ユーラシア東部における初期現生人類の北方経路の拡散

 ユーラシア東部における初期現生人類(Homo sapiens)の北方経路の拡散に関する近年の研究を整理した総説(Li et al., 2020)が公表されました。ユーラシア東部における初期現生人類の北方経路の拡散を取り上げた近年のいくつかの論文を読もうと思いながらまだ読んでいませんが、まずは本論文で近年の研究を大まかに把握しておこう、と考えました。本論文は近年の関連研究を簡潔に整理しており、たいへん有益だと思います。私も、まだ把握していなかった複数の研究を知ることができました。

 アフリカからの現生人類の拡散に関する研究は、その適応力を評価し、現生人類が現在唯一の生存人類種である理由を明らかにするためにひじょうに重要です。現生人類の拡散過程の考古学的および遺伝学的議論に関しては、アラビア半島とアジア南部とアジア南東部とオーストラリアおよび関連する沿岸と陸上への、いわゆる南方経路に焦点が当てられる傾向にありました。最近では新たな発見と研究により、アジア中央部やシベリアや中国北部を通る北部拡散経路の可能性に考古学的関心が高まっています。アジア北部の遺跡における技術的発展と適切な保存条件により、人類化石や堆積物からの古代DNA抽出成功の能力が高まり、考古学的資料の新たな発見に伴って、異なる地域の年代の関連づけはますます厳密になっています。アジア北部における現生人類の北方拡散経路、および非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)との相互作用(図1a)を調べる新たな機会が今や存在します。

 中国北部における初期現生人類の化石記録は4万年前頃に始まり、12万~8万年前頃とされる中国南部のそれよりもかなり遅くなります。ただ、これらの中国南部における初期現生人類の年代に関しては、疑問も呈されています(関連記事)。北京の南西56kmにある周口店(Zhoukoudian)地区の田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)の現生人類化石の年代は40000~38000年前頃と推定されており、最近の研究では、周口店上洞(Upper Cave Zhoukoudian)の現生人類の年代は35100~33500年以上前で、38300~35800年前頃の可能性が高い、と訂正されています。これらの化石の比較計測形態研究では、中国北部の初期現生人類は、レヴァントやアフリカ北部の初期現生人類化石よりもむしろ、ヨーロッパの上部旧石器時代の同年代の現生人類集団とより密接な関係を示します。

 アジア北部のいくつかの提案されている初期現生人類化石は、物議を醸してきたか、形態学的評価には断片的すぎる、と考えられてきました。しかし、技術の発展、とくに古代DNAの抽出により、これらの問題がより明確になりつつあります。たとえば、シベリア西部のウスチイシム(Ust’-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された、45000年前頃の現生人類男性個体から、核ゲノムデータが得られています(関連記事)。このウスチイシム個体は、アジア北部における現生人類の最古級の化石記録となります。

 形態学的評価が難しかった人類遺骸のうち、モンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で発見された頭蓋冠は、ミトコンドリアDNA(mtDNA)分析により非アフリカ系現代人の変異内に収まる、と明らかになりました(関連記事)。このサルキート頭蓋の新たな較正された放射性炭素年代は、95%の信頼性で34950~33900年前と推定されています。田园個体は核ゲノムデータに基づくと、ユーラシアの東西系統が分岐した後、ユーラシア東部系統において、多くの現代アジア東部人およびアメリカ大陸先住民の祖先集団から分岐した、と推測されています(関連記事)。おそらく本論文の投稿後に公表されたため、本論文では言及されていませんが、その後の研究で、サルキート頭蓋は核ゲノムデータでは田园個体と類似している、と示されています(関連記事)。以下、本論文の図1です。
画像

 アジア北部における現生人類拡散の考古学的証拠は、特定の人類種を特定の石器インダストリーと結びつけるのが議論になっているという理由だけで、確定がやや困難です。しかし研究者たちは、アジア北部における広範な初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)もしくは前期上部旧石器(Early Upper Paleolithic)を現生人類と相関させる傾向にあります。それは、IUPが特定の地域に同時に出現し、大型石刃技術や装飾品が見られるようになるからです(図1b)。

 IUPは、カラボム(Kara Bom)遺跡などシベリア南部のアルタイ地域や、トルボル(Tolbor)渓谷などモンゴル北部や、カメンカ(Kamenka)などトランスバイカル地域や、水洞溝(Shuidonggou)1遺跡など中国北部を含む、アジア北部全域のいくつかの地域で見られます。IUP石器群の技術的および定量的特性分析は、ルヴァロワ(Levallois)石刃技法を用いてのアジア北部全域における技術的に一貫した層状原形製作を明らかにします。加工石器は、中部旧石器および上部旧石器両方の形態を含みます。IUP遺跡群ではしばしば、個人的装飾品のような象徴的行動を含む物質が見つかります。IUPの推定年代は50000~35000年前頃で、最初の出現のほとんどはシベリア南部のアルタイ地域に由来します。

 中国北部におけるIUPの限られた空間分布とより遅い出現のため、シベリアから中国北部への拡散モデルが提案されてきました。初期現生人類の考古学と化石と遺伝学の証拠は現在、アジア北部全域における西から東への時間経過のパターンを明らかにします。このパターンは、中国北部への45000~35000年前頃の現生人類の北方拡散経路(単一あるいは複数)を示唆し、これは12万~6万年前頃となる南方経路(単一あるいは複数)よりもかなり遅くなります。中国北部における現生人類のより遅い到来は、現生人類の複数の拡散モデル(関連記事)を支持します。最重要なのは、さまざまな期間とそれに続くさまざまな経路の複雑な拡散パターンが、現生人類の世界的な種としての出現における動態の理解を深める、ということです。

 初期現生人類の拡大における北方拡散経路に沿って、南方経路とは際立って対照的に、古代型ホモ属との相互作用も検出されました。とくに注目されるのは、シベリア南部のアルタイ地域のデニソワ洞窟(Denisova Cave)です。デニソワ洞窟では、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)とともに、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)の存在がDNA解析により確認されました(関連記事)。ネアンデルタール人とデニソワ人と初期現生人類との間では頻繁に遺伝子交換が起き、現代人のゲノムでもネアンデルタール人やデニソワ人の遺伝的痕跡が確認されます。その後、デニソワ人はチベット高原でも確認されています(関連記事)。アジア東部および南東部の現代人のゲノムにも、オーストラリア先住民やパプア人ほどではないとしても、デニソワ人由来の領域が確認されるので、中国の既知のホモ属遺骸の中にデニソワ人に分類できるものがあるかもしれませんし、中国で新たにデニソワ人遺骸が発見される可能性もあります。それは、デニソワ人の拡散や、初期現生人類も含む他の人類集団とデニソワ人との関係についての理解を拡大するでしょう。

 ネアンデルタール人の化石と遺伝的証拠はアルタイ地域やアジア中央部で発見されていますが、典型的なネアンデルタール人化石は、中国やモンゴルやトランスバイカル地域では見つかっていません。しかし、河南省許昌市(Xuchang)霊井(Lingjing)遺跡の125000~105000年前頃のホモ属頭蓋(関連記事)や、河北省張家口(Zhangjiakou)市陽原(Yangyuan)県の泥河湾盆地(The Nihewan Basin)にある許家窯(Xujiayao)遺跡(関連記事)など、中国北部の一部の古代型ホモ属化石のいくつかの形態学的特徴は、中期更新世後期や後期更新世早期の他の遺跡のネアンデルタール人と類似していました。

 一般的にはヨーロッパやアジア中央部やアルタイ地域のネアンデルタール人と関連づけられる、典型的な中部旧石器時代石器群の考古学的証拠は、中国では欠如しています。しかし、内モンゴル自治区の金斯太(Jinsitai)洞窟遺跡(関連記事)や、新疆ウイグル自治区の通天(Tongtian)遺跡での新たな発見により、中国北部におけるムステリアン(Mousterian)石器の証拠が得られました(図1c)。これら中国北部のムステリアン石器群は、アジア中央部やシベリア南部のアルタイ地域からのネアンデルタール人の拡散を表している、との見解も提示されています。しかし、この仮説は、新たな化石の発見もしくは遺伝的知見により将来検証されねばなりません。中国北部ではムステリアンはIUPと重なり、これは中国北部における現生人類とネアンデルタール人の生物学的および文化的相互作用の可能性を示唆します。ただ、本論文はこのように指摘しますが、アルタイ地域ではネアンデルタール人とデニソワ人との交雑が一般的だったと推測されており(関連記事)、両者が同じ地域で共存している場合は交流が盛んだったとすると、中国北部のムステリアン石器群の製作者がデニソワ人だった可能性も考えられるように思います。

 新たな化石・遺伝学・考古学の研究により、アジア北部の後期更新世における人類の拡散と相互作用の、複雑ではあるものの興味深い仮説が得られました。学際的証拠は、シベリアとアジア中央部と中国北部を通っての、海洋酸素同位体ステージ(MIS)3における初期現生人類の北方の拡散(1回もしくは複数回)を示唆する傾向があります。さまざまな古代型ホモ属集団間の相互作用が明らかにされてきましたが、当然のことながら、その生物学的および文化的過程の理解には多くの問題と課題が残っています。じっさい、中国北西部の広大な地域では考古学的証拠がほとんど発見されておらず、潜在的な移動経路に沿ってかなりの地理的な間隙が残っています。

 中国北西部の砂漠環境は、しばしば乾燥期における人類拡散の地理的障壁とみなされてきました。しかし、人類拡散のGIS(地理情報システム)最小コスト経路モデルからは、中国北西部は湿潤な亜間氷期の条件下では人類拡散の回廊および経路として周期的に機能した、と示唆されます。現生人類の北方拡散を理解するには、より多くの体系的な現地調査と研究が不可欠です。さらに、学際的な研究の不均一な分布は、地域とより広範な地方との間の、体系的で比較可能な情報の収集を困難にしました。また、より一般的に中国北部のIUP遺跡群と関連した古環境記録は顕著に不足しており、他の近縁人類と比較して、中国北部へと移動する人類の適応を判断することが困難です。

 研究者たちは、IUPの担い手がアジア北部では初期現生人類だった、と推測していますが、文化的および生物学的データセットは、ほぼ常に独立しています。初期現生人類化石が発見されている遺跡では、しばしばウスチイシムやサルキート渓谷や田园洞窟のように考古学的物質が共伴しないか、周口店上洞のように分類されていない石器群が発見されています。一方、アジア北部のIUP遺跡群では、まだ初期現生人類の化石もしくは遺伝学的証拠は得られていません。アジア北部の初期現生人類3個体のみが、これまでに有用な遺伝的情報をもたらし、ゲノム配列の品質は、それぞれの保存状態により異なります。

 一方、より早期の現生人類化石が発見されてきた中国南部では、利用可能な人類の古代DNAデータが得られていません。これにより、集団関係の研究は地理的に偏り、不完全になります。初期現生人類遺骸と考古学的物質のある45000~35000年前頃の遺跡群は、おもに放射性炭素年代測定により年代値が得られており、初期現生人類の年代は放射性炭素年代測定法の限界に達しているので、いくつかの不確実性が生じます。したがって、人類居住の年代をより正確に把握するには、光刺激ルミネッセンス法(OSL)やウラン系列法など他の年代測定法を用いる必要があります。

 要するに、古人類学と他の化学的手法、とくに分子生物学と地球化学とを橋渡しするには、中国、とくに北西部の追加の現地調査が必要で、努力がひじょうに必要です。そうすることで、現生人類の北方拡散、現生人類集団はどの拡散経路(単一もしくは複数)を選択したのか、現生人類と古代型ホモ属との相互作用は生物学的および文化的にどのようなものだったのか、現生人類は変動する地域的環境にどのように適応したのか、といった人類進化研究におけるいくつかの重要な問題に答える能力が向上します。


参考文献:
Li F. et al.(2020): The northern dispersal of early modern humans in eastern Eurasia. Science Bulletin, 65, 20, 1699-1701.
https://doi.org/10.1016/j.scib.2020.06.026

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック