黒田基樹『羽柴家崩壊』
シリーズ「中世から近世へ」の一冊として、平凡社より2017年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、豊臣氏羽柴家の崩壊過程を、関ヶ原合戦後から片桐且元の大坂城退去まで、羽柴秀頼およびその生母の茶々と片桐且元との関係の視点から取り上げます。関ヶ原合戦後、秀頼はまだ幼く、茶々が「女主人」として羽柴家を率います。本書は、茶々が片桐且元を長きにわたって深く信用していた、と指摘します。その信頼関係が破綻したことで羽柴家は崩壊したわけですが、その過程の詳細な解明が本書の主題となります。
本書は3人の重要人物のうち茶々について、十代で親がいなくなったことを重視しています。茶々は羽柴秀吉に引き取られた当初より秀吉の妻に迎えられることが決まっており、実家の浅井家が幼少時に滅亡して父は死に、1583年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)には母もなくなり、親がいなくなった茶々は秀吉を頼るしかなくなった、という事情があったようです。本書は、茶々が妹の結婚を秀吉に働きかけるなど、凡庸な人物ではなかった、と評価します。片桐且元は秀吉存命時には近臣の一人といった立場でしたが、秀吉没後に秀頼重臣の一人に任命されます。
関ヶ原合戦後の政治情勢は微妙で、主家として羽柴家が存在している一方で、徳川家が「天下人」として政務を取り仕切っていました。そうした状況で政権財政と羽柴家の家政が明確に分離され、徳川の優位が強化されていくなか、関ヶ原合戦前から徳川家康と親しかった片桐且元は、羽柴家臣で家康と直接接触できる3人のうち1人となり、やがて唯一の人物となります。関白が五摂家に戻され、政権中心地が大坂から伏見へと移り、徳川家の政権掌握が進み、ついに家康は征夷大将軍に就任します。
羽柴家に対する徳川家の優位が確立していく中、秀頼の将来を不安に思ったのか、茶々は精神的に不安定になることもあったようです。本書は現存する茶々と且元とのやり取りの丁寧な分析から、上述のように親がいない茶々は、今や羽柴家重臣で家康との直接的つながりを有する唯一の人物となった且元を強く頼るようになった、と指摘します。また本書の指摘で興味深いのは、茶々は物事の判断を迅速にできる人物ではなかった、ということです。ただ本書は、秀吉存命時に茶々は政治に直接的に関わらず政治的経験が浅く、実家の後見も期待できなかった、という背景も指摘します。
羽柴家に対する優位を確立していった徳川家は、羽柴家を明確に服属させようとし、ずっと秀頼わずかに下の官位に留まっていた徳川秀忠は、1614年3月、ついに秀頼も上の位階に叙されます。本書は関ヶ原合戦から大坂の陣勃発までの羽柴家について、羽柴家は徳川家(江戸幕府)に明確に服属しておらず、単なる一大名ではなく、「公儀」の主宰者になり得る存在ではあったものの、「公儀」を構成する側でもない、政治的にはきわめて曖昧な存在だった、と評価します。本書はその曖昧さの由来は、羽柴家と諸大名との主従関係の継続だった、と指摘します。関ヶ原合戦後、諸大名は徳川家と主従関係を結んでいくようになりましたが、羽柴家との主従関係をすぐに切断したわけでもありませんでした。
この曖昧な羽柴家と徳川家との関係が大きく動いたのは、1614年に起きた方広寺鐘銘問題でした。家康から問題解決のために提示された三ヶ条を片桐且元が秀頼と茶々に申上したところ、秀頼と茶々は不快感を示し、且元を殺害しようという動きがあり、それを知らされた且元が家康の宿老である本多正純に、この間の経緯を書状で伝えます。且元は出仕を拒否し、屋敷に引き籠ります。これが契機となって大坂の陣が勃発し、羽柴家は滅亡に至ります。
この三条件とは、秀頼が諸大名と同じく江戸に居住するか、茶々が人質として江戸に出るか、羽柴家が大坂城を明け渡して他国に領地替えとなるか、というものでした。秀頼と茶々は、とても応じられないようなこれらの条件を提示するとは、且元は家康に寝返ったのではないかと疑います。ただ、羽柴家において且元と対抗関係にあった大野治長は且元を誅罰しようとしていたものの、秀頼がどう考えていたのか定かではない、と本書は指摘します。本書は、茶々の従兄弟の織田頼長が秀頼を追放しても幕府方と戦おうとしていたところから、秀頼は幕府との戦いに積極的ではなく、且元を誅殺しようとは考えていなかった可能性が高い、と推測します。
出仕拒否の且元に対して、茶々と秀頼は書状を送ります。茶々と秀頼は且元に、色々と噂があるが信頼していることを書状で伝え、茶々としては精一杯の誠意を示した、と本書は評価します。ただ本書は、且元とのやり取りの中で茶々の指示は家臣に忠実に実行されていたわけではなく、そこから茶々の政治的力量が窺える、とも指摘しています。結局、双方とも相手への警戒心から兵を引かず、ついに茶々は且元の処罰を決意します。それでも、茶々は片桐家を存続させようとしており、頼りにしていた且元の処罰に消極的だったのではないか、と推測しています。
且元の方も、茶々と秀頼に敵対する意図はなかったものの、茶々も秀頼も大野治長など且元を追い落とそうとする重臣を制御できなかったことから、ついに茶々・秀頼の母子と且元は決裂し、且元は大坂城から退去します。それでも羽柴家で絶大な影響力を有していた且元は、その力を茶々および秀頼との対決に用いるのではなく、逆に残務処理をして立ち去ります。この且元の退去に伴い、羽柴家を見限った重臣もおり、茶々と秀頼が家臣団を充分に統制できていなかった、と本書は指摘します。
徳川家との交渉中の且元を羽柴家が大坂城から追放した形になったことは、家康を激怒させました。徳川も羽柴もすぐに戦いになると判断し、戦備を整えます。ただ、羽柴家で徳川家との戦いを主導したのは、茶々と秀頼ではなく大野治長だろう、と本書は推測します。本書はこの茶々・秀頼と且元との対立は、羽柴家の将来をめぐる違いにあった、と本書は指摘します。羽柴家は明確に江戸幕府配下の一大名になることで安定的な存続が可能になる、と考えていた且元に対して、茶々と秀頼、とくに茶々は特殊な大名としての羽柴家に拘ったのではないか、と本書は推測します。また本書は、羽柴家において且元があまりにも大きな力を有していたことに対する反感もあったのではないか、と指摘します。本書は、羽柴家には且元以外に政治能力の充分な家臣はおらず、茶々も秀頼も政治経験が浅かったことに、羽柴家滅亡の要因を見ています。
本書は3人の重要人物のうち茶々について、十代で親がいなくなったことを重視しています。茶々は羽柴秀吉に引き取られた当初より秀吉の妻に迎えられることが決まっており、実家の浅井家が幼少時に滅亡して父は死に、1583年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)には母もなくなり、親がいなくなった茶々は秀吉を頼るしかなくなった、という事情があったようです。本書は、茶々が妹の結婚を秀吉に働きかけるなど、凡庸な人物ではなかった、と評価します。片桐且元は秀吉存命時には近臣の一人といった立場でしたが、秀吉没後に秀頼重臣の一人に任命されます。
関ヶ原合戦後の政治情勢は微妙で、主家として羽柴家が存在している一方で、徳川家が「天下人」として政務を取り仕切っていました。そうした状況で政権財政と羽柴家の家政が明確に分離され、徳川の優位が強化されていくなか、関ヶ原合戦前から徳川家康と親しかった片桐且元は、羽柴家臣で家康と直接接触できる3人のうち1人となり、やがて唯一の人物となります。関白が五摂家に戻され、政権中心地が大坂から伏見へと移り、徳川家の政権掌握が進み、ついに家康は征夷大将軍に就任します。
羽柴家に対する徳川家の優位が確立していく中、秀頼の将来を不安に思ったのか、茶々は精神的に不安定になることもあったようです。本書は現存する茶々と且元とのやり取りの丁寧な分析から、上述のように親がいない茶々は、今や羽柴家重臣で家康との直接的つながりを有する唯一の人物となった且元を強く頼るようになった、と指摘します。また本書の指摘で興味深いのは、茶々は物事の判断を迅速にできる人物ではなかった、ということです。ただ本書は、秀吉存命時に茶々は政治に直接的に関わらず政治的経験が浅く、実家の後見も期待できなかった、という背景も指摘します。
羽柴家に対する優位を確立していった徳川家は、羽柴家を明確に服属させようとし、ずっと秀頼わずかに下の官位に留まっていた徳川秀忠は、1614年3月、ついに秀頼も上の位階に叙されます。本書は関ヶ原合戦から大坂の陣勃発までの羽柴家について、羽柴家は徳川家(江戸幕府)に明確に服属しておらず、単なる一大名ではなく、「公儀」の主宰者になり得る存在ではあったものの、「公儀」を構成する側でもない、政治的にはきわめて曖昧な存在だった、と評価します。本書はその曖昧さの由来は、羽柴家と諸大名との主従関係の継続だった、と指摘します。関ヶ原合戦後、諸大名は徳川家と主従関係を結んでいくようになりましたが、羽柴家との主従関係をすぐに切断したわけでもありませんでした。
この曖昧な羽柴家と徳川家との関係が大きく動いたのは、1614年に起きた方広寺鐘銘問題でした。家康から問題解決のために提示された三ヶ条を片桐且元が秀頼と茶々に申上したところ、秀頼と茶々は不快感を示し、且元を殺害しようという動きがあり、それを知らされた且元が家康の宿老である本多正純に、この間の経緯を書状で伝えます。且元は出仕を拒否し、屋敷に引き籠ります。これが契機となって大坂の陣が勃発し、羽柴家は滅亡に至ります。
この三条件とは、秀頼が諸大名と同じく江戸に居住するか、茶々が人質として江戸に出るか、羽柴家が大坂城を明け渡して他国に領地替えとなるか、というものでした。秀頼と茶々は、とても応じられないようなこれらの条件を提示するとは、且元は家康に寝返ったのではないかと疑います。ただ、羽柴家において且元と対抗関係にあった大野治長は且元を誅罰しようとしていたものの、秀頼がどう考えていたのか定かではない、と本書は指摘します。本書は、茶々の従兄弟の織田頼長が秀頼を追放しても幕府方と戦おうとしていたところから、秀頼は幕府との戦いに積極的ではなく、且元を誅殺しようとは考えていなかった可能性が高い、と推測します。
出仕拒否の且元に対して、茶々と秀頼は書状を送ります。茶々と秀頼は且元に、色々と噂があるが信頼していることを書状で伝え、茶々としては精一杯の誠意を示した、と本書は評価します。ただ本書は、且元とのやり取りの中で茶々の指示は家臣に忠実に実行されていたわけではなく、そこから茶々の政治的力量が窺える、とも指摘しています。結局、双方とも相手への警戒心から兵を引かず、ついに茶々は且元の処罰を決意します。それでも、茶々は片桐家を存続させようとしており、頼りにしていた且元の処罰に消極的だったのではないか、と推測しています。
且元の方も、茶々と秀頼に敵対する意図はなかったものの、茶々も秀頼も大野治長など且元を追い落とそうとする重臣を制御できなかったことから、ついに茶々・秀頼の母子と且元は決裂し、且元は大坂城から退去します。それでも羽柴家で絶大な影響力を有していた且元は、その力を茶々および秀頼との対決に用いるのではなく、逆に残務処理をして立ち去ります。この且元の退去に伴い、羽柴家を見限った重臣もおり、茶々と秀頼が家臣団を充分に統制できていなかった、と本書は指摘します。
徳川家との交渉中の且元を羽柴家が大坂城から追放した形になったことは、家康を激怒させました。徳川も羽柴もすぐに戦いになると判断し、戦備を整えます。ただ、羽柴家で徳川家との戦いを主導したのは、茶々と秀頼ではなく大野治長だろう、と本書は推測します。本書はこの茶々・秀頼と且元との対立は、羽柴家の将来をめぐる違いにあった、と本書は指摘します。羽柴家は明確に江戸幕府配下の一大名になることで安定的な存続が可能になる、と考えていた且元に対して、茶々と秀頼、とくに茶々は特殊な大名としての羽柴家に拘ったのではないか、と本書は推測します。また本書は、羽柴家において且元があまりにも大きな力を有していたことに対する反感もあったのではないか、と指摘します。本書は、羽柴家には且元以外に政治能力の充分な家臣はおらず、茶々も秀頼も政治経験が浅かったことに、羽柴家滅亡の要因を見ています。
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