アフリカ南部内陸部における中期石器時代の革新的行動
アフリカ南部内陸部における中期石器時代の革新的行動に関する研究(Wilkins et al., 2021)が公表されました。アフリカ南部沿岸地域における考古学的発見は、現生人類(Homo sapiens)を特徴づける複雑な象徴的および技術的行動の出現に関する知識を変えました。特定の種類の象徴的物資の製作と使用は10万年前頃までさかのぼり、南アフリカ共和国のブロンボス洞窟(Blombos Cave)における顔料処理道具一式と線刻のあるオーカー小瘤を含みます。同じ頃、南アフリカ共和国のピナクルポイント(Pinnacle Point)洞窟13B層とクラシーズ川(Klasies River)主遺跡のヒトは、斬新で非実用的な物(非食用海洋性貝)を集めており、おそらくは象徴的慣行の構成要素でした。
南アフリカ共和国西ケープ州のディープクルーフ岩陰(Diepkloof Rockshelter)遺跡(関連記事)では、装飾されたダチョウの卵殻(OES)の廃棄された断片が、ハウイソンズ・プールト(Howiesons-Poort)様式の人工物と関連して発見され、最初期の装飾されていないダチョウの卵殻の根名題は105000年前頃です。現在、アフリカ南部のこれらの遺跡は全て沿岸にありますが、過去には異なっていたでしょう。しかし、過去12万年間の最も極端な氷期においてさえ、海岸はこれらの遺跡から100km以上離れていませんでした。アフリカ南部の内陸部では、保存状態が良好で堅牢な年代の得られている層状遺跡は稀で、その結果、内陸部人口集団の役割を軽視する、沿岸部遺跡への強い偏りが生じます。
●GHN遺跡
ガモハナ丘(Ga-Mohana Hill)はカラハリ盆地南部にあり、南アフリカ共和国のクルマン(Kuruman)の北西12km、最も近い現代の海岸から665kmに位置します(図1b)。GHN(Ga-Mohana Hill North Rockshelter)遺跡は、2ヶ所の主要な岩陰といくつかの小さな張り出しのうち最大のもので、古原生代にさかのぼる苦灰石のガモハーン層(Gamohaan Formation)内に位置します。合計4.75㎡の3ヶ所の岩陰が発掘され、最大深度1.7mにまで達し、中期石器時代と後期石器時代の一連の層状堆積物が明らかになりました。
約10cmの緩い表面堆積物の下に、「暗褐色の砂利沈泥(シルト)」、「橙色の灰質沈泥」、「暗褐色の沈泥とルーフスポール(DBSR)」と呼ばれる3つの層序学的集合体が見つかりました。ルーフスポール(roofspall)とは、洞窟や岩陰の屋根や壁からの破片です。報告された出土品(2128個)の傾きと方向性は、これらの人工物がほぼ主要な文脈にあったことを示唆します。これら3層それぞれの石英単一粒光刺激ルミネッセンス法(OSL)年代測定の結果、暗褐色の砂利沈泥層は14800±800年前、橙色の灰質沈泥層は30900±1800年前、暗褐色の沈泥とルーフスポール(DBSR)は105300±3700年前との結果が得られました。
本論文は、これまでの発掘で最も深い堆積物となる、A地区のDBSRに焦点を当てます。DBSR表面から1.6m下の標本の追加のOSL年代は105600±6700年前で、これは以前の推定と一致しており、DBSRの年代の新たな加重平均は105200±3300年前です。DBSRの剥片石器群は中期石器時代石器群の典型で、石刃や尖頭器や調整石核により特徴づけられます。これらの石器群は、地元で入手可能な燵岩(42%)と凝灰岩(28%)と縞状鉄鉱石(26%)で製作されました。DBSRでは赤色オーカーの大きな断片も回収されました。これには2つの平らな表面の形で使用の証拠があり、そのうち一方には、浅い平行の条線がありました。以下は本論文の図1です。
●方解石結晶
DBSRでは22個の未加工の方解石結晶が発見されました。結晶は半透明の白い菱面体で、規則的で整った小面を有し、最大長は0.8~3.2cmです(図1a)。結晶は自然の過程により外部から堆積物にもたらされたわけではありません。DBSRの人工物は水平に積み重なった堆積物内に平らに置かれており、方向性はありません。石膏など続成作用のカルシウム鉱物は、骨の保存を破壊する微結晶集合体として考古学的堆積物に形成されますが、これらはDBSRの方解石結晶(大結晶であり、骨の保存を破壊しません)とは異なります。
DBSRの方解石結晶は岩陰の壁や天井には由来しません。刀身のある方解石結晶はガモハーン層では鉱脈として自然に発生しますが、それらは小さすぎて(最大長寸法0.5cm未満)形が不規則なので、考古学的結晶の供給源にはなりません。岩陰の壁もしくは天井、あるいはこの研究で集中的に調査されたガモハナ丘の地域内には、形の整った白い半透明の結晶は自然には存在しません。方解石結晶の供給源として可能性があるのはGHN遺跡の南東2.5kmに位置する低地の苦灰石の丘で、大きな菱面体の方解石結晶の形成と豊富な石英結晶が観察されました。これは結晶には地元の供給源があることを意味しますが、その自然的発生は稀です。
DBSRの方解石結晶はいずれも、意図的な加工の兆候を示しません。方解石はモース硬度3と柔らかく、貝殻様には割れないので、これらの結晶が石器の原料としてGHN遺跡に運ばれた可能性は低そうです。結晶の分布は限られており、大半は2ヶ所の区画(0.5㎡)で回収され、垂直方向の分布は15cm未満だったので、別々の貯蔵物として堆積された、と示唆されます。結晶のサイズは、上層の中期石器時代および後期石器時代層のものと類似しています。したがって、DBSRで発見された方解石結晶は、意図的に収集された非実用的な物体の小さな貯蔵物を表している、と考えられます。
結晶は中期石器時代アフリカ南部を含む世界中の多くの期間で、精神的信念や儀式と関連づけられてきました。結晶は、アフリカ南部の完新世および更新世の文脈で知られていますが、確実に8万年以上前の堆積物からの結晶群はまだ報告されていません。したがって、105000年前頃となるGHN遺跡における非実用的な物の収集は、アフリカ南部沿岸における非食用海産貝の収集慣行と同年代です。
●ヒトが収集したダチョウの卵殻
DBSRで42個のダチョウの卵殻(OES)が発見されました。OESを構成する断片は細かく、平均最大断片長は11.3mmです(5.3mm~25.7mm)。いくつかの証拠はOESの起源が人為的であることを裏づけます。第一に、断片は保存状態良好な岩陰遺跡内で発見され、他の多くのヒトの活動の痕跡と直接的に関連しています。第二に、OES断片は燃やされた証拠を示します。OES断片の80%以上に赤色が着いており、これは300~350℃の温度に曝されたことを反映しています。第三に、GHN遺跡における動物相遺骸の蓄積の主因はヒトで、ダチョウの卵を食べるハイエナや他の動物が存在した証拠はありません。
DBSRの動物考古学的資料の識別可能な断片は、有蹄類とカメの遺骸が優占します。化石生成論的分析は、人為的打撃痕と解体痕の高頻度を示し、動物標本のほとんどには中程度の燃焼の証拠があります。民族誌的観察では、OESは効率的な貯蔵容器の製作に用いることができる、と示唆されており、それは初期のヒトにとって重要な革新を表しています。なぜならば、そうした容器は水や他の資源の輸送と貯蔵に仕えるからです。OES容器の証拠は後期石器時代では一般的で、この技術はアフリカ南部沿岸の遺跡では長い年代を経ており、中期石器時代となる105000年前頃までさかのぼります。ヒトが収集したOES群はカラハリ砂漠の比較可能な文脈で報告されており(図2)、GHN遺跡におけるヒトが収集したOESの出現は沿岸部と同年代である、と示されます。以下は本論文の図2です。
●古環境的背景
ガモハナ丘の証拠は、本論文の調査結果の古環境的背景への重要な洞察を提供します。ガモハナ丘には石灰華の蓄積や水溜りや小滝や堰や角礫岩の堆積物が豊富にあり、過去には浅い水溜りや水の流れがあったことを示しています。小滝形成のいくつかの段階は、苦灰石に対してはその場、崩壊した塊としては外側と、GHN遺跡の両側で起きました(図3)。外側のコアからは5点のウラン・トリウム年代値が得られ、その年代範囲は113600~99700年前頃でした。この半連続的石灰華形成は、丘の中腹を流れる豊富な水を示唆します。これはカラハリ盆地の他の古気候記録と一致しており、マカディカディ(Makgadikgadi)盆地の巨大湖の高台の年代はOSLでは104600±3100年前で、カサパン6 (Kathu Pan 6)の堆積物は湿地環境と関連していると解釈されており、OSLでは100000±6000年前となります。以下は本論文の図3です。
現代の気候データは、気候変化の過去の潜在的推進要因について情報を提供します。現在、南方振動指数はガモハナ丘周辺の11月と5月の降水量と有意な正の相関を示しますが、それ以外の時期は異なります。インド洋の海面水温は、11月の降水量との有意な負の相関を除けば、ガモハナ丘周辺の降水量と有意には相関していません。インド洋の海洋コア堆積物に基づく海面水温の復元は、11万~10万年前頃の一対の二重極を示唆しており、これがアフリカ南部の対流性隆起に有利に作用したでしょう。しかし、二重極の程度は、降水量増加の唯一の原因となるほど極端ではないようです。したがって、降水量増加は単一の気候要因ではなく、インド洋南西部の海面水温の上昇と、強烈な負の南方振動指数の組み合わせにより降雨量が増加し、苦灰石岩盤の貯蔵能力とともに、景観上で恒久的な水がもたらされた、と考えられます。
●考察
現代的行動の現生人類の進化に関する単一起源沿岸モデルは、アフリカ内陸部の人口集団が主要な文化的革新の出現に殆どもしくは全く役割を果たさなかった、と仮定します。しかし、カラハリ盆地南部のGHN遺跡における堅牢な年代測定値のある中期石器時代堆積物の発掘により、そうした沿岸モデルと矛盾する証拠がもたらされました。沿岸部から離れた後期更新世遺跡が稀であることを考えると、このモデルは常に問題を抱えています。GHN遺跡での本論文の調査結果は、カラハリ砂漠における非実用的な物体の収集の証拠が105000年前頃までさかのぼるひとを示し、これは沿岸部の証拠と同年代です。GHN遺跡で新たに明らかになった行動的革新の記録は、カラハリ砂漠における降水量増加の期間と同年代で、空白で乾燥した内陸部という長年の見解と矛盾します。水の利用可能性の向上は、一次生産性の向上および人口密度増加と相関しており、それが革新的行動の起源と拡大に影響を及ぼしたかもしれません(関連記事)。
本論文で用いられた考古学的・年代測定的・古環境的手法は、カラハリ盆地および他の研究されていない地域でのさらなる調査の基礎を築きました。GHN遺跡の証拠は、現生人類特有の行動の出現が沿岸部の資源に依存していた、との仮定に疑問を提起します。代わりに、これらの現代的行動は、多様で離れた環境で共有されていたようで、技術的収斂もしくはアフリカ全域での相互接続された人口集団の拡大を通じての急速な社会的伝達を反映しているかもしれません。したがって、本論文の結果は、沿岸部環境に限定されず、カラハリ盆地南部を含む、現生人類出現の多極起源(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)への裏づけを追加します。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。
ヒトの進化:初期人類の行動を示す証拠が内陸部で見つかった
初期現生人類が複雑な行動を取っていたことを示す証拠が、アフリカ南部の内陸部で見つかったことを報告する論文が、Nature に掲載される。この知見は、ヒト(Homo sapiens)の複雑な行動が沿岸環境で出現したとする最も有力な見解に異議を唱えるものだ。
現生人類が黄土色の顔料、非食用貝の貝殻、装飾された人工遺物などの象徴的資源を使用していたことを示す証拠としてこれまでで最古のものは、アフリカのさまざまな沿岸域で出土し、12万5000~7万年前のものとされる。
今回、Jayne Wilkinsたちは、カラハリ砂漠南部の南アフリカ共和国内の海岸線から約600キロメートル内陸に位置するGa-Mohana Hill North岩窟住居遺跡で発見された約10万5000年前の考古学的遺物について報告している。出土した人工遺物の中には、意図的に収集されて持ち込まれたと考えられる方解石結晶が含まれていた。しかし、方解石結晶の実用上のはっきりとした目的は分からなかった。これに加えて、ダチョウの卵殻の破片も発見され、これは、水を貯蔵するために使われた容器の残骸である可能性がある。
カラハリ砂漠の数々の古代遺跡に関するこれまでの研究では、初期人類の存在が示されてきたが、実用的でない物の収集や容器の使用といった複雑なヒトの行動を示す証拠で、なおかつ年代がはっきり決定されているものについての報告はない。Wilkinsたちは、アフリカ南部の内陸部における現生人類の行動革新は、沿岸付近の人類集団の行動革新に後れを取っていなかったという考えを示している。
考古学:10万5000年前のホモ・サピエンスの、より湿潤だったカラハリ盆地における革新的な行動
考古学:初期の人類の行動を示す内陸部の証拠
現生人類に特徴的な行動に関する最初期の証拠は、アフリカの最南部の海岸洞窟から得られており、その年代は12万5000~7万年前と推定されている。しかし、アフリカ南部では内陸部の考古学的標本が極めて少ない。今回J Wilkinsたちは、カラハリ砂漠南部の岩窟住居(海岸から約600 km内陸に位置する)で発見された、約10万5000年前の考古学的資料について報告している。これらの資料には、別の場所から運ばれたに違いない方解石の結晶やダチョウの卵殻の破片が含まれていた。これは、他では海岸部の遺跡としか関連付けられていない人類の行動が、はるか内陸部でも存在したことを示している。
参考文献:
Wilkins J. et al.(2021): Innovative Homo sapiens behaviours 105,000 years ago in a wetter Kalahari. Nature, 592, 7853, 248–252.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03419-0
南アフリカ共和国西ケープ州のディープクルーフ岩陰(Diepkloof Rockshelter)遺跡(関連記事)では、装飾されたダチョウの卵殻(OES)の廃棄された断片が、ハウイソンズ・プールト(Howiesons-Poort)様式の人工物と関連して発見され、最初期の装飾されていないダチョウの卵殻の根名題は105000年前頃です。現在、アフリカ南部のこれらの遺跡は全て沿岸にありますが、過去には異なっていたでしょう。しかし、過去12万年間の最も極端な氷期においてさえ、海岸はこれらの遺跡から100km以上離れていませんでした。アフリカ南部の内陸部では、保存状態が良好で堅牢な年代の得られている層状遺跡は稀で、その結果、内陸部人口集団の役割を軽視する、沿岸部遺跡への強い偏りが生じます。
●GHN遺跡
ガモハナ丘(Ga-Mohana Hill)はカラハリ盆地南部にあり、南アフリカ共和国のクルマン(Kuruman)の北西12km、最も近い現代の海岸から665kmに位置します(図1b)。GHN(Ga-Mohana Hill North Rockshelter)遺跡は、2ヶ所の主要な岩陰といくつかの小さな張り出しのうち最大のもので、古原生代にさかのぼる苦灰石のガモハーン層(Gamohaan Formation)内に位置します。合計4.75㎡の3ヶ所の岩陰が発掘され、最大深度1.7mにまで達し、中期石器時代と後期石器時代の一連の層状堆積物が明らかになりました。
約10cmの緩い表面堆積物の下に、「暗褐色の砂利沈泥(シルト)」、「橙色の灰質沈泥」、「暗褐色の沈泥とルーフスポール(DBSR)」と呼ばれる3つの層序学的集合体が見つかりました。ルーフスポール(roofspall)とは、洞窟や岩陰の屋根や壁からの破片です。報告された出土品(2128個)の傾きと方向性は、これらの人工物がほぼ主要な文脈にあったことを示唆します。これら3層それぞれの石英単一粒光刺激ルミネッセンス法(OSL)年代測定の結果、暗褐色の砂利沈泥層は14800±800年前、橙色の灰質沈泥層は30900±1800年前、暗褐色の沈泥とルーフスポール(DBSR)は105300±3700年前との結果が得られました。
本論文は、これまでの発掘で最も深い堆積物となる、A地区のDBSRに焦点を当てます。DBSR表面から1.6m下の標本の追加のOSL年代は105600±6700年前で、これは以前の推定と一致しており、DBSRの年代の新たな加重平均は105200±3300年前です。DBSRの剥片石器群は中期石器時代石器群の典型で、石刃や尖頭器や調整石核により特徴づけられます。これらの石器群は、地元で入手可能な燵岩(42%)と凝灰岩(28%)と縞状鉄鉱石(26%)で製作されました。DBSRでは赤色オーカーの大きな断片も回収されました。これには2つの平らな表面の形で使用の証拠があり、そのうち一方には、浅い平行の条線がありました。以下は本論文の図1です。
●方解石結晶
DBSRでは22個の未加工の方解石結晶が発見されました。結晶は半透明の白い菱面体で、規則的で整った小面を有し、最大長は0.8~3.2cmです(図1a)。結晶は自然の過程により外部から堆積物にもたらされたわけではありません。DBSRの人工物は水平に積み重なった堆積物内に平らに置かれており、方向性はありません。石膏など続成作用のカルシウム鉱物は、骨の保存を破壊する微結晶集合体として考古学的堆積物に形成されますが、これらはDBSRの方解石結晶(大結晶であり、骨の保存を破壊しません)とは異なります。
DBSRの方解石結晶は岩陰の壁や天井には由来しません。刀身のある方解石結晶はガモハーン層では鉱脈として自然に発生しますが、それらは小さすぎて(最大長寸法0.5cm未満)形が不規則なので、考古学的結晶の供給源にはなりません。岩陰の壁もしくは天井、あるいはこの研究で集中的に調査されたガモハナ丘の地域内には、形の整った白い半透明の結晶は自然には存在しません。方解石結晶の供給源として可能性があるのはGHN遺跡の南東2.5kmに位置する低地の苦灰石の丘で、大きな菱面体の方解石結晶の形成と豊富な石英結晶が観察されました。これは結晶には地元の供給源があることを意味しますが、その自然的発生は稀です。
DBSRの方解石結晶はいずれも、意図的な加工の兆候を示しません。方解石はモース硬度3と柔らかく、貝殻様には割れないので、これらの結晶が石器の原料としてGHN遺跡に運ばれた可能性は低そうです。結晶の分布は限られており、大半は2ヶ所の区画(0.5㎡)で回収され、垂直方向の分布は15cm未満だったので、別々の貯蔵物として堆積された、と示唆されます。結晶のサイズは、上層の中期石器時代および後期石器時代層のものと類似しています。したがって、DBSRで発見された方解石結晶は、意図的に収集された非実用的な物体の小さな貯蔵物を表している、と考えられます。
結晶は中期石器時代アフリカ南部を含む世界中の多くの期間で、精神的信念や儀式と関連づけられてきました。結晶は、アフリカ南部の完新世および更新世の文脈で知られていますが、確実に8万年以上前の堆積物からの結晶群はまだ報告されていません。したがって、105000年前頃となるGHN遺跡における非実用的な物の収集は、アフリカ南部沿岸における非食用海産貝の収集慣行と同年代です。
●ヒトが収集したダチョウの卵殻
DBSRで42個のダチョウの卵殻(OES)が発見されました。OESを構成する断片は細かく、平均最大断片長は11.3mmです(5.3mm~25.7mm)。いくつかの証拠はOESの起源が人為的であることを裏づけます。第一に、断片は保存状態良好な岩陰遺跡内で発見され、他の多くのヒトの活動の痕跡と直接的に関連しています。第二に、OES断片は燃やされた証拠を示します。OES断片の80%以上に赤色が着いており、これは300~350℃の温度に曝されたことを反映しています。第三に、GHN遺跡における動物相遺骸の蓄積の主因はヒトで、ダチョウの卵を食べるハイエナや他の動物が存在した証拠はありません。
DBSRの動物考古学的資料の識別可能な断片は、有蹄類とカメの遺骸が優占します。化石生成論的分析は、人為的打撃痕と解体痕の高頻度を示し、動物標本のほとんどには中程度の燃焼の証拠があります。民族誌的観察では、OESは効率的な貯蔵容器の製作に用いることができる、と示唆されており、それは初期のヒトにとって重要な革新を表しています。なぜならば、そうした容器は水や他の資源の輸送と貯蔵に仕えるからです。OES容器の証拠は後期石器時代では一般的で、この技術はアフリカ南部沿岸の遺跡では長い年代を経ており、中期石器時代となる105000年前頃までさかのぼります。ヒトが収集したOES群はカラハリ砂漠の比較可能な文脈で報告されており(図2)、GHN遺跡におけるヒトが収集したOESの出現は沿岸部と同年代である、と示されます。以下は本論文の図2です。
●古環境的背景
ガモハナ丘の証拠は、本論文の調査結果の古環境的背景への重要な洞察を提供します。ガモハナ丘には石灰華の蓄積や水溜りや小滝や堰や角礫岩の堆積物が豊富にあり、過去には浅い水溜りや水の流れがあったことを示しています。小滝形成のいくつかの段階は、苦灰石に対してはその場、崩壊した塊としては外側と、GHN遺跡の両側で起きました(図3)。外側のコアからは5点のウラン・トリウム年代値が得られ、その年代範囲は113600~99700年前頃でした。この半連続的石灰華形成は、丘の中腹を流れる豊富な水を示唆します。これはカラハリ盆地の他の古気候記録と一致しており、マカディカディ(Makgadikgadi)盆地の巨大湖の高台の年代はOSLでは104600±3100年前で、カサパン6 (Kathu Pan 6)の堆積物は湿地環境と関連していると解釈されており、OSLでは100000±6000年前となります。以下は本論文の図3です。
現代の気候データは、気候変化の過去の潜在的推進要因について情報を提供します。現在、南方振動指数はガモハナ丘周辺の11月と5月の降水量と有意な正の相関を示しますが、それ以外の時期は異なります。インド洋の海面水温は、11月の降水量との有意な負の相関を除けば、ガモハナ丘周辺の降水量と有意には相関していません。インド洋の海洋コア堆積物に基づく海面水温の復元は、11万~10万年前頃の一対の二重極を示唆しており、これがアフリカ南部の対流性隆起に有利に作用したでしょう。しかし、二重極の程度は、降水量増加の唯一の原因となるほど極端ではないようです。したがって、降水量増加は単一の気候要因ではなく、インド洋南西部の海面水温の上昇と、強烈な負の南方振動指数の組み合わせにより降雨量が増加し、苦灰石岩盤の貯蔵能力とともに、景観上で恒久的な水がもたらされた、と考えられます。
●考察
現代的行動の現生人類の進化に関する単一起源沿岸モデルは、アフリカ内陸部の人口集団が主要な文化的革新の出現に殆どもしくは全く役割を果たさなかった、と仮定します。しかし、カラハリ盆地南部のGHN遺跡における堅牢な年代測定値のある中期石器時代堆積物の発掘により、そうした沿岸モデルと矛盾する証拠がもたらされました。沿岸部から離れた後期更新世遺跡が稀であることを考えると、このモデルは常に問題を抱えています。GHN遺跡での本論文の調査結果は、カラハリ砂漠における非実用的な物体の収集の証拠が105000年前頃までさかのぼるひとを示し、これは沿岸部の証拠と同年代です。GHN遺跡で新たに明らかになった行動的革新の記録は、カラハリ砂漠における降水量増加の期間と同年代で、空白で乾燥した内陸部という長年の見解と矛盾します。水の利用可能性の向上は、一次生産性の向上および人口密度増加と相関しており、それが革新的行動の起源と拡大に影響を及ぼしたかもしれません(関連記事)。
本論文で用いられた考古学的・年代測定的・古環境的手法は、カラハリ盆地および他の研究されていない地域でのさらなる調査の基礎を築きました。GHN遺跡の証拠は、現生人類特有の行動の出現が沿岸部の資源に依存していた、との仮定に疑問を提起します。代わりに、これらの現代的行動は、多様で離れた環境で共有されていたようで、技術的収斂もしくはアフリカ全域での相互接続された人口集団の拡大を通じての急速な社会的伝達を反映しているかもしれません。したがって、本論文の結果は、沿岸部環境に限定されず、カラハリ盆地南部を含む、現生人類出現の多極起源(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)への裏づけを追加します。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。
ヒトの進化:初期人類の行動を示す証拠が内陸部で見つかった
初期現生人類が複雑な行動を取っていたことを示す証拠が、アフリカ南部の内陸部で見つかったことを報告する論文が、Nature に掲載される。この知見は、ヒト(Homo sapiens)の複雑な行動が沿岸環境で出現したとする最も有力な見解に異議を唱えるものだ。
現生人類が黄土色の顔料、非食用貝の貝殻、装飾された人工遺物などの象徴的資源を使用していたことを示す証拠としてこれまでで最古のものは、アフリカのさまざまな沿岸域で出土し、12万5000~7万年前のものとされる。
今回、Jayne Wilkinsたちは、カラハリ砂漠南部の南アフリカ共和国内の海岸線から約600キロメートル内陸に位置するGa-Mohana Hill North岩窟住居遺跡で発見された約10万5000年前の考古学的遺物について報告している。出土した人工遺物の中には、意図的に収集されて持ち込まれたと考えられる方解石結晶が含まれていた。しかし、方解石結晶の実用上のはっきりとした目的は分からなかった。これに加えて、ダチョウの卵殻の破片も発見され、これは、水を貯蔵するために使われた容器の残骸である可能性がある。
カラハリ砂漠の数々の古代遺跡に関するこれまでの研究では、初期人類の存在が示されてきたが、実用的でない物の収集や容器の使用といった複雑なヒトの行動を示す証拠で、なおかつ年代がはっきり決定されているものについての報告はない。Wilkinsたちは、アフリカ南部の内陸部における現生人類の行動革新は、沿岸付近の人類集団の行動革新に後れを取っていなかったという考えを示している。
考古学:10万5000年前のホモ・サピエンスの、より湿潤だったカラハリ盆地における革新的な行動
考古学:初期の人類の行動を示す内陸部の証拠
現生人類に特徴的な行動に関する最初期の証拠は、アフリカの最南部の海岸洞窟から得られており、その年代は12万5000~7万年前と推定されている。しかし、アフリカ南部では内陸部の考古学的標本が極めて少ない。今回J Wilkinsたちは、カラハリ砂漠南部の岩窟住居(海岸から約600 km内陸に位置する)で発見された、約10万5000年前の考古学的資料について報告している。これらの資料には、別の場所から運ばれたに違いない方解石の結晶やダチョウの卵殻の破片が含まれていた。これは、他では海岸部の遺跡としか関連付けられていない人類の行動が、はるか内陸部でも存在したことを示している。
参考文献:
Wilkins J. et al.(2021): Innovative Homo sapiens behaviours 105,000 years ago in a wetter Kalahari. Nature, 592, 7853, 248–252.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03419-0
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