光成準治『本能寺前夜 西国をめぐる攻防』
角川選書の一冊として、角川学芸出版より2020年2月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、地域としては畿内よりも西、とくに毛利を、年代は織田信長の上洛から本能寺の変までを主要な対象として、織田権力と西国の大名・領主層との関係に着目し、本能寺の変を検証しています。本書から窺えるのは、戦国時代の領主層の自立性と、それがとくに境目の領主である場合、勢力間の争いを惹起しやすい、ということです。これは本書の主要な対象地域だけではなく、全国的に当てはまることなのでしょう。また、領主連合的性格の強い毛利はとくにそうですが、一応は傘下に入った領主も、自立的であるため、毛利のような上位権力の支持に従順とは限らず、これも戦国時代の情勢を流動化させます。
織田と毛利は、共に足利義昭を奉じる勢力として、同盟関係にありました。これは、織田信長が義昭を都から追放した後もしばらくは変わりませんでした。じっさい、信長は義昭追放後もその嫡男を擁しており、毛利が仲介して、信長と義昭との間で義昭の都への帰還も交渉されていました。ただ、義昭が将軍就任後、織田と毛利の勢力圏が接近していくにつれて、両者は相互を警戒するようになります。また、上述の領主層の自立的性格という構造的問題もあり、両者の間の関係は悪化する方向へと向かいます。それでも、織田も毛利も互いに決定的な関係悪化を避けるようにしていました。しかし、毛利も織田の西国への勢力圏拡大志向に脅威を強く認識するようになり、ついに織田との戦いを決意し、領国に義昭を迎えます。ここから、西国の諸勢力を捲き込み、織田と毛利の本格的な戦いが始まります。織田にとっても、別所や荒木の寝返りなどといった苦境の場面はありましたが、苦しいのは毛利も同様でした。
別所や荒木の織田方からの離反など、毛利も荷担した反織田勢力が優勢な局面もあったものの、上述のように、領主連合的性格の強い毛利は、容易には当主の思惑通りに軍事動員できない弱点も抱えていました。そのため毛利輝元は、武田勝頼から上洛の好機と勧められても、上洛戦を断念しました。これを毛利の弱さと見た宇喜多は、織田方に寝返ります。毛利首脳陣も、毛利が弱さを見せたら、宇喜多のような境目の領主が離反する危険性をよく認識していましたが、それでも防ぐことはできませんでした。南条も毛利方から織田方へと寝返り、次第に毛利は劣勢になっていきます。とはいえ、織田は一方的に侵攻できたわけでも、侵攻一本槍でもなく、和平の意思も示しており、硬軟両路線で毛利に対峙しました。本書は、織田家中において対毛利政策の武力討伐路線の主な担い手が羽柴秀吉、講和路線の主な担い手が明智光秀だった、と推測します。そのため、織田家中の対毛利政策の路線で最終的に武力討伐が採用された場合、光秀が失脚する危険性もあっただろう、と本書は指摘します。このように信長は家臣同士を競争させることで、勢力を拡大していきました。
そうした状況下で、本能寺の変の直前には、光秀が織田側の窓口となっていた長宗我部に対して、信長が討伐方針を明確にし、信長の息子の信孝が総大将的な地位に抜擢されました。また、信長自身が毛利主力との決戦を選択して自ら出陣することになり、対毛利講和路線も破綻しました。これらの情勢変化により、光秀は失脚の危機感を募らせ、信長とすでに家督を継承していた信忠が都にわずかな兵とともにいる「千載一遇の好機」に遭遇し、謀反を決意したのではないか、というのが本書の見通しです。
織田と毛利は、共に足利義昭を奉じる勢力として、同盟関係にありました。これは、織田信長が義昭を都から追放した後もしばらくは変わりませんでした。じっさい、信長は義昭追放後もその嫡男を擁しており、毛利が仲介して、信長と義昭との間で義昭の都への帰還も交渉されていました。ただ、義昭が将軍就任後、織田と毛利の勢力圏が接近していくにつれて、両者は相互を警戒するようになります。また、上述の領主層の自立的性格という構造的問題もあり、両者の間の関係は悪化する方向へと向かいます。それでも、織田も毛利も互いに決定的な関係悪化を避けるようにしていました。しかし、毛利も織田の西国への勢力圏拡大志向に脅威を強く認識するようになり、ついに織田との戦いを決意し、領国に義昭を迎えます。ここから、西国の諸勢力を捲き込み、織田と毛利の本格的な戦いが始まります。織田にとっても、別所や荒木の寝返りなどといった苦境の場面はありましたが、苦しいのは毛利も同様でした。
別所や荒木の織田方からの離反など、毛利も荷担した反織田勢力が優勢な局面もあったものの、上述のように、領主連合的性格の強い毛利は、容易には当主の思惑通りに軍事動員できない弱点も抱えていました。そのため毛利輝元は、武田勝頼から上洛の好機と勧められても、上洛戦を断念しました。これを毛利の弱さと見た宇喜多は、織田方に寝返ります。毛利首脳陣も、毛利が弱さを見せたら、宇喜多のような境目の領主が離反する危険性をよく認識していましたが、それでも防ぐことはできませんでした。南条も毛利方から織田方へと寝返り、次第に毛利は劣勢になっていきます。とはいえ、織田は一方的に侵攻できたわけでも、侵攻一本槍でもなく、和平の意思も示しており、硬軟両路線で毛利に対峙しました。本書は、織田家中において対毛利政策の武力討伐路線の主な担い手が羽柴秀吉、講和路線の主な担い手が明智光秀だった、と推測します。そのため、織田家中の対毛利政策の路線で最終的に武力討伐が採用された場合、光秀が失脚する危険性もあっただろう、と本書は指摘します。このように信長は家臣同士を競争させることで、勢力を拡大していきました。
そうした状況下で、本能寺の変の直前には、光秀が織田側の窓口となっていた長宗我部に対して、信長が討伐方針を明確にし、信長の息子の信孝が総大将的な地位に抜擢されました。また、信長自身が毛利主力との決戦を選択して自ら出陣することになり、対毛利講和路線も破綻しました。これらの情勢変化により、光秀は失脚の危機感を募らせ、信長とすでに家督を継承していた信忠が都にわずかな兵とともにいる「千載一遇の好機」に遭遇し、謀反を決意したのではないか、というのが本書の見通しです。
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