黒田基樹『関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実』

 角川ソフィア文庫の一冊として、KADOKAWAから2017年1月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、織田信長と羽柴秀吉による天下一統路線を大前提とする通俗的な結果論的戦国時代認識に対して、関東における「関東の副将軍」たる上杉と「日本の副将軍たる」北条(後北条)との55年にわたる抗争に着目し、戦国時代の変化を把握します。信長や秀吉が台頭したのは戦国時代の最終盤なので、戦国時代の変化を把握するには他の事例が適している、というわけです。上杉は室町時代に関東管領を世襲し、戦国時代初期には、関東管領の山内上杉と、その一族で新たに台頭してきた扇谷上杉が有力でした。戦国時代前期の関東は、この両上杉を新興の北条が攻略していく過程として把握できます。

 1524年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)1月、北条氏綱は扇谷上杉の領国への本格的な侵攻を始めます。これ以降55年間、関東では上杉と北条という大きな枠組みで、講和期間を挟みつつ争乱が続きます。すでに北条はそれ以前に、相模や武蔵の両上杉の重臣を一部従属させていました。両上杉は3年ほど争っていましたが、この北条の侵攻の直前に講和します。扇谷上杉は、武田と結んで北条に対抗します。これに対して北条氏綱は、それまで敵対関係にあった古河公方と提携しようと試みますが上手くいかず、両上杉および武田と講和します。

 北条は両上杉や武田や小弓公方を敵に回してしまい、いわば北条包囲網が形成された状況となりました。北条は不利な条件での和睦などでこの苦境に対処します。その後、北条包囲網を担っていた山内上杉家や古河公方家で内乱が起き、さらに里見家起きた内乱に乗じることなどで北条は勢力を拡大していき、1535年には、しばらく劣勢だった扇谷上杉に対して攻勢に出ます。今川は1536年の内乱後、北条に断りなく武田と同盟を締結し、激怒した氏綱は今川との戦いに注力し、関東では劣勢になる局面も出てきました。

 しかし1538年、北条は第一次国府台合戦に勝ち、主要人物が揃って討ち死にした小弓公方家は事実上滅亡します。これにより関東足利唯一の正嫡となった古河公方家は北条氏綱を「関東管領職」に補任し、関東では山内上杉と北条が関東管領家として併存することになりました。北条の家格は大きく上昇し、関東の諸勢力からよそ者と非難されることもなくなりました。1541年、北条氏綱が死去し、氏康が家督を継承した時点で、北条は関東最大の大名となっていました。氏康は山内上杉を共通の敵としていた武田と、さらには両上杉対策で今川とも和睦し、駿河から撤退します。1546年、北条は河越合戦で両上杉に勝ち、扇谷上杉は事実上滅亡します。山内上杉も北条の攻勢に耐えられず、1552年、当主の憲政は長尾を頼って越後へと落ち延びます。氏康は甥(義氏)に古河公方の家督を継承させ、古河公方を源氏将軍、北条を執権に擬すことで、関東における政治的正統性の確立に務めます。また氏康は、武田・今川と婚姻関係の構築により攻守軍事同盟を締結します。

 こうして背後を固めた北条は上野に侵攻し、ほぼ領国化しますが、1560年、山内上杉を保護していた越後長尾の当主景虎(上杉謙信)が上野に侵攻してきて、これ以降の関東における北条と上杉との抗争は、北条氏康・氏政父子と謙信との戦いとして展開します。すでに関東に北条と対抗できる勢力はなく、関東の反北条勢力は外部勢力(越後長尾)を頼った、というわけです。本書は越後長尾の関東侵攻の背景として、東日本の広範な飢饉を指摘します。1561年、長尾景虎は山内上杉の名跡を継承し、関東では有力な関東管領が併存することになります。上杉も北条も、共に相手を旧名字で呼び(伊勢と長尾)、自身の正統性を主張しました。1567年まで、上杉は毎年関東に侵攻してきて、北条は同盟国の武田とともに上杉に対抗しました。このように、関東では北条・武田・上杉と有力大名間の抗争が続き、それが飢饉を悪化させた側面もあるようです。ただ本書は、こうした抗争が、大名の直接的支配領域の拡大ではなく、多分に国衆の動向をめぐるものだったことも指摘します。北条は上杉との戦いで苦境に立つ場面もありましたが、1567年には、その前年の関東における上杉の敗北から、関東の国衆の多くは北条に従属します。

 しかし、ここで関東の政治的枠組みに大きな変化が起きます。武田が東美濃で衝突した織田と、対斎藤目的で和睦し、これに今川氏真の妹を妻としていた武田信玄嫡男の義信が反発しました。信玄と義信の対立は、義信の廃嫡と自害に至り、これに反発した氏真は義信の妻だった妹を引き取り、北条にも内密に上杉と同盟を締結し、信濃への侵攻を要請します。こうして、北条と武田と今川の同盟は崩壊しました。この情勢激変に、北条は武田から支援を求められますが、北条は今川を支援し、武田と戦うことにします。氏康は強敵の武田と戦うに際して、上杉との同盟を画策します。この同盟交渉は国衆を通じて行なわれ、また国衆の帰属が交渉を難しくしました。本書は、戦国時代の戦いも和睦も、国衆の動向が大きな役割を果たした、と指摘します。北条は関東管領職の譲渡など大きく譲歩し、1569年、上杉と同盟を締結します。この北条の懸念は杞憂ではなく、武田軍は小田原まで侵攻してきました。北条と武田との戦いにおいて、上杉は北条が期待したような援軍を出さず、北条家中では上杉との同盟に疑問を抱く者が増え、氏康の死後、北条は武田との同盟を復活させ、上杉との同盟を破棄します。

 北条が武田と再度同盟し、上杉との同盟を解消したことで、関東では再び北条と上杉との抗争が始まります。上杉は謙信自身が出陣し、北条に対抗しますが、1560年代と比較して、関東での勢力は衰えていきました。一方北条は、長年敵対関係にあった里見を事実上降伏させるなど、じょじょに勢力を拡大していきます。1578年3月、謙信が急死し、上杉は内乱(越後御館の乱)が勃発したこともあり、以後は関東の政治秩序に介入することはありませんでした。こうして、55年の長きにわたった関東における北条と上杉の抗争は幕を閉じました。この後の関東では、諸勢力が織田や豊臣のような「中央政権」の介入を要請するようになり、新たな争乱の段階を迎えます。

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