも比較的割合が高めだったかもしれません。
すでに愛知県田原市伊川津貝塚遺跡の出土人骨では「縄文人」の核DNAも解析されており(関連記事)、時空間的により広範囲の古代人の核DNA解析が進めば、中部地方の人類集団の遺伝的構成の経時的変化もよりよく理解されるようになるでしょう。朝日遺跡で一つ問題となるのは年代で、弥生時代中期中葉以降と想定されていたのに、放射性炭素年代では弥生時代前期と推定されていることで、これはアジア東部大陸部から日本列島に到来した稲作農耕民集団の東進速度とも関わってくるので、今後の研究の進展に注目しなければならないでしょう。伊川津貝塚遺跡の出土人骨の年代は紀元前500年頃ですが、同じ愛知県とはいっても、清須市は名古屋市よりも岐阜県寄りで、伊川津貝塚遺跡は渥美半島ですから、朝日遺跡が紀元前7世紀までさかのぼるとしても、伊川津貝塚遺跡ではまだ縄文時代が続いていたとして、不思議ではないように思います。ただ、愛知県の考古学には詳しくないので、的外れなことを言っているかもしれませんが。
参考文献:
篠田謙一、神澤秀明、角田恒雄、安達登(2021)「愛知県清須市朝日遺跡出土弥生人骨のミトコンドリアDNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P277-285
こうした形態学的研究に対して、1990年代以降は人骨のDNA分析も行なわれ、その血縁や系統に関する研究も進められてきました。DNAは遺伝物質そのものなので、そこから得られる情報はひじょうに精度が高い、と期待されます。しかし、技術的制約から、初期の古代人骨のDNA研究は核DNAよりも分析の容易なミトコンドリアDNA(mtDNA)の一部領域でした。しかし、2010年以降には、次世代シーケンサー(NGS)が古代DNA研究でも利用されるようになったことで、古代人骨の核DNAの分析も以前よりはるかに容易となりました。
これにより、弥生時代の人々のDNA研究も進められていますが、これまでは西日本に偏っていました。自然人類学では、在来の「縄文人」の世界に、弥生時代勝機にアジア東部大陸部から「渡来系弥生人」が水田稲作とともに日本列島に到来し、両者の混血により現代日本人が成立した、と考えられています。しかし、この「渡来系弥生人」の影響がどのように日本列島全体に及んだのか、まだ充分に把握できていません。朝日遺跡は稲作とともに拡散したと考えられている遠賀川系土器の出土範囲の東限に位置するので、朝日遺跡の人々の遺伝的特徴は、「縄文系」集団と「渡来系弥生人」との混合の様子の解明において重要となります。本論文は、朝日遺跡出土の弥生時代人骨のmtDNA分析結果を報告します。
分析された10個体のDNA保存状態は悪く、明確に確認された「弥生人」のDNAに基づいてmtDNAハプログループ(mtHg)が決定されたのは2個体のみで、12号がD4g1b、13号がB4c1a1a1aです。13号の放射性炭素年代は紀元前775~紀元前540年となり、弥生時代前期に相当します。一方、朝日遺跡は発掘初見では弥生時代中期中葉以降か、古墳時代の可能性も指摘されていました。朝日遺跡12号と13号のmtHgはどちらも「縄文人」では検出されておらず、基本的には弥生時代以降にアジア東部大陸部からもたらされた、と考えられます。朝日遺跡は典型的な「渡来系弥生人」の遺跡と考えられており、その意味ではmtDNAの解析結果は不思議ではありません。
これらの知見から、北部九州に到来した稲作農耕民が、人口を増やしながら東進した、と推測されます。しかし、mtDNAは母系遺伝なので、2個体だけでは明確な結論を提示できません。さらに、上述のように朝日遺跡出土人骨のDNA保存状態は悪いので、多くの個体からmtDNAを解析することは難しそうなので、混血の状況をよりよく理解するには、核DNA解析が重要となります。現代日本人における割合は、mtHg-D4g1が3.1%、mtHg-B4c1が3.8%で、どちらも中部地方でやや高い割合となっています。mtHg-D4g1およびB4c1は、弥生時代から中部地方でも比較的割合が高めだったかもしれません。
すでに愛知県田原市伊川津貝塚遺跡の出土人骨では「縄文人」の核DNAも解析されており(関連記事)、時空間的により広範囲の古代人の核DNA解析が進めば、中部地方の人類集団の遺伝的構成の経時的変化もよりよく理解されるようになるでしょう。朝日遺跡で一つ問題となるのは年代で、弥生時代中期中葉以降と想定されていたのに、放射性炭素年代では弥生時代前期と推定されていることで、これはアジア東部大陸部から日本列島に到来した稲作農耕民集団の東進速度とも関わってくるので、今後の研究の進展に注目しなければならないでしょう。伊川津貝塚遺跡の出土人骨の年代は紀元前500年頃ですが、同じ愛知県とはいっても、清須市は名古屋市よりも岐阜県寄りで、伊川津貝塚遺跡は渥美半島ですから、朝日遺跡が紀元前7世紀までさかのぼるとしても、伊川津貝塚遺跡ではまだ縄文時代が続いていたとして、不思議ではないように思います。ただ、愛知県の考古学には詳しくないので、的外れなことを言っているかもしれませんが。
参考文献:
篠田謙一、神澤秀明、角田恒雄、安達登(2021)「愛知県清須市朝日遺跡出土弥生人骨のミトコンドリアDNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P277-285
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