MIS5のチベット高原における人類の存在と石器
海洋酸素同位体ステージ(MIS)5のチベット高原における人類の存在と石器に関する研究(Cheng et al., 2021)が公表されました。高地(標高2500m以上)環境への適応成功は、人類の進化と拡散における重要な画期的事象です。高地の極端な環境、とくに低酸素症は、いくつかの形態の高山病を起こす可能性があります。医学的および生物人類学的研究では、高地適応には少なくとも、心血管機能や妊娠および胎児の成長や発達反応など、さまざまな生理的利便性が必要と示されています。
過去10年間の遺伝学的研究では、高地適応関連の遺伝子候補の特定で大きな進展があり、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)から現生人類(Homo sapiens)への高地適応関連遺伝子(EPAS1)も示唆されています(関連記事1および関連記事2)。最近の考古学的研究では、デニソワ人はすでに中期更新世後期~後期更新世前期にかけて低酸素環境の高地に居住していた、と示唆されています(関連記事1および関連記事2)。後期更新世後期までに、現生人類はチベット高原(関連記事)とアンデス高原(関連記事)とエチオピア高地(関連記事)という、地球上の高地3地域に居住していました。したがって、遺伝学的研究と考古学的研究は両方、高地環境への適応は長い進化史を有し、人類の進化に重要な役割を果たしたかもしれない、と示唆します。
チベット高原は地球上で最も高く最大の高原で、平均標高は海抜4000m以上で、面積は250万㎢です。チベット高原は先史時代人類の拡大に対する自然障壁で、海面より40%低い酸素濃度、強い紫外線、低い気温、低い生物生産性のため、極限環境への人類の適応を調べるのに理想的な地域です。考古学的研究では、チベット高原北東端となる中華人民共和国甘粛省甘南チベット族自治州夏河(Xiahe)県の白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave、BKC)には、人類が少なくとも19万年前頃には到達しており(関連記事)、内陸部の高地では尼阿底(Nwya Devu、ND)遺跡で4万~3万年前頃の人類の痕跡が確認され(関連記事)、海抜3000m以上の高地に人類が恒久的に居住するようになったのは、おもにコムギとオオムギの農耕により促進された中期~後期完新世だった、と示唆されています。
しかし、まだ信頼できる年代の旧石器時代遺跡が少ないので、さらに明確にする必要があります。現在、チベット高原で年代測定された旧石器時代遺跡は約20ヶ所のみで、そのほとんどは15000年前以降です。チベット高原の旧石器時代遺跡で最古となる白石崖溶洞と次に古い尼阿底との間には、年代では少なくとも2万年以上、地理的には約1300kmの間隙があり、過去2回の氷期と間氷期の周期におけるチベット高原での人類の居住の分布と密度と継続性について、疑問が提起されています。
本論文は、チベット高原北東端の祁連山脈(Qilian Mountains)の、北緯36度49分40.00秒、東経103度0分45.69秒、海抜2763mに位置する、甘粛省永登(Yongdeng)県の新たに発見された将軍府01(Jiangjunfu、JJF01)開地遺跡を報告します(図1A)。将軍府01遺跡の年代は、炭の加速器質量分析(AMS)放射性炭素年代測定と、2点の標本系列の堆積物の光学的年代測定の両方の適用により推定されました。石器と動物の骨が体系的に分析され、環境が再構築されました。本論文は、チベット高原の旧石器時代の人類の居住と、高地環境への人類の適応に関する新たな情報の提供を目的とします。以下は本論文の図1です。
●将軍府01遺跡
将軍府01遺跡は、標高は1600~3000mの黄土高原西部からチベット高原北東部への移行帯に位置します。この地域は現在、温暖な大陸性半乾燥気候で、アジア東部のモンスーンと偏西風の影響を受けます。平均年間気温は5.9℃、平均年間降水量は290mmで、降水量の大半は夏から初秋(6~9月)にかけてのものです。将軍府01遺跡は、庄浪河(Zhuanglang River)の小さな支流の西岸の第二段丘に位置する、黄土の露出に埋もれています(図2)。以下は本論文の図2です。
将軍府01遺跡は2015年の考古学的調査で発見され、近くの将軍府村にちなんで命名されました。将軍府01遺跡で露出した黄土と古土壌の厚さは約8mです。露出の底部近くで石器や動物の骨や炭が見つかりました。この露出で相互に約10m離れた2系列(系列1と系列2)が調査されました(図2)。2系列の層序はおおむね一致し、合計11の層序ユニットで構成されます(図3)。系列1ではユニット5および10が欠落しており、恐らくは斜面の侵食が原因です。考古学的遺物は古土壌層のユニット6~9に集中しています。ユニット6~9は一般的に薄く、一部が重なっており、石器技術と石材が同一なので、1つの文化層として扱われます。考古学的遺物のないユニット5を挟んでその上にユニット4が、さらにその上は厚さの異なる黄土・古土壌堆積物のユニット1~3で覆われています(図2Cおよび図3B)。以下は本論文の図3です。
2015年に、合計18点の石器と1点の礫と1点の岩片が文化層で収集されました。2018年には、合計101点の石器と13点の未加工の岩片が、おもに系列2の文化層で収集されました。文化層の石器密度は比較的高く、人工物の水平方向の分布が一般的ですが、垂直方向の分布はユニット6および8に比較的集中しています。動物の骨片は文化層で合計11点収集されました。AMS放射性炭素年代測定には、系列1のユニット8で収集された炭の標本が用いられ、光学的年代測定には10点の堆積物標本が用いられました。
合計119点の石器には、石核や剥片や破片や断塊や数点の道具が含まれます。これらの石器(図4)はおもに石英と珪岩の礫で作られ、その95%以上は真新しい刀を示しており、これらの石器が廃棄後に再加工もしくは再輸送されずに埋まったことを示唆します。いくつかの大きなものを除いて、ほとんどの人工物の最大長は5cm未満です。将軍府01遺跡の石器群は、とくに小さく丸みを帯びた団塊が用いられている場合、石英や珪岩によく適用される単純な石核・剥片インダストリーと一致します。人類の活動はユニット6~9で見られ、ユニット6と8で最高頻度となっています。以下は本論文の図4です。
文化層(ユニット6~9)で11点の動物の骨が収集され、草食動物の歯の断片1点と長骨幹部断片で構成されます(図6)。骨はすべて化石化が進んでおり、断片化されているので特定は困難です。しかし、緻密骨の厚さは、中型から大型の動物の存在を示唆します。骨はたいへん風化しており、ほとんどの表面はマンガンのため黒くなっています。四肢骨の破壊パターンは、その動物が死後間もない時におもに破壊されたことを示すので、人類が解体したかもしれません。将軍府01遺跡での人類の動物利用と行動に関するより詳細な洞察には、拡張されたより大規模な発掘と、より多くの動物化石の回収が必要です。以下は本論文の図6です。
放射性炭素年代測定の結果、炭の年代は放射性炭素年代測定法の限界を超え、4000年以上前と示唆されます。光学的年代測定結果は、2系列の文化層でひじょうによく一致します。光学年代は層序に従い、文化層と関連する6点の標本では12万~9万年前頃となり、海洋酸素同位体ステージ(MIS)5に相当します。考古資料が異なる層序ユニットで垂直に広がっていることから、文化層はMIS5において長期にわたったことが示唆されます。河川による浸食が原因で、文化層(ユニット6~9)とその上のユニット3との間には大きな層序間隙(約5万年)が観察されます(図3)。ユニット3の標本3点は、40000~35000年前と同様の光学年代を示し、ユニット2と3の境界の標本の年代は19700±1300年前です。最上部の古土壌からは標本が収集されませんでしたが、層序の連続から、完新世に形成された可能性が最も高い、と示唆されます。文化層はMIS5に相当し、アジア東部夏季モンスーンの強化とアジア東部冬季モンスーンの弱化に対応して温暖湿潤気候だった、と推測されます。
●考察
将軍府01遺跡は、チベット高原で最古の信頼できる年代測定がなされた開地旧石器時代遺跡を表し、堅牢な古環境背景が確認され、MIS5もしくは最終間氷期複合(MIS5e~MIS5a)に厳密に分類されます(図9Aおよび図10J)。以下は本論文の図9です。
将軍府01遺跡一帯のMIS5の気候条件は完新世と類似していた、と示唆されます。MIS5のチベット高原では、夏は比較的温暖で湿潤な気候で、完新世と類似した植生だったでしょう。チベット高原はMIS5には氷期と比較して、一般的に気温が高くて降水量が多く、植物は密集し、食資源はより多様だった可能性がひじょうに高いようです。さらに、チベット高原南方のより高く乾燥した内陸地域や、北方のきょくたんに乾燥した砂漠と比較して(図1B)、祁連山脈の適度に高い河川流域は、人類にとってより魅力的でした。これらの河川流域は、より居住性の高い間氷期には、チベット高原のより高い地域やより内陸の地域への拡散を促進したかもしれません。以下は本論文の図10です。
チベット高原の隆起が遅いにも関わらず、海抜2763mの将軍府01遺跡はすでに、人類の居住が記録されている時期には高地内に位置していました。医学的研究によると、健康な現代人が海抜2500m以上の地域に行くと、低酸素反応が起きる、と示されています。将軍府01遺跡における継続的な人類居住の証拠はありませんが、層序学的証拠と年代測定結果から、人類はこの地域をMIS5におそらく数万年の長期にわたった利用した、と示唆されます。人類は、将軍府01遺跡、さらにはもっと古い白石崖溶洞においてさえ、最終間氷期にチベット高原北東部で高地低酸素のストレスに曝されたかもしれません。これは、低酸素適応関連遺伝子(EPAS1)に対する選択圧上昇をもたらした可能性があります(関連記事)。過去の人口集団内のEPAS1遺伝子の漸進的な濃縮は、最終的には現代チベット人に見られる頻度に寄与したかもしれません。
白石崖溶洞で発見された下顎骨(関連記事)と堆積物のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析(関連記事)から中期~後期更新世のチベット高原におけるデニソワ人の存在が確認されており、本論文の知見と併せると、比較的低く穏やかなチベット高原北東部山岳地帯が、高地環境への人類の適応の初期段階で重要な役割を果たしたかもしれない、と示唆されます。しかし、これら高地への現在の遺伝的適応が、MIS4もしくは2のようなとくに寒冷で乾燥した期間に海抜3000m以下の適度に高いチベット高原の縁に留まる、人類の存在の継続的記録に起因するのか、それとも好適環境期における繰り返しの段階的な適応に由来するのか、不明です。
将軍府01遺跡で発掘された考古学的遺物も、チベット高原における現生人類よりも前の人類の石器技術への新たな洞察を提供します。石英と珪岩で作られた将軍府01遺跡石器群は、単純な石核・剥片技術を表します。これは、4万~3万年前頃に尼阿底遺跡で見られる、現生人類の所産と解釈されている石刃技術(関連記事)とは異なります。一方、単純な石核と剥片と掻器は、デニソワ人集団と関連する白石崖溶洞でも優占しており、白石崖溶洞と将軍府01遺跡との間の石器技術の類似性を示します。
しかし現時点では、厳密な年代と古環境と考古学的背景のあるチベット高原の伊勢は少なく、将軍府01遺跡の石器インダストリーの製作者の特定はできません。単純な石核・剥片インダストリーは、現在の中国北部ではほぼ200万年にわたって広く見られ(関連記事)、おそらくはホモ・エレクトス(Homo erectus)やデニソワ人や現生人類や他の未知の古代型ホモ属を含む複数の人類種により製作されました。そのため、特定の石器技術の製作者を識別するさいには、慎重に考えることが重要です。これは、将軍府01遺跡石器群がチベット高原北東部の地域的な高地間氷期環境での生活への課題と関連する適応に起因したかもしれない、という可能性によりさらに複雑です。将軍府01遺跡のさらなる研究は、アジア東部の人類進化研究に追加の光を当てる、と期待されます。
●まとめ
将軍府01遺跡には、光学的年代測定に基づくと12万~9万年前頃に人類が居住しており、最終間氷期複合(MIS5)に対応します。古環境の再構築から、人類の居住はより温暖な気候条件期間だった、と示唆されます。将軍府01遺跡石器群は硬い鎚の打撃と両極打撃により石英と珪岩から製作され、単純な石核・剥片インダストリーの特徴です。将軍府01遺跡の動物の骨はおもに長骨幹部断片で構成されており、ひじょうに化石化して断片化しています。
将軍府01遺跡は、チベット高原における先史時代人類の居住の新たな証拠と、現生人類よりも前の人類の技術的能力および適応への新たな洞察を提供します。本論文の知見から、比較的低く穏やかなチベット高原北東部山岳地帯は、高地環境への人類の適応の初期段階で重要な役割を果たし、さまざまな極限環境へのそうした適応が、最終的には人類集団の世界的な拡散を可能にした、と示唆します。チベット高原への人類の拡散年代や特定の生物学的および行動的適応を理解するには、将軍府01遺跡や白石崖溶洞のような遺跡からの石器と動物相と古環境の詳細な研究に加えて、継続的な調査と開地遺跡および洞窟遺跡の発掘と年代測定が必要です。
以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、将軍府01遺跡の12万~9万年前頃の石器群の製作者がどの人類系統なのか、慎重に断定を避けています。ただ、少なくともある程度は高地に適応していたと考えられることから、その製作者が広義のデニソワ人である可能性は高いと思います。極限環境に進出できた人類は現生人類だけだった、との見解も提示されていましたが(関連記事)、デニソワ人は一定以上高地環境に適応できていた可能性が高そうです。
将軍府01遺跡の12万~9万年前頃の石器群をデニソワ人が製作したとすると、近い年代の他のデニソワ人もしくはデニソワ人候補の人類所産の石器群との比較は興味深いと思います。河北省侯家窰遺跡の22万~16万年前頃のホモ属化石はデニソワ人の可能性があり、その石器群はヨーロッパの中部旧石器時代のムステリアン(Mousterian)の鋸歯縁石器様相と類似している、と指摘されています(関連記事)。シベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)では、デニソワ人は早期中部旧石器を製作していた、と示されています(関連記事)。
一方、将軍府01遺跡の12万~9万年前頃の石器群は単純な石核・剥片インダストリーですから、その製作者がデニソワ人だとすると、デニソワ人の石器は近い年代でも地域により大きく異なっていた可能性があります。これは、デニソワ洞窟や侯家窰遺跡のデニソワ人はユーラシア西部のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)からの文化的(および遺伝的)影響を受けていたのに対して、将軍府01遺跡の12万~9万年前頃のデニソワ人は比較的孤立しており、そうした影響を受けなかったか、過去に受けたとしても技術が失われていたか、環境に応じた選択だった、とも考えられます。
ただ、デニソワ洞窟ではネアンデルタール人が到来する以前から、デニソワ人は早期中部旧石器を製作していました。しかし、ネアンデルタール人がデニソワ洞窟を利用せずとも、アルタイ山脈にまで拡散していた可能性も考えられます。あるいは、将軍府01遺跡の12万~9万年前頃の人類は、ネアンデルタール人でもデニソワ人でもアジア東部のホモ・エレクトスの末裔でもない未知の非現生人類ホモ属(古代型ホモ属、絶滅ホモ属)だったかもしれません。将軍府01遺跡の12万~9万年前頃の石器群の製作者の特定には、近い年代と地域の遺跡のさらなる研究が必要になるでしょう。
参考文献:
Cheng T. et al.(2021): Hominin occupation of the Tibetan Plateau during the Last Interglacial Complex. Quaternary Science Reviews, 265, 107047.
https://doi.org/10.1016/j.quascirev.2021.107047
過去10年間の遺伝学的研究では、高地適応関連の遺伝子候補の特定で大きな進展があり、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)から現生人類(Homo sapiens)への高地適応関連遺伝子(EPAS1)も示唆されています(関連記事1および関連記事2)。最近の考古学的研究では、デニソワ人はすでに中期更新世後期~後期更新世前期にかけて低酸素環境の高地に居住していた、と示唆されています(関連記事1および関連記事2)。後期更新世後期までに、現生人類はチベット高原(関連記事)とアンデス高原(関連記事)とエチオピア高地(関連記事)という、地球上の高地3地域に居住していました。したがって、遺伝学的研究と考古学的研究は両方、高地環境への適応は長い進化史を有し、人類の進化に重要な役割を果たしたかもしれない、と示唆します。
チベット高原は地球上で最も高く最大の高原で、平均標高は海抜4000m以上で、面積は250万㎢です。チベット高原は先史時代人類の拡大に対する自然障壁で、海面より40%低い酸素濃度、強い紫外線、低い気温、低い生物生産性のため、極限環境への人類の適応を調べるのに理想的な地域です。考古学的研究では、チベット高原北東端となる中華人民共和国甘粛省甘南チベット族自治州夏河(Xiahe)県の白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave、BKC)には、人類が少なくとも19万年前頃には到達しており(関連記事)、内陸部の高地では尼阿底(Nwya Devu、ND)遺跡で4万~3万年前頃の人類の痕跡が確認され(関連記事)、海抜3000m以上の高地に人類が恒久的に居住するようになったのは、おもにコムギとオオムギの農耕により促進された中期~後期完新世だった、と示唆されています。
しかし、まだ信頼できる年代の旧石器時代遺跡が少ないので、さらに明確にする必要があります。現在、チベット高原で年代測定された旧石器時代遺跡は約20ヶ所のみで、そのほとんどは15000年前以降です。チベット高原の旧石器時代遺跡で最古となる白石崖溶洞と次に古い尼阿底との間には、年代では少なくとも2万年以上、地理的には約1300kmの間隙があり、過去2回の氷期と間氷期の周期におけるチベット高原での人類の居住の分布と密度と継続性について、疑問が提起されています。
本論文は、チベット高原北東端の祁連山脈(Qilian Mountains)の、北緯36度49分40.00秒、東経103度0分45.69秒、海抜2763mに位置する、甘粛省永登(Yongdeng)県の新たに発見された将軍府01(Jiangjunfu、JJF01)開地遺跡を報告します(図1A)。将軍府01遺跡の年代は、炭の加速器質量分析(AMS)放射性炭素年代測定と、2点の標本系列の堆積物の光学的年代測定の両方の適用により推定されました。石器と動物の骨が体系的に分析され、環境が再構築されました。本論文は、チベット高原の旧石器時代の人類の居住と、高地環境への人類の適応に関する新たな情報の提供を目的とします。以下は本論文の図1です。
●将軍府01遺跡
将軍府01遺跡は、標高は1600~3000mの黄土高原西部からチベット高原北東部への移行帯に位置します。この地域は現在、温暖な大陸性半乾燥気候で、アジア東部のモンスーンと偏西風の影響を受けます。平均年間気温は5.9℃、平均年間降水量は290mmで、降水量の大半は夏から初秋(6~9月)にかけてのものです。将軍府01遺跡は、庄浪河(Zhuanglang River)の小さな支流の西岸の第二段丘に位置する、黄土の露出に埋もれています(図2)。以下は本論文の図2です。
将軍府01遺跡は2015年の考古学的調査で発見され、近くの将軍府村にちなんで命名されました。将軍府01遺跡で露出した黄土と古土壌の厚さは約8mです。露出の底部近くで石器や動物の骨や炭が見つかりました。この露出で相互に約10m離れた2系列(系列1と系列2)が調査されました(図2)。2系列の層序はおおむね一致し、合計11の層序ユニットで構成されます(図3)。系列1ではユニット5および10が欠落しており、恐らくは斜面の侵食が原因です。考古学的遺物は古土壌層のユニット6~9に集中しています。ユニット6~9は一般的に薄く、一部が重なっており、石器技術と石材が同一なので、1つの文化層として扱われます。考古学的遺物のないユニット5を挟んでその上にユニット4が、さらにその上は厚さの異なる黄土・古土壌堆積物のユニット1~3で覆われています(図2Cおよび図3B)。以下は本論文の図3です。
2015年に、合計18点の石器と1点の礫と1点の岩片が文化層で収集されました。2018年には、合計101点の石器と13点の未加工の岩片が、おもに系列2の文化層で収集されました。文化層の石器密度は比較的高く、人工物の水平方向の分布が一般的ですが、垂直方向の分布はユニット6および8に比較的集中しています。動物の骨片は文化層で合計11点収集されました。AMS放射性炭素年代測定には、系列1のユニット8で収集された炭の標本が用いられ、光学的年代測定には10点の堆積物標本が用いられました。
合計119点の石器には、石核や剥片や破片や断塊や数点の道具が含まれます。これらの石器(図4)はおもに石英と珪岩の礫で作られ、その95%以上は真新しい刀を示しており、これらの石器が廃棄後に再加工もしくは再輸送されずに埋まったことを示唆します。いくつかの大きなものを除いて、ほとんどの人工物の最大長は5cm未満です。将軍府01遺跡の石器群は、とくに小さく丸みを帯びた団塊が用いられている場合、石英や珪岩によく適用される単純な石核・剥片インダストリーと一致します。人類の活動はユニット6~9で見られ、ユニット6と8で最高頻度となっています。以下は本論文の図4です。
文化層(ユニット6~9)で11点の動物の骨が収集され、草食動物の歯の断片1点と長骨幹部断片で構成されます(図6)。骨はすべて化石化が進んでおり、断片化されているので特定は困難です。しかし、緻密骨の厚さは、中型から大型の動物の存在を示唆します。骨はたいへん風化しており、ほとんどの表面はマンガンのため黒くなっています。四肢骨の破壊パターンは、その動物が死後間もない時におもに破壊されたことを示すので、人類が解体したかもしれません。将軍府01遺跡での人類の動物利用と行動に関するより詳細な洞察には、拡張されたより大規模な発掘と、より多くの動物化石の回収が必要です。以下は本論文の図6です。
放射性炭素年代測定の結果、炭の年代は放射性炭素年代測定法の限界を超え、4000年以上前と示唆されます。光学的年代測定結果は、2系列の文化層でひじょうによく一致します。光学年代は層序に従い、文化層と関連する6点の標本では12万~9万年前頃となり、海洋酸素同位体ステージ(MIS)5に相当します。考古資料が異なる層序ユニットで垂直に広がっていることから、文化層はMIS5において長期にわたったことが示唆されます。河川による浸食が原因で、文化層(ユニット6~9)とその上のユニット3との間には大きな層序間隙(約5万年)が観察されます(図3)。ユニット3の標本3点は、40000~35000年前と同様の光学年代を示し、ユニット2と3の境界の標本の年代は19700±1300年前です。最上部の古土壌からは標本が収集されませんでしたが、層序の連続から、完新世に形成された可能性が最も高い、と示唆されます。文化層はMIS5に相当し、アジア東部夏季モンスーンの強化とアジア東部冬季モンスーンの弱化に対応して温暖湿潤気候だった、と推測されます。
●考察
将軍府01遺跡は、チベット高原で最古の信頼できる年代測定がなされた開地旧石器時代遺跡を表し、堅牢な古環境背景が確認され、MIS5もしくは最終間氷期複合(MIS5e~MIS5a)に厳密に分類されます(図9Aおよび図10J)。以下は本論文の図9です。
将軍府01遺跡一帯のMIS5の気候条件は完新世と類似していた、と示唆されます。MIS5のチベット高原では、夏は比較的温暖で湿潤な気候で、完新世と類似した植生だったでしょう。チベット高原はMIS5には氷期と比較して、一般的に気温が高くて降水量が多く、植物は密集し、食資源はより多様だった可能性がひじょうに高いようです。さらに、チベット高原南方のより高く乾燥した内陸地域や、北方のきょくたんに乾燥した砂漠と比較して(図1B)、祁連山脈の適度に高い河川流域は、人類にとってより魅力的でした。これらの河川流域は、より居住性の高い間氷期には、チベット高原のより高い地域やより内陸の地域への拡散を促進したかもしれません。以下は本論文の図10です。
チベット高原の隆起が遅いにも関わらず、海抜2763mの将軍府01遺跡はすでに、人類の居住が記録されている時期には高地内に位置していました。医学的研究によると、健康な現代人が海抜2500m以上の地域に行くと、低酸素反応が起きる、と示されています。将軍府01遺跡における継続的な人類居住の証拠はありませんが、層序学的証拠と年代測定結果から、人類はこの地域をMIS5におそらく数万年の長期にわたった利用した、と示唆されます。人類は、将軍府01遺跡、さらにはもっと古い白石崖溶洞においてさえ、最終間氷期にチベット高原北東部で高地低酸素のストレスに曝されたかもしれません。これは、低酸素適応関連遺伝子(EPAS1)に対する選択圧上昇をもたらした可能性があります(関連記事)。過去の人口集団内のEPAS1遺伝子の漸進的な濃縮は、最終的には現代チベット人に見られる頻度に寄与したかもしれません。
白石崖溶洞で発見された下顎骨(関連記事)と堆積物のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析(関連記事)から中期~後期更新世のチベット高原におけるデニソワ人の存在が確認されており、本論文の知見と併せると、比較的低く穏やかなチベット高原北東部山岳地帯が、高地環境への人類の適応の初期段階で重要な役割を果たしたかもしれない、と示唆されます。しかし、これら高地への現在の遺伝的適応が、MIS4もしくは2のようなとくに寒冷で乾燥した期間に海抜3000m以下の適度に高いチベット高原の縁に留まる、人類の存在の継続的記録に起因するのか、それとも好適環境期における繰り返しの段階的な適応に由来するのか、不明です。
将軍府01遺跡で発掘された考古学的遺物も、チベット高原における現生人類よりも前の人類の石器技術への新たな洞察を提供します。石英と珪岩で作られた将軍府01遺跡石器群は、単純な石核・剥片技術を表します。これは、4万~3万年前頃に尼阿底遺跡で見られる、現生人類の所産と解釈されている石刃技術(関連記事)とは異なります。一方、単純な石核と剥片と掻器は、デニソワ人集団と関連する白石崖溶洞でも優占しており、白石崖溶洞と将軍府01遺跡との間の石器技術の類似性を示します。
しかし現時点では、厳密な年代と古環境と考古学的背景のあるチベット高原の伊勢は少なく、将軍府01遺跡の石器インダストリーの製作者の特定はできません。単純な石核・剥片インダストリーは、現在の中国北部ではほぼ200万年にわたって広く見られ(関連記事)、おそらくはホモ・エレクトス(Homo erectus)やデニソワ人や現生人類や他の未知の古代型ホモ属を含む複数の人類種により製作されました。そのため、特定の石器技術の製作者を識別するさいには、慎重に考えることが重要です。これは、将軍府01遺跡石器群がチベット高原北東部の地域的な高地間氷期環境での生活への課題と関連する適応に起因したかもしれない、という可能性によりさらに複雑です。将軍府01遺跡のさらなる研究は、アジア東部の人類進化研究に追加の光を当てる、と期待されます。
●まとめ
将軍府01遺跡には、光学的年代測定に基づくと12万~9万年前頃に人類が居住しており、最終間氷期複合(MIS5)に対応します。古環境の再構築から、人類の居住はより温暖な気候条件期間だった、と示唆されます。将軍府01遺跡石器群は硬い鎚の打撃と両極打撃により石英と珪岩から製作され、単純な石核・剥片インダストリーの特徴です。将軍府01遺跡の動物の骨はおもに長骨幹部断片で構成されており、ひじょうに化石化して断片化しています。
将軍府01遺跡は、チベット高原における先史時代人類の居住の新たな証拠と、現生人類よりも前の人類の技術的能力および適応への新たな洞察を提供します。本論文の知見から、比較的低く穏やかなチベット高原北東部山岳地帯は、高地環境への人類の適応の初期段階で重要な役割を果たし、さまざまな極限環境へのそうした適応が、最終的には人類集団の世界的な拡散を可能にした、と示唆します。チベット高原への人類の拡散年代や特定の生物学的および行動的適応を理解するには、将軍府01遺跡や白石崖溶洞のような遺跡からの石器と動物相と古環境の詳細な研究に加えて、継続的な調査と開地遺跡および洞窟遺跡の発掘と年代測定が必要です。
以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、将軍府01遺跡の12万~9万年前頃の石器群の製作者がどの人類系統なのか、慎重に断定を避けています。ただ、少なくともある程度は高地に適応していたと考えられることから、その製作者が広義のデニソワ人である可能性は高いと思います。極限環境に進出できた人類は現生人類だけだった、との見解も提示されていましたが(関連記事)、デニソワ人は一定以上高地環境に適応できていた可能性が高そうです。
将軍府01遺跡の12万~9万年前頃の石器群をデニソワ人が製作したとすると、近い年代の他のデニソワ人もしくはデニソワ人候補の人類所産の石器群との比較は興味深いと思います。河北省侯家窰遺跡の22万~16万年前頃のホモ属化石はデニソワ人の可能性があり、その石器群はヨーロッパの中部旧石器時代のムステリアン(Mousterian)の鋸歯縁石器様相と類似している、と指摘されています(関連記事)。シベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)では、デニソワ人は早期中部旧石器を製作していた、と示されています(関連記事)。
一方、将軍府01遺跡の12万~9万年前頃の石器群は単純な石核・剥片インダストリーですから、その製作者がデニソワ人だとすると、デニソワ人の石器は近い年代でも地域により大きく異なっていた可能性があります。これは、デニソワ洞窟や侯家窰遺跡のデニソワ人はユーラシア西部のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)からの文化的(および遺伝的)影響を受けていたのに対して、将軍府01遺跡の12万~9万年前頃のデニソワ人は比較的孤立しており、そうした影響を受けなかったか、過去に受けたとしても技術が失われていたか、環境に応じた選択だった、とも考えられます。
ただ、デニソワ洞窟ではネアンデルタール人が到来する以前から、デニソワ人は早期中部旧石器を製作していました。しかし、ネアンデルタール人がデニソワ洞窟を利用せずとも、アルタイ山脈にまで拡散していた可能性も考えられます。あるいは、将軍府01遺跡の12万~9万年前頃の人類は、ネアンデルタール人でもデニソワ人でもアジア東部のホモ・エレクトスの末裔でもない未知の非現生人類ホモ属(古代型ホモ属、絶滅ホモ属)だったかもしれません。将軍府01遺跡の12万~9万年前頃の石器群の製作者の特定には、近い年代と地域の遺跡のさらなる研究が必要になるでしょう。
参考文献:
Cheng T. et al.(2021): Hominin occupation of the Tibetan Plateau during the Last Interglacial Complex. Quaternary Science Reviews, 265, 107047.
https://doi.org/10.1016/j.quascirev.2021.107047
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