石原比伊呂『北朝の天皇 「室町幕府に翻弄された皇統」の実像』
中公新書の一冊として、中央公論新社から2020年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書が指摘するように、おそらく北朝の一般的な人気は南朝よりも低く、そもそも北朝への関心が低い、と言うべきかもしれません。北朝は足利将軍家(室町幕府)の言いなりで、南朝と比較して魅力というか個性に欠ける、との一般的な印象が強いようにも思います。本書はその北朝を、両統迭立から織田信長の上洛の頃までの長期的視点から位置づけます。
両統迭立となり、皇位継承に鎌倉幕府が決定的な影響力を有するようになり、それは裁判などさまざまな政治的判断に及びました。持明院統が幕府に依存する傾向にあったのに対して、大覚寺統は幕府に依存するだけではなく、自助努力により朝廷内で主導権を掌握し、皇位を確保しようとする傾向にあった、と本書は指摘します。鎌倉時代に分裂した持明院統と大覚寺統は、権威の象徴たる楽器の違い(持明院統は琵琶、大覚寺統は笛)など、それぞれ独自の特徴を有するようになっていきました。
後醍醐天皇の建武政権が崩壊し、京都を掌握した足利尊氏は、後醍醐天皇に冷遇された持明院統を担ぎ出し、自らを正当化しました。これは、武家社会内の血統観念のみでは、足利家は唯一無二の棟梁として君臨できなかったからです。本書は、足利将軍家と北朝(持明院統)天皇家とは相互依存関係にある運命共同体で、それを維持するための実体的努力は全て将軍家が担わざるを得なかった、と指摘します。大覚寺統の後醍醐天皇は吉野へと逃れ、持明院統の北朝と大覚寺統の南朝との対立が固定化します。尊氏や弟の直義は、南北朝時代において南朝勢力と戦うさい、自らを「北朝の軍隊」として厳密に位置づけながら戦い続けました。この過程で、初期室町幕府において実質的な統治者的立場にいた直義は、光厳院と「君臣合体」とも言うべき親密な関係を築きます。これが、その後の天皇と将軍との関係の萌芽とも評価できる、と本書は指摘します。
軍事的には南北朝時代の初期の段階で北朝を擁する足利軍が南朝を圧倒しましたが、その後も南北朝の並立は続きました。これは、足利やその一門も含めて武士勢力内で対立が起きた場合、しばしば一方が南朝を頼ったからでした。その最大の事件が観応の擾乱で、一時は、尊氏が南朝に降ったことにより、北朝が南朝に接収されました(正平の一統)。この過程で、北朝の主要皇族が南朝に拉致され、北朝は天皇になるべき皇族がほとんどいない状況に追い込まれます。そこで室町幕府は、拉致された崇光上皇の弟を即位させます(後光厳天皇)。これにより、北朝の皇統は崇光と後光厳に分裂します。
北朝が早々に新たな天皇を擁立したことにより、崇光上皇など北朝の主要皇族の人質としての価値はなくなり、南朝は北朝の主要皇族を解放します。皇位は崇光から後光厳に移りましたが、北朝天皇家領の大半を占めた長講堂領の処分権に関して、崇光上皇は強い発言力を有し続けました。しかし、後光厳天皇の後継者として、幕府は崇光の息子である栄仁親王ではなく、後光厳の息子を指名します(後円融天皇)。栄仁親王は、父である崇光の死後に足利義満から所領を没収され、それは後円融の息子の後小松天皇に与えられました。すっかり傍流となった崇光院流(伏見宮家)ですが、栄仁親王の息子の貞成王の代に、後小松の後継者である称光天皇が皇子のいないうちに没し、貞成王息子の彦仁王が後小松上皇の猶子として即位します(後花園天皇)。
この間、光厳院と直義との間に成立した「君臣合体」は、観応の擾乱により終わり、正平の一統により大打撃を受けた北朝は、以後人材難に苦しみ、特定の固定化された少数のみで、異例の状況で即位して権威に欠けていた後光厳天皇の時期の朝儀が辛うじて支えられていました。自らを正当化してきた北朝の危機的状況を見て、室町幕府は光厳院と直義との間のような個人的関係ではなく、組織として朝廷に関与していくようになります。これ以降、廷臣が南北両方朝の動向を様子見するようなことは許されず、強い忠誠心、具体的には朝儀での朝廷への貢献が要求されるようになりました。廷臣には忠誠心・貢献に応じて信賞必罰がくだされ、その執行を幕府が保証しました。
室町幕府3代将軍の義満は、権威に欠ける後光厳院流を支持し、崇光院流や南朝(大覚寺統)に厳しく接しました。ただ、崇光院流や大覚寺統に厳しく接しつつ、所領や銭を支給しており、本書は義満の皇族懐柔策を「アメとムチ」と評しています。後円融天皇とは相性の悪かった義満ですが、その息子の後小松天皇をよく補佐し、後小松は義満へと依存を強めていきます。上述のように、後光厳院流は称光天皇の代で途絶え、後継者は崇光院流の彦仁(後花園天皇)でした。4代将軍の義持は、後小松と称光との「親子喧嘩」にまで処理に励み、本書は義持を「王家」の執事と評します。この頃には、足利将軍家が北朝天皇家を公私にわたって丸抱えするようになっていました。
称光が病弱で皇子もいないことから、義持はすでに称光の生前に後小松上皇と相談し、彦仁を有力な候補と考えていました。義持は称光よりも半年前に没し、将軍に就任したばかりの義教は、重臣・側近たちから義持時代の既定方針を説明され、彦仁が即位します。義持の補佐を受け、義持に依存する傾向が強かった後小松上皇は、義教との関係構築に積極的でした。ただ、義教は後小松に遠慮しすぎで、後小松が望むような両者の関係は構築されなかった、と本書は評価しています。義教は後小松に悪感情を抱くようになり、後小松の死の頃には両者の関係は悪化していましたが、後花園天皇と義教との関係は良好で、義教は後花園にとって「王家」の執事だった、と本書は指摘します。ただ、後花園の実父の貞成と義教との関係は微妙で、義教は貞成を贔屓にしていましたが、貞成は気難しい義教を恐れて迎合するだけで、親近感を抱いていなかった、と本書は評価しています。
将軍が「王家」の執事として振舞うことは、義教の息子の8代将軍義政も同様でした。義政は退位後の後花園とも良好な関係を築きます。しかし、次代の後土御門天皇の代に応仁の乱が勃発し、疲弊した幕府(足利将軍家)は、譲位や即位や元服といった重要儀式の費用を捻出することが難しくなっていきます。義政は、皇子の元服は天皇家の費用で賄ってもらいたい、と考えますが、将軍に依存しきっていた天皇家は、これに不満を抱きます。応仁の乱以後、もはや将軍家が天皇家を丸抱えすることは難しくなっていました。
本書はこの過程で、応仁の乱を契機に長期にわたって天皇家と将軍家とが同居したことを重視します。この同居では酒宴が日常化し、前例のない弛緩した事態に、天皇家と将軍家との交流から儀礼性が失われ、財政難もあって儀礼が衰退・変化していきます。義政の息子で9代将軍の義尚は、公家社会との公的な関係構築に消極的でした。義尚がこのような姿勢を示したのは、単に義尚の個性に起因するのではなく、応仁の乱の結果として、もはや中央政権たる幕府の権威に頼るよりも在地での支配確立を有力守護が志向したため、守護在京制が崩壊し、天皇家との儀礼的関係を見せつける相手が存在しなくなった、という大きな構造変化がありました。
後土御門の次の後柏原天皇の代には、天皇家と将軍家との儀礼的昵懇関係は完全に無実化し、天皇家は将軍家からの最低限の資金援助さえ期待できなくなります。それでも後柏原天皇は、将軍に依存しようとしますが、幕府の衰退は明らかで、戦国時代には、最重要とも言える即位儀さえ大きく遅延するような事態に陥ります。この間、細川政元のように天皇家を支えることに冷淡だった実力者もいますが、大内義隆は後柏原天皇の息子の後奈良天皇の即位儀の費用を負担します。ただ本書は、細川政元のような考え方は少数派としても、大内義隆のように惜しみなく費用を負担する大名も珍しかった、と指摘します。本書は、細川政元のような考えに近い人物として、室町幕府最後の将軍である15代義昭を、伝統的な将軍家と天皇家との親密な関係を望んだ人物として、織田信長を挙げます。つまり、信長の考え方は伝統的だった、というわけです。本書は、北朝(持明院統)天皇家が、自分たちの立場を最大限利用し、その時々の有力な武家を庇護者とすることで中世を生き抜いた、と評価しています。
なお本書は、後光厳院流が天皇だった時代、とくに後小松と称光の時代における天皇・上皇絡みの密通騒動の多さを指摘しています。これが、後小松と称光の時代に特異的な可能性もありますが、本書でも言及されているように、後光厳院の父である光厳院からして密通を告白しており、江戸時代初期の猪熊事件からも、朝廷において「風紀の乱れ」は程度の差こそあれ長く続いていた可能性が高いように思います。この観点からも、天皇の正統性をY染色体に求める言説にはまったく同意できません。
両統迭立となり、皇位継承に鎌倉幕府が決定的な影響力を有するようになり、それは裁判などさまざまな政治的判断に及びました。持明院統が幕府に依存する傾向にあったのに対して、大覚寺統は幕府に依存するだけではなく、自助努力により朝廷内で主導権を掌握し、皇位を確保しようとする傾向にあった、と本書は指摘します。鎌倉時代に分裂した持明院統と大覚寺統は、権威の象徴たる楽器の違い(持明院統は琵琶、大覚寺統は笛)など、それぞれ独自の特徴を有するようになっていきました。
後醍醐天皇の建武政権が崩壊し、京都を掌握した足利尊氏は、後醍醐天皇に冷遇された持明院統を担ぎ出し、自らを正当化しました。これは、武家社会内の血統観念のみでは、足利家は唯一無二の棟梁として君臨できなかったからです。本書は、足利将軍家と北朝(持明院統)天皇家とは相互依存関係にある運命共同体で、それを維持するための実体的努力は全て将軍家が担わざるを得なかった、と指摘します。大覚寺統の後醍醐天皇は吉野へと逃れ、持明院統の北朝と大覚寺統の南朝との対立が固定化します。尊氏や弟の直義は、南北朝時代において南朝勢力と戦うさい、自らを「北朝の軍隊」として厳密に位置づけながら戦い続けました。この過程で、初期室町幕府において実質的な統治者的立場にいた直義は、光厳院と「君臣合体」とも言うべき親密な関係を築きます。これが、その後の天皇と将軍との関係の萌芽とも評価できる、と本書は指摘します。
軍事的には南北朝時代の初期の段階で北朝を擁する足利軍が南朝を圧倒しましたが、その後も南北朝の並立は続きました。これは、足利やその一門も含めて武士勢力内で対立が起きた場合、しばしば一方が南朝を頼ったからでした。その最大の事件が観応の擾乱で、一時は、尊氏が南朝に降ったことにより、北朝が南朝に接収されました(正平の一統)。この過程で、北朝の主要皇族が南朝に拉致され、北朝は天皇になるべき皇族がほとんどいない状況に追い込まれます。そこで室町幕府は、拉致された崇光上皇の弟を即位させます(後光厳天皇)。これにより、北朝の皇統は崇光と後光厳に分裂します。
北朝が早々に新たな天皇を擁立したことにより、崇光上皇など北朝の主要皇族の人質としての価値はなくなり、南朝は北朝の主要皇族を解放します。皇位は崇光から後光厳に移りましたが、北朝天皇家領の大半を占めた長講堂領の処分権に関して、崇光上皇は強い発言力を有し続けました。しかし、後光厳天皇の後継者として、幕府は崇光の息子である栄仁親王ではなく、後光厳の息子を指名します(後円融天皇)。栄仁親王は、父である崇光の死後に足利義満から所領を没収され、それは後円融の息子の後小松天皇に与えられました。すっかり傍流となった崇光院流(伏見宮家)ですが、栄仁親王の息子の貞成王の代に、後小松の後継者である称光天皇が皇子のいないうちに没し、貞成王息子の彦仁王が後小松上皇の猶子として即位します(後花園天皇)。
この間、光厳院と直義との間に成立した「君臣合体」は、観応の擾乱により終わり、正平の一統により大打撃を受けた北朝は、以後人材難に苦しみ、特定の固定化された少数のみで、異例の状況で即位して権威に欠けていた後光厳天皇の時期の朝儀が辛うじて支えられていました。自らを正当化してきた北朝の危機的状況を見て、室町幕府は光厳院と直義との間のような個人的関係ではなく、組織として朝廷に関与していくようになります。これ以降、廷臣が南北両方朝の動向を様子見するようなことは許されず、強い忠誠心、具体的には朝儀での朝廷への貢献が要求されるようになりました。廷臣には忠誠心・貢献に応じて信賞必罰がくだされ、その執行を幕府が保証しました。
室町幕府3代将軍の義満は、権威に欠ける後光厳院流を支持し、崇光院流や南朝(大覚寺統)に厳しく接しました。ただ、崇光院流や大覚寺統に厳しく接しつつ、所領や銭を支給しており、本書は義満の皇族懐柔策を「アメとムチ」と評しています。後円融天皇とは相性の悪かった義満ですが、その息子の後小松天皇をよく補佐し、後小松は義満へと依存を強めていきます。上述のように、後光厳院流は称光天皇の代で途絶え、後継者は崇光院流の彦仁(後花園天皇)でした。4代将軍の義持は、後小松と称光との「親子喧嘩」にまで処理に励み、本書は義持を「王家」の執事と評します。この頃には、足利将軍家が北朝天皇家を公私にわたって丸抱えするようになっていました。
称光が病弱で皇子もいないことから、義持はすでに称光の生前に後小松上皇と相談し、彦仁を有力な候補と考えていました。義持は称光よりも半年前に没し、将軍に就任したばかりの義教は、重臣・側近たちから義持時代の既定方針を説明され、彦仁が即位します。義持の補佐を受け、義持に依存する傾向が強かった後小松上皇は、義教との関係構築に積極的でした。ただ、義教は後小松に遠慮しすぎで、後小松が望むような両者の関係は構築されなかった、と本書は評価しています。義教は後小松に悪感情を抱くようになり、後小松の死の頃には両者の関係は悪化していましたが、後花園天皇と義教との関係は良好で、義教は後花園にとって「王家」の執事だった、と本書は指摘します。ただ、後花園の実父の貞成と義教との関係は微妙で、義教は貞成を贔屓にしていましたが、貞成は気難しい義教を恐れて迎合するだけで、親近感を抱いていなかった、と本書は評価しています。
将軍が「王家」の執事として振舞うことは、義教の息子の8代将軍義政も同様でした。義政は退位後の後花園とも良好な関係を築きます。しかし、次代の後土御門天皇の代に応仁の乱が勃発し、疲弊した幕府(足利将軍家)は、譲位や即位や元服といった重要儀式の費用を捻出することが難しくなっていきます。義政は、皇子の元服は天皇家の費用で賄ってもらいたい、と考えますが、将軍に依存しきっていた天皇家は、これに不満を抱きます。応仁の乱以後、もはや将軍家が天皇家を丸抱えすることは難しくなっていました。
本書はこの過程で、応仁の乱を契機に長期にわたって天皇家と将軍家とが同居したことを重視します。この同居では酒宴が日常化し、前例のない弛緩した事態に、天皇家と将軍家との交流から儀礼性が失われ、財政難もあって儀礼が衰退・変化していきます。義政の息子で9代将軍の義尚は、公家社会との公的な関係構築に消極的でした。義尚がこのような姿勢を示したのは、単に義尚の個性に起因するのではなく、応仁の乱の結果として、もはや中央政権たる幕府の権威に頼るよりも在地での支配確立を有力守護が志向したため、守護在京制が崩壊し、天皇家との儀礼的関係を見せつける相手が存在しなくなった、という大きな構造変化がありました。
後土御門の次の後柏原天皇の代には、天皇家と将軍家との儀礼的昵懇関係は完全に無実化し、天皇家は将軍家からの最低限の資金援助さえ期待できなくなります。それでも後柏原天皇は、将軍に依存しようとしますが、幕府の衰退は明らかで、戦国時代には、最重要とも言える即位儀さえ大きく遅延するような事態に陥ります。この間、細川政元のように天皇家を支えることに冷淡だった実力者もいますが、大内義隆は後柏原天皇の息子の後奈良天皇の即位儀の費用を負担します。ただ本書は、細川政元のような考え方は少数派としても、大内義隆のように惜しみなく費用を負担する大名も珍しかった、と指摘します。本書は、細川政元のような考えに近い人物として、室町幕府最後の将軍である15代義昭を、伝統的な将軍家と天皇家との親密な関係を望んだ人物として、織田信長を挙げます。つまり、信長の考え方は伝統的だった、というわけです。本書は、北朝(持明院統)天皇家が、自分たちの立場を最大限利用し、その時々の有力な武家を庇護者とすることで中世を生き抜いた、と評価しています。
なお本書は、後光厳院流が天皇だった時代、とくに後小松と称光の時代における天皇・上皇絡みの密通騒動の多さを指摘しています。これが、後小松と称光の時代に特異的な可能性もありますが、本書でも言及されているように、後光厳院の父である光厳院からして密通を告白しており、江戸時代初期の猪熊事件からも、朝廷において「風紀の乱れ」は程度の差こそあれ長く続いていた可能性が高いように思います。この観点からも、天皇の正統性をY染色体に求める言説にはまったく同意できません。
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