坂野潤治『明治憲法史』
ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2020年9月に刊行されました。電子書籍での購入です。著者は先月(2020年10月)14日に亡くなり、本書が遺著となるのでしょうか。ご冥福をお祈りいたします。本書は、大日本帝国憲法(明治憲法)の構造と機能を分析します。明治憲法が施行されてから昭和戦前期までの政治史を憲法史として再構成します。まず本書は、明治維新から憲法施行までの20年以上を助走期間と規定し、これが長かったことは、支配勢力と在野勢力に憲法と議会に関する理解を浸透させ、相互、主張への理解を容易にしたという意味で、単に民主化の遅れと批判するのではなく、一定以上高く評価しています。
議会制の導入は幕末以来多くの指導者層の目標で、明治になって在野勢力からも主張されましたが、憲法制定の必要性にまず着目したのは、在野の民権派ではなく、藩閥政府内の「リベラル派(現在のリベラル保守)」の木戸孝允でした。木戸は、皇帝権限が強く、議会権限が弱いドイツ憲法に着目しました。本書はこれを、「立憲主義」と「民主主義」の対立と把握しています。1880年代になると、こうした政治思潮は保守主義と自由主義と民主主義の三勢力に分かれ、それぞれが立憲制の必要性を認めるようになります。
本書は明治憲法へと至る過程で、民間の憲法案をやや詳しく取り上げています。とくに福沢諭吉系の交詢社の憲法案(1881年)に関しては、現在の象徴天皇制に近い議会制民主主義が提唱されていた、と本書はその民主主義的性格を高く評価します。本書は、明治憲法の制定にさいして政府は交詢社案を強く意識したところがある、と推測します。この交詢社案とも関連して、大隈重信が失脚します(明治14年の政変)。本書は、この時点ですでに明治憲法の骨格は出来上がっていたものの、交詢社案が人々の記憶に強く残っている間は、政府内保守派もドイツモデルの憲法制定を強行するわけにはいかなかった、と推測します。
1889年2月11日、明治憲法が発布されます。明治憲法の特徴は、天皇権限が強く、議会権限がきわめて弱いことです。本書は、明治憲法の編成大権と外交大権の目的は、国防問題と外交問題への議会の関与を禁じることにあり、ひじょうに反議会的である一方、内閣の権限は相当に大きかった、と指摘します。議会は予算審議で対抗できたものの、それにも限界があった、いうわけです。巨大な内閣の権限を拘束する唯一の例外が枢密院でしたが、本格的な政党内閣が成立するまで、重要問題で内閣と枢密院が対立することは余りありませんでした。内閣の権限も制約したのが統帥大権で、これが昭和期に問題となりました。ただ、明治憲法では天皇権限が強かったとはいえ、憲法施行により天皇は超法規的存在とは言えなくなりましたが、政府と議会の調停者にはなれた、と本書は指摘します。
憲法施行と議会開設から10年も経たないうちに政党内閣(第一次大隈内閣)が成立しますが、本書はこれを、元老たちが時として政党内閣の成立を認めたにすぎず、大隈内閣が短期間で退陣した後、第二次西園寺内閣の総辞職までの14年間は、政党勢力の緩やかな発達というよりは、政治の民主化の停滞だった、と評価しています。ただ本書は、政党内閣を正当化する憲法論が次第に影響力を増大させてきた、とも指摘しており、それは美濃部達吉の天皇機関説です。これは、日本国の主権者は天皇ではなく国民の共同体である日本国家で、天皇は主権者が統治のために設けたさまざまな「機関」の頂点にすぎず、天皇の権力は無制限ではない、というものです。本書は、美濃部がやや強引な論理ながら、明治憲法下における政党内閣の正当性を提示した、と評価しています。ただ、本書はその美濃部について、天皇機関説問題の前の昭和期には、政党政治に見切りをつけていたのではないか、と指摘します。大正時代には、主権者が天皇なのか否かという「国体論争」はさほど注目されず、普通選挙制の実現が中心課題でした。しかしこの間にも、後の「国体」に関わる政争の議論の基盤が整えられていき、それは統帥権をめぐるものでした。それが顕現したのはロンドン海軍軍縮条約ですが、本書は、統帥権干犯問題を主張したのは軍令部ではなく政友会、具体的には鳩山一郎だった、と指摘します。
五・一五事件以降、陸軍の影響力がさらに増大し、「全体主義」的傾向を強めていく1930年代の日本において、明治憲法は機能不全的状況に陥っていたものの、1936年2月の総選挙を機に、「民意」表出の重要な制度としてその機能を回復してきた、と本書は評価します。本書は日本における「民主主義」は明治時代以降、国民の間で漸進的かつ確実に、共有の信念になっていった、と指摘します。1936年2月の総選挙から翌年7月の日中戦争勃発までは、明治憲法下の議会でも社会民主主義政党が有力政党として存在し得ると示され、戦後の保革対立を基本とする政治が出現した、と本書は評価します。ただ本書は、その担い手である社会大衆党には、社会民主主義と国家社会主義との路線対立があったことも指摘します。戦後民主主義の萌芽とも言えるこの政治状況をもたらしたのは、「広義国防」と「狭義国防」の対立でした。しかし、宇垣一成の組閣が失敗した後では、政党内閣復活の可能性はほとんどなかった、と本書は指摘します。本書は、日中戦争の前まで、日本国民の政治常識は「自由主義乃至デモクラシー」だった、と評価します。この状況を変えたのが日中戦争の勃発だった、というのが本書の見解です。戦前日本の自由主義もしくは民主主義は、武力により鎮圧されたのではなく、国民自身が自発的に放棄した、というわけです。
本書の全体的な見解は、近代日本には「万世一系」の天皇が支配する専制的な憲法体制はなく、日中戦争から敗戦までは明治憲法の時代というよりは、憲法が機能しなくなった時代だった、というものです。日本国憲法は8年間の無憲法状態の後を継いだのであって、明治憲法を否定したわけではなく、近代日本史は、明治憲法の時代と総力戦の時代と日本国憲法の時代に区分するのがよい、というわけです。これは、戦前と戦中と戦後に相当します。「平和と民主主義」の時代は戦後だけではなく戦前にもあった、と本書は強調します。ただ、日中戦争はずっと「事変」扱いされていたわけで、指導層も含めて当初国民は楽観視していたのではないか、と思います。その意味で、現在の視点では日中戦争は確かに日本の岐路でしたが、勃発により大きく変わったというよりは、長期化により国民の意識が変わっていった、という側面の方が大きいように思います。
議会制の導入は幕末以来多くの指導者層の目標で、明治になって在野勢力からも主張されましたが、憲法制定の必要性にまず着目したのは、在野の民権派ではなく、藩閥政府内の「リベラル派(現在のリベラル保守)」の木戸孝允でした。木戸は、皇帝権限が強く、議会権限が弱いドイツ憲法に着目しました。本書はこれを、「立憲主義」と「民主主義」の対立と把握しています。1880年代になると、こうした政治思潮は保守主義と自由主義と民主主義の三勢力に分かれ、それぞれが立憲制の必要性を認めるようになります。
本書は明治憲法へと至る過程で、民間の憲法案をやや詳しく取り上げています。とくに福沢諭吉系の交詢社の憲法案(1881年)に関しては、現在の象徴天皇制に近い議会制民主主義が提唱されていた、と本書はその民主主義的性格を高く評価します。本書は、明治憲法の制定にさいして政府は交詢社案を強く意識したところがある、と推測します。この交詢社案とも関連して、大隈重信が失脚します(明治14年の政変)。本書は、この時点ですでに明治憲法の骨格は出来上がっていたものの、交詢社案が人々の記憶に強く残っている間は、政府内保守派もドイツモデルの憲法制定を強行するわけにはいかなかった、と推測します。
1889年2月11日、明治憲法が発布されます。明治憲法の特徴は、天皇権限が強く、議会権限がきわめて弱いことです。本書は、明治憲法の編成大権と外交大権の目的は、国防問題と外交問題への議会の関与を禁じることにあり、ひじょうに反議会的である一方、内閣の権限は相当に大きかった、と指摘します。議会は予算審議で対抗できたものの、それにも限界があった、いうわけです。巨大な内閣の権限を拘束する唯一の例外が枢密院でしたが、本格的な政党内閣が成立するまで、重要問題で内閣と枢密院が対立することは余りありませんでした。内閣の権限も制約したのが統帥大権で、これが昭和期に問題となりました。ただ、明治憲法では天皇権限が強かったとはいえ、憲法施行により天皇は超法規的存在とは言えなくなりましたが、政府と議会の調停者にはなれた、と本書は指摘します。
憲法施行と議会開設から10年も経たないうちに政党内閣(第一次大隈内閣)が成立しますが、本書はこれを、元老たちが時として政党内閣の成立を認めたにすぎず、大隈内閣が短期間で退陣した後、第二次西園寺内閣の総辞職までの14年間は、政党勢力の緩やかな発達というよりは、政治の民主化の停滞だった、と評価しています。ただ本書は、政党内閣を正当化する憲法論が次第に影響力を増大させてきた、とも指摘しており、それは美濃部達吉の天皇機関説です。これは、日本国の主権者は天皇ではなく国民の共同体である日本国家で、天皇は主権者が統治のために設けたさまざまな「機関」の頂点にすぎず、天皇の権力は無制限ではない、というものです。本書は、美濃部がやや強引な論理ながら、明治憲法下における政党内閣の正当性を提示した、と評価しています。ただ、本書はその美濃部について、天皇機関説問題の前の昭和期には、政党政治に見切りをつけていたのではないか、と指摘します。大正時代には、主権者が天皇なのか否かという「国体論争」はさほど注目されず、普通選挙制の実現が中心課題でした。しかしこの間にも、後の「国体」に関わる政争の議論の基盤が整えられていき、それは統帥権をめぐるものでした。それが顕現したのはロンドン海軍軍縮条約ですが、本書は、統帥権干犯問題を主張したのは軍令部ではなく政友会、具体的には鳩山一郎だった、と指摘します。
五・一五事件以降、陸軍の影響力がさらに増大し、「全体主義」的傾向を強めていく1930年代の日本において、明治憲法は機能不全的状況に陥っていたものの、1936年2月の総選挙を機に、「民意」表出の重要な制度としてその機能を回復してきた、と本書は評価します。本書は日本における「民主主義」は明治時代以降、国民の間で漸進的かつ確実に、共有の信念になっていった、と指摘します。1936年2月の総選挙から翌年7月の日中戦争勃発までは、明治憲法下の議会でも社会民主主義政党が有力政党として存在し得ると示され、戦後の保革対立を基本とする政治が出現した、と本書は評価します。ただ本書は、その担い手である社会大衆党には、社会民主主義と国家社会主義との路線対立があったことも指摘します。戦後民主主義の萌芽とも言えるこの政治状況をもたらしたのは、「広義国防」と「狭義国防」の対立でした。しかし、宇垣一成の組閣が失敗した後では、政党内閣復活の可能性はほとんどなかった、と本書は指摘します。本書は、日中戦争の前まで、日本国民の政治常識は「自由主義乃至デモクラシー」だった、と評価します。この状況を変えたのが日中戦争の勃発だった、というのが本書の見解です。戦前日本の自由主義もしくは民主主義は、武力により鎮圧されたのではなく、国民自身が自発的に放棄した、というわけです。
本書の全体的な見解は、近代日本には「万世一系」の天皇が支配する専制的な憲法体制はなく、日中戦争から敗戦までは明治憲法の時代というよりは、憲法が機能しなくなった時代だった、というものです。日本国憲法は8年間の無憲法状態の後を継いだのであって、明治憲法を否定したわけではなく、近代日本史は、明治憲法の時代と総力戦の時代と日本国憲法の時代に区分するのがよい、というわけです。これは、戦前と戦中と戦後に相当します。「平和と民主主義」の時代は戦後だけではなく戦前にもあった、と本書は強調します。ただ、日中戦争はずっと「事変」扱いされていたわけで、指導層も含めて当初国民は楽観視していたのではないか、と思います。その意味で、現在の視点では日中戦争は確かに日本の岐路でしたが、勃発により大きく変わったというよりは、長期化により国民の意識が変わっていった、という側面の方が大きいように思います。
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