廣部泉『黄禍論 百年の系譜』
講談社選書メチエの一冊として、2020年9月に刊行されました。電子書籍での購入です。近年、中華人民共和国の経済力・軍事力の拡大により、アメリカ合衆国で黄禍論が再燃しつつあるかのように思えたところ、今年(2020年)になって、新型コロナウイルスの流行により、アメリカ合衆国だけではなくヨーロッパでも黄禍論が復活するのではないか、とさえ私は懸念しています。私も日本人の一人として、黄禍論的な言説には警戒せざるを得ません。しかし、黄禍論の歴史的位置づけと詳しい内容をよく理解しているわけではないので、本書を読むことにしました。
黄禍論は19世紀後半にヨーロッパで主張されるようになりました。それは、日本の軍拡を重要な契機としつつ、「黄色人種」の人口の多さに基づく潜在力を警戒したもので、とくに問題とされたのは、日中の提携でした。これに対して日本側からも「同人種同盟論」が提唱され、近衛篤麿の主張はとくにヨーロッパで警戒されました。アメリカ合衆国にもヨーロッパ、つまり東方から黄禍論が流入しましたが、一方で、アメリカ合衆国西岸にはやや異なる黄禍論が存在しました。それは、「中国」から来た労働者により「白人」労働者の雇用が脅かされることに起因しました。日露戦争後、黄禍論はさらに潜在的影響力を拡大した感もあり、日本政府は黄禍論の抑制に躍起になっていました。
アメリカ合衆国においては、国際社会における日本の台頭と、低賃金の日本人移民労働者により黄禍論は根強く浸透し、第一次世界大戦後に「反日移民法」が成立します。これに日本の世論が大きく反発し、アメリカ合衆国やヨーロッパがそれに対して日本と中国やインドとの大団結(アジア主義など)を警戒するなど、黄禍論を巡って「人種」対立構造が強化されている様相さえ見られるようになります。しかし、第一次世界大戦後の軍縮と国際協調の情勢のなか、日本もアメリカ合衆国も、政府は「人種」対立に陥らないよう、努めていました。日本政府主流派は、あくまでも列強との協調による日本の権益維持・拡大を構想していました。また「白人」世界でも、アジアの大団結はあり得ないだろう、との冷静な見解もありました。中国にとって、日本が最大の加害者だと認識されていたからです。じっさい、中国の報道では、日本のアジア主義的動向が、日本による中国支配の道具にすぎない、との論調が多く見られました。
こうしたアジア主義的動向は、1920年代後半から1930年代初頭には落ち着きを見せましたが、日本における黄禍論への反感は根強く潜伏しており、満州事変後に本格的に顕在化していき、1920年代とは異なり、各界の有力者がじっさいに深く関わるようになります。これは、世界恐慌後の世界的なブロック化と国際連盟からの脱退といった情勢変化によるところが大きいのでしょう。太平洋戦争が始まると、アメリカ合衆国では人種差別的意思表示が以前よりも激しくなり、その文脈で日系人の収容が実行されます。指導層も日本との戦いが人種戦争であることをさらに強く意識するようになりますが、一方で、「有色人種」の連合を警戒し、日本との戦いを「白人種」対「黄色人種」という構図で把握する認識が顕在化しないよう、注意を払っていました。
第二次世界大戦は日本の敗北に終わり、戦後秩序の構築が問題となります。アメリカ合衆国では日本脅威論が衰え、政府は中華民国を軸にアジア東部地域に対処しようと構想していました。第二次世界大戦後、アジア主義の旗手として台頭したのは独立したばかりのインドでした。インドはアジア会議を開催し、「白人」を排除するものではないと主張しましたが、欧米諸国、とくにヨーロッパから遠くアジアと隣接していながら、「白人」主導国家のオーストラリアやニュージーランドはこの動きを警戒しました。第二次世界大戦後、日本の立場を大きく変えたのが、中国における共産主義政権の成立(中華人民共和国)でした。これにより、冷戦構造における前線として、日本は西側世界に組み込まれていき、経済復興の道が開かれました。
アメリカ合衆国は、サンフランシスコ講和条約後も、日本がアジアの一員としての自覚を強め、中国とインドの人口大国と共に反「白人」連合に加わることを警戒していました。当時、中華人民共和国と台湾に封じ込められた中華民国とが、「中国」の正統性を争い、冷戦構造の中で中華民国と国交を維持している西側諸国が多かったという事情もあったとはいえ、アメリカ合衆国は、その人種・文化的近縁性から、日本と中華人民共和国との提携強化を日本とソ連との国交正常化も含めた接近よりも警戒していました。そのためアメリカ合衆国は、1960年の安保騒動後に対日関係改善を重視し、国内の残業界の保護主義的要請を抑えることもありました。それでもアメリカ合衆国は、日本と中華人民共和国との接近を、相変わらず警戒していました。このように、アメリカ合衆国では黄禍論は潜在的に強い影響力を有していたものの、社会全体では第二次世界大戦後、人種的偏見の表出が減少していきました。これは、ドイツによるナチス政権下でのユダヤ人大虐殺が広く知られるようになったことと、第二次世界大戦に出征したことで、「黒人」の社会的地位向上を求める動きが強くなったことに起因していました。
ところが、日本が目覚ましい経済成長を遂げると、アメリカ合衆国において黄禍論的言説が再度表面化しました。1990年代以降、日本経済が長期の停滞に入ると、今度は、目覚ましい経済成長を続け、第二次世界大戦後は軍事的野心を示さなかった日本に対して、軍事的にも拡張路線を取り続ける中華人民共和国が、アメリカ合衆国で黄禍論の対象とされました。黄禍論的思考は今でもアメリカ合衆国やヨーロッパにおいて根強く残っており、それを大前提として、日本は「白人」社会と付き合っていかねばならないのでしょう。当然、だからといって近い将来世界最大の経済力を有するだろう、「同じアジア」の中国に従属して「白人」世界と対峙すべきだ、と安易に考えるわけにもいきませんが。
黄禍論は19世紀後半にヨーロッパで主張されるようになりました。それは、日本の軍拡を重要な契機としつつ、「黄色人種」の人口の多さに基づく潜在力を警戒したもので、とくに問題とされたのは、日中の提携でした。これに対して日本側からも「同人種同盟論」が提唱され、近衛篤麿の主張はとくにヨーロッパで警戒されました。アメリカ合衆国にもヨーロッパ、つまり東方から黄禍論が流入しましたが、一方で、アメリカ合衆国西岸にはやや異なる黄禍論が存在しました。それは、「中国」から来た労働者により「白人」労働者の雇用が脅かされることに起因しました。日露戦争後、黄禍論はさらに潜在的影響力を拡大した感もあり、日本政府は黄禍論の抑制に躍起になっていました。
アメリカ合衆国においては、国際社会における日本の台頭と、低賃金の日本人移民労働者により黄禍論は根強く浸透し、第一次世界大戦後に「反日移民法」が成立します。これに日本の世論が大きく反発し、アメリカ合衆国やヨーロッパがそれに対して日本と中国やインドとの大団結(アジア主義など)を警戒するなど、黄禍論を巡って「人種」対立構造が強化されている様相さえ見られるようになります。しかし、第一次世界大戦後の軍縮と国際協調の情勢のなか、日本もアメリカ合衆国も、政府は「人種」対立に陥らないよう、努めていました。日本政府主流派は、あくまでも列強との協調による日本の権益維持・拡大を構想していました。また「白人」世界でも、アジアの大団結はあり得ないだろう、との冷静な見解もありました。中国にとって、日本が最大の加害者だと認識されていたからです。じっさい、中国の報道では、日本のアジア主義的動向が、日本による中国支配の道具にすぎない、との論調が多く見られました。
こうしたアジア主義的動向は、1920年代後半から1930年代初頭には落ち着きを見せましたが、日本における黄禍論への反感は根強く潜伏しており、満州事変後に本格的に顕在化していき、1920年代とは異なり、各界の有力者がじっさいに深く関わるようになります。これは、世界恐慌後の世界的なブロック化と国際連盟からの脱退といった情勢変化によるところが大きいのでしょう。太平洋戦争が始まると、アメリカ合衆国では人種差別的意思表示が以前よりも激しくなり、その文脈で日系人の収容が実行されます。指導層も日本との戦いが人種戦争であることをさらに強く意識するようになりますが、一方で、「有色人種」の連合を警戒し、日本との戦いを「白人種」対「黄色人種」という構図で把握する認識が顕在化しないよう、注意を払っていました。
第二次世界大戦は日本の敗北に終わり、戦後秩序の構築が問題となります。アメリカ合衆国では日本脅威論が衰え、政府は中華民国を軸にアジア東部地域に対処しようと構想していました。第二次世界大戦後、アジア主義の旗手として台頭したのは独立したばかりのインドでした。インドはアジア会議を開催し、「白人」を排除するものではないと主張しましたが、欧米諸国、とくにヨーロッパから遠くアジアと隣接していながら、「白人」主導国家のオーストラリアやニュージーランドはこの動きを警戒しました。第二次世界大戦後、日本の立場を大きく変えたのが、中国における共産主義政権の成立(中華人民共和国)でした。これにより、冷戦構造における前線として、日本は西側世界に組み込まれていき、経済復興の道が開かれました。
アメリカ合衆国は、サンフランシスコ講和条約後も、日本がアジアの一員としての自覚を強め、中国とインドの人口大国と共に反「白人」連合に加わることを警戒していました。当時、中華人民共和国と台湾に封じ込められた中華民国とが、「中国」の正統性を争い、冷戦構造の中で中華民国と国交を維持している西側諸国が多かったという事情もあったとはいえ、アメリカ合衆国は、その人種・文化的近縁性から、日本と中華人民共和国との提携強化を日本とソ連との国交正常化も含めた接近よりも警戒していました。そのためアメリカ合衆国は、1960年の安保騒動後に対日関係改善を重視し、国内の残業界の保護主義的要請を抑えることもありました。それでもアメリカ合衆国は、日本と中華人民共和国との接近を、相変わらず警戒していました。このように、アメリカ合衆国では黄禍論は潜在的に強い影響力を有していたものの、社会全体では第二次世界大戦後、人種的偏見の表出が減少していきました。これは、ドイツによるナチス政権下でのユダヤ人大虐殺が広く知られるようになったことと、第二次世界大戦に出征したことで、「黒人」の社会的地位向上を求める動きが強くなったことに起因していました。
ところが、日本が目覚ましい経済成長を遂げると、アメリカ合衆国において黄禍論的言説が再度表面化しました。1990年代以降、日本経済が長期の停滞に入ると、今度は、目覚ましい経済成長を続け、第二次世界大戦後は軍事的野心を示さなかった日本に対して、軍事的にも拡張路線を取り続ける中華人民共和国が、アメリカ合衆国で黄禍論の対象とされました。黄禍論的思考は今でもアメリカ合衆国やヨーロッパにおいて根強く残っており、それを大前提として、日本は「白人」社会と付き合っていかねばならないのでしょう。当然、だからといって近い将来世界最大の経済力を有するだろう、「同じアジア」の中国に従属して「白人」世界と対峙すべきだ、と安易に考えるわけにもいきませんが。
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