Y染色体に基づくイラク人集団の遺伝的多様性と移住
Y染色体に基づくイラク人集団の遺伝的多様性と移住に関する研究(Lazim et al., 2020)が公表されました。現在のイラクは、古代にはメソポタミアとして知られる地域でした。この地域の古代の狩猟採集民は紀元前1万年頃に定住し、農耕を始めて、やがて交易が発展しました。イスラム教勢力の拡大に伴い、イラクにはアラブ人が拡散してきます。アラブ人は、イスラム教よりも前のアラブ人は、アッシリアやバビロニアなど多くの帝国の保護下で、アラビア半島中央部に存在した部族でした。現代のイラクの人口は4000万人ほどで、南はアラビア湾(ペルシア湾)とクウェートとサウジアラビア、西はヨルダンとシリア、北はトルコ、東はイランと接しています。イラクには5つの主要な民族集団が存在しますが、イラクの人口の多様性について、刊行されたデータはほとんどありません。本論文のデータは、イラクで最大の民族集団であるアラブ人を表します。
一塩基多型標識は変異率が低いため安定しており、多様性がほとんどないので個人識別には適していません。そこで、一塩基多型の組み合わせを使用してハプログループが決定され、個人識別や現生人類(Homo sapiens)の移動および進化のパターンの研究に役立てられています。一方、父系で継承されるY染色体の縦列型反復配列(Y-STR)は1世代あたり平均して0.2%と高い変異率を有するので、個体識別や集団構造の理解や血族問題に役立ちます。Y-STRのアレル(対立遺伝子)はハプロタイプの生成に用いられ、それに基づいてハプログループと起源となる集団を予測できます。この手法を用いると、Y-STRに基づいて集団内の多様性を推測できます。イラクの人口とその民族集団における遺伝的多様性についての刊行されたデータはほとんどありません。本論文は、Y-STRを用いて、イラク人集団の遺伝的構成や近隣との関係や移住の歴史を検証します。
イラクのアラブ人254人のY染色体ハプログループ(YHg)で最も多いのはJ1(36.6%)で、以下、E1b1b(13.8%)、J2a1b(9.4%)などが続きます。イラクのアラブ人集団とアラブ・アジア・アフリカ・ヨーロッパの他集団との遺伝的距離では、最も近いのはイラクのクルド人で、その次がイエメン人およびクウェート人でした。一方、最も遠いのはジブチ人とエチオピア人でした。中東集団でイラクのアラブ人集団と遺伝的に最も遠いのはレバノン人でした。遺伝的違いが最も大きいのはジブチ人とイラクのクルド人で、最も小さいのはモロッコ人とエリトリア人でした。
遺伝子流動は3段階の水準で検証されました。水準1ではアラビア半島を経由してイラクへの出アフリカ移住経路が調べられました。これは、モロッコ→エジプト→イラク、アフリカ東部→エジプト→イラク、アフリカ東部→イエメン→イラクの3経路が検証され、Y染色体に基づく移動パターン分析から、アフリカ東部→エジプト→イラクのパターンである可能性が最も高い、と推測されました。逆に最も可能性が低い経路は、アフリカ東部→イエメン→イラクです。
水準2ではアラビア半島内の集団移動経路が4通り検証されました。それは、イエメン→サウジアラビア→イラクおよびその逆の2通りと、イエメン→アラブ首長国連邦(UAE)→イラクおよびその逆の2通りです。最も可能性が高い経路はイエメン→UAE→イラクで、最も可能性が低いのはイエメン→サウジアラビア→イラクおよびその逆です。水準1と水準2を組み合わせると、最も可能性が高い移住経路は、アフリカ東部→エジプト→イエメン→UAE→イラクです。アフリカ東部からエジプトへと北上した後、アラビア半島西岸を南下し、そこから東進した後にアラビア半島東岸を北上したことになります。水準3では、クウェートへのイラクとサウジアラビアの影響が調べられました。最も可能性が高いのは、サウジアラビア人集団がイラク人集団よりもクウェートに対してわずかに多くの影響を有している、というものです。
本論文は、イラクのアラブ人集団に特有のY-STRの特徴を示します。Y-STRの2つの遺伝子座(DYS389IおよびDYS392)では、イラクのアラブ人集団は他集団よりも変異が少ない、と明らかになりました。また、最も高い遺伝的多様性が見られるのは、イラクのアラブ人集団ではDYS385aおよびDYS385bとDYS458なのに対して、他集団ではDYS385aおよびDYS385bとDYS481になります。DYS458の多様体を有するYHgの98.8%はJ1内にあります。この多様体はM267マーカーと重複し、遺伝的浮動と創始者効果との組み合わせの結果と推測されます。その後、アフリカ北部と中東において、集団は急速に拡大しました。
現生人類(Homo sapiens)の出アフリカと中東への移住に関しては広く研究され、さまざまな移住経路が提案されています。本論文はY-STRに基づいて、アフリカからシナイ半島を経由してアラビア半島沿岸の移住経路を、最も可能性が高いと推測します。つまり、レヴァントは乾燥していたため、アフリカ東部からバブ・エル・マンデブ海峡を渡ってアラビア半島南西岸へと達した、と想定する見解が妥当である可能性は低そうだ、というわけです。
本論文は、現代イラク人のY染色体の遺伝的構造を示した点で注目されます。本論文が推定する現生人類の拡散経路は現代人のY-STR に基づいており、現代人の核ゲノムデータや古代DNAデータと組み合わせることで、より正確で詳細な現生人類集団の移住および混合史を解明できるでしょう。完新世の中東の現生人類集団の遺伝的構成の推移に関する大規模な研究もあり、複雑な移動と混合が想定されていますが、まだイラクの古代DNAデータは含まれておらず(関連記事)、今後の研究の進展が期待されます。
参考文献:
Lazim H. et al.(2020): Population genetic diversity in an Iraqi population and gene flow across the Arabian Peninsula. Scientific Reports, 10, 15289.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-72283-1
一塩基多型標識は変異率が低いため安定しており、多様性がほとんどないので個人識別には適していません。そこで、一塩基多型の組み合わせを使用してハプログループが決定され、個人識別や現生人類(Homo sapiens)の移動および進化のパターンの研究に役立てられています。一方、父系で継承されるY染色体の縦列型反復配列(Y-STR)は1世代あたり平均して0.2%と高い変異率を有するので、個体識別や集団構造の理解や血族問題に役立ちます。Y-STRのアレル(対立遺伝子)はハプロタイプの生成に用いられ、それに基づいてハプログループと起源となる集団を予測できます。この手法を用いると、Y-STRに基づいて集団内の多様性を推測できます。イラクの人口とその民族集団における遺伝的多様性についての刊行されたデータはほとんどありません。本論文は、Y-STRを用いて、イラク人集団の遺伝的構成や近隣との関係や移住の歴史を検証します。
イラクのアラブ人254人のY染色体ハプログループ(YHg)で最も多いのはJ1(36.6%)で、以下、E1b1b(13.8%)、J2a1b(9.4%)などが続きます。イラクのアラブ人集団とアラブ・アジア・アフリカ・ヨーロッパの他集団との遺伝的距離では、最も近いのはイラクのクルド人で、その次がイエメン人およびクウェート人でした。一方、最も遠いのはジブチ人とエチオピア人でした。中東集団でイラクのアラブ人集団と遺伝的に最も遠いのはレバノン人でした。遺伝的違いが最も大きいのはジブチ人とイラクのクルド人で、最も小さいのはモロッコ人とエリトリア人でした。
遺伝子流動は3段階の水準で検証されました。水準1ではアラビア半島を経由してイラクへの出アフリカ移住経路が調べられました。これは、モロッコ→エジプト→イラク、アフリカ東部→エジプト→イラク、アフリカ東部→イエメン→イラクの3経路が検証され、Y染色体に基づく移動パターン分析から、アフリカ東部→エジプト→イラクのパターンである可能性が最も高い、と推測されました。逆に最も可能性が低い経路は、アフリカ東部→イエメン→イラクです。
水準2ではアラビア半島内の集団移動経路が4通り検証されました。それは、イエメン→サウジアラビア→イラクおよびその逆の2通りと、イエメン→アラブ首長国連邦(UAE)→イラクおよびその逆の2通りです。最も可能性が高い経路はイエメン→UAE→イラクで、最も可能性が低いのはイエメン→サウジアラビア→イラクおよびその逆です。水準1と水準2を組み合わせると、最も可能性が高い移住経路は、アフリカ東部→エジプト→イエメン→UAE→イラクです。アフリカ東部からエジプトへと北上した後、アラビア半島西岸を南下し、そこから東進した後にアラビア半島東岸を北上したことになります。水準3では、クウェートへのイラクとサウジアラビアの影響が調べられました。最も可能性が高いのは、サウジアラビア人集団がイラク人集団よりもクウェートに対してわずかに多くの影響を有している、というものです。
本論文は、イラクのアラブ人集団に特有のY-STRの特徴を示します。Y-STRの2つの遺伝子座(DYS389IおよびDYS392)では、イラクのアラブ人集団は他集団よりも変異が少ない、と明らかになりました。また、最も高い遺伝的多様性が見られるのは、イラクのアラブ人集団ではDYS385aおよびDYS385bとDYS458なのに対して、他集団ではDYS385aおよびDYS385bとDYS481になります。DYS458の多様体を有するYHgの98.8%はJ1内にあります。この多様体はM267マーカーと重複し、遺伝的浮動と創始者効果との組み合わせの結果と推測されます。その後、アフリカ北部と中東において、集団は急速に拡大しました。
現生人類(Homo sapiens)の出アフリカと中東への移住に関しては広く研究され、さまざまな移住経路が提案されています。本論文はY-STRに基づいて、アフリカからシナイ半島を経由してアラビア半島沿岸の移住経路を、最も可能性が高いと推測します。つまり、レヴァントは乾燥していたため、アフリカ東部からバブ・エル・マンデブ海峡を渡ってアラビア半島南西岸へと達した、と想定する見解が妥当である可能性は低そうだ、というわけです。
本論文は、現代イラク人のY染色体の遺伝的構造を示した点で注目されます。本論文が推定する現生人類の拡散経路は現代人のY-STR に基づいており、現代人の核ゲノムデータや古代DNAデータと組み合わせることで、より正確で詳細な現生人類集団の移住および混合史を解明できるでしょう。完新世の中東の現生人類集団の遺伝的構成の推移に関する大規模な研究もあり、複雑な移動と混合が想定されていますが、まだイラクの古代DNAデータは含まれておらず(関連記事)、今後の研究の進展が期待されます。
参考文献:
Lazim H. et al.(2020): Population genetic diversity in an Iraqi population and gene flow across the Arabian Peninsula. Scientific Reports, 10, 15289.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-72283-1
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