岡本隆司『腐敗と格差の中国史』
NHK出版新書の一冊として、NHK出版から2019年4月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、現在、中華人民共和国の習近平政権で進められている「反腐敗」運動の歴史的起源を探ります。なぜ中国では最高権力者今が大々的に腐敗撲滅に力を入れているのか、単に共産党の一党独裁体制による腐敗、つまり権力、それも独裁的な権力は必ず腐敗する、という一般論で説明するだけでよいのか、という問題提起でもあります。
本書の見通しは、この問題の根源に、中国史における皇帝制の出現と官僚制の成立、およびその千年後に確立した皇帝独裁制と官僚制がある、というものです。戦国時代に中央集権体制と比較的平準化が進み、いわば一君万民的な体制の出現が要請される中で皇帝制が出現し、官僚制が成立しました。県を最少単位とするこの中央集権的体制は、皇帝制と共にこの後2000年以上続きます。官僚制は、身分・階級に格差が小さい社会に適合的でした。秦王朝は、在地勢力に強権的に臨んで強い反発を招来して滅亡し、これを踏まえた漢王朝は、在地勢力を取り込んでいき、儒教が次第に社会に浸透して有力層を統合していき、皇帝を頂点とする官僚制は、在地社会の自治を包摂していく形で展開します。
しかし、漢代を通じて次第に特定の家柄が権勢を独占するようになり、格差が拡大していきます。官僚選抜の基準は儒教的な評判となり、ますます有力な家柄(豪族)が高位を占めるようになります。こうして、後漢ともなると何代にもわたって高官を輩出する家柄も出現し、貴族が成立します。貴族制を成立させて支えたのが九品官人法で、魏晋南北朝時代に貴賤の区別の確立に大きな役割を果たしました。家格により貴賤が決まり、それにより社会的存否が定まる貴族制は、とくに発達南朝で発達しました。南朝の貴族たちは皇帝になるわけではなく、武力・権力を握るものの、出自が「卑賤」な皇室をしばしば公然と見下しました。貴族層自らを「士」と称しました。その対立概念は社会の大多数を占める「庶」です。「士」と「庶」の間には転置ほどの隔たりがある、とされました。この風潮の中で、官吏になれるのは高貴な士だけとなりました。こうして、戦国時代~漢代初めの頃の身分・階級差の少ない社会とは大きく異なる格差会が形成されました。
一方北朝というか華北では、諸勢力の相克が南朝よりも激しく、南朝政権のような継続性・連続性もしくは正統性が欠如していました。それもあって北朝では、南朝よりも実用主義・賢才主義的傾向が強くなります。「統一」王朝である隋も唐も、北朝の系譜に由来します。隋・唐では、官吏採用基準を門地ではなく個人の才徳に置き、科挙が始まります。しかし、社会の意識はそう簡単に変わりません。唐皇室の李氏でさえ、名門貴族よりも下に見られていました。社会通念上も旧来の門地ではなく個人の才徳が重視されるようになったのは、唐宋変革を経た後のことでした。
宋代には、近代的な官僚制により近づいた制度が確立します。それ以前には、皇帝をも見下すような名門意識の強い貴族層が官吏の主要な供給源となり、時として皇帝に逆らいました。それが宋代には、皇帝に忠誠を尽くす官僚組織が形成されます。この官僚は士大夫と呼ばれ、その地位の源泉は皇帝と科挙に依存していました。ここに、官吏が皇帝に忠誠を尽くすような君主(皇帝)独裁制成立の基盤がありました。新たな支配層たる士大夫には、経典の教義を身につけて実践することが要求されました。士大夫は「読書人」とも呼ばれましたが、それは書を読むことが第一義的には儒教の経典だったからです。
科挙はその「読書人」の学力を測定するためのもので、政治手腕・行政能力・専門知識ではなく、経書をどれだけ諳んじられるかが試されました。つまりは暗記力が要求されたわけです。基本文献となる四書五経だけでも40万文字以上で、散文・韻文・論説・詩詞も作れねばなりません。科挙に合格するにはたいへんな勉強が必要で、試験という一見合理的で平等な手段に基づくものだけに、「士」の「庶」に対する優越意識を決定づけ、貴族制の時代以来の社会の差別・隔絶を助長する役割を担った、と本書は指摘します。人々が「士」を目指すのは、単に社会的名誉からだけではなく、実利的な側面も多分にありました。科挙に合格さえすれば、本人の富貴が保証されるだけではなく、一族にもその余沢が及びました。
科挙は原則として誰でも受験できましたが、本気で合格を目指すとなると、たいへんな勉強量が必要となりました。そこで、一族に優秀な子弟がいると、一族はこぞって支援しました。その子弟が合格して士大夫になると、次には既得の資格・権益を守るため、自分の子弟が科挙に合格するよう、指導教育します。こうして特権を目指した何世代にもわたる循環により、科挙は社会に定着します。本書は、「庶」の側も、一族の有望な子弟への支援など、この儒教理念の体制でいかに上手く立ち回るかに専念し、科挙を消極的に支えていった、と指摘します。科挙が存続するなか、差別機能も再生産を繰り返し、「士」と「庶」の階層分断と格差は固定化していき、世襲的な身分制は存在しないものの、二元的な社会構成となります。中国の官僚制は、こうした社会構造に立脚したという点で、世襲的な身分制を有しながら実質的な身分の隔たりが小さかった近世社会を基盤に成立した近代日本の官僚制とは異なる、と指摘します。
この官僚制の歴史を大きくまとめると、一君万民的な比較的平準な社会構造下の未熟な体制で、個々の官僚が皇帝の代理として大きな権限を振るった法家的な時代から、貴族制の発展とともに皇帝権力を制度的に制約する時代を経て、皇帝権力と貴族制のせめぎ合いの中で、宋代に皇帝独裁制が確立した、となります。本書は、皇帝も含めて君主権力と貴族制のせめぎ合いの中から民主主義を独力で達成したのはイギリスとフランスだけだった、と指摘します。中国史の展開が特異的だったとは言えない、というわけです。
こうして宋代に成立した皇帝独裁制は、その前代の五代十国時代の社会を踏まえたものでした。五代十国時代には諸勢力が割拠しましたが、それは各地の経済開発が進んでいたからでした。そうした在地の意向を無視した画一的統治は困難ですが、それをそのまま追認・黙認するだけでは、全体の秩序が成り立たず、宋代の皇帝独裁制には、そうした弊害の矯正への要望があった、と本書は指摘します。皇帝(君主)独裁制の本質は、皇帝が専制的支配を確立することではなく、地方に応じた在地主義を前提に、一元化を目指したものだった、というのが本書の見解です。単純なトップダウンの統治ではなく、ボトムアップの社会趨勢と適合的な統治を模索した結果成立したのが皇帝独裁制だった、というわけです。各地の産業と貨幣経済が発展した社会では、法律一辺倒ではない臨機応変な対応が官僚に求められました。
権力・官僚によるトップダウン的な秩序維持と、民間・社会によるボトムアップ的な経済活動が噛み合って機能すれば、上下一体の社会と官民一体の政治が可能になり、西欧では議会政治と国民経済という形で実現しました。しかし中国では、上下および官民が必ずしも一体にならず、逆に「士」と「庶」に分かれた二元社会となります。本書は、世界ではむしろ西欧のような事例が特殊だと指摘します。本書が注目するのは、「官吏」という言葉です。現代日本ではほぼ同じ意味ですが、中国ではある時期以降、「官」と「吏」は異なる意味を有するようになります。共に役所に勤めて公務を担いますが、「官」は中央政府が任命して派遣する正式な官僚なのに対して、「吏」は必ずしも中央政府が任命せず、臨時的に執務する人員を指すようになります。「官」は「官員」・「官人」、「吏」は「吏員」・「書吏」・「胥吏」とも呼ばれます。本書は「官」と「吏」の分離を、分業化の一端と把握します。
在地主義の台頭に伴い実地に即した行政が必要になるものの、転勤が大前提の官員だけでは対応できないので、胥吏が必要とされました。元々、在地の行政は地元民が労力を出しあって進め、課税しないのが理想とされました。しかし、唐宋変革に伴い行政機構も複雑・拡大化し、専門家でなければ対応できなくなりました。こうして地方官庁の事務員は専業化し、これが胥吏です。胥吏はその起源からして 、国家から報酬は出ません。官員は転勤が大前提で任地の行政には通じないのに社会的地位と報酬を得たのに対して、胥吏は実務を一手に担ったのに、地位も給与も与えられませんでした。少数の正規の「官」と圧倒的多数の非公式の「吏」という、この倒錯した二元構造が宋代以降の官界の重要な特徴となります。ただ、宋代はそうした二元化の進展時期で、まだ後代ほど固定化したわけではないので、王安石の改革のように、まだ一元化しようとの動きもありました。しかし、貴族制の時代以来の貴賤の差別意識は根強く、王安石の時代にはそれが再生産され固定化されつつあり、王安石の改革は挫折し、二元的な伝統中国社会が確立します。
胥吏は叩き上げで、指導層の胥吏が見習いの部下を一種の徒弟制度により要請し、隠退するさいには自分の後継者として推薦しましたが、それは血縁・地縁による引き立てで、胥吏の地位は一種の権利株となっていき、盛んに取引されます。それだけ胥吏になりたい人々がいたわけですが、上述のように胥吏には中央政府からの給与は支払われません。それにも関わらず胥吏の希望者が絶えなかったのは、庶民からの手数料もしくは賄賂により充分生活できるだけの収入が得られたからでした。本書は、正規の官僚や地元の知識人・士大夫から蔑みと賎しめを受けていた胥吏の鬱屈・不満の捌け口が、同じ身分の庶民に向けられた、と指摘します。ただ本書は、こうした胥吏の弊害を伝える史料には士大夫の差別意識が反映されており、誇張されているかもしれない、と注意を喚起します。それでも、胥吏の弊害は否定できません。知識階層たる官僚は在地の行政に疎く胥吏頼みで、庶民は胥吏を経由しないと官僚とは接触できず、何かと胥吏に搾取されます。これが伝統中国社会の根源的問題の一つとなりました。本書はこのような伝統中国社会を、君主独裁・トップダウン的な官僚政治の外貌をとりながら、実質的には「封建」・ボトムアップ的な胥吏政治で、こうした二面性こそが特徴だった、と評価します。
汚職は胥吏だけの問題ではありません。官僚の年俸は、多くの一族を養うと考えると、とても足りませんでした。「清官(清廉潔白な官僚)」であろうとすれば清貧にならざるを得ず、官僚では奇特な部類でした。清官であろうとすれば、例えば上司への礼物が簡素だったために不興を買って弾劾される危険性もありました。大多数の官僚にとって、清貧は耐えられるようなものではなく、官僚においても不正・汚職はありふれていました。皇帝独裁制下では、そもそも支出の範囲がきわめて狭く、地方税・地方財政はまったく考慮されていなかったことなど、これは構造的な問題でもありました。こうした状況に対して、清代には雍正帝が改革に乗り出しますが、官僚の俸給の方では一定以上の効果があったものの、胥吏の俸給は事実上支払われないままで対症療法におわり、構造的な改革とはなりませんでした。19世紀末の政府財政の規模は1億両弱でしたが、民間社会の実質負担は2億両という推計もあります。中央の「小さな政府」志向は、民間への負担に転化され、人口急増もあり、中央政府の支配力が末端まで浸透せず、賄賂・汚職構造は清代を通じてけっきょく解決されませんでした。
この伝統社会構造を問題視した知識人もいました。たとえば、明清交代期を生きた顧炎武です。顧炎武は、庶民・社会と接して政務にあたる「小官」が少なく、官吏の父性・非違を糾す「大官」の監視・観察ばかりが増えている現状を批判しました。清朝はこの疲弊した制度・体系を立て直しましたが、それは対症療法にすぎず、18世紀後半の人口増加と社会の肥大化は官僚制の矮小化・統治の無力化と重なり、政治・社会は破綻に瀕していました。これが内憂外患の中国近現代史の根源にありました。
中国近現代は、この状況を変えようとした革命の時代でした。若くして西洋的教育を受けた孫文のように、中国伝統社会の問題点を認識し、それを改めようとした人々は少なくありません。しかし本書は、孫文も含めて、20世紀に入るまで、革命を旧体制の変革・是正と位置づける観念・感覚がどの程度知識層に存在・定着していたのか、疑問を呈します。19世紀まで、大多数の知識人は漢語で思考・表現しており、「革命」も例外ではありませんでした。革命を伝統的な王朝交代ではなく、体制全体の大変革と考えるようになったのは、日本語を経由して西洋流の新概念が入ってきたからでした。つまり、中国近代史における革命とは、西洋外来の史実・概念の輸入・獲得なくして自覚できない観念だった、というわけです。
そのため、革命運動も国民国家への目標も、対外的な配慮が勝っており、中国滅亡に至る「瓜分」が最も恐れられたため、国内社会の在り様よりも政治・外交が重視されました。それは孫文の三民主義(民族・民権・民生)にもよく表れており、圧倒的に重要だったのは民族主義です。孫文は清朝最後の宣統帝の退位後、明の太祖(朱元璋)の陵墓に参拝しています。朱元璋は「漢人政権を復活させた人物」とみなされており、孫文の意図は、明朝の復仇と再現・漢人政権の奪回を示すことでした。このように辛亥革命・中華民国は、西洋的な意味での革命・変革には至りませんでした。
1920年代になると、革命は進展します。国民革命・国民党は社会変革をも射程に入れたため、支持を得ました。しかし、国共合作で共産党の勢力が伸張して乗っ取られることを恐れた蒋介石は、反共クーデタを敢行し、列強の英米との妥協を図ります。しかし蒋介石は、社会改革と均質な国民国家の形成を達成できませんでした。蒋介石にはその意思があり、じっさい幣制改革などに乗り出しましたが、英米に妥協し、その資本主義・企業と深くつながる中国の富裕層と一体化したため、南京国民政府の製作は資本家・富裕層を庇護するものにしかなり得ず、三民主義の民生主義が軽視されてしまいました。
また、独裁制志向はついに変わらず、21世紀の現在も中国共産党により続いています。本書はこの要因としてカリスマ的指導者・独裁制をもたらす社会構造がある、と指摘します。清朝末期の1905年に科挙は廃止されますが、その身分意識と社会構成は容易に改まるものではありませんでした。エリート層選別機能を代わりに担ったのは外国への留学で、王朝の官僚制はなくなっても、軍閥勢力と政党国家が替わりを務めました。本書は、胥吏のような存在も、公式・表向きには見えにくくなっても、実質的には続いていた、と推測します。本書は、上下が乖離した二元的な伝統社会の構成自体にあまり変化はなかった、と指摘します。
1937年、日中間の本格的な戦争が始まり、国民党と共産党は日本を共通の敵として再度提携します。日中戦争は総力戦の様相を呈し、国民政府も共産党も総動員体制を余儀なくされます。ここで、久しく民間社会を直接的に掌握してこなかった中国の権力が、半ば強制的に基層社会へと浸透し、上下の乖離した二元構造も動揺し始めます。中国が日本との戦争に「惨勝」すると、国民党と共産党の間で内戦が始まります。この国共内戦の帰趨を決したのは、日本軍が占拠していた宴会の都市部・経済先進地域の向背でした。国民党は、とくにハイパーインフレを招来した拙劣な通貨管理・経済政策により、その掌握に失敗しました。また、戦時物資の接収・分配、あるいは徴税や司法をめぐって、国民政府の綱紀弛緩・腐敗蔓延が、国民党を支持したアメリカ合衆国当局も呆れるほど、目に余りました。ただ、国共内戦に勝利した時点で、共産党がどれだけ民間社会を掌握していたかは未知数である、とも本書は指摘します。
1949年に成立した中華人民共和国の課題は、国民政府も免れなかった政権・国家の腐敗と社会との隔絶、それを生み出す社会構成の変革でした。冷戦構造が確立していくなか、共産党政権の中華人民共和国は西側諸国との経済関係が極度に制限され、厳しい対外的環境の中での建国となりました。共産党政権は西側との激しい対立のなか、国内経済を資本主義世界経済と切り離し、統制管理下に起きます。「計画経済」体制下で、農村での農業集団化や都市部での商工業企業の国営化が進められ、いずれも中央の意思を現場へ徹底させようとの意図でした。各地でバラバラだった通過は、人民元により統一され、これは国民政府もなしえなかった事業でした。国民経済の統合と「計画経済」の実子は、民族主義・社会主義の達成で、共産党政権の目標でしたが、本書はその実質を問いかけます。むしろ、外圧に対抗する政治的・軍事的な動機によるもので、嶮しい国際情勢に応じた戦時統制とみなすべきで、必ずしも社会経済的な合理性に合致していない、というわけです。基層社会への権力浸透は、日中戦争以来の総動員体制から進展しており、その余勢を駆った戦時統制による上下の一体化だったので、精度の急速な変化とは裏腹に、人々の意識はあまり変わらなくても不思議ではない、と本書は指摘します。
日中戦争までの中国社会は、官吏の腐敗・犯罪の多発・匪賊の横行が状態でしたが、中華人民共和国において、少なくとも外部からは、官吏は清廉質素となり、盗賊・犯罪が姿を消したように見えました。これは毛沢東政権の成果に違いはなく、1950・1960年代の日本の知識人は共産党政権を礼賛しましたが、中国が以前とはまったく異なった理想郷に見えたのも一面の事実である、と本書は指摘します。しかし、中華人民共和国の実情は、建国以来少なからず混迷していました。共産党幹部・官僚の汚職・浪費・官僚主義を告発する三反運動では、重大案件で約29万人が摘発されました。共産党にもそれだけ「腐敗」が広がっていたわけです。これは、公式・法的な手続きを経ない、民衆を動員してのものでした。官僚の自制や相互監視あるいは制度改革では効果が期待できない、と考えられたわけです。本書は、この時点でも官僚・党員と庶民・大衆とは戴然と分かれており、上下乖離した二元社会構造だったことを指摘します。1957年の百花斉放・百家争鳴でも、共産党幹部と農民との所得格差が厳しく指摘され、共産党は慌てて批判者たちを「右派」として弾圧しました。文化大革命でも、毛沢東と「四人組」を中心とした政権の一部支配層の呼びかけに応じて、多数の「紅衛兵」が出現し、凶行の限りを尽くしました。本書は、文革時点でも中国社会が上下隔絶する二元構造だったことと、毛沢東たちが下層を動員し、上層を撃滅させることで社会の一元化を目指した、と推測します。
文革の結果は惨憺たるもので、その復興を優先して「改革開放」政策が進められ、現在の「社会主義市場経済」体制へとつながります。一見すると矛盾している概念・制度の組み合わせのように見えますが、中国の実情には適合していた、と本書は指摘します。政治は「社会主義」の共産党政権が独裁的に引き受け、経済は民間が自由な「市場経済」を取り入れるという方針は、上下乖離の二元構造社会に適しており、「改革開放」が目覚ましい成果を収めたのもそのためでした。「社会主義市場経済」が中国の伝統社会構成に応じた体制だとすると、それに根差す弊害も免れません。それは「腐敗」の蔓延と犯罪の多発です。国有企業の肥大と民間企業の縮小を指す「国進民退」という用語は、国家と民間の乖離と対立関係を示す表現で、二元構造の上下乖離が改めて拡大した所産です。上層を占めて富裕化したのは、共産党員とその縁類もしくは関連企業でした。
共産党要人も、さすがにこの状況に危機感を抱き、胡錦濤前国家主席は、「腐敗」問題が解決できなければ、共産党は致命傷を受けて「亡党亡国」になる、と述べました。習近平国家主席も同様で、習近平政権は強権的手法も辞さず、「腐敗」を摘発していきました。「亡党亡国」とは共産党が亡んで中国が亡ぶという意味で、顧炎武の「亡国亡天下」を踏まえているようです。しかし、そこに現代中国の矛盾と苦悩も垣間見える、と本書は指摘します。そもそも「亡国亡天下」とは、「国」=政権と「天下」=中国世界とを別個に分かつところに要諦がありました。政権が亡んでも必ずしも中国の滅亡ではなく、政権と一般庶民はほとんど関係がありません。一方、習近平政権では、「党」=政権と「国」=中国とは同一視されています。これは中国革命の理想だったかもしれませんが、本当に実現してきたのか、理想が現実の前に挫折を続けてきたのが20世紀中国の革命史で、顧炎武の現状認識は現代中国にも当てはまっているのではないか、と本書は問題提起します。著者の著書をそれなりに読んできたこともあって、本書をすんなりと読み進められ、また新たに整理できた論点もあり、私にとってはたいへん有益な一冊となりました。
本書の見通しは、この問題の根源に、中国史における皇帝制の出現と官僚制の成立、およびその千年後に確立した皇帝独裁制と官僚制がある、というものです。戦国時代に中央集権体制と比較的平準化が進み、いわば一君万民的な体制の出現が要請される中で皇帝制が出現し、官僚制が成立しました。県を最少単位とするこの中央集権的体制は、皇帝制と共にこの後2000年以上続きます。官僚制は、身分・階級に格差が小さい社会に適合的でした。秦王朝は、在地勢力に強権的に臨んで強い反発を招来して滅亡し、これを踏まえた漢王朝は、在地勢力を取り込んでいき、儒教が次第に社会に浸透して有力層を統合していき、皇帝を頂点とする官僚制は、在地社会の自治を包摂していく形で展開します。
しかし、漢代を通じて次第に特定の家柄が権勢を独占するようになり、格差が拡大していきます。官僚選抜の基準は儒教的な評判となり、ますます有力な家柄(豪族)が高位を占めるようになります。こうして、後漢ともなると何代にもわたって高官を輩出する家柄も出現し、貴族が成立します。貴族制を成立させて支えたのが九品官人法で、魏晋南北朝時代に貴賤の区別の確立に大きな役割を果たしました。家格により貴賤が決まり、それにより社会的存否が定まる貴族制は、とくに発達南朝で発達しました。南朝の貴族たちは皇帝になるわけではなく、武力・権力を握るものの、出自が「卑賤」な皇室をしばしば公然と見下しました。貴族層自らを「士」と称しました。その対立概念は社会の大多数を占める「庶」です。「士」と「庶」の間には転置ほどの隔たりがある、とされました。この風潮の中で、官吏になれるのは高貴な士だけとなりました。こうして、戦国時代~漢代初めの頃の身分・階級差の少ない社会とは大きく異なる格差会が形成されました。
一方北朝というか華北では、諸勢力の相克が南朝よりも激しく、南朝政権のような継続性・連続性もしくは正統性が欠如していました。それもあって北朝では、南朝よりも実用主義・賢才主義的傾向が強くなります。「統一」王朝である隋も唐も、北朝の系譜に由来します。隋・唐では、官吏採用基準を門地ではなく個人の才徳に置き、科挙が始まります。しかし、社会の意識はそう簡単に変わりません。唐皇室の李氏でさえ、名門貴族よりも下に見られていました。社会通念上も旧来の門地ではなく個人の才徳が重視されるようになったのは、唐宋変革を経た後のことでした。
宋代には、近代的な官僚制により近づいた制度が確立します。それ以前には、皇帝をも見下すような名門意識の強い貴族層が官吏の主要な供給源となり、時として皇帝に逆らいました。それが宋代には、皇帝に忠誠を尽くす官僚組織が形成されます。この官僚は士大夫と呼ばれ、その地位の源泉は皇帝と科挙に依存していました。ここに、官吏が皇帝に忠誠を尽くすような君主(皇帝)独裁制成立の基盤がありました。新たな支配層たる士大夫には、経典の教義を身につけて実践することが要求されました。士大夫は「読書人」とも呼ばれましたが、それは書を読むことが第一義的には儒教の経典だったからです。
科挙はその「読書人」の学力を測定するためのもので、政治手腕・行政能力・専門知識ではなく、経書をどれだけ諳んじられるかが試されました。つまりは暗記力が要求されたわけです。基本文献となる四書五経だけでも40万文字以上で、散文・韻文・論説・詩詞も作れねばなりません。科挙に合格するにはたいへんな勉強が必要で、試験という一見合理的で平等な手段に基づくものだけに、「士」の「庶」に対する優越意識を決定づけ、貴族制の時代以来の社会の差別・隔絶を助長する役割を担った、と本書は指摘します。人々が「士」を目指すのは、単に社会的名誉からだけではなく、実利的な側面も多分にありました。科挙に合格さえすれば、本人の富貴が保証されるだけではなく、一族にもその余沢が及びました。
科挙は原則として誰でも受験できましたが、本気で合格を目指すとなると、たいへんな勉強量が必要となりました。そこで、一族に優秀な子弟がいると、一族はこぞって支援しました。その子弟が合格して士大夫になると、次には既得の資格・権益を守るため、自分の子弟が科挙に合格するよう、指導教育します。こうして特権を目指した何世代にもわたる循環により、科挙は社会に定着します。本書は、「庶」の側も、一族の有望な子弟への支援など、この儒教理念の体制でいかに上手く立ち回るかに専念し、科挙を消極的に支えていった、と指摘します。科挙が存続するなか、差別機能も再生産を繰り返し、「士」と「庶」の階層分断と格差は固定化していき、世襲的な身分制は存在しないものの、二元的な社会構成となります。中国の官僚制は、こうした社会構造に立脚したという点で、世襲的な身分制を有しながら実質的な身分の隔たりが小さかった近世社会を基盤に成立した近代日本の官僚制とは異なる、と指摘します。
この官僚制の歴史を大きくまとめると、一君万民的な比較的平準な社会構造下の未熟な体制で、個々の官僚が皇帝の代理として大きな権限を振るった法家的な時代から、貴族制の発展とともに皇帝権力を制度的に制約する時代を経て、皇帝権力と貴族制のせめぎ合いの中で、宋代に皇帝独裁制が確立した、となります。本書は、皇帝も含めて君主権力と貴族制のせめぎ合いの中から民主主義を独力で達成したのはイギリスとフランスだけだった、と指摘します。中国史の展開が特異的だったとは言えない、というわけです。
こうして宋代に成立した皇帝独裁制は、その前代の五代十国時代の社会を踏まえたものでした。五代十国時代には諸勢力が割拠しましたが、それは各地の経済開発が進んでいたからでした。そうした在地の意向を無視した画一的統治は困難ですが、それをそのまま追認・黙認するだけでは、全体の秩序が成り立たず、宋代の皇帝独裁制には、そうした弊害の矯正への要望があった、と本書は指摘します。皇帝(君主)独裁制の本質は、皇帝が専制的支配を確立することではなく、地方に応じた在地主義を前提に、一元化を目指したものだった、というのが本書の見解です。単純なトップダウンの統治ではなく、ボトムアップの社会趨勢と適合的な統治を模索した結果成立したのが皇帝独裁制だった、というわけです。各地の産業と貨幣経済が発展した社会では、法律一辺倒ではない臨機応変な対応が官僚に求められました。
権力・官僚によるトップダウン的な秩序維持と、民間・社会によるボトムアップ的な経済活動が噛み合って機能すれば、上下一体の社会と官民一体の政治が可能になり、西欧では議会政治と国民経済という形で実現しました。しかし中国では、上下および官民が必ずしも一体にならず、逆に「士」と「庶」に分かれた二元社会となります。本書は、世界ではむしろ西欧のような事例が特殊だと指摘します。本書が注目するのは、「官吏」という言葉です。現代日本ではほぼ同じ意味ですが、中国ではある時期以降、「官」と「吏」は異なる意味を有するようになります。共に役所に勤めて公務を担いますが、「官」は中央政府が任命して派遣する正式な官僚なのに対して、「吏」は必ずしも中央政府が任命せず、臨時的に執務する人員を指すようになります。「官」は「官員」・「官人」、「吏」は「吏員」・「書吏」・「胥吏」とも呼ばれます。本書は「官」と「吏」の分離を、分業化の一端と把握します。
在地主義の台頭に伴い実地に即した行政が必要になるものの、転勤が大前提の官員だけでは対応できないので、胥吏が必要とされました。元々、在地の行政は地元民が労力を出しあって進め、課税しないのが理想とされました。しかし、唐宋変革に伴い行政機構も複雑・拡大化し、専門家でなければ対応できなくなりました。こうして地方官庁の事務員は専業化し、これが胥吏です。胥吏はその起源からして 、国家から報酬は出ません。官員は転勤が大前提で任地の行政には通じないのに社会的地位と報酬を得たのに対して、胥吏は実務を一手に担ったのに、地位も給与も与えられませんでした。少数の正規の「官」と圧倒的多数の非公式の「吏」という、この倒錯した二元構造が宋代以降の官界の重要な特徴となります。ただ、宋代はそうした二元化の進展時期で、まだ後代ほど固定化したわけではないので、王安石の改革のように、まだ一元化しようとの動きもありました。しかし、貴族制の時代以来の貴賤の差別意識は根強く、王安石の時代にはそれが再生産され固定化されつつあり、王安石の改革は挫折し、二元的な伝統中国社会が確立します。
胥吏は叩き上げで、指導層の胥吏が見習いの部下を一種の徒弟制度により要請し、隠退するさいには自分の後継者として推薦しましたが、それは血縁・地縁による引き立てで、胥吏の地位は一種の権利株となっていき、盛んに取引されます。それだけ胥吏になりたい人々がいたわけですが、上述のように胥吏には中央政府からの給与は支払われません。それにも関わらず胥吏の希望者が絶えなかったのは、庶民からの手数料もしくは賄賂により充分生活できるだけの収入が得られたからでした。本書は、正規の官僚や地元の知識人・士大夫から蔑みと賎しめを受けていた胥吏の鬱屈・不満の捌け口が、同じ身分の庶民に向けられた、と指摘します。ただ本書は、こうした胥吏の弊害を伝える史料には士大夫の差別意識が反映されており、誇張されているかもしれない、と注意を喚起します。それでも、胥吏の弊害は否定できません。知識階層たる官僚は在地の行政に疎く胥吏頼みで、庶民は胥吏を経由しないと官僚とは接触できず、何かと胥吏に搾取されます。これが伝統中国社会の根源的問題の一つとなりました。本書はこのような伝統中国社会を、君主独裁・トップダウン的な官僚政治の外貌をとりながら、実質的には「封建」・ボトムアップ的な胥吏政治で、こうした二面性こそが特徴だった、と評価します。
汚職は胥吏だけの問題ではありません。官僚の年俸は、多くの一族を養うと考えると、とても足りませんでした。「清官(清廉潔白な官僚)」であろうとすれば清貧にならざるを得ず、官僚では奇特な部類でした。清官であろうとすれば、例えば上司への礼物が簡素だったために不興を買って弾劾される危険性もありました。大多数の官僚にとって、清貧は耐えられるようなものではなく、官僚においても不正・汚職はありふれていました。皇帝独裁制下では、そもそも支出の範囲がきわめて狭く、地方税・地方財政はまったく考慮されていなかったことなど、これは構造的な問題でもありました。こうした状況に対して、清代には雍正帝が改革に乗り出しますが、官僚の俸給の方では一定以上の効果があったものの、胥吏の俸給は事実上支払われないままで対症療法におわり、構造的な改革とはなりませんでした。19世紀末の政府財政の規模は1億両弱でしたが、民間社会の実質負担は2億両という推計もあります。中央の「小さな政府」志向は、民間への負担に転化され、人口急増もあり、中央政府の支配力が末端まで浸透せず、賄賂・汚職構造は清代を通じてけっきょく解決されませんでした。
この伝統社会構造を問題視した知識人もいました。たとえば、明清交代期を生きた顧炎武です。顧炎武は、庶民・社会と接して政務にあたる「小官」が少なく、官吏の父性・非違を糾す「大官」の監視・観察ばかりが増えている現状を批判しました。清朝はこの疲弊した制度・体系を立て直しましたが、それは対症療法にすぎず、18世紀後半の人口増加と社会の肥大化は官僚制の矮小化・統治の無力化と重なり、政治・社会は破綻に瀕していました。これが内憂外患の中国近現代史の根源にありました。
中国近現代は、この状況を変えようとした革命の時代でした。若くして西洋的教育を受けた孫文のように、中国伝統社会の問題点を認識し、それを改めようとした人々は少なくありません。しかし本書は、孫文も含めて、20世紀に入るまで、革命を旧体制の変革・是正と位置づける観念・感覚がどの程度知識層に存在・定着していたのか、疑問を呈します。19世紀まで、大多数の知識人は漢語で思考・表現しており、「革命」も例外ではありませんでした。革命を伝統的な王朝交代ではなく、体制全体の大変革と考えるようになったのは、日本語を経由して西洋流の新概念が入ってきたからでした。つまり、中国近代史における革命とは、西洋外来の史実・概念の輸入・獲得なくして自覚できない観念だった、というわけです。
そのため、革命運動も国民国家への目標も、対外的な配慮が勝っており、中国滅亡に至る「瓜分」が最も恐れられたため、国内社会の在り様よりも政治・外交が重視されました。それは孫文の三民主義(民族・民権・民生)にもよく表れており、圧倒的に重要だったのは民族主義です。孫文は清朝最後の宣統帝の退位後、明の太祖(朱元璋)の陵墓に参拝しています。朱元璋は「漢人政権を復活させた人物」とみなされており、孫文の意図は、明朝の復仇と再現・漢人政権の奪回を示すことでした。このように辛亥革命・中華民国は、西洋的な意味での革命・変革には至りませんでした。
1920年代になると、革命は進展します。国民革命・国民党は社会変革をも射程に入れたため、支持を得ました。しかし、国共合作で共産党の勢力が伸張して乗っ取られることを恐れた蒋介石は、反共クーデタを敢行し、列強の英米との妥協を図ります。しかし蒋介石は、社会改革と均質な国民国家の形成を達成できませんでした。蒋介石にはその意思があり、じっさい幣制改革などに乗り出しましたが、英米に妥協し、その資本主義・企業と深くつながる中国の富裕層と一体化したため、南京国民政府の製作は資本家・富裕層を庇護するものにしかなり得ず、三民主義の民生主義が軽視されてしまいました。
また、独裁制志向はついに変わらず、21世紀の現在も中国共産党により続いています。本書はこの要因としてカリスマ的指導者・独裁制をもたらす社会構造がある、と指摘します。清朝末期の1905年に科挙は廃止されますが、その身分意識と社会構成は容易に改まるものではありませんでした。エリート層選別機能を代わりに担ったのは外国への留学で、王朝の官僚制はなくなっても、軍閥勢力と政党国家が替わりを務めました。本書は、胥吏のような存在も、公式・表向きには見えにくくなっても、実質的には続いていた、と推測します。本書は、上下が乖離した二元的な伝統社会の構成自体にあまり変化はなかった、と指摘します。
1937年、日中間の本格的な戦争が始まり、国民党と共産党は日本を共通の敵として再度提携します。日中戦争は総力戦の様相を呈し、国民政府も共産党も総動員体制を余儀なくされます。ここで、久しく民間社会を直接的に掌握してこなかった中国の権力が、半ば強制的に基層社会へと浸透し、上下の乖離した二元構造も動揺し始めます。中国が日本との戦争に「惨勝」すると、国民党と共産党の間で内戦が始まります。この国共内戦の帰趨を決したのは、日本軍が占拠していた宴会の都市部・経済先進地域の向背でした。国民党は、とくにハイパーインフレを招来した拙劣な通貨管理・経済政策により、その掌握に失敗しました。また、戦時物資の接収・分配、あるいは徴税や司法をめぐって、国民政府の綱紀弛緩・腐敗蔓延が、国民党を支持したアメリカ合衆国当局も呆れるほど、目に余りました。ただ、国共内戦に勝利した時点で、共産党がどれだけ民間社会を掌握していたかは未知数である、とも本書は指摘します。
1949年に成立した中華人民共和国の課題は、国民政府も免れなかった政権・国家の腐敗と社会との隔絶、それを生み出す社会構成の変革でした。冷戦構造が確立していくなか、共産党政権の中華人民共和国は西側諸国との経済関係が極度に制限され、厳しい対外的環境の中での建国となりました。共産党政権は西側との激しい対立のなか、国内経済を資本主義世界経済と切り離し、統制管理下に起きます。「計画経済」体制下で、農村での農業集団化や都市部での商工業企業の国営化が進められ、いずれも中央の意思を現場へ徹底させようとの意図でした。各地でバラバラだった通過は、人民元により統一され、これは国民政府もなしえなかった事業でした。国民経済の統合と「計画経済」の実子は、民族主義・社会主義の達成で、共産党政権の目標でしたが、本書はその実質を問いかけます。むしろ、外圧に対抗する政治的・軍事的な動機によるもので、嶮しい国際情勢に応じた戦時統制とみなすべきで、必ずしも社会経済的な合理性に合致していない、というわけです。基層社会への権力浸透は、日中戦争以来の総動員体制から進展しており、その余勢を駆った戦時統制による上下の一体化だったので、精度の急速な変化とは裏腹に、人々の意識はあまり変わらなくても不思議ではない、と本書は指摘します。
日中戦争までの中国社会は、官吏の腐敗・犯罪の多発・匪賊の横行が状態でしたが、中華人民共和国において、少なくとも外部からは、官吏は清廉質素となり、盗賊・犯罪が姿を消したように見えました。これは毛沢東政権の成果に違いはなく、1950・1960年代の日本の知識人は共産党政権を礼賛しましたが、中国が以前とはまったく異なった理想郷に見えたのも一面の事実である、と本書は指摘します。しかし、中華人民共和国の実情は、建国以来少なからず混迷していました。共産党幹部・官僚の汚職・浪費・官僚主義を告発する三反運動では、重大案件で約29万人が摘発されました。共産党にもそれだけ「腐敗」が広がっていたわけです。これは、公式・法的な手続きを経ない、民衆を動員してのものでした。官僚の自制や相互監視あるいは制度改革では効果が期待できない、と考えられたわけです。本書は、この時点でも官僚・党員と庶民・大衆とは戴然と分かれており、上下乖離した二元社会構造だったことを指摘します。1957年の百花斉放・百家争鳴でも、共産党幹部と農民との所得格差が厳しく指摘され、共産党は慌てて批判者たちを「右派」として弾圧しました。文化大革命でも、毛沢東と「四人組」を中心とした政権の一部支配層の呼びかけに応じて、多数の「紅衛兵」が出現し、凶行の限りを尽くしました。本書は、文革時点でも中国社会が上下隔絶する二元構造だったことと、毛沢東たちが下層を動員し、上層を撃滅させることで社会の一元化を目指した、と推測します。
文革の結果は惨憺たるもので、その復興を優先して「改革開放」政策が進められ、現在の「社会主義市場経済」体制へとつながります。一見すると矛盾している概念・制度の組み合わせのように見えますが、中国の実情には適合していた、と本書は指摘します。政治は「社会主義」の共産党政権が独裁的に引き受け、経済は民間が自由な「市場経済」を取り入れるという方針は、上下乖離の二元構造社会に適しており、「改革開放」が目覚ましい成果を収めたのもそのためでした。「社会主義市場経済」が中国の伝統社会構成に応じた体制だとすると、それに根差す弊害も免れません。それは「腐敗」の蔓延と犯罪の多発です。国有企業の肥大と民間企業の縮小を指す「国進民退」という用語は、国家と民間の乖離と対立関係を示す表現で、二元構造の上下乖離が改めて拡大した所産です。上層を占めて富裕化したのは、共産党員とその縁類もしくは関連企業でした。
共産党要人も、さすがにこの状況に危機感を抱き、胡錦濤前国家主席は、「腐敗」問題が解決できなければ、共産党は致命傷を受けて「亡党亡国」になる、と述べました。習近平国家主席も同様で、習近平政権は強権的手法も辞さず、「腐敗」を摘発していきました。「亡党亡国」とは共産党が亡んで中国が亡ぶという意味で、顧炎武の「亡国亡天下」を踏まえているようです。しかし、そこに現代中国の矛盾と苦悩も垣間見える、と本書は指摘します。そもそも「亡国亡天下」とは、「国」=政権と「天下」=中国世界とを別個に分かつところに要諦がありました。政権が亡んでも必ずしも中国の滅亡ではなく、政権と一般庶民はほとんど関係がありません。一方、習近平政権では、「党」=政権と「国」=中国とは同一視されています。これは中国革命の理想だったかもしれませんが、本当に実現してきたのか、理想が現実の前に挫折を続けてきたのが20世紀中国の革命史で、顧炎武の現状認識は現代中国にも当てはまっているのではないか、と本書は問題提起します。著者の著書をそれなりに読んできたこともあって、本書をすんなりと読み進められ、また新たに整理できた論点もあり、私にとってはたいへん有益な一冊となりました。
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