「なぜ日本は真珠湾攻撃を避けられなかったのか」そこにある不都合な真実

 表題の記事が公開されました。日本が対米開戦(真珠湾攻撃)へと向かった理由を、進化政治学的観点から検証しています。進化政治学とは、進化論的視点から政治現象を分析する手法とのことです(関連記事)。まず、対米開戦か避戦か悩んでいた日本の指導層にとって開戦を決意する直接的な引き金・最後の一押しがハル・ノートだった、との見解は妥当だと思います。ハル・ノートのような「他国の不当な行為は国内アクターの憤りを生みだすため、それは指導者にとり攻撃的政策への支持を得るための戦略的資源となる」との指摘も尤もだと思います。

 ただ、対米開戦の直接的要因をハル・ノートによる日本の政策決定者の憤りとまで言ってしまうと、かなり問題があるように思います。ハル・ノートの内容を知った日本人の多くに、感情の一要素として憤りはあったでしょうから、憤りを開戦理由の一つとして挙げるのであれば、無理筋とまでは言えないでしょうが。そもそも、憤りが攻撃に直結するとは限らず、憤りをもたらすような「他国の不当な行為」は近代日本において他にもありましたが、たとえば三国干渉では、日本政府は「臥薪嘗胆」を選択し、国民もおおむね納得しています。ポーツマス条約では日本国民(の少なくとも一部)はその内容に憤激しましたが、政府は対露戦再開を選択しませんでした。

 ハル・ノートが対米開戦の直接的な引き金・最後の一押しになったとしても、それを心理面から解説するならば、憤りというよりは、選択肢が限定されて追い詰められ、楽観論に立って賭けに出た、という側面の方がよほど大きかったように思います。この時点で日本の選択肢が限定されてしまったのは、満洲事変、盧溝橋事件後の日中停戦の可能性、三国同盟、南部仏印進駐といった局面での日本の選択の積み重ねの結果と言うべきでしょう。

 1941年後半時点で、日米間の国力差は大きくとも、短期的には太平洋において直接運用できる戦力では日本側が有利です。したがって、この状況を活用して戦果を挙げれば、イギリスとの関係からヨーロッパ戦線も考慮しなければならないアメリカ合衆国が二正面作戦を嫌がり、ハル・ノートよりもずっと日本側に有利な条件で、短期間の戦闘の後に日本と講和を締結するかもしれない、という希望的観測を当時の日本の(少なからぬ)指導層が抱いたとしても、さほど無理はないように思います。

 真珠湾攻撃へと至る選択を心理的に考察するならば、憤りによる攻撃衝動を強調するのではなく、開戦しても比較的短期間でアメリカ合衆国が対日講和に応じるかもしれない、という希望的観測に日本の指導層がなぜ縋ったのか、という方を問題にすべきであるように思います。ヒトの自己評価の高さと楽観的傾向は進化心理学でも指摘されていたと思いますので、そうした観点から当時の日本の指導層の心理と選択を検証するのは、あるいは有意義かもしれません。

 私は、歴史学で指摘されている、対米開戦かアメリカ合衆国の要求を受け入れての避戦かという選択に指導層も国民も悩み、どちらでもよいから早く決めて楽になりたかった、との見解(関連記事)の方が、対米開戦の心理的観点としては本論考よりもずっと説得的だと思います。対米開戦の直接的要因は、憤りというよりも、アメリカ合衆国の要求を受け入れた結果としての、国民や右翼や軍部中堅層以下の憤激という目先の困難から、指導層が逃れようとしたことにあるように思います(憤激が理由ではないか、との反論もあるかもしれませんが、憤激による衝動的な攻撃と、憤激による反応を予想し恐れての攻撃はまるっきり別物です)。その前提となるのは、上述した、日本国家が自身の選択肢を狭めていったことです。

 ヒトの重要な認知的特徴として、将来を見通す能力に長けていることがありますが、その意味で日本の対米開戦は、本書の指摘とは異なり、「戦前社会の未成熟さ」という側面が否定できないように思います。とはいえ、「明日を乗り切らねば10年後はない」ことも確かで、目前の困難を避けること自体は、選択肢として有望な場合もあるとは思います。少なくとも短期的には対米戦の戦力面で日本が有利だった以上、アメリカ合衆国の要求を受け入れて避戦を選択した結果、内戦・内乱で日本国内が分裂し、帝国領や中国の占領地を失うか、そこまでいかずとも対米の「戦機」を逃す可能性は低くなかったように思います。当時の日本の指導層の未熟さ・無能をあまりにも強調することは、現在進行形で起きているかもしれない問題を見逃す可能性につながるという意味で、問題があると考えています。

 そもそも、進化論的視点から政治現象を分析するとはいっても、いかに一般向けの媒体で一般受けを狙っただろうとはいえ、「怒りという普遍的な人間本性(human nature)」による攻撃衝動で対米開戦を説明してしまうようでは、少なくとも現時点において、進化政治学は歴史学に何か資するどころか、むしろ短絡化という意味で有害でさえあるように思います。私は、ヒトが生物である以上、そのあらゆる行動に進化的基盤があると言っても大過はないと考えており、その意味で、進化心理学が発展し、ヒトを対象とするあらゆる分野で基礎的認識・基盤となるよう、期待しています。ただ現時点では、進化学やその上位分野としての生物学の基盤に化学、さらには物理学があるというような意味で、進化心理学が確たる基盤を提供できているとは、とても言えないでしょう。少なくとも本論考を読んだ限りでは、進化政治学も現時点において、とても歴史的事象を的確に説明できる方法論にはなり得ない、と思います。まあ、一般向け媒体の記事ではなく、専門書を読めばかなり説得的なのかもしれませんが。

 意思決定も含めてヒトの行動が進化の所産であることは間違いないとして、ヒトはある特定の感情を抱いても状況を判断してさまざまな行動を取れるわけで、それはヒトに時として相反するような複数の認知的傾向があるからでしょう(関連記事)。恐らくこれは多くの非ヒト動物も同様で、これも進化の所産であり、そのように状況に応じて柔軟な行動を選択できる種でなければ存続が難しいことを反映しているのでしょう。対米開戦を「憤りという感情的な意思決定の産物」で説明してしまう本論考は、とても「抽象的かつ冷徹な科学的推論」ではなく、歴史学が「これまで積みあげてきた豊かな史的叙述」の方こそ、少なくとも現時点では「複雑な諸変数の産物」である戦争をよりよく分析できているように思います。その意味で、本論考は歴史学者にとって「不都合」な見解を提示できていない、と言うべきでしょう。

 同様に、政治的左派および右派に対して不都合な観点を提示した、との本論考の主張も的外れだと思います。戦争の起源をめぐる議論とも関わってきますが(関連記事)、左派にとって不都合となるのは、「仮に人間に戦争を志向する本性(この際、憤りに駆られた攻撃の衝動)があるなら、戦争を起こした当事者の責任を追及することは不毛となるからだ」と本論考は指摘します。しかし、戦争も、複数の認知的基盤に基づき、さまざまな条件・情報を考慮して行なうヒトの選択の一つです。「憤りに駆られた攻撃の衝動」がヒトの「本性」であることは間違いないでしょうが、「憤りに駆られた攻撃の衝動」が攻撃・戦争に直結するとは限りません。「本性」に基づく行為ならば責任の追及は不毛といった考えは、自然主義的誤謬に他ならないと思います。それは、暴力がヒトの本能だとすると戦争は不可避の運命になる、といった言説と同様の誤りと言うべきでしょう。

 右派にとって、対米開戦が「憤りという感情的な意思決定の産物」ならば、冷徹な合理的計算の産物ではないので、対米開戦の擁護は難しくなる、と本論考は指摘します。しかし、右派による対米開戦擁護の基調は、理不尽なアメリカ合衆国に対する日本の自衛だった、というものでしょうから、理不尽なハル・ノートに対する憤りによる感情的な反応としての対米開戦という説明が、右派の多くにとって不都合になるとは思えません。これは藁人形論法のように思います。

 そもそも、進化政治学の3前提自体にも疑問が残り、進化を論じるのに「目的」という言葉を安易に用いることもどうかと思いますが、「現代の人間の遺伝子は最後の氷河期を経験した遺伝子から事実上変わらない」との前提も問題になる、と私は考えています。ラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)が、完新世ヨーロッパのヒト集団において強い選択を受けてきたことは、よく知られています(関連記事)。その他には、チベット人が完新世に高地適応関連遺伝子で強い選択を受けた可能性も指摘されています(関連記事)。

 ヒトの進化は現在でも続いており(関連記事)、「現代の人間の遺伝子は最後の氷河期を経験した遺伝子から事実上変わらない」とはとても言えず、それが認知傾向と関わる遺伝子にも当てはまる可能性は、とても無視できないでしょう。そもそも、狩猟採集社会とはいっても、大型動物や小型動物や植物や海産物など、どれを主要な食資源とするかにより、選択圧も変わってくると思います。それは、認知傾向と関わる遺伝子も例外ではないでしょう。さらに、定住と農耕の開始は、人口密度の増加など他集団との関係性の変容をもたらし、狩猟採集社会とは異なる選択圧を生じさせたでしょう。もちろん、現代人全員に共通する多くの認知傾向はあるとしても、「今日の政治現象は狩猟採集時代の行動様式から説明される必要がある」とは、とても言えないように思います。進化心理学において、「現代の人間の遺伝子は最後の氷河期を経験した遺伝子から事実上変わらない」とか、「今日の政治現象は狩猟採集時代の行動様式から説明される必要がある」とかいった見解が現在では主流なのか、不勉強なので分かりませんが、そうだとしたら、少なくともある程度は柔軟に改めていくべきだと思います。

 率直に言って、本論考を読んでも、少なくとも現時点では進化政治学が政治的事象の解明に大きく資するようには思えません。上述のように、専門書を読めば説得的かもしれませんし、進化学自体は、ヒトに関する学問の基盤になるべきだとは思います。しかし本論考は、進化政治学のみならず、進化心理学を否定したい人々にとって、援護射撃になっているように思います。Twitter上で進化心理学の伝道師を自任しているらしいアカウントは、本論考に対して、「伊藤先生はニッポンの政治学に革命をもたらす方と思います。かつてE.O.ウィルソンが思い描いたあの"ニューシンセシス"の実現を、この国でぜひとも率いてください」と発言していますが、まず言うべきは、このような第三者が読んで恥ずかしくなるような実態から大きくずれたお世辞ではなく、いかに一般向け媒体とはいえ、進化政治学のみならず進化心理学も毀損するような短絡化を諫めることでしょう。

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