マレー半島西部の7万年前頃の石器
マレー半島西部の7万年前頃の石器に関する研究(Goh et al., 2020)が公表されました。コタタンパン(Kota Tampan)は、マレー半島北部西方のレンゴン渓谷(Lenggong Valley)に位置する開地遺跡(北緯5度63分318秒、東経100度88分424秒)です。レンゴン渓谷はアジア太平洋地域の考古学にとってひじょうに重要で、それはアフリカ外において、単一の場所における初期人類の最長の考古学的記録を示しており、過去180万年に及んでいるからです。コタタンパン遺跡における1954年の考古学的調査により、トバ噴火による新しい凝灰岩堆積物のすぐ下で、膨大な石器群が見つかりました。74000年前頃のトバ大噴火は「火山の冬」を引き起こし、地球の気温を3~5℃急激に低下させ、当時のアジア南東部の人類集団の生存に影響を与えたに違いない、と推測されています。
コタタンパン遺跡の石器群は、トバ大噴火の前か、あるいは少なくとも同年代と推測されています。しかし、この仮説はレンゴン渓谷の堆積物の性質や放射性炭素年代から疑問が呈されており、マレー半島南部西方のアンパン(Ampang)の火山灰直下の泥炭堆積物から収集された木炭の放射性炭素年代は35000年前頃でした。この非考古学的堆積物は、約280km離れているにも関わらず、文献ではコタタンパン遺跡と誤って関連づけられています。また、コタタンパン遺跡の堆積物は河川の再堆積の影響を受けたとの主張がある一方で、コタタンパン遺跡の石器群は元々の場所で発見された、との主張もあります。その後、光刺激ルミネッセンス法(OSL)により、コタタンパン遺跡の石器群が発見された層の年代は7万年前頃と推定されました。
このように、コタタンパン遺跡の年代は不確実なままです。本論文では、打撃や角度や剥片の痕跡などを調べる、技術的手法を用いた石器群の再検証に焦点が当てられます。こうした手法は、変動の理解を制限し、技術的属性と削減技術の理解を制約するとして、批判されてきました。しかし、アジア南東部本土の最重要となる旧石器時代遺跡群の一つとしてのコタタンパンの重要性を考えると、アジア南東部全域で用いられている手法を利用する技術に基づくモデルの開発が重要です。
本論文では、1954年にコタタンパン遺跡で発見された69個の石器の再調査結果が取り上げられます。石器は234個確認されていますが、そのうち165個の出土地点は不明で、残りの69個が再分析されました。この69個の石器は、おもに60~78mmの小剥片から構成され(44個)、両極石器(14個)と石核(9個)が続きます。フリーハンド打撃(53個)と両極打撃(16個)が、主要な二つの剥離技術です。9個の石核のうち、縮小の最も一般的な方法は複数面(5個)で、単一面(2個)、放射状(1個)、両方向(1個)が続きます。全ての石核は60~14mmと小さく、石核の大半が5~6回除去されている場合には大きく縮小していません。剥片石器44個は、ほぼ完全に(43個)初期段階の縮小の結果です。剥片石器44個のうち半数近く(20個)は、初期縮小剥片に一方向で再加工されていましたが、他の8個の剥片石器は、裁断手法を用いてさらに修正されていました。12個の両極剥片と求心的に剥離された1個の両面礫器も特定されました。69個の石器の大半(65個)は、在地の利用可能な珪岩と石英の礫で作られており、残りの4個は粘板岩と細粒の花崗岩で作られました。
これらの知見から、コタタンパン遺跡の初期人類は石の剥離にフリーハンドおよび両極打撃技術を用いた、と示唆されます。石器のほとんどは、縮小の初期段階で単面的に再加工されて作られました。標本の数は少ないものの、最も一般的に用いられた手法は複数面の石核縮小だったようです。1980年代以降、コタタンパン遺跡石器群は、現生人類(Homo sapiens)の所産とされてきました。本論文の分析は、この主張をさらに強化します。コタタンパン遺跡石器群は、コタタンパン遺跡から数百m離れた場所に位置する石器作業場であるブキットブヌー(Bukit Bunuh)遺跡で発見された、4万年前頃の石器群ともひじょうに類似しています。コタタンパン遺跡のOSL年代が示された石器群と、アジア南東部全域の他の早期人類遺跡の石器群との間の類似性から、現生人類はスンダランド内陸部に7万年前頃に到達し、利用し始めた、と示唆されます。
本論文はアジア南東部における現生人類の早期(6万年以上前)拡散説を支持しますが、コタタンパン遺跡ではこの時期の人類遺骸が見つかっておらず、確定的とは言えません。アジア南東部からオセアニアにかけて、現生人類の早期拡散を示唆する証拠が得られていますが、疑問も呈されており(関連記事)、今後も議論が続くことになりそうです。また、仮に6万年以上前に現生人類がアジア南東部に到達していたとしても、現代人の主要な祖先集団だったのか、定かではありません。
非アフリカ系現代人集団は基本的に主要な1回の出アフリカ集団の子孫であるものの、現代パプア人のゲノムの少なくとも2%は、その主要な出アフリカ以前にアフリカ系現生人類集団と分岐し、出アフリカを果たした現生人類集団に由来する、と推測されています(関連記事)。本論文で取り上げられたコタタンパン遺跡の石器群の年代が7万年前頃で、現生人類の所産だとしても、その現生人類集団の現代人への遺伝的影響は、皆無もしくはごく僅かかもしれません。
参考文献:
Goh HM. et al.(2020): The Palaeolithic stone assemblage of Kota Tampan, West Malaysia. Antiquity, 94, 377, e25.
https://doi.org/10.15184/aqy.2020.158
コタタンパン遺跡の石器群は、トバ大噴火の前か、あるいは少なくとも同年代と推測されています。しかし、この仮説はレンゴン渓谷の堆積物の性質や放射性炭素年代から疑問が呈されており、マレー半島南部西方のアンパン(Ampang)の火山灰直下の泥炭堆積物から収集された木炭の放射性炭素年代は35000年前頃でした。この非考古学的堆積物は、約280km離れているにも関わらず、文献ではコタタンパン遺跡と誤って関連づけられています。また、コタタンパン遺跡の堆積物は河川の再堆積の影響を受けたとの主張がある一方で、コタタンパン遺跡の石器群は元々の場所で発見された、との主張もあります。その後、光刺激ルミネッセンス法(OSL)により、コタタンパン遺跡の石器群が発見された層の年代は7万年前頃と推定されました。
このように、コタタンパン遺跡の年代は不確実なままです。本論文では、打撃や角度や剥片の痕跡などを調べる、技術的手法を用いた石器群の再検証に焦点が当てられます。こうした手法は、変動の理解を制限し、技術的属性と削減技術の理解を制約するとして、批判されてきました。しかし、アジア南東部本土の最重要となる旧石器時代遺跡群の一つとしてのコタタンパンの重要性を考えると、アジア南東部全域で用いられている手法を利用する技術に基づくモデルの開発が重要です。
本論文では、1954年にコタタンパン遺跡で発見された69個の石器の再調査結果が取り上げられます。石器は234個確認されていますが、そのうち165個の出土地点は不明で、残りの69個が再分析されました。この69個の石器は、おもに60~78mmの小剥片から構成され(44個)、両極石器(14個)と石核(9個)が続きます。フリーハンド打撃(53個)と両極打撃(16個)が、主要な二つの剥離技術です。9個の石核のうち、縮小の最も一般的な方法は複数面(5個)で、単一面(2個)、放射状(1個)、両方向(1個)が続きます。全ての石核は60~14mmと小さく、石核の大半が5~6回除去されている場合には大きく縮小していません。剥片石器44個は、ほぼ完全に(43個)初期段階の縮小の結果です。剥片石器44個のうち半数近く(20個)は、初期縮小剥片に一方向で再加工されていましたが、他の8個の剥片石器は、裁断手法を用いてさらに修正されていました。12個の両極剥片と求心的に剥離された1個の両面礫器も特定されました。69個の石器の大半(65個)は、在地の利用可能な珪岩と石英の礫で作られており、残りの4個は粘板岩と細粒の花崗岩で作られました。
これらの知見から、コタタンパン遺跡の初期人類は石の剥離にフリーハンドおよび両極打撃技術を用いた、と示唆されます。石器のほとんどは、縮小の初期段階で単面的に再加工されて作られました。標本の数は少ないものの、最も一般的に用いられた手法は複数面の石核縮小だったようです。1980年代以降、コタタンパン遺跡石器群は、現生人類(Homo sapiens)の所産とされてきました。本論文の分析は、この主張をさらに強化します。コタタンパン遺跡石器群は、コタタンパン遺跡から数百m離れた場所に位置する石器作業場であるブキットブヌー(Bukit Bunuh)遺跡で発見された、4万年前頃の石器群ともひじょうに類似しています。コタタンパン遺跡のOSL年代が示された石器群と、アジア南東部全域の他の早期人類遺跡の石器群との間の類似性から、現生人類はスンダランド内陸部に7万年前頃に到達し、利用し始めた、と示唆されます。
本論文はアジア南東部における現生人類の早期(6万年以上前)拡散説を支持しますが、コタタンパン遺跡ではこの時期の人類遺骸が見つかっておらず、確定的とは言えません。アジア南東部からオセアニアにかけて、現生人類の早期拡散を示唆する証拠が得られていますが、疑問も呈されており(関連記事)、今後も議論が続くことになりそうです。また、仮に6万年以上前に現生人類がアジア南東部に到達していたとしても、現代人の主要な祖先集団だったのか、定かではありません。
非アフリカ系現代人集団は基本的に主要な1回の出アフリカ集団の子孫であるものの、現代パプア人のゲノムの少なくとも2%は、その主要な出アフリカ以前にアフリカ系現生人類集団と分岐し、出アフリカを果たした現生人類集団に由来する、と推測されています(関連記事)。本論文で取り上げられたコタタンパン遺跡の石器群の年代が7万年前頃で、現生人類の所産だとしても、その現生人類集団の現代人への遺伝的影響は、皆無もしくはごく僅かかもしれません。
参考文献:
Goh HM. et al.(2020): The Palaeolithic stone assemblage of Kota Tampan, West Malaysia. Antiquity, 94, 377, e25.
https://doi.org/10.15184/aqy.2020.158
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