白峰旬編『関ヶ原大乱、本当の勝者』
日本史史料研究会監修で、朝日新書の一冊として、朝日新聞社より2020年6月に刊行されました。電子書籍での購入です。関ヶ原の戦いについても20年近く勉強を怠っているので、近年の知見を得るために読むことにしました。
序章●白峰旬「「関ヶ原の戦い」の従来イメージ打破に向けて」
関ヶ原の戦いに関するじゅうらいの通俗的印象の見直しが提言されています。その多くは江戸時代の軍記物に由来し、多分に創作が含まれています。近代以降は、軍記物を踏襲した歴史小説により、そうした俗説が定着しました。たとえば、徳川家康が去就を明確にしない小早川秀秋の陣営に鉄砲を打ちかけ、小早川秀秋が東軍への寝返りを決めた、とする「問鉄砲」の逸話です。また、徳川家の覇権が260年以上続いたため、徳川家および家康に都合のよい歴史像が江戸自体に構築されていった、という事情もあります。
また本書は、戦後歴史学が軍事史研究を避ける傾向にあったことも、関ヶ原の戦いに関する俗説が定着した一因になった、と指摘します。本書は、1600年9月15日(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)の「本戦」だけではなく、より大きな視野で、「関ヶ原の大乱」として1600年の政治・軍事的騒乱状態を解明しなければならない、と提言します。本書は、同時代人の認識を考慮して、1600年の日本における政治・軍事的騒乱状態を「慶長庚子の大乱」と呼称するよう、提案しています。
第一部 東国の武将
第1章●水野伍貴「徳川家康の戦い」
関ヶ原の戦い前の徳川家康の意図について、すでに簒奪を考えており、豊臣秀吉の存命中から交易などでさまざまな構想を抱いており、秀吉没後、大老衆を一人ずつ豊臣公儀から孤立させ、排斥していくことで政権掌握を図った、と推測されています。関ヶ原の戦い前(1600年7月)の小山評定をめぐる議論に関しては、肯定説が採用されています。西軍挙兵後、家康は当初、長期戦を覚悟していましたが、福島正則たちが岐阜城を陥落させると、強行軍で美濃へと向かい、中山道を進んでいた息子の秀忠にも美濃への急行を命じます。本論考は、関ヶ原大乱は家康にとって誤算の連続で、上杉討伐中の毛利輝元と宇喜多秀家の上方での挙兵を想定しておらず、石田三成失脚後は家康に協力的で、家康の権力の正当性を裏づけていた現役の奉行衆のうち3人が西軍に与しました。しかし、結果的に家康が関ヶ原大乱に勝利したことで、家康の覇権確立は早まりました。
第2章●本間宏「上杉景勝の戦い」
徳川家康が上杉を攻めようと軍勢を率いて上方を出立したことが、関ヶ原大乱の直接的契機となりました。上杉軍は徳川を中心とする軍勢の殲滅を企図し、上方での西軍挙兵により徳川軍が撤退したさいには、追撃による殲滅を家老の直江兼続が主張した、との文献もありますが、史料の検討から、上杉は徳川軍を殲滅するどころか、防御に徹する姿勢を見せていた、と本論考は指摘します。上方で西軍が挙兵し、家康討伐の檄文が諸将に伝わると、上杉領への侵攻を窺っていた伊達も最上も撤兵を始めます。これに対して上杉は最上に対して高圧的な交渉姿勢を示し、最上が時間稼ぎをしていると、最上領へと攻め込みます。しかし、関ヶ原の戦いでの西軍の敗北により、上杉は大幅に所領を削減され、会津から米沢へと転封となります。
第3章●佐藤貴浩「伊達政宗の戦い」
伊達政宗は豊臣秀吉没後の政局で徳川家康側として振舞いますが、秀吉存命中に石田三成との交流があったことも指摘されています。しかし、1599年以降、政宗と三成との間で目立った関係は確認されていないようです。関ヶ原大乱において、政宗が家康から100万石を約束されながら反故にされたことは、大河ドラマや小説などでも取り上げられ、一般層にもよく知られているでしょうが、これに関して本論考は、戦国時代以来の社会的慣習である「自力次第」という前提があり、政宗が自力で獲得できなかった場合、100万石は保証されなかった、と指摘します。じっさい、加増を約束された領地のうち、伊達が自力で上杉から奪った地域は、戦後に家康から安堵されています。政宗が自力で家康に約束された領地を奪えなかった要因として、相馬や佐竹への警戒とともに、当時はまだ豊臣政権の枠組みが崩壊しておらず、一定以上その規制下にあったことから、戦国時代のように自由に行動できなかったことも指摘されています。
第4章●菅原義勝「最上義光の戦い」
最上義光は関ヶ原大乱において上杉と戦い、滅亡の危機に陥りましたが、最上と上杉との対立関係は上杉が会津に転封になる前からのことでした。義光は豊臣政権の傘下に入りましたが、豊臣秀次の失脚に伴って義光にも共謀の嫌疑がかけられるなど、豊臣政権への不満を蓄積していったようです。義光は越後時代の上杉と対立していた頃から徳川家康と交流があり、秀吉没後は、関ヶ原大乱の前から徳川方として行動していました。徳川軍を主力とする会津攻撃は、上方での西軍挙兵により中止となり、南部などが撤退したことに義光は動揺したようです。じっさい、上杉軍が最上領に攻め入り、義光は伊達に援軍を要請し、籠城策で何とか耐えているうちに、西軍敗退の報が伝わり、上杉軍は撤退し、最上軍は上杉軍に占拠されていた自領を回復します。
第二部 西国の武将
第5章●浅野友輔「毛利輝元の戦い」
毛利輝元は関ヶ原大乱における西軍の総大将ですが、通俗的見解では、輝元は総大将とはいっても「お飾り」にすぎず、石田三成と親しかった安国寺恵瓊に唆され、消極的に西軍に加担したにすぎなかった、と評価されていました。しかし、近年の研究が明らかにするのは、独自の思惑で戦いに加担する「野心家」としての輝元です。秀吉没後すぐの時点で、すでに三成たち奉行衆と家康との関係は悪化していました。輝元は、毛利家の後継者問題の関係で秀吉没後に三成たちに接近し、三成たちも家康との対立が深まるなかで、輝元との協力を強化していきます。しかし、輝元は家康と全面的に衝突するわけでもなく、1600年に家康が上杉討伐の軍を率いて会津に向かった時も、その直前に帰国していましたが、家康の方針に従っています。しかし、輝元はこの時点で家康との対峙を決意していたようです。ただ、史料からは、輝元が西軍に加担した決定的な理由は不明とのことです。輝元は大坂城に入り、西軍の総大将としても阿波や伊予など家康方の大名の領国へと侵攻します。大坂城に入りながら、対家康戦線には深入りせず、各地で領国拡大を目指すかのように侵攻する、野心的な輝元が窺えます。関ヶ原の戦いで西軍は大敗しますが、輝元は、一門の吉川広家と東軍の黒田長政たちとの誓約により、領地は安堵されると考えていました。しかし、領地は大きく減らされ、輝元は家督を息子の秀就に譲ります。
第6章●太田浩司「石田三成の戦い」
関ヶ原大乱における三成の戦略は、まずは美濃と尾張までを西軍の勢力圏とし、尾張の清須城主である福島正則もできれば味方に引き入れる、というものでした。しかし、福島正則が西軍に加担する可能性はほぼ皆無で、この点が三成の戦略の誤算の一つとなります。三成は伊勢方面を重視し、宇喜多秀家や長宗我部盛親や立花宗茂など大軍を投入します。美濃方面には、三成自身と織田秀信や島津義弘や小西行長など、北陸方面は大谷吉継など、京都の採集防衛線である近江の瀬田橋には太田一吉などを配置し、大坂城の留守居に増田長盛などの奉行衆を利越しました。三成は、尾張と美濃、さらには北陸の南北で東軍を迎撃しようと考えていました。
福島正則の西軍への加担が見込めないと判断した三成は、尾張と美濃の国境である木曽川を決戦場として想定し、これは東軍も同様だったようです。しかし、岐阜城があっけなく陥落したことで、決戦の地は美濃国内に移ります。三成は大垣城付近で雌雄を決するつもりだったようですが、東軍は大垣城を攻めず西進しようとしたため、1600年9月15日、関ヶ原での決戦となり、小早川秀秋が東軍側に立ったことと、西軍の毛利勢が動かなかったことにより、西軍は敗走します。小早川秀秋の「裏切り」に関しては、当日の開戦からしばらくしてではなく、直後だった、との見解が提示されています。逃亡した三成の捕縛状況については、同時代史料からは確認できないようです。本論考は、三成にとって関ヶ原の戦いは誤算の連続で、その最大のものは、福島正則が西軍に加担すると想定したことだろう、と指摘します。
第7章●大西泰正「宇喜多秀家の戦い」
宇喜多秀家は豊臣政権において、とくに官位では優遇されましたが、後ろ盾だった秀吉と岳父の前田利家が相次いで没し、豊臣政権最大の実力者となった家康により大坂城から伏見城へと追われて、その政治的求心力は失墜した、と本論考は指摘します。その結果、以前より秀家の大名集権策に不満を抱いていた有力家臣が決起し、御家騒動が勃発します。秀家はこれを独力で収拾できず、家康の裁定により一旦は落着します。しかし、その後騒動は再燃し、有力家臣が退去します。1600年6月、家康が上杉討伐軍を率いて大坂から出立すると、秀家もこの討伐軍に兵を派遣します。しかし、石田三成や大谷吉継たちが家康打倒を掲げて挙兵すると、秀家もこれに加担します。関ヶ原の戦いで西軍が敗れ、逃亡していた秀家は助命されて最終的には八丈島へと流されます。宇喜多旧臣が秀家の赦免に動きましたが、ついに赦免されることなく、秀家は八丈島で没しました。
第8章外岡慎一郎●「大谷吉継の戦い」
大谷吉継は病気を理由に文禄の役が始まって間もなく、豊臣政権中枢から退きますが、秀吉没後に石田三成が失脚し、家康主導の政権が成立すると、政権に復帰します。そこで吉継が担ったのは、かつて三成が担った分野でした。そのため、三成失脚の穴を埋める存在として、家康が吉継に政権復帰を求めたのではないか、と推測されます。吉継は、家康に従って上杉討伐軍に参陣したものの、その途中で三成と会って家康討伐の意思を打ち明けられ、三成と共に決起した、と軍記類には見えます。本論考は、軍記類の作為的要素を指摘しつつ、三成による大老衆を引き入れての大坂城占拠構想が、豊臣政権を守ることになると確信して、三成と協働したのだろう、と指摘します。伏見城陥落後、吉継は北陸戦線で前田利長の南侵に備えます。しかし、吉継は東軍の美濃への進撃に備えて、1600年8月下旬には美濃へと向かいます。関ヶ原の戦いにおける吉継の行動は、軍記類や戦功書に依拠するしかなく、確定的ではありませんが、小早川秀秋の軍勢に攻められ、序盤でほぼ壊滅したのではないか、と推測されます。
第9章●大西泰正「前田利長の戦い」
前田利長は、父である利家の没後、「大老」に昇格しますが、政権中枢での政治的経験に乏しい利長には負担が重すぎた、と本論考は評価します。1599年8月、理由は不明ながら、利長は領国へと帰ります。その翌月、伏見城の家康は大軍を率いて大坂城に入り、家康の要求により宇喜多秀家は大坂城から伏見城へと移ります。これを家康によるクーデタと評価する見解もあります。家康は加藤清正とともに利長に対して、上洛無用と通告し、利長と家康との関係は悪化します。この後、家康が「加賀征伐」を企図した、との通説に本論考は否定的です。前田と徳川との関係は、利長の実母の江戸下向もあって改善されました。これは前田にとって屈辱的と一般に解釈されていますが、豊臣政権への人質として上方居住を強制されていた利長の妻の帰国が許可されるなど、かなり好条件の講和だった、と本論考は指摘します。そのため、関ヶ原大乱において利長は家康側に立ちますが、大聖寺城の攻略後にいったん金沢に軍を戻した理由については、大谷吉継の謀略によるものではなく、救援すべき伏見城の陥落と、越後の一揆のためだろう、と本論考は指摘します。本論考は利長について、関ヶ原大乱での功績により20万石程度の加増を得たものの、政権中枢から追われて一地方大名に転落した、と負の側面も指摘します。
第10章●中脇聖「長宗我部盛親のたたかい」
長宗我部盛親は、豊臣(羽柴)政権において官位を授与されず、冷遇されていました。一方、長宗我部家と徳川家は、豊臣政権で良好な関係にありました。その盛親は、関ヶ原の戦いにおいて西軍に加担します。これは、豊臣政権内での地位向上(叙位任官)や加増を提示されたためかもしれない、と本論考は推測します。しかし、西軍の敗北により土佐へ帰国します。盛親は1600年11月に大坂に入り、家康に降伏します。土佐没収の代わりに、「御堪忍分」の給付と家康への「出仕」が認められたようです。しかし、こうした盛親の方針に反対し、土佐一国安堵を求める長宗我部家臣団が「浦戸一揆」を起こします。その首謀者は、盛親に近い重臣たちではなく、長宗我部家に臣従した旧国衆の津野や吉良でした。浦戸一揆は鎮圧されますが、これにより盛親は改易とされ、浪人となります。その後の盛親は大名復帰に向けて精力的に活動していたようですが、それは叶いませんでした。
第11章●中西豪「鍋島直茂の戦い」
鍋島直茂は龍造寺家の重臣、また龍造寺家を飛躍的に発展させた龍造寺隆信の義弟として、隆信の戦死後に龍造寺家の実権を掌握します。直茂は徳川家康と親しく、1600年6月に上杉討伐が発動されたさいに、西日本の諸大名は伏見や大坂の留守居もしくは在国が命じられたなか、従軍を申し出ます。しかし家康は直茂に、帰国して豊前の黒田如水とともに西国の押さえとなるよう命じます。直茂はその代わりに、息子の勝茂と龍造寺家当主の高房を従軍させます。しかし、勝茂は京都近辺に1ヶ月近くも留まり、石田三成たちの挙兵により東国への関が閉ざされ、西軍に加担します。本論考は、勝茂が独断で積極的に西軍に加担した可能性を指摘します。
勝茂は伊勢方面で西軍として奮戦し、阿濃津城や松阪城を攻略しますが、関ヶ原の戦い直前には消極的になり、西軍の敗北後、勝茂は大坂の屋敷で謹慎して家康の沙汰を待ちます。勝茂は、黒田長政や井伊直政たちの口添えもあり、赦免されます。一方、肥前に留まった直茂は、息子の勝茂が家康と敵対したことに動揺したようです。直茂は、1600年9月の時点で東軍として行動する黒田如水とも断交し、西軍敗北の報が伝わってからは、家康との合戦も一時覚悟していたようです。けっきょく、直茂も勝茂も終始一貫して西軍の立場を標榜しており、親子で東西両軍に分かれて龍造寺家の安泰を図ろうとしたような事実はなかった、というわけです。
第12章●渡邊大門「小早川秀秋、黒田長政、福島正則の戦い」
小早川秀秋と黒田長政と福島正則は、関ヶ原の戦いにおける東軍の勝利に貢献しましたが、黒田長政が秀吉没後に家康の養女を妻に迎え、福島正則が養子の妻に家康の養女を迎えたように、この二人が当初から家康側として行動したのに対して、小早川秀秋は関ヶ原の戦い前日まで去就に迷っていたようです。黒田長政は合戦だけではなく、西軍側もしくは西軍寄りの諸将の調略でも東軍の勝利に貢献し、福島正則は岐阜城攻略や関ヶ原での決戦など戦場で大きく貢献しました。小早川秀秋の決断に大きな影響を与えたのは、稲葉正成と平岡頼勝の重臣2人でした。東軍も西軍も、この2人を重視していたようです。関ヶ原の戦い前日、小早川秀秋は松尾山に着陣しますが、これは石田三成からの攻撃を避けるためだった、との見解も提示されています。三成から警戒されていることを小早川秀秋も認識していた、ということでしょうか。同日、小早川秀秋は家康と和睦し、翌日の決戦では、当初より東軍として行動し、軍功を挙げます。通説で言われる、関ヶ原の戦いにおける松平忠吉と井伊直政の抜け駆けに関しては、抜け駆けではなく、家康から戦闘指揮を任された直政が、正則に先鋒を譲るよう、要請したのではないか、と推測されています。
終章●白峰旬「関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」
関ヶ原の戦いについて記された数少ない一次史料である近衛前久書状が取り上げられています。これは1600年9月20日付で前久が息子の信尹に送った書状で、関ヶ原の戦いや関連する情報が記されています。本論考はこの書状から、小早川秀秋の布陣場所が松尾山とは記されていないことや、戦場の名称や、吉川広家が家康と交渉した理由など、重要な情報を指摘します。こうした情報により、関ヶ原の戦いの主戦場や、参戦武将の布陣位置など、通説を再検証していく必要があることも了解されます。関ヶ原の戦いはたいへん有名ですが、その基本的事実の解明が必要であることは、本論考、さらには本書全体からも納得させられます。
序章●白峰旬「「関ヶ原の戦い」の従来イメージ打破に向けて」
関ヶ原の戦いに関するじゅうらいの通俗的印象の見直しが提言されています。その多くは江戸時代の軍記物に由来し、多分に創作が含まれています。近代以降は、軍記物を踏襲した歴史小説により、そうした俗説が定着しました。たとえば、徳川家康が去就を明確にしない小早川秀秋の陣営に鉄砲を打ちかけ、小早川秀秋が東軍への寝返りを決めた、とする「問鉄砲」の逸話です。また、徳川家の覇権が260年以上続いたため、徳川家および家康に都合のよい歴史像が江戸自体に構築されていった、という事情もあります。
また本書は、戦後歴史学が軍事史研究を避ける傾向にあったことも、関ヶ原の戦いに関する俗説が定着した一因になった、と指摘します。本書は、1600年9月15日(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)の「本戦」だけではなく、より大きな視野で、「関ヶ原の大乱」として1600年の政治・軍事的騒乱状態を解明しなければならない、と提言します。本書は、同時代人の認識を考慮して、1600年の日本における政治・軍事的騒乱状態を「慶長庚子の大乱」と呼称するよう、提案しています。
第一部 東国の武将
第1章●水野伍貴「徳川家康の戦い」
関ヶ原の戦い前の徳川家康の意図について、すでに簒奪を考えており、豊臣秀吉の存命中から交易などでさまざまな構想を抱いており、秀吉没後、大老衆を一人ずつ豊臣公儀から孤立させ、排斥していくことで政権掌握を図った、と推測されています。関ヶ原の戦い前(1600年7月)の小山評定をめぐる議論に関しては、肯定説が採用されています。西軍挙兵後、家康は当初、長期戦を覚悟していましたが、福島正則たちが岐阜城を陥落させると、強行軍で美濃へと向かい、中山道を進んでいた息子の秀忠にも美濃への急行を命じます。本論考は、関ヶ原大乱は家康にとって誤算の連続で、上杉討伐中の毛利輝元と宇喜多秀家の上方での挙兵を想定しておらず、石田三成失脚後は家康に協力的で、家康の権力の正当性を裏づけていた現役の奉行衆のうち3人が西軍に与しました。しかし、結果的に家康が関ヶ原大乱に勝利したことで、家康の覇権確立は早まりました。
第2章●本間宏「上杉景勝の戦い」
徳川家康が上杉を攻めようと軍勢を率いて上方を出立したことが、関ヶ原大乱の直接的契機となりました。上杉軍は徳川を中心とする軍勢の殲滅を企図し、上方での西軍挙兵により徳川軍が撤退したさいには、追撃による殲滅を家老の直江兼続が主張した、との文献もありますが、史料の検討から、上杉は徳川軍を殲滅するどころか、防御に徹する姿勢を見せていた、と本論考は指摘します。上方で西軍が挙兵し、家康討伐の檄文が諸将に伝わると、上杉領への侵攻を窺っていた伊達も最上も撤兵を始めます。これに対して上杉は最上に対して高圧的な交渉姿勢を示し、最上が時間稼ぎをしていると、最上領へと攻め込みます。しかし、関ヶ原の戦いでの西軍の敗北により、上杉は大幅に所領を削減され、会津から米沢へと転封となります。
第3章●佐藤貴浩「伊達政宗の戦い」
伊達政宗は豊臣秀吉没後の政局で徳川家康側として振舞いますが、秀吉存命中に石田三成との交流があったことも指摘されています。しかし、1599年以降、政宗と三成との間で目立った関係は確認されていないようです。関ヶ原大乱において、政宗が家康から100万石を約束されながら反故にされたことは、大河ドラマや小説などでも取り上げられ、一般層にもよく知られているでしょうが、これに関して本論考は、戦国時代以来の社会的慣習である「自力次第」という前提があり、政宗が自力で獲得できなかった場合、100万石は保証されなかった、と指摘します。じっさい、加増を約束された領地のうち、伊達が自力で上杉から奪った地域は、戦後に家康から安堵されています。政宗が自力で家康に約束された領地を奪えなかった要因として、相馬や佐竹への警戒とともに、当時はまだ豊臣政権の枠組みが崩壊しておらず、一定以上その規制下にあったことから、戦国時代のように自由に行動できなかったことも指摘されています。
第4章●菅原義勝「最上義光の戦い」
最上義光は関ヶ原大乱において上杉と戦い、滅亡の危機に陥りましたが、最上と上杉との対立関係は上杉が会津に転封になる前からのことでした。義光は豊臣政権の傘下に入りましたが、豊臣秀次の失脚に伴って義光にも共謀の嫌疑がかけられるなど、豊臣政権への不満を蓄積していったようです。義光は越後時代の上杉と対立していた頃から徳川家康と交流があり、秀吉没後は、関ヶ原大乱の前から徳川方として行動していました。徳川軍を主力とする会津攻撃は、上方での西軍挙兵により中止となり、南部などが撤退したことに義光は動揺したようです。じっさい、上杉軍が最上領に攻め入り、義光は伊達に援軍を要請し、籠城策で何とか耐えているうちに、西軍敗退の報が伝わり、上杉軍は撤退し、最上軍は上杉軍に占拠されていた自領を回復します。
第二部 西国の武将
第5章●浅野友輔「毛利輝元の戦い」
毛利輝元は関ヶ原大乱における西軍の総大将ですが、通俗的見解では、輝元は総大将とはいっても「お飾り」にすぎず、石田三成と親しかった安国寺恵瓊に唆され、消極的に西軍に加担したにすぎなかった、と評価されていました。しかし、近年の研究が明らかにするのは、独自の思惑で戦いに加担する「野心家」としての輝元です。秀吉没後すぐの時点で、すでに三成たち奉行衆と家康との関係は悪化していました。輝元は、毛利家の後継者問題の関係で秀吉没後に三成たちに接近し、三成たちも家康との対立が深まるなかで、輝元との協力を強化していきます。しかし、輝元は家康と全面的に衝突するわけでもなく、1600年に家康が上杉討伐の軍を率いて会津に向かった時も、その直前に帰国していましたが、家康の方針に従っています。しかし、輝元はこの時点で家康との対峙を決意していたようです。ただ、史料からは、輝元が西軍に加担した決定的な理由は不明とのことです。輝元は大坂城に入り、西軍の総大将としても阿波や伊予など家康方の大名の領国へと侵攻します。大坂城に入りながら、対家康戦線には深入りせず、各地で領国拡大を目指すかのように侵攻する、野心的な輝元が窺えます。関ヶ原の戦いで西軍は大敗しますが、輝元は、一門の吉川広家と東軍の黒田長政たちとの誓約により、領地は安堵されると考えていました。しかし、領地は大きく減らされ、輝元は家督を息子の秀就に譲ります。
第6章●太田浩司「石田三成の戦い」
関ヶ原大乱における三成の戦略は、まずは美濃と尾張までを西軍の勢力圏とし、尾張の清須城主である福島正則もできれば味方に引き入れる、というものでした。しかし、福島正則が西軍に加担する可能性はほぼ皆無で、この点が三成の戦略の誤算の一つとなります。三成は伊勢方面を重視し、宇喜多秀家や長宗我部盛親や立花宗茂など大軍を投入します。美濃方面には、三成自身と織田秀信や島津義弘や小西行長など、北陸方面は大谷吉継など、京都の採集防衛線である近江の瀬田橋には太田一吉などを配置し、大坂城の留守居に増田長盛などの奉行衆を利越しました。三成は、尾張と美濃、さらには北陸の南北で東軍を迎撃しようと考えていました。
福島正則の西軍への加担が見込めないと判断した三成は、尾張と美濃の国境である木曽川を決戦場として想定し、これは東軍も同様だったようです。しかし、岐阜城があっけなく陥落したことで、決戦の地は美濃国内に移ります。三成は大垣城付近で雌雄を決するつもりだったようですが、東軍は大垣城を攻めず西進しようとしたため、1600年9月15日、関ヶ原での決戦となり、小早川秀秋が東軍側に立ったことと、西軍の毛利勢が動かなかったことにより、西軍は敗走します。小早川秀秋の「裏切り」に関しては、当日の開戦からしばらくしてではなく、直後だった、との見解が提示されています。逃亡した三成の捕縛状況については、同時代史料からは確認できないようです。本論考は、三成にとって関ヶ原の戦いは誤算の連続で、その最大のものは、福島正則が西軍に加担すると想定したことだろう、と指摘します。
第7章●大西泰正「宇喜多秀家の戦い」
宇喜多秀家は豊臣政権において、とくに官位では優遇されましたが、後ろ盾だった秀吉と岳父の前田利家が相次いで没し、豊臣政権最大の実力者となった家康により大坂城から伏見城へと追われて、その政治的求心力は失墜した、と本論考は指摘します。その結果、以前より秀家の大名集権策に不満を抱いていた有力家臣が決起し、御家騒動が勃発します。秀家はこれを独力で収拾できず、家康の裁定により一旦は落着します。しかし、その後騒動は再燃し、有力家臣が退去します。1600年6月、家康が上杉討伐軍を率いて大坂から出立すると、秀家もこの討伐軍に兵を派遣します。しかし、石田三成や大谷吉継たちが家康打倒を掲げて挙兵すると、秀家もこれに加担します。関ヶ原の戦いで西軍が敗れ、逃亡していた秀家は助命されて最終的には八丈島へと流されます。宇喜多旧臣が秀家の赦免に動きましたが、ついに赦免されることなく、秀家は八丈島で没しました。
第8章外岡慎一郎●「大谷吉継の戦い」
大谷吉継は病気を理由に文禄の役が始まって間もなく、豊臣政権中枢から退きますが、秀吉没後に石田三成が失脚し、家康主導の政権が成立すると、政権に復帰します。そこで吉継が担ったのは、かつて三成が担った分野でした。そのため、三成失脚の穴を埋める存在として、家康が吉継に政権復帰を求めたのではないか、と推測されます。吉継は、家康に従って上杉討伐軍に参陣したものの、その途中で三成と会って家康討伐の意思を打ち明けられ、三成と共に決起した、と軍記類には見えます。本論考は、軍記類の作為的要素を指摘しつつ、三成による大老衆を引き入れての大坂城占拠構想が、豊臣政権を守ることになると確信して、三成と協働したのだろう、と指摘します。伏見城陥落後、吉継は北陸戦線で前田利長の南侵に備えます。しかし、吉継は東軍の美濃への進撃に備えて、1600年8月下旬には美濃へと向かいます。関ヶ原の戦いにおける吉継の行動は、軍記類や戦功書に依拠するしかなく、確定的ではありませんが、小早川秀秋の軍勢に攻められ、序盤でほぼ壊滅したのではないか、と推測されます。
第9章●大西泰正「前田利長の戦い」
前田利長は、父である利家の没後、「大老」に昇格しますが、政権中枢での政治的経験に乏しい利長には負担が重すぎた、と本論考は評価します。1599年8月、理由は不明ながら、利長は領国へと帰ります。その翌月、伏見城の家康は大軍を率いて大坂城に入り、家康の要求により宇喜多秀家は大坂城から伏見城へと移ります。これを家康によるクーデタと評価する見解もあります。家康は加藤清正とともに利長に対して、上洛無用と通告し、利長と家康との関係は悪化します。この後、家康が「加賀征伐」を企図した、との通説に本論考は否定的です。前田と徳川との関係は、利長の実母の江戸下向もあって改善されました。これは前田にとって屈辱的と一般に解釈されていますが、豊臣政権への人質として上方居住を強制されていた利長の妻の帰国が許可されるなど、かなり好条件の講和だった、と本論考は指摘します。そのため、関ヶ原大乱において利長は家康側に立ちますが、大聖寺城の攻略後にいったん金沢に軍を戻した理由については、大谷吉継の謀略によるものではなく、救援すべき伏見城の陥落と、越後の一揆のためだろう、と本論考は指摘します。本論考は利長について、関ヶ原大乱での功績により20万石程度の加増を得たものの、政権中枢から追われて一地方大名に転落した、と負の側面も指摘します。
第10章●中脇聖「長宗我部盛親のたたかい」
長宗我部盛親は、豊臣(羽柴)政権において官位を授与されず、冷遇されていました。一方、長宗我部家と徳川家は、豊臣政権で良好な関係にありました。その盛親は、関ヶ原の戦いにおいて西軍に加担します。これは、豊臣政権内での地位向上(叙位任官)や加増を提示されたためかもしれない、と本論考は推測します。しかし、西軍の敗北により土佐へ帰国します。盛親は1600年11月に大坂に入り、家康に降伏します。土佐没収の代わりに、「御堪忍分」の給付と家康への「出仕」が認められたようです。しかし、こうした盛親の方針に反対し、土佐一国安堵を求める長宗我部家臣団が「浦戸一揆」を起こします。その首謀者は、盛親に近い重臣たちではなく、長宗我部家に臣従した旧国衆の津野や吉良でした。浦戸一揆は鎮圧されますが、これにより盛親は改易とされ、浪人となります。その後の盛親は大名復帰に向けて精力的に活動していたようですが、それは叶いませんでした。
第11章●中西豪「鍋島直茂の戦い」
鍋島直茂は龍造寺家の重臣、また龍造寺家を飛躍的に発展させた龍造寺隆信の義弟として、隆信の戦死後に龍造寺家の実権を掌握します。直茂は徳川家康と親しく、1600年6月に上杉討伐が発動されたさいに、西日本の諸大名は伏見や大坂の留守居もしくは在国が命じられたなか、従軍を申し出ます。しかし家康は直茂に、帰国して豊前の黒田如水とともに西国の押さえとなるよう命じます。直茂はその代わりに、息子の勝茂と龍造寺家当主の高房を従軍させます。しかし、勝茂は京都近辺に1ヶ月近くも留まり、石田三成たちの挙兵により東国への関が閉ざされ、西軍に加担します。本論考は、勝茂が独断で積極的に西軍に加担した可能性を指摘します。
勝茂は伊勢方面で西軍として奮戦し、阿濃津城や松阪城を攻略しますが、関ヶ原の戦い直前には消極的になり、西軍の敗北後、勝茂は大坂の屋敷で謹慎して家康の沙汰を待ちます。勝茂は、黒田長政や井伊直政たちの口添えもあり、赦免されます。一方、肥前に留まった直茂は、息子の勝茂が家康と敵対したことに動揺したようです。直茂は、1600年9月の時点で東軍として行動する黒田如水とも断交し、西軍敗北の報が伝わってからは、家康との合戦も一時覚悟していたようです。けっきょく、直茂も勝茂も終始一貫して西軍の立場を標榜しており、親子で東西両軍に分かれて龍造寺家の安泰を図ろうとしたような事実はなかった、というわけです。
第12章●渡邊大門「小早川秀秋、黒田長政、福島正則の戦い」
小早川秀秋と黒田長政と福島正則は、関ヶ原の戦いにおける東軍の勝利に貢献しましたが、黒田長政が秀吉没後に家康の養女を妻に迎え、福島正則が養子の妻に家康の養女を迎えたように、この二人が当初から家康側として行動したのに対して、小早川秀秋は関ヶ原の戦い前日まで去就に迷っていたようです。黒田長政は合戦だけではなく、西軍側もしくは西軍寄りの諸将の調略でも東軍の勝利に貢献し、福島正則は岐阜城攻略や関ヶ原での決戦など戦場で大きく貢献しました。小早川秀秋の決断に大きな影響を与えたのは、稲葉正成と平岡頼勝の重臣2人でした。東軍も西軍も、この2人を重視していたようです。関ヶ原の戦い前日、小早川秀秋は松尾山に着陣しますが、これは石田三成からの攻撃を避けるためだった、との見解も提示されています。三成から警戒されていることを小早川秀秋も認識していた、ということでしょうか。同日、小早川秀秋は家康と和睦し、翌日の決戦では、当初より東軍として行動し、軍功を挙げます。通説で言われる、関ヶ原の戦いにおける松平忠吉と井伊直政の抜け駆けに関しては、抜け駆けではなく、家康から戦闘指揮を任された直政が、正則に先鋒を譲るよう、要請したのではないか、と推測されています。
終章●白峰旬「関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」
関ヶ原の戦いについて記された数少ない一次史料である近衛前久書状が取り上げられています。これは1600年9月20日付で前久が息子の信尹に送った書状で、関ヶ原の戦いや関連する情報が記されています。本論考はこの書状から、小早川秀秋の布陣場所が松尾山とは記されていないことや、戦場の名称や、吉川広家が家康と交渉した理由など、重要な情報を指摘します。こうした情報により、関ヶ原の戦いの主戦場や、参戦武将の布陣位置など、通説を再検証していく必要があることも了解されます。関ヶ原の戦いはたいへん有名ですが、その基本的事実の解明が必要であることは、本論考、さらには本書全体からも納得させられます。
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