坂井孝一『源氏将軍断絶 なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか』

 PHP新書の一冊として、2020年12月にPHP研究所より刊行されました。本書は鎌倉幕府の初代から三代目までの源氏将軍を取り上げ、なぜ源氏将軍が三代で途絶えたのか、そもそも源氏将軍とは何だったのか、検証します。初代の源頼朝についてまず言えるのは、源氏における頼朝の卓越した地位は当初から確立していたのではなく、内乱を勝ち抜いた結果だった、ということです。とくに、奥州藤原氏を攻め滅ぼしたことは、源氏嫡流・武家の棟梁としての頼朝という意識の定着に大きな影響を及ぼしたようです。頼朝が征夷大将軍を熱望したものの後白河はそれを許さず、後白河没後に実現した、との以前の有力説は現在では否定されており、四通りの大将軍候補が朝廷で検証され、消極的に征夷大将軍が選ばれた、と指摘されています。

 こうして頼朝の権威は確立していきましたが、その地位が息子の頼家に継承されることは自明視されていなかったので、頼朝は巻狩などで頼家の権威を確立しようと試みた、と本書は指摘します。頼朝が弟の範頼や源氏の有力者などを粛清していったのも、そうした文脈で解されます。晩年の頼朝は娘の入内工作など朝廷とのさらなる関係強化に乗り出しますが、老獪な源通親に翻弄されます。本書はこれを、頼朝が頼家の地位を確たるものにしようと考えたからだろう、と指摘します。

 二代将軍の頼家は暗君と長く評価されてきましたが、20世紀後半以降、再評価されるようになりました。本書も、北条を賞揚する『吾妻鏡』の記事の偏向を指摘し、頼家暗君説の見直しを提言しています。頼家から実朝への継承に関して、本書は通俗的な歴史像とは異なる見解を提示しています。当時、北条は比企よりも勢力が劣っており、この一連の経緯は北条側のクーデタだった、というわけです。優勢だった比企が滅亡したのは油断があったからだろう、と本書は推測します。また本書はこの一連の経緯で、頼家が急に重篤になることと、そこから亡くならずに回復することを当時の要人は予測できなかった 、ということを重視しています。

 三代将軍の実朝は、武士の棟梁でありながら朝廷文化に傾倒した文弱な人物で、政治への意欲に欠けて政務も怠っており、ついには宋への逃亡も図ったが失敗した、というのが長く一般的な評価だったように思います。兄の頼家のような粗暴なところはないものの、暗君だった、というわけです。こうした実朝の評価は随分前から見直しが進んでおり、本書も、実朝の政務への関与と、叔父でもある配下の北条義時などの補佐があり、将軍と幕臣との協調的な政治が進められたことを指摘します。その実朝の短い生涯の晩年に問題となったのが、子のいない実朝の後継者でした。その解決策は、後鳥羽の皇子を将軍に迎え入れることでした。この構想は実朝が発案し、幕臣の北条義時も後鳥羽も強く指示していた、と本書は指摘します。

 この状況で、当時の要人のほとんどが予想できなかっただろう、実朝の殺害事件が起きます。実朝を殺害したのはその甥(頼家の息子)である公暁で、実朝に子供が生まれないなか、本来は頼家の嫡男のはずだった自分が将軍になろうとして、実朝を調伏していたのだろう、と本書は推測します。しかし、親王将軍と実朝の後見という構想を知った公暁は焦り、実朝を殺害したのではないか、というわけです。この実朝殺害事件に関しては、以前から黒幕をめぐる議論がありますが、本書は公暁の単独犯行と指摘します。

 実朝死後も幕府首脳は源氏の地に拘り、新たに将軍に迎えられたのは、両親がともに頼朝と血縁関係にある九条頼経で、妻には頼家の娘(竹御所)が迎えられました。しかし、両者の間に子供は生まれず、頼朝の子孫による源氏将軍の可能性は消滅します。ただ、その後も源氏将軍観は根強く生き続け、幕府第7代将軍の惟康親王は臣籍降下して源姓を賜与されます。本書は、「源氏将軍断絶」とは実朝殺害により起きた自明の事柄ではなく、実朝が生き続けて後鳥羽の皇子が将軍となることこそ、正真正銘の「源氏将軍断絶」だった、と指摘します。

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