川田稔『木戸幸一 内大臣の太平洋戦争』

 文春新書の一冊として、文藝春秋社より2020年2月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、表題にあるように、おもに太平洋戦争期とそこへ至るまでの木戸幸一を満洲事変の頃から取り上げており、前半生は簡潔に言及されています。木戸は戦前・戦中期の昭和天皇の側近の代表格的人物で、昭和天皇の補佐を誤ったとして、一般的にはきわめて評判が悪いように思います。その代表例が、近衛文麿の後継首相として東条英機を昭和天皇に推挙したことです。本書はそこへと至る木戸の決断、さらには太平洋戦争中の木戸の言動を検証します。

 木戸は学習院初等科で近衛文麿・原田熊雄と知り合い親しくなり、この三人の関係は後々まで続きます。木戸は商工省に勤めつつ貴族院議員となり、欧米に出張もしています。1930年、木戸は近衛から打診を受けて内大臣秘書官長に就任します。当時の内務大臣は、昭和天皇の側近の初期の代表格だった牧野伸顕でした。内大臣秘書官長時代の木戸にとってまず大事件となったのは、満洲事変でした。首相の若槻礼次郎は関東軍を抑えるために宮中工作に乗り出しますが、木戸は、内閣が対応すべきと言って拒否します。他の天皇側近の働きかけによる天皇の不拡大発言にも、木戸は否定的でした。木戸は鈴木貞一など一部軍人とも親しく、そのため軍部の情報をいち早く入手できましたが、一方で軍部への配慮から、宮中から陸軍への抑制的働きかけを警戒していました。木戸は、軍部には明確な「国策」があるが内閣にはない、と考えて「軍部善導論」を支持していました。政治家は平和を維持に専念し、不拡大主義を採っているが、それは「計画」とは言えず、「国策」ではない、というわけです。木戸は平和維持・不拡大主義に否定的でした。政治家は不況など日本の苦境に有効な対策をとれていない、というわけです。こうした木戸の認識は、近衛とも共通するところがありました。

 内大臣秘書官長時代の木戸にとって、満洲事変と共に重大だったのは二・二六事件でした。木戸は直後からクーデター鎮圧を主張し、それが採用され、昭和天皇は暫定内閣も認めない厳しい姿勢を示し、クーデターは失敗します。木戸は二・二六事件における功績を高く評価され、後に内大臣に就任する一因となりました。1936年6月、木戸は内大臣秘書官長を辞任します。これは、二・二六事件での対応を筆頭に精神的疲労が蓄積されていたからでした。木戸は一時的に政界から離れますが、広田内閣末期に、西園寺公望の要請により、首相推薦の制度変更に関わります。すでに唯一の元老となって久しく、高齢の西園寺は、軍部の意向が組閣を左右する状況に、後継首相の下問にさいして自らの信念に従って奉答はできないと考えました。木戸は、次期首相の下問にさいして、内大臣が元老と協議のうえ奉答し、そのさい「重臣その他」との協議は制限されない、との案を提示し、西園寺と昭和天皇に了解されました。これにより、後継首相選定の主導的役割を内大臣が担うことになりました。

 1937年10月、木戸は近衛内閣の文部大臣に就任し、政界に復帰します。近衛内閣の重要案件だった日中戦争と講和交渉に、木戸は否定的でした。しかし、日中戦争の早期解決の目処が立たず、近衛内閣も講和交渉に傾き、内閣改造などにより対応しようとしますが、結局挫折し、気力を失った近衛は辞職します。この間、木戸は注目すべき昭和天皇評を原田に漏らしています。昭和天皇は「科学者としての素質が多すぎる」ので右翼への同情がなく困る、というのです。これは、日独伊三国軍事同盟を巡る交渉にも表れており、米英との対立を懸念して同盟締結に慎重な昭和天皇に対して、木戸は同盟締結推進派でした。しかし、独ソ不可侵条約の締結により、日本では日独伊三国軍事同盟への動きが一旦頓挫します。1940年6月、木戸は内大臣に就任します。上述のように木戸は陸軍に親和的でしたから、陸軍は木戸の内大臣就任を歓迎しました。また、近い次期の再組閣を構想していた近衛は、親しい木戸が内大臣に就任することで宮中に拠点ができることから、木戸の内大臣就任を後押ししたようです。

 1940年、ドイツ軍のヨーロッパ西方での快進撃を見た日本陸軍は、アジア南東部のイギリス植民地の奪取を本格的に計画し始めます。その中心となった武藤章は、イギリスがドイツに敗れればアメリカ合衆国は介入してこないだろう、と予測しました。武藤は日本とアメリカ合衆国との国力差を認識しており、対米戦は避けようとしていました。独ソ不可侵条約の締結により、一旦は挫折した日独伊三国軍事同盟構想ですが、南進の前提としてソ連との条約締結も含めて、再び推進の機運が高まりました。日独伊三国軍事同盟に否定的な米内内閣は陸軍の圧力に崩壊確実となり、この時点で木戸は、近衛の再組閣を前提に新たな首相選出法を昭和天皇に上奏して採可されます。これは、まず天皇より内大臣に対して、枢密院議長・首相経験者の意見を徴し、元老と相談のうえで奉答するよう命じ、内大臣がこれらの人々と宮中で一同に会して協議し、そのうえで内大臣は元老と相談して奉答する、というものです。これにより、首相選出において元老の役割が大きく低下しました。唯一の元老の西園寺は近衛の再登板に否定的でしたが、近衛が再度首相に就任することになりました。近衛内閣で日独伊三国軍事同盟が締結されます。木戸は戦後、日独伊三国軍事同盟に反対だった、と述べていますが、本書は疑問を呈します。

 1941年6月22日、独ソ戦が始まります。これは、木戸も近衛も容認して積極的に推進していた、独伊と結合し、ソ連と提携して米国を牽制しつつ、南方に武力侵出する、という基本的構想の破綻を意味しました。じっさい、日ソ中立条約により、対独戦のさいに日本の参戦を警戒する米国は、日本との妥協もある程度考慮していましたが、独ソ戦が始まる直前にドイツのソ連侵攻が確実と判断すると、対日方針が大きく変わっていきます。木戸は、独ソ戦が始まる直前に独ソ間の緊張関係を知ると、日独伊三国軍事同盟とはしばらく距離を置き、独伊との友好関係を維持しつつ、米国との軍事的対立を避け、日米諒解案を基本的に受け入れたうえで、じょじょに蘭印に非軍事的な方法で勢力を浸透させるか、南部仏印に進駐して将来の南方武力行使に備える、と考えるようになりました。

 独ソ戦が始まった翌月に南部仏印進駐が実行されると、米国は対日全面禁輸を実施しますが、木戸も含めて日本の指導層はこれを全く予想していませんでした。米国政府内でも、ルーズヴェルト大統領をはじめとして対日戦を決定づけかねない対日全面禁輸に慎重な意見はありましたが、独ソ戦初期にソ連軍はドイツ軍に圧倒され、ソ連軍の崩壊を恐れた米国は、対日戦も覚悟のうえで、日本を南方に向かわせてソ連攻撃を回避させようとしていました。木戸はこの情勢変化を踏まえて、日米国交調整と対独友好関係維持は両立できる、との見解を変え、米国との関係改善に大きく方向転換し、それは近衛も同様でした。木戸も近衛も、対米全面譲歩を考え、近衛は日米首脳会談に臨もうとします。しかし、日米首脳会談は実現せず、開戦決定の期日を定められ追い詰められた近衛は辞任します。

 木戸は近衛が辞職に傾いていることを知りつつ、まだ近衛内閣での事態打開を模索していましたが、1941年10月16日、木戸にとって唐突に近衛内閣は総辞職します。この前後、皇族内閣案も出ていましたが、木戸は反対していました。もし日米交渉が妥結せず対米戦となり敗れれば、皇室が国民の恨みを買って皇室の存続が問われるかもしれない、と木戸は恐れていました。木戸は重臣会議で近衛の後継首相として東条を推薦し、東条が首相に就任しますが、そのさいに9月6日の御前会議決定の白紙還元を東条に求めました。東条もこの木戸の考えに同調していたため、木戸は東条を首相に推薦したわけです。木戸は、海軍が開戦への不同意姿勢継続を示すことによる、戦争回避を考え、開戦か避戦か内心では迷っていた東条も同様でした。しかし、東条内閣で嶋田海相が開戦容認の姿勢を示したため、木戸の構想は破綻します。

 結局、1941年12月8日、日本は米英と開戦しました。木戸は、東条内閣成立に責任があると感じていたこともあり、東条内閣を基本的には支えました。しかし、日本もドイツも戦況が不利となり、イタリアが降伏すると、東条内閣が講和に動こうとしないため、ソ連の仲介による講和を考えるようになります。それでも東条内閣を支え続けた木戸ですが、1944年4月頃には反東条内閣に立場を変えていました。1944年7月、東条内閣は倒れ、小磯内閣が成立しますが、陸軍では統制派が実権を掌握しており、講和への動きは進みませんでした。講和への動きが実質的に進まないまま小磯内閣は総辞職し、1945年4月、鈴木内閣が成立します。

 終戦へと至る過程での木戸の果たした役割は、昭和天皇への助言など小さくはありませんでしたが、後世から見ると、危機感というか切迫感に欠けるところがあります。しかし、当時の日本の指導層の大半から逸脱しているほどでもなく、結局のところ、原爆とソ連参戦という強力な外圧がなければ、日本が降伏することは難しかったかもしれません。本書は最後に、木戸は「貴族」だった、という評価を取り上げていますが、それが最も簡潔で的確な木戸への評価なのかもしれません。木戸の皇室への忠誠、さらには皇室存続のために国民の安寧幸福を願う心情は本物だったのでしょうが、敗戦へと至る道を回避できませんでした。本書からは、木戸の見通しの甘さや胆力のなさのようなものも感じますが、木戸が国家の指導層として特別無能だったわけでも卑怯だったわけでもなく、優秀な人でもこのような誤りは犯しやすいものだと思います。素朴な常識論になってしまいますが、大日本帝国の敗戦のような大きな出来事を個人の器量で語ってはならず、制度・社会構造の中での組織・個人の選択という観点で考えていかねばならないのでしょう。

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