大河ドラマ『麒麟がくる』全体的な感想
本作は、重要人物である帰蝶役の沢尻エリカ氏が逮捕されて川口春奈氏が代役として起用され、撮り直しとなったため放送開始が遅れた上に、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)による新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のため収録が中断され、最終回が年明けにずれ込むなど、何とも不運な作品でした。本作は、織田信長・羽柴秀吉・徳川家康という三傑が重要人物として登場する、ひじょうに人気の高い時代を扱うだけに、期待値が高かったと思いますが、このような不運に見舞われたのは残念でした。
本作に期待していた大河ドラマ愛好者は多かったでしょうが、主人公である明智光秀の事績が比較的よく分かっている足利義昭上洛以降は駆け足気味で、この点に不満を抱いた視聴者は多かったかもしれません。全44回で、義昭の上洛が第27回終盤、義昭の都からの追放が第37回でしたから、光秀の大きな功績のうちの一つである丹波攻略もほとんど描かれませんでした。これは、斎藤道三(利政)の死が第17回だったように、ほとんど不明な光秀の前半生に時間をかけたからです。本作では、光秀1528年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)誕生説を採用しており、1556年はちょうど光秀の人生で半ばの頃となりますが、本作は1547年から始まっているので、1564~1565年が中間となり、第22回~第24回に相当します。その意味で、本作の時間配分は「均等」とも言えます。問題は、ほとんど不明な前半生にも「均等」に時間を配分したことで光秀と主題をよりよく描けたのか、ということです。
この点に関して、当初は室町幕府将軍、途中から終盤に入った頃までは信長を頂点とする武家の秩序回復、つまり「麒麟がくる」こと(泰平の世の到来)をずっと願い続けたという光秀の個性を浮き彫りにする意味で、前半生の道三や松永久秀や足利義輝とのやり取りを比較的丁寧に描いた本作の方針は、大筋では悪くなかったように思います。「麒麟がくる」ために自分はどうすべきか、悩んで出した光秀の答えが本能寺の変だった、という本作の構図は、初回から描かれていた三淵藤英や松永久秀や帰蝶とのやり取りも大きな意味を有しており、その意味でも不明な前半生を創作で比較的丁寧に描いたのは、少なくとも失敗ではなかった、と私は考えています。また、信長を討ったのが、単に「非道阻止」のためではなく、「暴君」の信長を育ててしまったのは自分であることへの責任感から、という構図も、理想主義的で潔癖の傾向が強い光秀像と整合的で、悪くはなかったと思います。まあ、冷酷で野心家なところがあるとか、織田家中での地位低下を恐れて、千載一遇の好機に決起したとかいった人物像でもよかったように思いますが、大河ドラマの主人公である以上、より多くの視聴者に受け入れられやすい人物像になるのは仕方のないところでしょうか。
信長に関して、通俗的な印象を覆すような人物描写だったことも注目されます。信長は旧来の権威を破壊していき、出自にかかわらず有能な人材を登用していった革新的な人物との印象が今でも一般的には根強いようです。しかし本作の信長は、幕府や朝廷など旧来の権威に当初から懐疑的だったり対立的だったりしたわけではなく、なぜ自分は幕府や朝廷に尽くしているのに自分に冷たいのだ、というような感情で対立したり懸隔が生じたりしていました。幼少時に母親から愛されなかったために承認欲求がひじょうに強く、それが行動原理になっている、という登場当初からの信長の人物造形と合わせて、上手い構成だったように思います。また、信長が能力本位の人材登用をしていたわけではない、との松永久秀の指摘も、通俗的な信長像を覆す描写で注目されます。
多くの視聴者に強い印象を残しただろう斎藤道三と松永久秀は私もお気に入りの人物でしたし、代役で帰蝶に起用された川口春奈氏も、予想よりずっとよかったと思います。私は全体的に本作には満足していますが、本作で最も不評だったと思われる駒と望月東庵に関しては、率直に言ってかなり不満が残りました。各回の感想記事でも、途中から両者に言及することはほぼなくなりました。駒はもう一人の主人公とでも言うべき位置づけで、庶民視点からの物語とのことでしたが、徳川家康(松平元康)・羽柴秀吉(藤吉郎)・足利義昭に好意を寄せられ、将軍となった義昭に信頼されて重要な相談もされる話し相手になるとは、さすがにご都合主義が過ぎたように思います。大河ドラマの創作人物は扱いが難しく、過去には『風林火山』の平蔵のようにお世辞にも成功したとは言えない人物もいましたが、駒と望月東庵も明らかに失敗の部類に入ると思います。ただ、COVID-19により色々と予定が狂ったでしょうから、仕方のないところがあるのかもしれません。比較的よく事績の知られている時代の光秀があまり描かれなかったことなど、本作への不満は少なくないかもしれませんが、私は全体的にはかなり満足しています。
本作に期待していた大河ドラマ愛好者は多かったでしょうが、主人公である明智光秀の事績が比較的よく分かっている足利義昭上洛以降は駆け足気味で、この点に不満を抱いた視聴者は多かったかもしれません。全44回で、義昭の上洛が第27回終盤、義昭の都からの追放が第37回でしたから、光秀の大きな功績のうちの一つである丹波攻略もほとんど描かれませんでした。これは、斎藤道三(利政)の死が第17回だったように、ほとんど不明な光秀の前半生に時間をかけたからです。本作では、光秀1528年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)誕生説を採用しており、1556年はちょうど光秀の人生で半ばの頃となりますが、本作は1547年から始まっているので、1564~1565年が中間となり、第22回~第24回に相当します。その意味で、本作の時間配分は「均等」とも言えます。問題は、ほとんど不明な前半生にも「均等」に時間を配分したことで光秀と主題をよりよく描けたのか、ということです。
この点に関して、当初は室町幕府将軍、途中から終盤に入った頃までは信長を頂点とする武家の秩序回復、つまり「麒麟がくる」こと(泰平の世の到来)をずっと願い続けたという光秀の個性を浮き彫りにする意味で、前半生の道三や松永久秀や足利義輝とのやり取りを比較的丁寧に描いた本作の方針は、大筋では悪くなかったように思います。「麒麟がくる」ために自分はどうすべきか、悩んで出した光秀の答えが本能寺の変だった、という本作の構図は、初回から描かれていた三淵藤英や松永久秀や帰蝶とのやり取りも大きな意味を有しており、その意味でも不明な前半生を創作で比較的丁寧に描いたのは、少なくとも失敗ではなかった、と私は考えています。また、信長を討ったのが、単に「非道阻止」のためではなく、「暴君」の信長を育ててしまったのは自分であることへの責任感から、という構図も、理想主義的で潔癖の傾向が強い光秀像と整合的で、悪くはなかったと思います。まあ、冷酷で野心家なところがあるとか、織田家中での地位低下を恐れて、千載一遇の好機に決起したとかいった人物像でもよかったように思いますが、大河ドラマの主人公である以上、より多くの視聴者に受け入れられやすい人物像になるのは仕方のないところでしょうか。
信長に関して、通俗的な印象を覆すような人物描写だったことも注目されます。信長は旧来の権威を破壊していき、出自にかかわらず有能な人材を登用していった革新的な人物との印象が今でも一般的には根強いようです。しかし本作の信長は、幕府や朝廷など旧来の権威に当初から懐疑的だったり対立的だったりしたわけではなく、なぜ自分は幕府や朝廷に尽くしているのに自分に冷たいのだ、というような感情で対立したり懸隔が生じたりしていました。幼少時に母親から愛されなかったために承認欲求がひじょうに強く、それが行動原理になっている、という登場当初からの信長の人物造形と合わせて、上手い構成だったように思います。また、信長が能力本位の人材登用をしていたわけではない、との松永久秀の指摘も、通俗的な信長像を覆す描写で注目されます。
多くの視聴者に強い印象を残しただろう斎藤道三と松永久秀は私もお気に入りの人物でしたし、代役で帰蝶に起用された川口春奈氏も、予想よりずっとよかったと思います。私は全体的に本作には満足していますが、本作で最も不評だったと思われる駒と望月東庵に関しては、率直に言ってかなり不満が残りました。各回の感想記事でも、途中から両者に言及することはほぼなくなりました。駒はもう一人の主人公とでも言うべき位置づけで、庶民視点からの物語とのことでしたが、徳川家康(松平元康)・羽柴秀吉(藤吉郎)・足利義昭に好意を寄せられ、将軍となった義昭に信頼されて重要な相談もされる話し相手になるとは、さすがにご都合主義が過ぎたように思います。大河ドラマの創作人物は扱いが難しく、過去には『風林火山』の平蔵のようにお世辞にも成功したとは言えない人物もいましたが、駒と望月東庵も明らかに失敗の部類に入ると思います。ただ、COVID-19により色々と予定が狂ったでしょうから、仕方のないところがあるのかもしれません。比較的よく事績の知られている時代の光秀があまり描かれなかったことなど、本作への不満は少なくないかもしれませんが、私は全体的にはかなり満足しています。
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