堆積物のmtDNA解析で確認されたチベット高原のデニソワ人

 チベット高原の更新世堆積物のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析結果を報告した研究(Zhang et al., 2020)が公表されました。種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)は、南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)遺跡で見つかった手の末節骨の断片から決定されたゲノム配列により初めて特定された、中期更新世後期~後期更新世にかけての遺骸が確認されている絶滅人類集団です。手の末節骨や臼歯など複数個体のデニソワ人遺骸は当初、デニソワ洞窟でしか確認されていませんでしたが、その後、中華人民共和国甘粛省甘南チベット族自治州夏河(Xiahe)県の白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)で発見された16万年以上前の下顎(夏河下顎)が、デニソワ人のものと確認されました(関連記事)。ただ、この下顎のDNA解析にはまだ成功しておらず、タンパク質の総体(プロテオーム)の解析に基づいた分類です。

 デニソワ人は、核DNAでは現生人類(Homo sapiens)よりもネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の方とずっと近縁ですが、ミトコンドリアDNA(mtDNA)では(後期)ネアンデルタール人と現生人類がクレード(単系統群)を形成し、デニソワ人は両者とは異なる系統に位置づけられます。しかし、スペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)で発見された43万年前頃の人骨群は、形態では祖先的特徴とネアンデルタール人の派生的特徴との混在を示し、核DNAではデニソワ人よりも後期ネアンデルタール人の方と近縁なので、後期ネアンデルタール人の直接的な祖先ではないとしても、少なくとも広義の早期ネアンデルタール人と位置づけられそうですが、mtDNAではネアンデルタール人と後期ネアンデルタール人に対して、デニソワ人とクレードを形成します。そのため、ネアンデルタール人のmtDNAは元々デニソワ人に近かったものの、後に現生人類とより近い系統に置換された可能性が高い、と推測されます。

 デニソワ人とネアンデルタール人の推定分岐年代は研究により幅があり、473000~445000年前頃とも744000年前頃とも推定されていますが、SH集団の43万年前頃という年代が妥当だとすると、遅くとも50万年前頃には分岐していたと考えられます。デニソワ人は現代人の祖先の一部とも交雑し、現代人ではアジア南部・南東部・東部やオセアニア集団のゲノムにおいてデニソワ人の遺伝的影響が確認されているので、デニソワ人は広範な地域に分布していた、と考えられます。とくにパプア人やオーストラリア先住民(サフルランド集団)のゲノムではデニソワ人の遺伝的影響が強く見られます。また、アジア東部の現代人にもわずかながらデニソワ人の遺伝的影響が見られ、現代人のゲノム解析から、複数系統のデニソワ人が一部現代人の祖先集団と交雑した、と推測されています。アジア東部の更新世現生人類のゲノム解析からも、アジア東部現代人集団の祖先と交雑したデニソワ人は、サフルランド集団の祖先と交雑したデニソワ人とは異なる系統だった、と推測されています(関連記事)。以上のデニソワ人に関する昨年(2019年)5月頃までの情報は、当ブログでまとめています(関連記事)。

 白石崖溶洞は、チベット高原北東端の海抜3280mに位置する石灰岩洞窟です。白石崖溶洞では3ユニット(T1・T2・T3)の発掘が計画され、T2では10層が特定されました。全ての層で石器と動物化石が発見されました。石器の予備的分析では、石器はほぼ全て、地元の変成石英砂岩と角岩礫を用いて、単純な石核および剥片技術により製作された、と示唆されます。動物化石は、第1~第6層ではガゼルやマーモットやキツネといった小型から中型の種が優占するのに対して、第7層~第10層ではサイや大型ウシ科のような大型種が優占します。これが生態系の変化に起因するのか、それとも白石崖溶洞の人類の獲物選好が変わったためなのか、今後の研究の進展が注目されます。

 ユニットT2の年代は、堆積物の光学的年代測定法と断片的な14個の骨の放射性炭素年代測定法により推定されました(図2)。第10層は190000±34000~129000±20000年前にかけて蓄積され、その後、第9層から第6層は96000±5000年前までにかけて、比較的急速に蓄積されます。第5層の年代は得られていませんが、前後の層の年代から、その間隔は24000~39000年と推定されます。第5層の堆積物は白石崖溶洞の河川環境を示しており、10万~6万年前頃に堆積物を除去した浸食事象を表しているかもしれません。第4層は66000±6000~47000±2000年前の間に蓄積されました。第4層の中間には7000~18000年の堆積休止期間があった、と確認されました。第3層は46000±2000~33000±1000年前の間に蓄積されました。第3層と第2層では年代値がかなり異なるなど、複雑な層序形成が示唆されます。以下、ユニットT2の層序と年代を示した本論文の図2です。
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 第1層と第5層を除く各層の堆積物で古代DNAの抽出が試みられ、第8層と第9層(第2・3・4・6・7・10の各層)を除いて哺乳類のmtDNAが確認されました。第4・6・7・10層では、絶滅したハイエナやサイ(どちらも第10層で特定されました)を含む1万年前頃以降にはこの地域に存在しなかった動物種のDNAが検出されました。これらの非ヒト動物の詳細なDNA解析・比較も今後進んでいき、各種の進化・拡散の理解に寄与すると期待されます。

 人類のmtDNAは第2・3・4・7層で確認され、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人と43万年前頃のSH個体と比較されました。これらのmtDNA断片は、デニソワ人(31~95%)やネアンデルタール人(0~14%)やSH個体(0~3.7%)や現生人類(0~67%)と一致します。古代DNAの指標とされるシトシンからチミンへの置換を伴うmtDNA断片に分析を制限すると、現生人類と一致する割合は0~43%に減少し、デニソワ人と一致する割合は71~100%に増加します。現代人の汚染の影響を減らすため、その後の分析では脱アミノ化したmtDNAに限定し、デニソワ人のmtDNA断片よりずっと少なくとも、現生人類のmtDNA断片がわずかに脱アミノ化された2ライブラリを除外しました。各層の人類のmtDNAの網羅率は、第2層が0.37倍、第3層が1.5倍、第4層が40倍、第7層が1.3倍です。堆積物から回収されたmtDNAは複数個体に由来する可能性があり、少なくとも充分なmtDNA断片が得られた第4層には当てはまります。ただ本論文では、各層のmtDNAの平均的な関係が測定されます。

 これら第2・3・4・7層のmtDNAは、デニソワ洞窟のデニソワ人4個体(デニソワ2・3・4・8)およびSH個体と比較され、系統樹が推定されました。比較的高品質の第4層のmtDNAはデニソワ人の変異内に収まり、10万年前以降と推定されるデニソワ3・4とクレードを形成します。これに対して、10万年以上前と推定されるデニソワ2・8は異なるクレードを形成します。白石崖溶洞ユニットT2の低品質のmtDNAのうち、第2層と第3層は第4層とクレードを形成しますが、第7層は、デニソワ2・8のクレードと分岐した後、第2・3・4層およびデニソワ3・4のクレードとは早期に分岐します。これらの結果から、白石崖溶洞ユニットT2の堆積物から得られたmtDNAは、デニソワ2・8クレードと早期に分岐し、デニソワ3・4とクレードを形成する、と示されます。

 第4層の下部の堆積年代は6万年前頃で、76200~51600年前頃のデニソワ3および84100~55200年前頃のデニソワ4とは近接しています。第7層の堆積年代は108000~97000年前で、デニソワ3・4よりも古いものの、194400~122700年前頃のデニソワ2および136400~105600年前頃のデニソワ8よりは新しいことになります。デニソワ人のmtDNAは第2層と第3層の堆積物でも確認されましたが、再堆積を考慮すると、その堆積年代(5万~3万年前頃)と関連づけることは根拠薄弱です。したがって、白石崖溶洞のデニソワ人が、チベット高原に現生人類が到来する4万~3万年前頃に到来する(関連記事)まで生存していたのか、まだ確定的ではありません。以下、デニソワ人とSH個体のmtDNA系統樹を示した本論文の図4です。
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 これらの知見は、デニソワ人が白石崖溶洞に10万年前頃と6万年前頃に存在していたことを示します。あるいは、デニソワ人はチベット高原に45000年前頃以降にも存在していたかもしれませんが、それはともかく、これらの知見は、デニソワ人が後期更新世にアジアに広く分布していたことを確証します。夏河下顎も含めて考えると、チベット高原における長期の居住が示唆され、この人類は高地環境に適応するようになっていたかもしれません。現代チベット人の遺伝的な高地適応に関しては、デニソワ人から遺伝子移入されたハプロタイプとの関連が指摘されています(関連記事)。デニソワ人はチベット高原のような高地に長期間存在しており、高地適応関連の遺伝子多様体が選択されたのではないか、というわけです。

 ただ、高地適応と関連したEPAS1遺伝子がデニソワ人からチベット人の祖先集団にもたらされたのは4万~3万年前頃と推定されていますが、それがすぐに有益なアレル(対立遺伝子)として選択対象になったのではなく、もっと最近になってから有益なアレルとして選択されていった、とも推測されています(関連記事)。これは現代チベット人の形成過程(関連記事)とも関連しており、チベット高原の古代DNA研究の進展により解明されていくのではないか、と期待されます。

 本論文は、デニソワ人がチベット高原にも古くから存在し、あるいは現生人類とも共存した可能性がある、と示した点でたいへん注目されます。デニソワ洞窟のデニソワ人のmtDNA解析からは、古いデニソワ人(デニソワ2・8)と新しいデニソワ人(デニソワ3・4)とが、少なくとも母系では祖先子孫関係にはない、と示唆されます。一方、白石崖溶洞のデニソワ人は、母系では新しいデニソワ人(デニソワ3・4)とクレードを形成します。これは、デニソワ人の生息範囲とも関わってくるかもしれません。人類のデニソワ洞窟の利用は断続的だったと指摘されており(関連記事)、デニソワ人は長期間アルタイ山脈に存在し続けたのではなく、時に撤退するか絶滅し、その後で異なるデニソワ人系統がアルタイ地域に拡散してきたのかもしれません。チベット高原も同様で、デニソワ人が長期間居住し続けたのではなく、撤退もしくは絶滅と再拡散を繰り返していた可能性も考えられます。

 ただ、デニソワ人において高地適応への選択圧があったのだとすると、長期間チベット高原に存続し続けた可能性は高そうです。実際にはどうだったのか、白石崖溶洞の石器と非ヒト動物遺骸の詳細な年代分析により、解明が進むと期待されます。仮にチベット高原がデニソワ人にとって長期的な生息範囲ではなかったとすると、おそらくは華北や華南(やアジア南東部)がデニソワ人の「本拠地」で、そこからチベット高原やアルタイ山脈に時として拡散していったのでしょう。中国では中期~後期更新世の石器や分類の曖昧な複数のホモ属遺骸が発見されており、その中にデニソワ人もいるかもしれません。たとえば、河北(Hebei)省張家口(Zhangjiakou)市陽原(Yangyuan)県の許家窯(Xujiayao)遺跡のホモ属遺骸です(関連記事)。また、台湾沖で発見されたホモ属遺骸(関連記事)も、夏河下顎との類似性からデニソワ人の可能性が指摘されています。

 また本論文は、堆積物からの古代DNA研究の応用範囲を10万年前頃まで拡張したという点で、たいへん意義深いと思います。イスラエルでも中部旧石器時代層の堆積物から非ヒト動物のmtDNA断片が回収されており(関連記事)、かなりの低緯度地域でも5万年以上前の人類のDNA解析が可能ではないか、と期待されます。日本列島のように更新世の人類遺骸がきょくたんに少ない地域でも、更新世人類のDNA解析が可能となれば、人類進化史、さらには現代人の形成史の解明に大きく貢献できそうですから、研究の進展がひじょうに楽しみです。


参考文献:
Zhang D. et al.(2020): Denisovan DNA in Late Pleistocene sediments from Baishiya Karst Cave on the Tibetan Plateau. Science, 370, 6516, 584–587.
https://doi.org/10.1126/science.abb6320

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