モンゴルにおける中部旧石器時代遺跡の再調査
取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、モンゴルにおける中部旧石器時代の再調査を報告した研究(Khatsenovich et al., 2019)が公表されました。中期および後期更新世のユーラシアにおける人類の拡散経路に関する現在の知見に基づくと、移住回廊は古気候的に均質な地域でした。古湖と淡水路はアフリカからアラビア半島を通る出口の経路を定義し、最終的にはアジア南部の熱帯雨林をさらに東方へと横断します。
アジア中央部東方は、ユーラシア東西間の地理的および文化的接触地域だったので、現在では多くの研究の焦点となっています。アジア中央部東方では先史時代の1移住経路が特定されており、それはこの地域の主要な河川体系であるセレンゲ川流域の経路をたどります。後期更新世となる50000~12000年前頃には、この地域ではモンゴル北部とシベリア南部のトランスバイカルの間で人類の移動があり、それはセレンゲ川の支流に続くもので、その途中では露頭石材が利用されました。
初期の人類の回廊としてもう一つの可能性があるのは、オルホン渓谷とセレンゲ川の山岳地帯です。この地帯では、オルホン1(Orkhon-1)とオルホン7(Orkhon-7)とモイルティンアム(Moil'tyn-am)という層序化された3ヶ所の旧石器時代遺跡があり、中部旧石器時代と上部旧石器時代の資料を含めて、モンゴルで最長の文化的および層序的系列をもたらしました。この3遺跡の年代再測定を目的として、2018年にモイルティンアム遺跡とオルホン1遺跡で再発掘が始まりました。以下、モンゴルの中部旧石器時代遺跡の位置を示した本論文の図1です。
モイルティンアム遺跡(図1の1)はモンゴル中央部に位置し、近くにはオルホン川の第二段丘上のハラホリン(Kharkhorin、カラコルム)があります。モイルティンアム遺跡の発掘は、1960年代と1980年代にソ連とモンゴルの合同隊により、1996~1997年にフランスとモンゴルの合同隊により行なわれました。モイルティンアム遺跡の現在利用可能な測定年代は、1990年代の調査に基づく第4層の20240±300年前、およびソ連とモンゴルの合同調査に基づく18830±890年前の二つだけです。
1985~1986年の発掘調査に基づき、モイルティンアム遺跡では2~4層にかけてルヴァロワ(Levallois)技術が含まれていると明らかになり、石器分類からは、石器群の特徴は年代的に明確には相関していない、と示唆されています。したがって、モイルティンアム遺跡はおそらく人類の活動の重複堆積物(palimpsest)です。光刺激ルミネッセンス法(OSL)と微細形態学的分析により補完された新たな放射性炭素年代測定は、この複雑な状況を明らかにするのに役立つでしょう。
最近の発掘調査では、新たなOSLと放射性炭素年代の測定のための標本収集、遺物の分布分析、石器群の中部旧石器時代となるルヴァロワ技術の再考が行なわれました。深さが約1.7mの区画には450個以上の遺物が含まれており、6層が特定されました。石器密度が高いのは第2層と第3層で、第4層と第5層では低密度となっています。第2層には警官帽状打面(chapeau de gendarme striking platform)を有する再加工されたルヴァロワ尖頭器が、第3層には三角形の再加工されたルヴァロワ尖頭器が含まれ、ともに、モンゴルの中部旧石器時代末期と上部旧石器時代最初期に広範に存在した単軸収束剥離技術により製作されています。
最も一般的な中部旧石器時代の求心ルヴァロワ技法により製作された剥片は、第4層で見つかりました。OSLと放射性炭素年代測定により得られるだろうこの文化系列の年代値は、モンゴルのルヴァロワ技術の長期の存在を裏づけ、おそらくはゴビ・アルタイ地域のチクヘン2(Chikhen-2)遺跡(図1の5)の30550±410年前まで下るでしょう。あるいは、それは文化的遺物の重複堆積と、その地域におけるルヴァロワ技術の年代的境界の問題がある性質を示唆しているかもしれません。この調査は、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)におけるこの地域の人類の居住に関するデータの蓄積にも貢献します。
もう一つの重要な遺跡であるオルホン1(図1の2)は、中部旧石器時代の層序的位置を決定し、年代測定の標本を得るために、2018年に発掘されました。発掘区域で見つかった石器は少ないものの、第4層の上部旧石器時代と第7層の中部旧石器時代とを識別するには充分でした。以前には、中部旧石器時代の遺物は第6層に由来すると考えられており、中部旧石器時代層には年代測定可能な有機物がないため、考古学的遺物がないその上に位置する、年代値(38600±800年前)の得られている第5層よりも古い、と推測されました。
第7層は、オルホン川の古代の氾濫の頃に形成され、第二河岸段丘の初期段階となります。これは、寒冷で乾燥した状態、深刻な低温過程、高度の炭化と相関しています。第7層の位置から、年代がハインリッヒイベント(HE)5となる45000年前頃、もしくはそれ以前である可能性を排除できません。第7層には、ルヴァロワ技法を有する典型的な中部旧石器時代剥片インダストリーが含まれています。2018年の発掘では、放射性炭素年代測定を可能とする絶滅したバイカルヤク(Bos Poephagus baikalensis)の下顎が石器と共伴しました。
モイルティンアム遺跡とオルホン1遺跡は、モンゴルの中部旧石器時代の年代的な系列の復元に重要です。これまで、モンゴルの中部旧石器時代は、層序化された6遺跡のうち北部のハルガニン・ゴル5(Kharganyn Gol)遺跡(図1の4)を除いて、信頼できる年代と関連づけられていません。オルホン遺跡群の放射性炭素年代は1980年代のもので、層序的位置および文化資料との関連は明確ではありません。本論文で取り上げられた新たな調査は、頻繁で一時的な短期の居住だったのか、それとも通時的な文化の継続だったのか、という問題への対処が目的です。後期更新世は、気候条件の変化と景観の変容により特徴づけられ、そうした要因が移動経路の開放や閉鎖に対して、個別的、さらには相乗的にどのように寄与したのか、測定することは常和腕素。これは将来の研究に、この地域において、中部旧石器時代の回廊はどの時期に機能し、最後の中部旧石器複合と最初の上部旧石器遺物群との間の年代的境界はどこにあるのか、という問題を提起します。
以上、ざっと本論文を見てきました。中部旧石器時代のモンゴルは、現生人類(Homo sapiens)の拡散や、現生人類とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)のような非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)との関係の解明という点でも、大いに注目される地域です。モンゴルの中部旧石器時代の本格的な年代決定はまだ始まったばかりのようで、今後の研究の進展が期待されます。モンゴルの中部旧石器時代遺跡がどの人類の所産なのか、まだ明確ではありません。その一部は現生人類の所産かもしれませんが、大半は古代型ホモ属の所産である可能性が高いように思います。
そうならば、ネアンデルタール人がまだモンゴルや中国では発見されていない一方、中国ではデニソワ人候補となりそうな化石が発見されており、じっさいチベットではデニソワ人の下顎骨が発見されていますから(関連記事)、モンゴルの中部旧石器時代の石器群の担い手はデニソワ人かもしれません。また、チベット高原で遺跡の10万年前頃の堆積物からデニソワ人のミトコンドリアDNA(mtDNA)が確認されているので(関連記事)、モンゴルの中部旧石器時代遺跡の堆積物でも、母系ではどの人類なのか、特定できるかもしれません。さらに、コーカサスの遺跡では25000年前頃の堆積物から核ゲノムデータが得られているので(関連記事)、より高緯度のモンゴルでは中部旧石器時代の核ゲノムデータが得られるかもしれず、年代測定と石器分析とともに、堆積物のDNA解析の進展も大いに期待されます。
参考文献:
Khatsenovich AM. et al.(2019): Middle Palaeolithic human dispersal in Central Asia: new archaeological investigations in the Orkhon Valley, Mongolia. Antiquity, 93, 370, e20.
https://doi.org/10.15184/aqy.2019.111
アジア中央部東方は、ユーラシア東西間の地理的および文化的接触地域だったので、現在では多くの研究の焦点となっています。アジア中央部東方では先史時代の1移住経路が特定されており、それはこの地域の主要な河川体系であるセレンゲ川流域の経路をたどります。後期更新世となる50000~12000年前頃には、この地域ではモンゴル北部とシベリア南部のトランスバイカルの間で人類の移動があり、それはセレンゲ川の支流に続くもので、その途中では露頭石材が利用されました。
初期の人類の回廊としてもう一つの可能性があるのは、オルホン渓谷とセレンゲ川の山岳地帯です。この地帯では、オルホン1(Orkhon-1)とオルホン7(Orkhon-7)とモイルティンアム(Moil'tyn-am)という層序化された3ヶ所の旧石器時代遺跡があり、中部旧石器時代と上部旧石器時代の資料を含めて、モンゴルで最長の文化的および層序的系列をもたらしました。この3遺跡の年代再測定を目的として、2018年にモイルティンアム遺跡とオルホン1遺跡で再発掘が始まりました。以下、モンゴルの中部旧石器時代遺跡の位置を示した本論文の図1です。
モイルティンアム遺跡(図1の1)はモンゴル中央部に位置し、近くにはオルホン川の第二段丘上のハラホリン(Kharkhorin、カラコルム)があります。モイルティンアム遺跡の発掘は、1960年代と1980年代にソ連とモンゴルの合同隊により、1996~1997年にフランスとモンゴルの合同隊により行なわれました。モイルティンアム遺跡の現在利用可能な測定年代は、1990年代の調査に基づく第4層の20240±300年前、およびソ連とモンゴルの合同調査に基づく18830±890年前の二つだけです。
1985~1986年の発掘調査に基づき、モイルティンアム遺跡では2~4層にかけてルヴァロワ(Levallois)技術が含まれていると明らかになり、石器分類からは、石器群の特徴は年代的に明確には相関していない、と示唆されています。したがって、モイルティンアム遺跡はおそらく人類の活動の重複堆積物(palimpsest)です。光刺激ルミネッセンス法(OSL)と微細形態学的分析により補完された新たな放射性炭素年代測定は、この複雑な状況を明らかにするのに役立つでしょう。
最近の発掘調査では、新たなOSLと放射性炭素年代の測定のための標本収集、遺物の分布分析、石器群の中部旧石器時代となるルヴァロワ技術の再考が行なわれました。深さが約1.7mの区画には450個以上の遺物が含まれており、6層が特定されました。石器密度が高いのは第2層と第3層で、第4層と第5層では低密度となっています。第2層には警官帽状打面(chapeau de gendarme striking platform)を有する再加工されたルヴァロワ尖頭器が、第3層には三角形の再加工されたルヴァロワ尖頭器が含まれ、ともに、モンゴルの中部旧石器時代末期と上部旧石器時代最初期に広範に存在した単軸収束剥離技術により製作されています。
最も一般的な中部旧石器時代の求心ルヴァロワ技法により製作された剥片は、第4層で見つかりました。OSLと放射性炭素年代測定により得られるだろうこの文化系列の年代値は、モンゴルのルヴァロワ技術の長期の存在を裏づけ、おそらくはゴビ・アルタイ地域のチクヘン2(Chikhen-2)遺跡(図1の5)の30550±410年前まで下るでしょう。あるいは、それは文化的遺物の重複堆積と、その地域におけるルヴァロワ技術の年代的境界の問題がある性質を示唆しているかもしれません。この調査は、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)におけるこの地域の人類の居住に関するデータの蓄積にも貢献します。
もう一つの重要な遺跡であるオルホン1(図1の2)は、中部旧石器時代の層序的位置を決定し、年代測定の標本を得るために、2018年に発掘されました。発掘区域で見つかった石器は少ないものの、第4層の上部旧石器時代と第7層の中部旧石器時代とを識別するには充分でした。以前には、中部旧石器時代の遺物は第6層に由来すると考えられており、中部旧石器時代層には年代測定可能な有機物がないため、考古学的遺物がないその上に位置する、年代値(38600±800年前)の得られている第5層よりも古い、と推測されました。
第7層は、オルホン川の古代の氾濫の頃に形成され、第二河岸段丘の初期段階となります。これは、寒冷で乾燥した状態、深刻な低温過程、高度の炭化と相関しています。第7層の位置から、年代がハインリッヒイベント(HE)5となる45000年前頃、もしくはそれ以前である可能性を排除できません。第7層には、ルヴァロワ技法を有する典型的な中部旧石器時代剥片インダストリーが含まれています。2018年の発掘では、放射性炭素年代測定を可能とする絶滅したバイカルヤク(Bos Poephagus baikalensis)の下顎が石器と共伴しました。
モイルティンアム遺跡とオルホン1遺跡は、モンゴルの中部旧石器時代の年代的な系列の復元に重要です。これまで、モンゴルの中部旧石器時代は、層序化された6遺跡のうち北部のハルガニン・ゴル5(Kharganyn Gol)遺跡(図1の4)を除いて、信頼できる年代と関連づけられていません。オルホン遺跡群の放射性炭素年代は1980年代のもので、層序的位置および文化資料との関連は明確ではありません。本論文で取り上げられた新たな調査は、頻繁で一時的な短期の居住だったのか、それとも通時的な文化の継続だったのか、という問題への対処が目的です。後期更新世は、気候条件の変化と景観の変容により特徴づけられ、そうした要因が移動経路の開放や閉鎖に対して、個別的、さらには相乗的にどのように寄与したのか、測定することは常和腕素。これは将来の研究に、この地域において、中部旧石器時代の回廊はどの時期に機能し、最後の中部旧石器複合と最初の上部旧石器遺物群との間の年代的境界はどこにあるのか、という問題を提起します。
以上、ざっと本論文を見てきました。中部旧石器時代のモンゴルは、現生人類(Homo sapiens)の拡散や、現生人類とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)のような非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)との関係の解明という点でも、大いに注目される地域です。モンゴルの中部旧石器時代の本格的な年代決定はまだ始まったばかりのようで、今後の研究の進展が期待されます。モンゴルの中部旧石器時代遺跡がどの人類の所産なのか、まだ明確ではありません。その一部は現生人類の所産かもしれませんが、大半は古代型ホモ属の所産である可能性が高いように思います。
そうならば、ネアンデルタール人がまだモンゴルや中国では発見されていない一方、中国ではデニソワ人候補となりそうな化石が発見されており、じっさいチベットではデニソワ人の下顎骨が発見されていますから(関連記事)、モンゴルの中部旧石器時代の石器群の担い手はデニソワ人かもしれません。また、チベット高原で遺跡の10万年前頃の堆積物からデニソワ人のミトコンドリアDNA(mtDNA)が確認されているので(関連記事)、モンゴルの中部旧石器時代遺跡の堆積物でも、母系ではどの人類なのか、特定できるかもしれません。さらに、コーカサスの遺跡では25000年前頃の堆積物から核ゲノムデータが得られているので(関連記事)、より高緯度のモンゴルでは中部旧石器時代の核ゲノムデータが得られるかもしれず、年代測定と石器分析とともに、堆積物のDNA解析の進展も大いに期待されます。
参考文献:
Khatsenovich AM. et al.(2019): Middle Palaeolithic human dispersal in Central Asia: new archaeological investigations in the Orkhon Valley, Mongolia. Antiquity, 93, 370, e20.
https://doi.org/10.15184/aqy.2019.111
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