岡本隆司『近代日本の中国観 石橋湛山・内藤湖南から谷川道雄まで』
講談社選書メチエの一冊として、2018年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、近代日本の中国観を、おもに知識人の言説に依拠して検証します。もちろん本書は、知識人の言説だけを取り上げるのではなく、それらが形成されて支持された背景、あるいは受け入れられなかった理由を検証します。具体的に取り上げられる知識人は、石橋湛山・矢野仁一・内藤湖南・橘樸で、最後に時代区分論争に関わった歴史学者たちです。
まず取り上げられる石橋湛山は、小日本主義で有名です。経済的な功利的観点から、中国やシベリアへの干渉を止めるだけではなく、朝鮮半島と台湾をも放棄し、軍事よりも経済と教育を重視すべきとの主張は、1921年に公表されたことから、石橋の先見性が讃えられてきました。その後の日本は、石橋の方針に反し続けて破滅し、敗戦後まさに小日本主義的主張に沿ったかのような行動で経済的に繁栄したからです。しかし、石橋の小日本主義は、戦前には広範な支持を得られませんでした。
本書がまず指摘するのは、小日本主義は合理的思考の末に形成されたというよりは、大帝国を築いたイギリスでも対外膨張主義一色ではなく、「小英国主義」が健全な批判を行なっていたことに倣い、日本の政治と輿論に一石を投じることが目的で、小日本主義ありきの主張だった、ということです。小日本主義は、あくまでも政策と輿論の相乗効果を牽制することにありました。本書は、小日本主義における経済的利害は多分に後付けで、その「経済的リアリズム」を手放しでは評価できない、と指摘します。
この小日本主義の根底にあるのは、中国も近代日本と同様に「国家」・「国民」の「統一」を求めている、との認識でした。石橋は中国を日本と同一視していたわけです。これは、中国は西洋列強や日本と同等の「文明国」ではない、という当時の多くの日本人にとっては受け入れ難い認識でした。これが、小日本主義が戦前日本で受け入れられなかった主因となりました。しかし、石橋も中国を日本と同じ「文明国」・「独立国」と考えていたわけではありませんでした。石橋は、中国は日本のように実力を着けてから不平等条約改正を主張すべきだ、と考えていました。ここに石橋の矛盾がありましたが、辛うじて一貫性を保っていたのは、小日本主義による中国など「海外」利権放棄の主張でした。石橋が、中国は日本と対等の文明国ではないと認識しておきながら、中国と日本の同等性を認め続けたのは、中国の「感情」に石橋が「同情」したからで、それは中国社会の構造への深い洞察に基づいていなかった、と本書は指摘します。また本書は、石橋の経済論は情勢の分析や診断に乏しく、結論だけを述べている、と指摘します。
昭和戦前期の石橋の中国観は、当時「支那通」と呼ばれた人々の中国観を批判するものでした。「支那通」は中国と日本との違いを強調しましたが、石橋は、中国が日本と同等の「文明国」ではないことを認めつつ、感情面から日本と中国を同一視していました。本書は、石橋の言説が中国に対する内在的考察を欠き、論理矛盾を抱えていたために説得力を持たなかったものの、中国に「同情」したことで日本の破局を的中させたので、後に高く評価された、と指摘します。
一方、専門家として中国を見ていた「支那通」は、日中の乖離を強調し、中国に「同情」を寄せませんでした。当時はそれが日本を破滅に導いたわけですが、本書は、矛盾のある言説に先見性があり、専門の分析が国運を誤るという二重の逆説をどう解いたらよいのか、と問題提起します。まず本書が指摘するのは、かつて「日中友好」の名のもと、日本人が中国ナショナリズムを批判することには一種の禁忌があり、石橋と「小日本主義」への高い評価は、その禁忌と無関係ではない、と指摘します。近年の中国とそれを巡る状況変化は、やっと中国ナショナリズムの歴史的な特質・本質を忌憚なく議論できる場を作り出しつつある、との認識に基づいて本書は、石橋の等身大の中国観を同時代の知識人と比較するのが、その有効な補助線となり、中国認識の深まりにも資する、との見通しを提示します。
そこで石橋とは対照的な同時代の「支那通」知識人としてまず取り上げられるのが、矢野仁一です。矢野は東洋史研究者で、日本の国策・戦争に積極的に加担し、戦後は公職追放となりました。たとえば満洲事変のさい、石橋は「満蒙」における「特殊権益」の放棄を主張しましたが、矢野は「満洲国」を正当化しました。石橋が、満洲は中国人の住地なので中国の領土であり、中国は「独立国」だから日本と同等と主張したのに対して、矢野は、満洲は本来、中国の領土ではなく「特殊」な地域であり、中国人が居住していても中国の主権は認められず、中国は日本と同様の「独立国」ではないばかりか、そもそも国ですらない、と主張しました。矢野は中国に関して、「真の国境がない」から「国家」ではない、と主張しました。この場合の「国家」とは、西洋近代国民国家です。
一方、当時の中国において法治が確立していない、という現状認識では、石橋も矢野も一致していました。本書は両者の違いに関して、石橋にはあった中国ナショナリズムへの同情が矢野にはなかったことを指摘します。中国ナショナリズムに対して、石橋は明治維新、さらには自分たちが目指す「閥族打破」と「官僚主義」の打倒を投影しましたが、矢野は日本の「愛国心」を見いだし、いわば中国人にとっての真の利益よりも人気取りのために用いられており、中国の政治家が煽ってきた、と認識していました。
矢野が石橋と共通の現状認識も有しながら、その主張が対照的になった背景として、士族の家柄で生涯「国士」と自認していた矢野が純粋な人物だったことを、本書は指摘します。矢野は「満洲国」建国の理念である「王道楽土」を実現する、と本気になり、それは深い学識に基づく確固たる信念に由来していたので、いっそう始末が悪かった、と本書は指摘します。日本と中国を同一視する石橋は、日本でも実現できていない「理想」を「満蒙」において実現できるわけない、と主張します。一方矢野は、「満洲国」における「理想」の「王道政治」について、西洋諸国および日本の、法治主義・物質主義・個人主義・不平等主義などに対する、徳化主義・精神主義・共同主義・平等主義など、「東洋」・「中国」独自の理想を主張します。
しかし矢野も、そうした「王道政治」が実現したことはない、という致命的欠陥には気づいていました。しかし、その理想を「満洲国」が実現するというので、「支那通」で歴史と現実との解離を知る矢野は、それを実現するための手段も分かっているとの自負を抱き、「満洲国」に協力した、というわけです。矢野は「王道政治」を「徳治主義の政治」と定義します。「徳治」とは為政者がその仁徳で被治者を徳化して治めることで、法律による強制で治める「法治」とは対極的であり、「法治」に対する「徳治」の優位は、『論語』に明らかとされます。
矢野は「王道政治」が実現しなかった理由として、徳化されない被治者に強制力を行使しないことを挙げます。しかし、「政治の及ばぬ範囲」に跋扈する「土匪群盗」の本質は政治以外の手段による福利組織で、「良民」との違いは「政治の及ぶ範囲」か否かにすぎない、というわけです。「徳治主義」による「政治の及ばぬ範囲」は領土にも当てはまり、その境界が曖昧なため、国境も「不明瞭」になり、厳密な意味での領土の概念も存在し得ない、と矢野は指摘します。そのため、実際に支配していない地域も領土いう観念が生じ、この帝政時代の「徳治主義」による領土観念は中華民国になってもあまり違わず、そこに列強との軋轢が生じる、というのが矢野の見通しです。
中国では、帝政が廃されて共和政となり、帝政を支えた「礼教」も「道徳」も失われると、法律・条約を軽視する「無責任な」心理と風習のみが残り、治安を維持できず、条約を守らないため列強と安定した関係を築けない、と矢野は論じます。したがって、中国が、列強、とりわけ日本の帝国主義・侵略主義を除去すれば建国と興隆は可能、との言説は無根の「宣伝」にすぎず、それを真に受けて「排日」に勤しむ中国人には反省自責の念がなく、歴史を正確に読めない先天的欠点がある、とまで矢野は主張します。
中国を日本と同質の社会とみなした石橋に対して、矢野はその学殖から、法治国家の社会とは異なる在り様を中国に見いだしていました。中国史は当時の日本人にとって現代よりもはるかに馴染み深く、それを論拠に「王道楽土」の建設を夢想した矢野の方が、「経済的リアリズム」で小日本主義を主張した石橋よりも輿論の支持を集めたのは当然である、というわけです。矢野の議論は、「歴史を正確に読まない」中国ナショナリズムの昂揚と真っ向から対決するもので、日本の大陸政策・侵略主義と同調していくことは避けられませんでした。
敗戦後、公職追放となった矢野は倉敷に隠棲しますが、研究は続けました。矢野が90代半ばの1966年に著した『中国人民革命史論』では、中国共産党にきわめて高い評価が与えられました。かつて日本の大陸政策・侵略主義を支持した矢野が転向したようにも見えますが、本書は、矢野の持論が貫かれていたことを指摘します。それは、毛沢東の革命が、矢野が久しく夢見てきた「王道楽土」を実現しつつあったように見えたからです。具体的には、「官公吏の清廉勤勉」と「匪賊の絶滅」と「犯罪の非常に少なく絶無に近い」状態です。矢野には、中国共産党政権は数千年にわたる「王道政治」と「徳治主義」の現実的弊害を一掃したように見えました。矢野は、毛沢東が変える以前の、「政治の及ばぬ範囲」を無理に治めようとしなかった「王道政治」を、政治と民衆が乖離した社会と認識していました。
矢野は国民党を「道徳的精神」・「道徳的基礎」がないと批判しましたが、これは、政治と民衆、政府権力と民間社会が近接して互いに意思疎通し、影響を及ぼし合い、一体化して国民国家となる構造のことでした。西洋列強と日本は近代にこれを確立しましたが、中華民国までの中国はその逆だった、と矢野は認識します。大多数の農民は、政治に対してひじょうに冷淡で、きょくたんに無関心だった、というわけです。矢野は伝統的な中国社会の構造を、知識階級にして治者階級である「士」と、無識階級にして被治者階級である「庶」の乖離と把握していました。いくら王朝が替わっても、政治に関係ない「庶」には何ら影響変動を及ぼさなかった、と矢野は指摘します。矢野は士を「動く支那」、庶を「動かざる支那」と呼びました。
矢野は、このような中国の政治社会構造は唐やモンゴル時代以来のことではなく、古代から一貫していた、とその「固定性」を強調します。つまり矢野は、時代の経過に伴う中国社会の変遷もしくは歴史的発展を否定したわけで、これは中国社会停滞論に結びつく可能性を有する、と本書は指摘します。中国社会停滞論とは、中国は自力で進歩・発展する契機を持たないので、近代化には外からの衝撃・助力が必要になる、というもので、列強の中国への干渉・侵略を正当化する一つの論拠にもなっており、この点でも矢野の所論は日本の侵略主義に親和的だった、と本書は指摘します。矢野は、当時の中華民国も、13~14世紀のモンゴル時代も、4~5世紀の五胡十六国時代も同じで、中国社会は異民族であれ外国であれ、誰に支配されても差し支えなかった、と論じます。
矢野はそこで、庶民に為政者の徳が行き届き、中国人の「真の利益幸福を図る」政治を日本が実現すべきだ、と考えました。その具体的な表現が「満洲国」だった、というわけです。このような中国伝統社会を打破したように見えたため、矢野は中国共産党政権(中華人民共和国)を高く評価しました。矢野は、中国社会における士と庶の乖離は古来変わらなかった、と主張する時、明白に「賛成し兼ねる」論敵を想定していました。それ京都帝大で矢野の同僚でもあった内藤湖南でした。矢野は内藤の唐宋変革論を真っ向から批判しましたが、それは内藤没後のことでした。内藤は生前、「満洲国」の「王道」を「空言」と批判していました。
そこで本書は、日本帝国主義に加担した矢野の対極にあったように見える内藤の言説を検証していきます。内藤は富永仲基と山片蟠桃を高く評価しており、その評価・観点の基準は「今日唯今のこと」につながる実務的な合理精神でした。京都帝大に迎えられる前にジャーナリストとして世に出た内藤は、学問・歴史に対する同時代的関心を強く抱き続けました。内藤は、時代の全体的な進行・「発達」、あるいは「進歩」を基準とし、歴史は進歩する、という西洋起源の歴史学の観念に基づいていました。これは、現代では無意識的としても大前提とされていますが、中国の伝統歴史思想は違いましたし、日本でも、内藤の頃にはまだ定着しきったとは言えない観念でした。内藤の史観は「進歩的」だった、と本書は評価します。また内藤の基本的な視座として、日本と中国をともに東洋文化の枠組みで把握したことが挙げられます。日中間に顕著な相違があっても、それは絶対的な質的差異ではなく、むしろ同じ文化の先進と後進、あるいは多様性として内藤は認識していた、というわけです。
内藤の中国史認識で重要となるのが、唐と宋の間に画期を認め、宋以降を「近世」とする時代区分論です。ここで内藤が重視するのは「平民発展」で、物質的にも精神的にも平民に大きな発展があった、と指摘します。物質的には「私有」と「所有権」の発達、精神的には、学問では「自由研究の精神」の勃興、絵画では専門家たる「画工」の絵画から「素人」の文人画・山水画が主流になり、工芸でも「平民相手の大量生産」となりました。一方、近世は君主独裁制が確立したと言われますが、内藤は、君主と平民がともに貴族の専有から解放された、と指摘します。内藤は、前代とはまったく異なり、現代にもつながる「平民時代」が宋代に始まった、と主張しました。
内藤は東洋史の創始者の一人とされます。東洋史とは日本独自の区分で、西洋近代史学を受容するさい、「世界史」と言いながら実質的にはヨーロッパ史であることを不充分と考えた日本人歴史学者たちが、その不備を補うべく、まずは漢文史料を中心に、ヨーロッパ外地域の歴史を、近代歴史学の手法で構築したものでした。漢文史料では当然漢人中心の歴史となってしまいますが、那珂通世や桑原隲蔵といった東洋史の創始者たちは、近代歴史学に倣い、東洋史を諸民族の関係史として叙述しようと試みました。その観点から桑原は、東洋史における時代区分を、漢人膨張の殷周(上古)→漢人優勢の秦から唐(中古)→「蒙古人」優勢の五代十国から明(近古)→欧州人東漸の清としました。
一方内藤は、東洋史の創始者の一人とされますが、その学問は厳密には、漢学の流れをくむ「支那学」と分類されます。内藤は西洋近代歴史学を東洋に当てはめたというよりは、多分に前近代の学問を継承しつつ、「日本」と「東洋」の文化を探求しました。内藤の時代区分は、「支那文化」の発展を基準にしており、殷から漢(上古)→六朝から五代十国(中世)→宋から清(近世)というものでした。これは、夏殷周(上世)→秦から宋(中世)→元明清(近世)という那珂の時代区分を強く意識して批判するものでした。さらに内藤は、この「支那文化」の発展が他の「民族」・「種族」を巻き込んで東アジア全体の歴史を形成する、と論じました。これにより、「民族」の優勢を基準にした桑原の時代区分とも近接し、以後の東洋史学の方向を決定づけました。
内藤の学問は「文化史」とされますが、狭義の文化だけではなく、それを成り立たせる「社会の構造」をも含んでいました。内藤の時代区分論は、日本や西洋を基準にしたのではなく、あくまでも中国史の文脈に即したものでした。宋以後の君主独裁制では、高級官僚は科挙で選ばれ、在地で勢力を蓄えて割拠しないよう転任させられたので、行政能力の低い高級官僚が大半となり、民間では、在地の名望家である「父老」や「郷紳」が指導する「自治団体」により民政が担われました。こうして、官と民、国家と社会が乖離していきます。内藤はこうした見解を、すでに辛亥革命前に公表していました。
内藤は、帝政終焉後に「平民」社会を主体とする共和制が確立すると予想していましたが、辛亥革命後の中国は混迷が続き、日本との関係は悪化します。こうした情勢を踏まえて1924年に内藤が発表した『新支那論』では、中国が列強に政治軍事で劣るのは文明が遅れているからではなく、逆に老成しているからで、列強の歴史は「幼稚な」段階にあり、中国は高級な学問芸術は列強に任せて一向に差し支えなく、その方が大多数の中国人にとっても幸福に違いなく、文化の遅れた日本の経済進出が中国の面目を変えつつあるが、中国史を理解しない「新人」が、ナショナリズムを根拠に排日運動を繰り返している、というものでした。この『新支那論』により、内藤の評価は定まりました。戦前は日本の立場を代弁する「支那通」、戦後は中国ナショナリズムを理解しない侵略主義者です。戦後、内藤は矢野と同様に激しく批判され、石橋が批判した「支那通」の典型と言えます。
内藤と矢野は、中国における国家と社会の乖離を、国家と社会が一体化している同時代の日本や西洋諸国などの近代国民国家とは異質な構造と把握し、中国ナショナリズムを「普通の」ナショナリズムとみなさなかった点で共通します。しかし、唐宋変革と宋を中国の「近世」とみなす内藤の見解に、中国の現状を「説明」できないとして、矢野は批判的でした。宋代以降も、庶民は政治社会上無権力無機会で、徴税対象の被搾取階級にすぎなかったのだから、「貴族」に代わって「庶民」が「擡頭勃興」した「変革」はなかった、というわけです。上述のように、矢野は中国における国家・政治と社会の乖離は唐よりもずっと前から続いていた、と主張します。
本書は、矢野の社会論に存在しない論点として、「文化」・「生活」を挙げます。矢野も中国文化を愛好し、造詣も深かったものの、その文化とは儒教に他ならず、歴史の考察において「王道」・「徳義」ら敷衍もしくは収斂されてしまい、政治にほぼ一元化された、というわけです。矢野は社会の内部構造には冷淡で、「大家族精度」や「土匪盗賊」の存在や機能には着眼しても、その内側まで深く検討しませんでした。「王道政治」からの一方通行の立論だった、というわけです。本書は、矢野が政治と社会の乖離を説く場合、必ず「士」と「庶」という史料そのままの原語を用いて、その概念の内実に立ち入った考察・議論は行なわれなかった、と指摘します。
一方内藤は、「士」と「庶」という漢語で割り切るだけでは分析しきれない、中国社会の動態に踏み込んでいました。内藤が言う「平民」は「庶民」と等しいわけではなく、「士」も「庶」も含んだ概念で、「士」も一枚岩ではありませんでした。ただ、内藤は明清時代をつきつめて研究したわけではなく、「平民」・「民衆」の変遷を歴史として描いてはおらず、矢野の批判も無視できない、と本書は指摘します。本書は、「唐宋変革」を主張する内藤の「平民」と、明清時代を専門とする矢野の「庶民」について、内藤と矢野が堂々と論戦をして議論が深まっていれば、中国社会の解明に貢献したかもしれない、と指摘します。
内藤は「満洲国」にも関わりましたが、矢野ほどではなく、その国是である「王道」は「空言」だとして、日本の行動には批判的で、溥儀の皇帝即位にも反対しました。しかし本書は、内藤が矢野のように長命を保てばどう身を処しただろうか、と問題提起します。内藤の『新支那論』での主張は上述のように、中国の政治は外国人、とりわけ日本人に任せてもかまわない、というものでした。これは、矢野と変わらない帝国主義的な言説で、これは学界で今でも尊重され継承されている「唐宋変革」論とも無関係ではありません。そこで本書は、日本人の中国観の特徴と推移を考えることに大きく重なるだろう、という見通しのもと、内藤の中国社会論がどのような評価を受け、また受け継がれたか、と問題提起します。
そこで本書が取り上げるのは、『新支那論』の初版をいちはやく論評した橘樸です。本書は橘を、単なるジャーナリストではなく、中国の本質を究めようとした研究者的側面があり、内藤と通ずる、と指摘します。ただ、橘本人は、「支那社会を対象とする評論家」と自称し、「支那学者」ではない、と主張しました。内藤のように、「支那学者」の多くは「支那通」と称せられましたが、橘は「支那通」を露骨に嫌い、否定しました。それは、知識の内容が非科学的な「支那通」の予想が外れて世間から軽蔑されるからでした。具体的には、その「支那知識」がすべて断片的なので、聴者の側が適当に取捨および統一しない限り、ほとんど実際の役に立たない、というものでした。橘は、「支那通」のみならず「日本人一般」も、中国に対して先進者であることを無反省に自惚れ、中国人を道徳的情操のほとんどまったく欠如した民族であるかのように考えている、と批判します。日本人には中国に対する「没常識」・「誤謬」・「偏見」が蔓延しており、それは「支那通」を典型とする、「断片的」で体系を欠いた中国理解の方法から生じている、というわけです。
そこで橘は、日本人が中国を理解するために、人種学や心理学といった諸社会科学を活用する、「科学的方法」を提唱します。それでも橘は、内藤たちの「支那学」にはそれなりに敬意を払っていました。では、橘の『新支那論』書評がいかなるものだったのかというと、賛辞が目につき、橘は内藤のファンだった、と本書は推測します。橘は、内藤の唐宋変革も見逃していませんでした。しかし本書は、橘が内藤を手放しに称賛したわけではなく、その賛辞もよく読めば、自身の見解を際立たせ、説得力を持たせるために弄した修辞ではないか、と指摘します。
橘が『新支那論』で最も重視したのは、内藤の中国社会論、とくに「郷団自治」でした。橘は、内藤が「郷団自治」という事象を明らかにし、その功績を認めつつ、その原因と意義が明らかにされていない、と批判します。橘は「郷団自治」の「意義」を、「中産階級」の実力・自覚とその団結心の発達にある、と指摘しました。橘は、唐中期までに完成した「国民経済組織」の社会・政治的効果が、その数百年後に「郷団」という社会の根本組織の上に発現した、との見通しを提示します。橘は、「中産階級」や「国民経済組織」といった西洋的な術後概念を駆使し、「団結心の発達」や「階級闘争」といった現象に結びつけました。橘は、「階級意識に目醒める」とか「デモクラテイツクに色彩を看取」とかいった表現も用いており、そうした概念・論点から「環境の相違に関係なく」「適用せられるべき原則」に論旨を収斂させていきました。
これが橘にとっての「科学的方法」でした。橘は、西洋社会とその歴史という「普遍的」軌道に即して、過去と未来の中国社会を考察しようとしました。それは、同じく「郷団自治」と「支那の政治」を扱っても、中国を最も「自然」、西洋を「変則」とみなす内藤とは、正反対の評価でした。橘は、政治において中国はヨーロッパより1世紀か1世紀半ほど遅れており、老成しているのではなく若すぎるのだ、と言って内藤の見解を批判します。橘にとって、「科学的」分析の必然の結果として、中国は「中世的農業国」と位置づけられます。西洋列強や日本との比較で「遅れた」中国との理解は、「支那通」も含めて当時の多くの日本人に共有されるものでした。橘が「支那通」を「非科学的」と見下したのは、西洋の学問に通じていない、あるいはその概念を用いて立論していないからでした。本書は、西洋の用語と理論を用いれば「科学的」と称する橘を、漢文をよめれば「智識の豊富」を称する凡俗な「支那通」と思考方法・精神構造でほとんど変わらない、と指摘します。
そこで本書は、こうした橘の思考法が、同時代に占めた位置と作用を分析します。橘と内藤との間で、中国社会の現状認識に関してへだたりはありません。しかし、その方向性が逆であれば、その評価と展望、させには構想する施策も違ってきます。本書はその見通しのもと、「支那通」の内藤とは異なる、橘の「満洲国」への姿勢を検証します。橘は『新支那論』書評で、中国社会の過去と将来を、西洋思想、とりわけ「社会主義」への展望で把握しました。当時、日本社会ではさまざまな政治思想が流行し始め、その最先端が無政府主義や社会主義でした。橘もこの思想潮流の中にいた、というわけです。橘は、「郷団」と「政客」の対立という内藤の見解を、「階級闘争」と「社会主義」の概念で読み換えました。支配階級たる官僚と、被支配階級の一部たる中産階級との間の、意識的もしくは無意識的な階級闘争だった、というわけです。橘はこの「階級闘争」を中国社会の「骨子」とみなしました。
上海に始まる1925年の5.30運動で、国民革命が大きく進展し、蒋介石による統一へと時代は動きました。「新人」を酷評した内藤は5.30運動にも否定的で、明治維新の志士にはなり得ない、と切り捨てており、新時代の萌芽を認めませんでした。一方橘は、5.30運動を「民族運動」と高く評価し、中国を完全に対等の国家として扱うべきだ、と主張しました。中国は現時点では、西洋近代政治学の観点からは「国家の諸条件」を満たしていないものの、いずれは世界標準の「近世国家を建設するに足る」、と橘は考えました。この点で橘は、同時代では内藤よりも石橋や吉野作造の方に近く、その根底には西洋思想、そこから派生した「社会主義」がありました。しかし、石橋や吉野の議論には、中国社会の全体構造から5.30運動を解明しようとする志向が見えないのに対して、橘は魯迅から、「僕たちよりも中国のことをよく知っている」と評価されたほどでした。
橘は、「青年支那」のような一部の「青年」ではなく、中国全体の社会構造と動態から「民族運動」を説明しようとしました。近世初頭のヨーロッパ商人と同じく、中国の「中産階級」は「階級意識」に目覚めてきており、中国で近いうちに起きる「革命」は、「階級闘争」と「民族運動」を通じた「ブルジョア革命」になるはずだ、というのが橘の見通しでした。橘は、中国の「中産階級」にヨーロッパのギルドとの同質を認め、内藤の「郷団自治」論では中国社会の見通しは不充分だと考えていました。ただ、内藤の「郷団」と橘の「ギルド」は同一ではなく、「郷団」は都市も視野に入れつつ農村の郷紳や宗族を念頭に置いたものでした。一方、橘の「ギルド」には脳槽の「家族団体」は含まれず、「中世的農業国」たる中国の「商工業者の各種団体」に限定されていました。
前代の資本主義への懐疑を基本思潮とする「大正デモクラシー」は、やがてマルクス主義の隆盛を導きます。「社会主義」を信奉していた橘らもそうした傾向はありましたが、中国をよく知っているという点で、橘は当時の多数の知識人とは異なっていました。橘がマルクス主義へ向かわなかったのはそのためだろう、と本書は推測します。橘が行き着いた先は「王道」でした。橘は、「王道」が「永久」に西洋も東洋も包摂する「人類社会」に適用できる普遍性を備えている、と主張しました。橘が依拠したのは、内藤も高く評価した三浦梅園でした。橘は、「王道」実現のための具体策も論じました。それは、地方分権による温情主義的政治でした。資本主義・帝国主義の行き詰まりは、民衆と乖離した「近代国家」の「中央集権」にあると考えた橘は、「マルクス派」や「レーニズム」の社会主義も「中央集権」では同じなので、肯定できませんでした。それは、「秦漢以来の支那」や「明治以来の日本」も例外ではありませんでした。橘は、「世界の大勢」はすでに「中央集権主義の下り坂」を示している、と認識しており、「民衆に直接」した「善政」に導く「地方分権」こそ理想と考え、それを「王道」政治と表現しました。これは橘独自の思惟で、同時代の政治経済学者とも「支那通」とも異なっていました。
日本が昭和を迎えると、中国は国民革命の時代に入ります。しかし、同時代者としての橘は、この「革命」に絶望しました。橘は、中国において、「ギルド」を基点として「全中産階級」の「闘争」になり「革命」が起き、最終的には「社会主義」が実現する、という見通しを大正末には描いていました。しかし、現実の南京国民政府は、橘にとって資本家地主の政治的代弁者に他ならず、「その小市民性はブルジョワジーの勢力の発達と反比例して次第に凋落」しました。橘は、とくに国民政府の農民製作を憂慮しました。貧農や小作農の福利に直接もしくは確実に寄与するものが見当たらず、その全ては地主と富農の利益を計るものだったからです。橘はこの状況を、「貧農と赤色勢力との接近」と「相表裏」する「国民党及び地主富農のフアツシヨ化」とまとめました。国民革命は都市のブルジョワ革命だったかもしれないものの、農民の福利を置き去りにする既成の資本主義的「近代国家」の二の舞になるだけだ、というわけです。ここに、橘が「満洲国」を支持し、「右傾」とも言われる「方向転換」の動機が窺える、と本書は指摘します。
上述のように、「満洲国」はその建国理念として「王道楽土」を標榜しました。中国での社会「革命」に絶望した橘は、理想実現の場として「満洲国」に惹かれました。橘はまず、国民政府が置き去りにした農民の自治を掲げました。中国社会の根幹である「ギルド」から演繹し、「職業自治」を打ち立てようとしたわけです。「農民自治」を「県自治」と「地方分権」にまで高め、やがて国自治にまで拡大されることで「王道政治」の完成に至る、というのが橘の見通しでした。史実から明らかなように、橘の見通しは実現しませんでした。
本書は橘の構想の破綻を、「満洲国」や関東軍に自身の理想を投影したことだけではなく、もっと深いところに原因がある、と指摘します。橘の中国社会論とその「革命構想」、さらには「方向転換」に作用していた基本概念は、中国の「ギルド」とその「自治」機能でした。橘は、「ギルド」と「自治」と「地方分権」で中国社会を把握し、その変革を構想・実践しようと考えました。橘の発想の根源には「ギルド社会主義」があり、中国人より「中国のことをよく知っている」橘は、あくまでも西洋思想で自らの思考と論理を組み立てていた、と本書は評価します。
橘の「ギルド」概念は西洋のものでしたが、橘はそれをそのまま、中国の同郷同業団体である「幇及び公所」に当てはめたわけではなく、中国社会を「ギルド」概念で考察する学術的な方法と根拠が前提になっていました。橘が典拠としたのはモースの『The Gilds of China』でした。モースは中国の「幇」や「会館・公所」を西洋「中世」の「ギルド」になぞらえました。当代一流の中国学者だったモースの著書は学術的権威になり得ました。モースに最も強い影響を受けたのが、橘でした。しかし、モース自身は、両者を同一視することに慎重だった様子も窺えます。実際モースは、西洋の「ギルド」が君主や都市政府の法律に服していたのに対して、中国の「ギルド」は法律の下に入っていなかった、と指摘していました。しかし橘は、モースが指摘した東西の「差違」を棚上げして、中国に現存する「ギルド」を西洋「中世」の「ギルド」と同一視し、当時の中国社会を「中世」と論じたわけです。
本書は、橘の見解とモースの見解との矛盾を指摘します。中国の「ギルド」が法律外に成長した、というモースの見解は、国家と社会の乖離から生じた、という内藤の「郷団自治」論に接近し、中国を「若すぎる」社会とする橘の見解が覆りかねません。本書は、橘のような錯誤を多数の同時代の知識人・専門家が犯していた、と指摘します。中国の「ギルド」研究に関して他には、たとえば東洋史では仁井田陞がいます。本書は、橘など西洋を基準として中国の「ギルド」を考察した知識人が、内藤や矢野よりも一世代以上年下だったことを指摘します。日本における西洋式アカデミズムの確立・普及は、その裏返しとしての「支那通」離れ・軽視でもありました。石橋の中国観も、こうした知的土壌から生まれました。これは中国の社会・政治を無前提・無媒介に日本や西洋と同一視して対比する認識法で、日本人の中国観に定着した、と本書は指摘します。
仁井田たち1930年代以降の「ギルド」研究が、内藤や矢野や橘たちの1920年代の研究と決定的に違うのは、自らの実地調査依拠していたことです。これは欧米の研究手法に倣ったものですが、1930年代に盛んになったのは、とりわけ経済で中国との関係が深まったからでした。とくに有名なのが、南満洲鉄道の調査事業です。その結果、膨大な資料・データが蓄積され、知見も増大しました。しかし本書は、これらの調査の意義を認めつつ、調査に臨む姿勢と、その成果を活かす態度を問いかけます。当時の実地調査から組み立てられた議論は厳密な帰納法ではなかった、と本書は指摘します。
たとえば、1940~1944年にかけての「華北農村慣行調査」を巡って、中国の農村を「共同体」、つまり自然村落に見られる自治的共同機能を強調する平野義太郎の見解と、西欧や日本と比較して、著しくバラバラな個人の集まりにすぎず、とくに契約・権利の実現を支える法共同体の欠如を強調する戒能通孝の見解が提示されました。平野はアジア主義者で、自由競争・弱肉強食のため行き詰まった西洋社会に対峙し、その在り様を超克する「共同体」をアジアに見出そうとして、日本と中国の共通性を重視しました。平野はマルクス主義者から転向し、資本主義の西洋社会を超克しようとした当時の「アジア主義」の根底には、社会主義思想が濃厚に作用していました。西洋資本主義を超克すべき社会主義が、王道主義や「大アジア主義」に転化・分岐しただけだ、と本書は評価します。
一方、戒能は、中国はヨーロッパと類似した発展過程にある日本とは異なる、という観点に立っていました。具体的には、日欧の「封建制」と深い関わりを有する村落共同体を、近代化の基礎と把握します。戒能は、華北農村には共同事業は存在しても、内面的な協同意識はごく希薄で、共同体は存在しないので近代化の可能性は欠如している、と論じました。調査団の一員だった旗田巍は、戦後この問題を改めて追求し、「看青」という農地監視の慣行などを精緻に再検証し、村落の共同事業の実態を明らかにしたうえで、村民は合理的打算に基づいて協力したにすぎず、「共同体」とは言えない、という戒能に近い結論に達しましたが、戒能の立場・観点・展望には同調せず、戒能を「脱亜主義」と批判しました。
本書は、「華北農村慣行調査」を巡る論争に、日本人が中国社会を見て語る観点・思考・論理の癖がよく表れている、と指摘します。同一のデータに依拠しながら、平野と戒能のように結論が正反対なのは、立場と視角と方法が対象・データを見る前に決まっているからで、これが以後の日本における中国観の一方の軸線になる、と本書は指摘します。また、こうした正反対の二視角は、別個の観念に基づく二元的なものではなく、その前提とする理論が資本主義なのか、それとも社会主義なのか、という違いだけです。西欧社会を是として、その既成の資本主義に即して考えると、日欧と大きな差違を見せる中国は異質な社会と措定され、近代化した日欧とは異なり、独力では進歩できない、と位置づける傾向に陥りやすくなります。これが「停滞論」です。一方、欧米社会を非として、それを超克すべき社会主義で日本を位置づけると、欧米と異なる中国を、日本と同じ性格の社会とみなして、連帯を志す傾向となります。既存の欧米社会を超克しようとする点で、「王道」も「大アジア主義」も同様です。ここに、日本の社会主義者が少なからず「方向転換」・「転向」した理由がありました。
「脱亜主義」と「大アジア主義」は、一見すると対極にあるように見えながら、西欧社会を基準にした思想・理論を中国社会分析の大前提にするという核心において、思考の道筋・様式は軌を一にします。「華北農村慣行調査」では、「共同体」という前提概念がその典型です。「停滞論」にしても連帯にしても、西欧基準の進歩・発展という観念がその根底に内在している、というわけです。そのため両者共通して、先進の日本が立ち後れた中国を指導する、という態度・構図・行為として現れます。それは日本人の主観的意図がどうであろうと、中国人からは等しく蔑視・侵略に他ならない、と本書は指摘します。
しかし、日本の中国観は、「脱亜主義」と「アジア主義」という表裏一体の観念に収斂してしまうわけではありませんでした。あらゆる前提に西洋製の理論・概念を用いる方法が、中国社会に対する視座の全てではなかった、というわけです。本書はその代表として、内藤より一世代下、橘とほぼ同世代で、仁井田より一世代上の加藤繁を挙げます。加藤は橘の対極に位置する「支那通」の一人で、中国経済史研究に大きな功績を残しました。加藤の思想は徹底した忠君愛国主義だったものの、研究は全て考証学で思想の片鱗も窺えない、と旗田は評価しました。思想と学問の分離は研究自体への反省を生み出さず、現実との無責任な統合・権力への追随をもたらす、と旗田は加藤を厳しく批判しました。
しかし本書は、「忠君愛国」が加藤の思想の全てなのか、と疑問を呈します。加藤が排除したかったものは「主観」、つまり理論・学説や政治上の主義・宗教上のドグマで、唯物史観とともに自身の「忠君愛国」も同様だったのであり、「主観」排除・「客観」尊重という「主義」こそ加藤の学問思想だった、と本書は指摘します。加藤は、まだ経済関係の漢文史料の読解が五里霧中だった時代に中国経済史の研究に打ち込み、生涯をかけて自分の主義・思想を貫いたのだから、それを「思想」と言わずに貶めたことに、旗田たちの「思想」的立場が窺える、と本書は指摘します。
加藤の研究は唐宋時代を中心とするものの、同時代の清・民国にも言及しており、漢籍を読むだけではなく、実地調査も行なっています。その一例が「ギルド」の研究で、本書は、零細な資料を嵬集し、正確な読解に基づいて「支那ギルド」の歴史的起源を明らかにした加藤の業績を高く評価します。本書が注目するのは、加藤が「ギルド」と記すのは他説を紹介する冒頭と引用箇所のみであることです。内藤も矢野も、「ギルド」とは言いませんでした。しかし、内藤と矢野より一世代下の加藤は、明らかにモースなど欧米の研究を参照したうえで、「ギルド」という概念の使用を控えており、ここが橘とは異なる立場・視座です。加藤は、西洋の理論・思想という「主観」に容易には同調しない慎重な態度を示し、対象の個性に即して、中国社会とその由来をありのままに観察しようとした、と本書は評価します。それは、加藤の一世代下の仁井田が、中国の「ギルド」を直ちに封建制・ヨーロッパ中世と対比したこととは対蹠的でした。
仁井田と同世代で加藤のような見方・姿勢に背を向けなかった研究者もおり、その代表として本書は二人を挙げます。一人は農業経済を専門とする柏祐賢で、中国の「経済秩序」の「個性」を「包」という慣行だと指摘しました。これを日本語に翻訳すると「請負」に近いものの、似て非なる概念で、「包」は「請負」のような偶発的・特例的・附加的・選択的行為ではなく、中国の経済・社会の秩序構造に普遍的に組み込まれており、安定した再生産の役割を不可分的に担っていました。中国経済が内包する「不確定性」という「秩序」のリスク要因を分散・軽減させる機能です。
もう一人は中国経済学の村松祐次で、中国経済の分析において「社会態制」に着目し、西欧の歴史的発展から抽出された段階構成を離れて、中国との距離を測定しようと試みました。工業化が進んだ当時の中国経済の主軸をなす民族資本は、順調な発展を見せませんでした。企業の参入や取引は活発だったものの、持続的な事業の拡大や生産性の向上をもたらすような資本蓄積・技術革新は進みませんでした。村松はこうした状況を「安定なき停滞」と表現し、中国経済独特の「社会態制」からもたらされた、と主張しました。中国市場は規制が乏しく、きわめて開放的かつ競争的で、企業が新たな設備投資に踏み切るにはリスクが高く、多数の零細経営の激しい競争・隆替が起こる半面で、市場・社会は全体としてその「構造」を変えることがない、というわけです。村松の議論では、西洋理論の援用よりも中国の現場の個性重視が勝っていました。市場取引におけるリスクの高さを指摘する点で、柏と村松は一致します。そこが中国経済に「個性」的な事象で、安易な西洋概念の援用・西洋社会との対比を一度離れた故に示し得たものであり、ディシプリンは異なっても加藤と通じている、と本書は指摘します。
第二次世界大戦は、日本人の中国観を大きく変えました。敗戦により、日本の帝国主義勢力はもとより、一般の日本人も中国から一掃されました。中国共産党政権の成立(中華人民共和国)と冷戦構造の継続で、中国との交通や中国人との交流も久しく遮断されました。その結果、現地調査は不可能となり、同時代の中国の情景・推移も見えづらくなって、以前の中国観を支えた環境・条件はほぼ消失しました。「支那通」概念の消滅もそれと並行した現象だろう、と本書は指摘します。
これに拍車をかけたのが価値観の展開でした。日本帝国主義の挫折と中国革命の達成は、日本の取るべき道が誤っていた事実を具体的に実証した、というのが大方の見解というか反省でした。それが以後の時代思潮を形成する原動力になり、最も顕著だったのが、社会主義思想、とりあけマルクス主義でした。日本の少なからぬ知識人は大正時代以来、資本主義に閉塞感を募らせており、社会主義はいわば福音として受け入れられ、歴史学も例外ではありませんでした。戦前には講座派と労農派の論争(日本資本主義論争)もありましたが、日本政府はその頃から社会主義への弾圧を強め、1930年代の終わりには、講座派も労農派も壊滅し、平野のように少なくない者が「アジア主義」に転向しました。
このような近代日本への強い反省という思潮のもと、日本史の文脈では「大アジア主義」や侵略にもつながった皇国史観が、中国関係では「停滞論」が糾弾されました。「停滞論」はアジア社会を見る西洋中心主義の発現で、人種差別と言い換えてもあながち誤りではない、と本書は指摘します。しかし、その偏見が近代科学・学問の形成された時代に、学問的な論理で武装されたため、根拠の確かな学術理論であるかのように扱われました。したがって、「停滞論」はアジアを対象とする西洋理論なら普遍的に存在し、ディシプリンや左右の区別はありませんでした。
ヘーゲルは、中国史とは何の発展もなさない没歴史だと論じました。マルクス史観はヘーゲル哲学をいわば形而下に裏返し、社会経済に置き換えたので、アジアに対する「停滞論」も同じ図式になり、それが「アジア的生産様式」です。工業化・資本制・労働社会を実現した先進国に遅れをとっても、欧米ならば「後進」であって「停滞」ではありませんが、アジアは「後進」地域ではなく、根本的ら異質な「生産様式」を持ち、自生的な発展の契機をまったく持たない普遍の社会と主張するのが「停滞論」でした。たとえばその論拠として、社会発展が生じ得ない自給自足の経済体系を有する村落「共同体」の残存が指摘されました。このように絶対的に停滞した社会は、外からの指導や強制なくして進歩・発展はあり得ず、近代化もできない、と主張されました。
日中戦争期に、このように西洋人の差別意識から生まれた「停滞論」を最も信奉したのは日本人で、それは西洋アカデミズム普及の落とし子でした。「停滞論」は、中国侵略を合理化できる理論として受容され、深められました。「アジア主義」の核心にもこの「停滞論」があり、アジアで唯一近代国家を形成した日本が、西洋列強の支配と圧迫から「停滞」するアジアを解放する、という方針に転化し、日本の援助・指導なくして中国の近代化は困難との論理が導かれ、中国侵略の正当化に用いられました。しかし第二次世界大戦後、中国は資本主義・帝国主義・近代国家の日本を打倒したばかりか、先に革命を成就させ、社会主義に到達した、と受け取られました。日本の学者、とりわけマルクス史学の研究者は、それまで信奉してきた中国「停滞論」に対する批判と、その克服を課題としなければなりませんでした。
本書はその動向をたどる格好の事例として、歴史学研究会(歴研)を取り上げます。歴研は東京帝国大学文学部の若手研究者が中心になって1932年に設立され、専門の区別を超えて世界的規模で歴史を把握し、社会経済史および民衆史に関心を集めた点が特徴的です。1944年には全面的な活動停止に追い込まれたものの、戦後にマルクス主義が解禁となり、マルクス史学も「停滞論」の克服を課題として再生し、歴研はその主要な舞台となります。とくに中国史においては、上述の衝撃から、「停滞論」に代わる新たな理論の構築が強く求められました。マルクス主義において、歴史は原始共産制→奴隷制→封建制→資本制→社会主義と段階的に発展するという「法則」がある以上、社会主義を日本より早く達成した中国をその中に位置づけねばならなくなります。これは同時に日本の中国侵略を正当化してきた「停滞論」を打破するという意味で、日本人の反省の証明でもありました。
歴研の具体的な成果として以後を規定したのが、元朝史を専門とする前田直典の論文「東アジアに於ける古代の終末」でした。マルクス主義では、社会主義へと至るには資本主義に達していなければならない、つまり近代化を経ている必要があり、近代化には中世封建制を経ている必要があります。そのために前田は、中世に先立つ「古代」の存在をまず発見し、それがいつ終わったのか、突き止めようとしました。前田は、上述の内藤の唐宋変革論に基づく時代区分を活用しました。内藤の中国史には「停滞論」とは対極の「発展」の論理が内在していたからです。しかし前田は、内藤説に根幹で重大な修正を加え、ほぼ換骨奪胎しました。前田は唐宋変革を認めて画期としましたが、内藤の云う紀元後3世紀における上古から中世への移行が不分明として、唐までを古代としました。内藤は均田法の崩壊を「平民」の「私有権」確立を示すとみなして唐宋変革の論拠の一つとし、これは宮崎市定にも受け継がれました。しかし前田は、加藤の研究に南北朝時代まで大官豪族の土地はおもに奴僕により耕作されたとあるのに中も増し、奴僕とは「奴隷制」だから古代だ、と主張しました。さらに前田は、唐宋変革とほぼ並行して朝鮮と日本でも社会の大変革(朝鮮では新羅から高麗、日本では貴族の世から武士の世)が起きた、と主張しました。こうして、「東アジアに於ける古代の終末」は「世界史の基本法則」にも適合しました。
前田は夭折しましたが、その中国史理解は長命を保ちました。歴研では1950年の大会にて、唐宋の間で古代と中世を分かつ時代区分が設定されました(歴研派)。その主要な論点は、支配層の経営スカル大土地所有における生産関係を、奴隷制・農奴制などの概念で規定したことでした。中国の生産様式の発展にも、日欧の歴史と本質的に共通する原理・法則が貫徹している、と歴研派は主張しました。ただ歴研派は、中国の「古代」においてヨーロッパのような奴隷労働の普及を史料に見出せなかったので、前漢に確立した、皇帝による個人の直接支配体制を「個別人身支配」と概念規定し、それを奴隷制とみなしました。歴研派では、宋代以降の生産様式が佃戸制とされ、佃戸は農奴とみなされて、宋代以降は中世と主張されました。歴研派の時代区分は、中国共産党の歴史観とも接合し、「封建」国家の中国は1840年のアヘン戦争以降「半植民地半封建」になった、とされました。
こうして「停滞論」は1950年代のうちに早くも過去のものとなった観がありますが、中国史の把握は歴研派の学説一色にはならず、内藤の学説を継承する京大を中心とした「京都学派」との間で時代区分論争が始まりました。京都学派は唐代を中世、宋代以降を近世と主張しました。この時代区分論争により、日本の中国史研究は世界に冠たる水準に達したものの、「論争」そのものは容易に収まらず、今も決着していない、と本書は評価します。本書はそこに、中国史学・歴史学・学問の中だけに留まらない、日本人全体に関わるもっと普遍的な問題がある、と指摘します。
本書はこの時代区分論争の背景として、戦前の東洋史研究が「樸学」的だったことを指摘します。昔の素朴な学問という意味で、後には清代考証学、近代日本では実証史学を意味するようになります。戦前から戦後にかけての狭義の東洋史学は「樸学」的で、権力に賛同も屈服もしなかったものの、反対も抵抗もせず、当局から咎められたことは稀だった、と本書は指摘します。戦前において国策に積極的に協力したように見える矢野も、世間知らずで浮世離れしたところがあり、充分に「樸学」的でした。そのため東洋史学は戦争と深く関わらず、戦後も戦前の気分が濃厚に残っており、とくにその拠点となったのが京大でした。
そのような「京都学派」の代表格が宮崎で、内藤があまり注意を払わなかった社会経済史を精力的に研究し、マルクス史学と同じ土俵で宋代近世説を主張して、歴研派との間で激論が展開されました。さらに宮崎は、西洋の都市国家が中国にもあることを主張し、内藤説を継承しつつも、独自の時代区分論を確立しました。ただ本書は、宮崎が歴研派を批判しつつも、その基礎には西洋の知識体系があり、社会主義・マルクス主義と発想の枠組み・根底は共通するところが多かった、と指摘します。本書は、戦後の歴研派と京都学派との時代区分論争も、「共同体」論争と同じところが多分にあり、史料の読解やデータ解析・事実解釈というよりはむしろ、中国社会・歴史に対する視角とそれを形成する思想の問題で、西洋の学問・モデルで中国社会を観察して位置づけようとするのは同じだった、と指摘します。これは、近代学問全体が西洋で成立した以上仕方ないことでしたが、問題は、どこまで西洋モデルを適用し、修正するのか、ということです。本書は、時代区分論争の当事者たちがそれを自覚していたとは思えず、それ故に論争は仁井田と宮崎の下の世代にも継続した、と指摘します。
戦前の東洋史の論争がおもに「社会団体」を対象としていたのに対して、戦後は専ら「階級」が対象となりました。マルクス主義と科学が同一視され、人類史の発展の究極がソ連および中国とされ、歴史学でもマルクス史学の権威が確立し、そのような背景で「世界史の基本法則」が主張されました。本書は、戦前に社会の結合、とくに「共同体」に関心が集まったのは、マルクス史学がその概念を用いて「アジア式生産様式」を主張したからで、それを中国に当てはめたのが「停滞論」だった、と指摘します。一方、階級闘争は「進歩」・「発展」に直結する概念なので、中国「停滞論」に染まっていた戦前日本では有力な論点とはなりませんでした。つまり、「社会団体」と「階級論」はマルクス史学の論理に基づく限り二者択一となり、両者を同時に関連づけられないわけで、それが東洋史学における戦前と戦後の主要な論点の違いに結びつきました。内藤説を継承して歴研派に対抗したはずの京都学派の宮崎も、内藤が主張した「郷団」には言及しませんでした。時代区分論争は、こうした構造に支えられていました。
この状況を変える新たな動向を築いていった代表的な人物として、本書は谷川道雄を挙げます。谷川は京都学派の代表格の一人とみなされていますが、当初は六朝時代を古代と考えており、また時代区分論争の当事者ではありませんでした。しかし、六朝を古代とする谷川の研究は行き詰まり、六朝を中世と考えるようになります。谷川は、内藤が提示した「貴族制」を独自の観点から深めて「豪族共同体」という説を主張し、「谷川共同体理論」と称されました。谷川は、宮崎が研究した九品官人法の成果に基づき、豪族と貴族の関係、豪族を巡る環境に着目し、社会の基層を解明しようと試みました。宮崎は、郷里の人物評価が貴族制の根底にある、と考えました。谷川はそれを踏まえて、貴族を支配者たらしめる組織を「豪族共同体」と称しました。大土地所有の豪族の周囲には、小土地所有の自作農村が少なからずいました。谷川は、自作農が存在する以上、自作農が暮らせて豪族に高い「人物評価」を与える条件があったはずで、それが豪族の有する人格・倫理だった、と考えました。豪族は余剰資産を困窮した人々に施して救済することで、高い「人物評価」を得た、というわけです。こうして、貧民と小作農と豪族が同じ場で共同して暮らせる社会、つまり「共同体」の維持が可能になり、このような「共同体」を基盤として「貴族制」が成立していた、と谷川は見通していました。
歴研派は「谷川共同体理論」を観念的であまりにも倫理性を強調しすぎている、として厳しく批判し、それは時として特定の政治的立場からの及第の様相さえ呈しました。たとえば、階級支配の本質を曖昧にしたとか、平和と民主主義の実現を目指す現代の闘いに背を向けるとかいったものです。こうした批判に対して谷川は、倫理性もしくは精神性が再生産構造の不可欠な主体的条件だった、と反論しました。谷川も批判者たちと同じく、階級史観の洗礼を受けた研究者で、マルクス主義者としての自覚に揺るぎはありませんでした。
しかし谷川は、「階級史観」の内容を、民衆が存在して権力者と闘い、歴史を変えた、と言うだけでは満足できませんでした。民衆は単に被支配者であるだけではなく、次第に組織化し、新たな社会秩序を形成していったはずである、と考えました。その新たな社会秩序が何なのか、谷川はなかなか把握できませんでした。権力者・勢力家が支配しながら、なお自立小農が多くを占める社会の秩序構造や階級関係を説明するのに、階級闘争だけでは不充分というわけです。谷川はその苦闘の末に「豪族共同体」の理論と、貴族の「倫理性」・精神的指導性に到達しのました。谷川は、あくまでも当時の中国の「階級関係のあり方」を突き詰めて考察した結果、「豪族共同体」理論に達したわけで、歴研派からの批判を受け入れられず、「異端審問」という比喩まで用いて反発し、戦後における「階級史観」の神聖化と批判します。
本書は、「階級史観」を突き詰めて階級関係が「共同体」というあり方で支えられた、と論じた谷川が、階級史観か共同体論かという二者択一的な整理に不満を抱いていたことに注目します。これは、「階級史観」と「共同体」概念は二律背反である、という先入主・定見が評者にあり、そうなる理由は「階級史観」が神聖不可侵とされていたからです。「階級史観」では、「階級」が「闘争」することにより「進歩」と「発展」が生じる、とされます。中国史が「進歩」と「発展」の歴史ならば、史実は「闘争」の過程しかあり得ません。もしそうでなければ「停滞」しかなく、「闘争」しない「共同体」は「停滞」を導く故に中国史の把握において禁忌の概念とされました。「階級史観」で前提される社会の構成もしくは階級関係は、所与の前提でした。これに異を唱えたのが、「階級史観」を信奉していたはずの谷川の「共同体」論だったので、歴研派などは激怒したのだろう、と本書は推測します。階級史観の洗礼を受けた以上、「共同体」を主張すれば「転向」であり、「異端」に他ならない、というわけです。
「異端」とされ「審問」を受けた谷川の反論は、「階級史観」を導く根源的な発想にまで及ばざるを得なくなります。タラ側が行き着いたのは、「戦後の反体制運動に内在している近代主義的発想」でした。「近代主義」はヨーロッパ史の発展過程を正常としており、「近代」とは端的には、ヨーロッパ世界が「主導権を握った」資本主義を指します。資本主義は「私有財産制の最高の段階」で、その私有財産制の「発展」こそ階級との闘争を生み出してきました。ヨーロッパ資本主義だけの「発展史」を他の世界にも「正常」なものとして当てはめ、「人類の全歴史」にすり替えることを、谷川は問題と考えました。本書は「谷川共同体理論」を、単に東洋・中国史学の一学説・理論とみなすだけでは不充分で、日本人に支配的な中国観あるいは「思想」そのものに対する抵抗だった、と谷川の先鋭な問題意識を指摘します。
谷川は、階級闘争史観を「神聖化」する考えに陥ってしまう理由を、階級闘争史観・マルクス史学にそもそも組み込まれていた「近代主義」という西洋思想と、それと向き合う日本人全体の姿勢に求めました。その特徴は、「歴史把握の基準を私有財産制の発展においている点」にあります。そのため、「私有制」が「欠如」すれば、まったく「発展」しない「停滞」論になり、「未熟」ならヨーロッパより「発展」していない落伍した社会と「把握」せざるを得なくなります。中国史の時代区分論は、階級闘争史観か否かに関わらず、この「私有財産制の発展」史しか見ない「近代主義」を前提とするため、「停滞」論あるいは落伍論から脱却できなかった、というわけです。ヨーロッパ社会には私有財産制の発展史として把握できる特徴を有していたかもしれないとしても、それで「私有制がヨーロッパ世界ほど体制化を見なかった中国社会」を本当に理解できるのか、と谷川は問いかけます。谷川は、今後の中国史把握が、従来のヨーロッパ近代主義的歴史認識を単に排除するのではなく、ある意味では包摂しつつ、これを超えていくような視座に立たねばならない、と提言します。本書はこれを、中国史・マルクス史学に留まらない、日本人の「戦後的思想」と「歴史認識」に対する果敢な挑戦だった、と評価します。
谷川は宮崎の門弟で、社会経済史を重視し、六朝時代を「中世」と規定し、「京都学派」とみなされたという点で宮崎と同じですが、大きな差異がある、と本書は指摘します。それは、中国しゃかいあるいは「社会」全般の在り様を突き詰めて考え、表明したかどうか、自身も含む日本人の「思想状況」まで省察したかどうかです。谷川の観点では、宮崎も疑いなく「近代主義」の範疇に入ります。それ故に谷川は孤立した、と本書は指摘します。谷川と研究活動を同じくしていた「中国中世史研究会」の研究者からも、「谷川共同体理論」に対して、「違和感を覚えた」とか「批判的に継承発展させる道を取り得なかった」とかいった評価が寄せられました。
谷川は、時代区分問題が正面から論じられることは少なくなった1980年代以降の歴史学界全体の行く末を憂慮していました。1980年代以降、全時代を見通すような問題に関わるより、個々の歴史事象をミクロに観察して記述する傾向へと変化したからでした。谷川は、それによりもたらされた精緻な研究の価値を認めていたものの、そのような精緻な研究が、「固有の体質をもって生きて動いている中国社会」につながらない、「目標を失った」研究の「細分化」で、「研究者の問題関心が現実世界から離れて自己の個人的興味に向かった」にすぎないのではないか、と考えました。
ただ本書は、「谷川共同体理論」の問題点も指摘します。なぜ「中世」なのか、というわけです。谷川は、「共同体」の性格が秦漢時代から変化したので、六朝時代とは区分できる、と主張しました。「谷川共同体理論」の中核的論点は貴族の「倫理」でしたが、それが「私利」を抑えて「公義」に向かう自己抑制精神ならば、六朝時代に限らない、という疑問が生じます。じっさい谷川は、六朝時代の貴族が有した高い「倫理」と、宋代以降のエリートである「士大夫」の視覚とが、「全く軌を一にする」と述べています。上述のように、歴研派でも京都学派でも、六朝時代と宋代とでは時代区分が異なります。六朝時代に「倫理」で保たれた「共同体」は、時代・段階が変わったはずの宋代以降にどうなるのか、また「全く軌を一に」したはずの「士大夫」は「共同体」を結ばなかったのか、という点についてもっと説明が必要だったのではないか、と本書は指摘します。これは、上述の矢野が内藤に投げかけた「唐宋変革」批判と通じます。つまり、「士」と「庶」の階級関係・社会構成は、中国史を通じて変わらなかったのではないか、という疑問です。本書は、「谷川共同体理論」が矢野の所論と通じる側面もあることを指摘します。
また本書は、谷川が「共同体」という概念を使ったことに注目します。谷川が用いた「共同体」の典拠はマルクス史学の「共同体」概念でした。谷川は中国史における「共同体」の「自己展開過程」をヨーロッパの「私有財産制の発展史」に対置し、それを「包摂」すべきものとして措定しました。また谷川は、「私有制が成立している歴史段階の下での共同体とは、まさしく私有制の抑止ないし超克の意味として実在し機能する」とも述べており、そこに「谷川共同体理論」の理論的基礎がありました。谷川が用いた「共同体」は、「停滞論」の「共同体」ではありませんが、マルクス史学の述語概念には違いなく、論理としては、資本主義の「超克」を共同体の存在に求めた平野たちの「アジア主義」とも同じです。本書は、資本主義=私有制の発展史=階級闘争というテーゼに対抗するのは「共同体」であるとする図式・措定が、抜きがたく残存していた、と指摘します。谷川が「階級史観の洗礼を受け」ながら裏切った、と指摘する「異端審問」にさらされなくてはならなかった究極的理由がそこにある、というわけです。
谷川の云う「共同体」は戦前の「停滞論」や「アジア主義」とまったく無縁とは言えない理論概念で、晩年に内藤研究に従事したことからも、谷川もそれは自覚していただろう、と本書は推測します。谷川は、内藤の「中国社会を内在的に見るという視点」と、「ヘーゲルやマルクスやウェーバーに欠けた」ものを見つめ直すよう、提言します。谷川は、内藤はその「視点」があったからこそ独自の中国史の体系・時代区分論を構築でき、自身もそれを継承して六朝時代を「中世」と説くことができた、と述べます。谷川は、「中世共同体」理論を内藤説の継承と位置づけ、中国史には独自の発展の論理がある、と繰り返しました。
しかし本書は、そうならば、谷川は内藤説の核心たる唐宋変革、つまり「中世」と「近世」、貴族の「倫理」と士大夫の資格との違いを、自らの理論に即して明示する必要があった、と指摘します。本書は、谷川が後年こうした点に思い至った、と推測します。谷川は新たに近世の「宗族共同体」、通時代的な「国家共同体」・「家族共同体」などの概念を用いて、「中世」に留まらない把握を試みましたが、いずれも、「中世共同体」との「共通性」の強調が勝っており、時代・段階を区分する明確な理論・説明には必ずしもなっていない、と本書は評価します。
本書は、近代日本における中国への眼差しの曇りと偏りに関して、最大の焦点となるのが「社会団体」とそれが形成する中国社会の構造だった、と指摘します。戦前に中国の「社会団体」に着眼した立場は、「支那通」やギルド社会主義者などさまざまでした。西洋思想でも社会主義とは限らず、社会主義でもマルクス主義だけではありません。「アジア主義」に「転向」する者もいれば、いずれにも飽き足らず「王道」を主張する者もいました。戦前の中国観にはそれだけの振幅があり、際立つ論点・概念が「ギルド」と「共同体」でした。
既成の資本主義に閉塞感が高まった「大正デモクラシー」の時代に、日本の若き知識層を風靡したのは西洋の社会主義思想でした。その現象は、近代日本の西洋式アカデミズムがこの頃に確立したことと無関係ではありません。「ギルド」も「共同体」も社会主義と深く関わる概念で、いずれも西洋の社会・歴史から生まれた理論を前提とします。それが日本人の中国観にもたらしたのは、中国の政治・社会を西洋・日本と同一視したうえで、西洋を基準として対比する認識法です。それは、中国人「よりも中国のことをよく知っている」橘も、中国「のことは全く分らなかった」吉野も、「我国民の認識不足」を嘆いた石橋も、程度の差こそあれ変わりませんでした。
戒能は資本主義・近代化の理論から共同体の存否を考え、中国には西洋・日本のような近代化の前提がない、と考えました。戒能の「脱亜主義」の結論は、マルクスが唱えた「アジア的生産様式」ら基づく「停滞論」と同じでした。一方、「共同体」ら近代・資本主義の超克を託して「アジア主義」に「転向」する平野のような人物や、橘のように「王道」主義に「方向転換」した人物もいました。いずれも西洋思想の変種で、等しく中国侵略に帰結しました。本書は、こうなってしまう日本人の思惟構造・思考様式にこそ根本的な問題がある、と指摘します。
戦前の中国観は軍国主義の抑圧の所産だったので一新しなくてはならない、と標榜して始まったのが、戦後の「停滞論」克服の動きです。中国は「停滞」しておらず、歴史的に「発展」してきた過程を立証することが、戦前の過ちを払拭するに等しい、というわけです。その目標のため不可欠とされ、「神聖化」されたのが階級闘争論でした。その一方、戦前盛んに議論された「社会団体」・社会構造の問題は、あまり触れられなくなります。階級闘争でなければ「停滞論」という、二者択一の論理になったからです。戦前と戦後の中国観は、一見すると大きく異なるように映ります。
谷川はこうした構造を批判するなかで、階級闘争を「神聖化」する「近代主義」を剔抉しました。戦後日本の「思想状況」の本質が、「私有制」のヨーロッパを前提・基準にして考える「近代主義」に存するならば、それは戦前の在り様とまったく変わっておらず、単に戦後日本でマルクス主義が普遍化し、それにより思想が画一化しただけだった、というわけです。上述の中国観の「振幅」とは、多元的な多様さではなく、あくまでも西洋思想という一つのものの振れ幅でした。
近代の学問・科学がヨーロッパ近代で形成された以上、研究対象が西洋か否かに関わらず、西洋思想・「近代主義」・「私有制」を前提としない研究分野があり得ないことは、中国学・東洋史学に限らず、不可避な宿命です。しかし、その研究の実践は、西洋の理論概念を条件の異なる対象と無前提・無媒介・無批判に短絡させるような安易な手続きであってはならない、と本書は指摘します。靴に合わせて踵を切ってしまうのではなく、靴を絶えず踵に合うよう修正していかねばならない、というわけです。本書は、その逆となってしまうところに問題の核心がある、と指摘します。
「ギルド」にせよ「共同体」にせよ階級闘争にせよ、いずれの理論概念も「近代主義」の産物で、それを安易に中国社会に短絡させている、というわけです。戦前は「ギルド」で中国落伍論、「共同体」で「停滞論」に帰結し、中国侵略に加担しました。しかし、「停滞論」の克服は当然として、それだけでよかったのか、と本書は問題提起します。この問題に気づいたのが谷川でしたが、マルクス主義者の谷川は「共同体」という概念に固執しました。谷川は短絡させたわけではありませんが、「近代主義」の概念範疇に留まったため、中国侵略の再現を恐れる「異端審問」を誘発した、と本書は指摘します。
中国社会の構造を論ずることができない「近代主義」・「西洋思想」で中国に向き合い、心ならずも侵略に加担してしまうことこそ、近代日本の隘路でした。そうならば、そのような「近代主義」の内容と限界を知らなくては始まりませんが、谷川は内容を喝破しても限界を見極めなかったので、それが後進の責務になる、と本書は指摘します。本書は、「近代主義」そのものが問題ではなく、それを無条件に崇め奉る我々の知性・心性や、外来思想なにすべて尊重すべきと信じ、難解な概念ならすべて高尚だと考えるナイーブな感覚こそ問題である、と指摘します。学説や理論・知識は外来語(前近代は漢語、近代以降では英語を中心にヨーロッパ系言語)で表現して立論すべきで、それを知的と考える「知識人」が多い、というわけです。より具体的には、明治の「支那通」や大正のアカデミー・インテリです。これは、外来の難解な漢字・漢文で知性を作り上げてきた日本人の歴史的習癖で、かつての漢学・漢語が横文字に置き換わっただけで、知の組成・体質は今も変わっておらず、それは東洋学と中国学に留まらず、文理を問わずあらゆる分野で同断だろう、と本書は指摘します。
そこから起こる通弊は、理論と事実、概念と対象との乖離です。理論・概念をよく咀嚼できないまま現実の対象に当てはめ、あるいは、事象をじっくり観察しないまま、概念を貼り付けて理論化してしまいます。これは戦前も戦後も変わりません。吉川幸次郎は1944年の時点で、日本人は一つのものを熟視せずにすぐ結論を下したがる、と指摘していました。フランス行政法の専門家で加藤を指導した織田萬は、中国人を「不可解の民族」だと畏怖し、「その不可解なることを了解」せずに、「単純な一片の理屈を振りかざして」はならない、と警告しました。
中国という対象はきわめて難解で、隣人の日本人は中国とずっと付き合っていかねばならない、と本書は指摘します。「単純な一片の理屈を振りかざし」た結末は、侵略と破局でしたが、「友好」・「反日」・「嫌中」といったお題目とレッテル貼りで騒いでいるのが日本の現状です。本書は最後に、中国とその社会、さらには社会の仕組みと動きを、借り物の思想・概念で断ずるのではなく、自分の目でじっくり、しっかり見つめていくことを提言しています。
以上、長くなりましたが、本書をざっと見てきました。本書は、日本人の中国観や中国史をめぐる認識・論争に留まらず、日本人の前近代から続く通時的な知的態度の問題点も指摘しており、たいへん視野が広くなっています。本書には教えられるところと同時に、反省させられるところが多々ありました。私も、外来の概念をよく理解しないまま、安易にある事象に適用しないよう、自戒せねばなりませんが、怠惰な凡人には難しいことも否定できません。せめて、なるべく頭の片隅に留めておくよう、心がけるくらいしかできなさそうです。
著者の他の著書をそれなりに読んできたことと、中国史の時代区分論争に関して多少は予備知識があったことで、本書をすんなりと読み進められました。各分野の専門家からすると、疑問点も色々とあるかもしれませんが、私にとってはひじょうに有益な一冊でした。現代における日本人の中国観で気になるのは、日本より中国が「先進的」という、近代以降の日本人における強い確信が全体的に見て実質的にはほぼ覆ってしまった状況で、日本人が中国をどう認識していくのか、という問題です。
もちろん、本書が指摘するように、第二次世界大戦後まもなく中華人民共和国が成立したことは、日本よりも中国の方が「先を進んだ」として、当時の日本人知識層に大きな衝撃を与えました。しかし、日本に対する中国の「先進性」がほぼ幻想であった当時とは異なり、現在では、経済力・技術力・軍事力など、日本に対する中国の「先進性」がかなり可視化されてきたように思います。もちろん、まだ「民主化」や「選挙」や「自由」などの点で中国を後進的とみなす日本人は少なくありませんが、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が一部都市で流行しながら全国的には抑え込みに成功したことや、さまざまな分野で可視化されてきた高い技術力などから、日本よりも中国の方が「先進的」と考える日本人は、今後増加していくでしょう。
その場合、かつては中国の「後進性」と考えられていた事象が、実は「先進性」の表れだったとか、「先進性」の基盤になったとかいった、評価の逆転も見られるようになるかもしれません。しかしそれが、中国社会をじっくり観察したうえでの内在的考察なのか、何か借り物の思想・概念を表層的に当てはめただけではないのか、と自省することも必要になるでしょう。とはいえ、日本に対する中国の優位を多くの日本人が認めるようになれば、そのように自省的に中国社会を考察する人よりも、表層的に中国社会を「理解」する人の言説の方が、大きな支持を集めて主流になりそうではありますが。それは、かつてのように日本の針路を誤らせる可能性があるという意味で、懸念されます。
また、すでに色々と関連の一般向け書籍も多いでしょうが、日本に対する中国の決定的優位を確信した中国人が、日本をどう理解し、それが日本にどのような影響を及ぼすのか、という点も日本人の私としては気になります。もちろん、日本における中国への関心と中国における日本への関心は非対称的で、変動はあるにしても、通時的に前者が後者よりもずっと高いのでしょうが(日本が圧倒的優位を誇った日清戦争から日中戦争の頃は今よりもずっと差は小さかったでしょうが)、中国は人口が多いだけに、割合は少なくとも、絶対数では日本に関心を抱く中国人は多いでしょうから、日本人が中国人の言説に影響を受けやすい構造は形成されやすい、と思います。
中国は現在、建前としてマルクス主義を放棄していません。したがって、中国において今後、中国風のマルクス主義で日本の社会と歴史を理解しようとする動きが強くなり、日本に影響を及ぼす可能性も考えられます。ただ、少なくとも現時点では、中国は日本も含めて他国に対して、侵略の有無や領土問題といった直接的に関係する事象を除けば、自国の認識およびその前提となる方法論を、他国に対してその社会と歴史の認識に強制することは基本的にないようです。これは、中国が学術や文化に関して、まだ他国、とくに日本など「先進国」に対して、圧倒的優位を確立したという強い確信を抱けていないこともあるのでしょう。
しかし、今後中国が経済・軍事力とともに学術や文化でも日本など「先進国」に対して圧倒的優位を確立したと確信すれば、あるいは自国の認識およびその前提となる方法論を他国に押しつけてくることもあるかもしれません。ただ、門外漢の思いつきにすぎませんが、現時点では、そうならない可能性の方が高いように思います。仮に、今後中国が自国の認識およびその前提となる方法論を日本に押しつけてくるか、日本人の中で「自発的に」中国の認識およびその前提となる方法論を日本の社会と歴史の分析に当てはめようとする動きが出てくるならば、それは本書で批判されたかつての日本の知識層の中国に対する姿勢と同様で、批判されるべきだと思います。たとえば、中国の「発展段階」や時代区分や民族概念・区分・形成過程を、日本の社会と歴史にも当てはめて解釈するような動きです。
中国は現在でもマルクス主義を建前として維持していますから、中国の社会と歴史に関する公的(体制教義的)認識は、かなり偏っている可能性も考えられます。もっとも、専門家の間では、一般向けへの大々的な公表にはかなりの制約があるとしても、研究自体は一定以上の自由が認められているようにも思われますが。問題は、日本に対する中国の優位は決定的だとして、中国の専門家の議論に疎い一般の日本人が、公的(体制教義的)認識を安易に日本の社会と歴史にも安易に当てはめて解釈することで、それは日本人の自国理解を大きく歪めるのではないか、と懸念されます。たとえば、日本史を奴隷制とか封建制とかいった概念で把握しようとすることです。これは、かつての「支那通」のうちの少なからぬ人々と同様の振る舞いだと思います。現在は出版不況のなか「嫌中本」が売れているようですが、日本の情勢が変われば、「先進的な」中国の認識を崇め奉って日本を解釈するような本が、今度は持て囃されるかもしれません。これが杞憂というか私の妄想で終わることを願っています。
まず取り上げられる石橋湛山は、小日本主義で有名です。経済的な功利的観点から、中国やシベリアへの干渉を止めるだけではなく、朝鮮半島と台湾をも放棄し、軍事よりも経済と教育を重視すべきとの主張は、1921年に公表されたことから、石橋の先見性が讃えられてきました。その後の日本は、石橋の方針に反し続けて破滅し、敗戦後まさに小日本主義的主張に沿ったかのような行動で経済的に繁栄したからです。しかし、石橋の小日本主義は、戦前には広範な支持を得られませんでした。
本書がまず指摘するのは、小日本主義は合理的思考の末に形成されたというよりは、大帝国を築いたイギリスでも対外膨張主義一色ではなく、「小英国主義」が健全な批判を行なっていたことに倣い、日本の政治と輿論に一石を投じることが目的で、小日本主義ありきの主張だった、ということです。小日本主義は、あくまでも政策と輿論の相乗効果を牽制することにありました。本書は、小日本主義における経済的利害は多分に後付けで、その「経済的リアリズム」を手放しでは評価できない、と指摘します。
この小日本主義の根底にあるのは、中国も近代日本と同様に「国家」・「国民」の「統一」を求めている、との認識でした。石橋は中国を日本と同一視していたわけです。これは、中国は西洋列強や日本と同等の「文明国」ではない、という当時の多くの日本人にとっては受け入れ難い認識でした。これが、小日本主義が戦前日本で受け入れられなかった主因となりました。しかし、石橋も中国を日本と同じ「文明国」・「独立国」と考えていたわけではありませんでした。石橋は、中国は日本のように実力を着けてから不平等条約改正を主張すべきだ、と考えていました。ここに石橋の矛盾がありましたが、辛うじて一貫性を保っていたのは、小日本主義による中国など「海外」利権放棄の主張でした。石橋が、中国は日本と対等の文明国ではないと認識しておきながら、中国と日本の同等性を認め続けたのは、中国の「感情」に石橋が「同情」したからで、それは中国社会の構造への深い洞察に基づいていなかった、と本書は指摘します。また本書は、石橋の経済論は情勢の分析や診断に乏しく、結論だけを述べている、と指摘します。
昭和戦前期の石橋の中国観は、当時「支那通」と呼ばれた人々の中国観を批判するものでした。「支那通」は中国と日本との違いを強調しましたが、石橋は、中国が日本と同等の「文明国」ではないことを認めつつ、感情面から日本と中国を同一視していました。本書は、石橋の言説が中国に対する内在的考察を欠き、論理矛盾を抱えていたために説得力を持たなかったものの、中国に「同情」したことで日本の破局を的中させたので、後に高く評価された、と指摘します。
一方、専門家として中国を見ていた「支那通」は、日中の乖離を強調し、中国に「同情」を寄せませんでした。当時はそれが日本を破滅に導いたわけですが、本書は、矛盾のある言説に先見性があり、専門の分析が国運を誤るという二重の逆説をどう解いたらよいのか、と問題提起します。まず本書が指摘するのは、かつて「日中友好」の名のもと、日本人が中国ナショナリズムを批判することには一種の禁忌があり、石橋と「小日本主義」への高い評価は、その禁忌と無関係ではない、と指摘します。近年の中国とそれを巡る状況変化は、やっと中国ナショナリズムの歴史的な特質・本質を忌憚なく議論できる場を作り出しつつある、との認識に基づいて本書は、石橋の等身大の中国観を同時代の知識人と比較するのが、その有効な補助線となり、中国認識の深まりにも資する、との見通しを提示します。
そこで石橋とは対照的な同時代の「支那通」知識人としてまず取り上げられるのが、矢野仁一です。矢野は東洋史研究者で、日本の国策・戦争に積極的に加担し、戦後は公職追放となりました。たとえば満洲事変のさい、石橋は「満蒙」における「特殊権益」の放棄を主張しましたが、矢野は「満洲国」を正当化しました。石橋が、満洲は中国人の住地なので中国の領土であり、中国は「独立国」だから日本と同等と主張したのに対して、矢野は、満洲は本来、中国の領土ではなく「特殊」な地域であり、中国人が居住していても中国の主権は認められず、中国は日本と同様の「独立国」ではないばかりか、そもそも国ですらない、と主張しました。矢野は中国に関して、「真の国境がない」から「国家」ではない、と主張しました。この場合の「国家」とは、西洋近代国民国家です。
一方、当時の中国において法治が確立していない、という現状認識では、石橋も矢野も一致していました。本書は両者の違いに関して、石橋にはあった中国ナショナリズムへの同情が矢野にはなかったことを指摘します。中国ナショナリズムに対して、石橋は明治維新、さらには自分たちが目指す「閥族打破」と「官僚主義」の打倒を投影しましたが、矢野は日本の「愛国心」を見いだし、いわば中国人にとっての真の利益よりも人気取りのために用いられており、中国の政治家が煽ってきた、と認識していました。
矢野が石橋と共通の現状認識も有しながら、その主張が対照的になった背景として、士族の家柄で生涯「国士」と自認していた矢野が純粋な人物だったことを、本書は指摘します。矢野は「満洲国」建国の理念である「王道楽土」を実現する、と本気になり、それは深い学識に基づく確固たる信念に由来していたので、いっそう始末が悪かった、と本書は指摘します。日本と中国を同一視する石橋は、日本でも実現できていない「理想」を「満蒙」において実現できるわけない、と主張します。一方矢野は、「満洲国」における「理想」の「王道政治」について、西洋諸国および日本の、法治主義・物質主義・個人主義・不平等主義などに対する、徳化主義・精神主義・共同主義・平等主義など、「東洋」・「中国」独自の理想を主張します。
しかし矢野も、そうした「王道政治」が実現したことはない、という致命的欠陥には気づいていました。しかし、その理想を「満洲国」が実現するというので、「支那通」で歴史と現実との解離を知る矢野は、それを実現するための手段も分かっているとの自負を抱き、「満洲国」に協力した、というわけです。矢野は「王道政治」を「徳治主義の政治」と定義します。「徳治」とは為政者がその仁徳で被治者を徳化して治めることで、法律による強制で治める「法治」とは対極的であり、「法治」に対する「徳治」の優位は、『論語』に明らかとされます。
矢野は「王道政治」が実現しなかった理由として、徳化されない被治者に強制力を行使しないことを挙げます。しかし、「政治の及ばぬ範囲」に跋扈する「土匪群盗」の本質は政治以外の手段による福利組織で、「良民」との違いは「政治の及ぶ範囲」か否かにすぎない、というわけです。「徳治主義」による「政治の及ばぬ範囲」は領土にも当てはまり、その境界が曖昧なため、国境も「不明瞭」になり、厳密な意味での領土の概念も存在し得ない、と矢野は指摘します。そのため、実際に支配していない地域も領土いう観念が生じ、この帝政時代の「徳治主義」による領土観念は中華民国になってもあまり違わず、そこに列強との軋轢が生じる、というのが矢野の見通しです。
中国では、帝政が廃されて共和政となり、帝政を支えた「礼教」も「道徳」も失われると、法律・条約を軽視する「無責任な」心理と風習のみが残り、治安を維持できず、条約を守らないため列強と安定した関係を築けない、と矢野は論じます。したがって、中国が、列強、とりわけ日本の帝国主義・侵略主義を除去すれば建国と興隆は可能、との言説は無根の「宣伝」にすぎず、それを真に受けて「排日」に勤しむ中国人には反省自責の念がなく、歴史を正確に読めない先天的欠点がある、とまで矢野は主張します。
中国を日本と同質の社会とみなした石橋に対して、矢野はその学殖から、法治国家の社会とは異なる在り様を中国に見いだしていました。中国史は当時の日本人にとって現代よりもはるかに馴染み深く、それを論拠に「王道楽土」の建設を夢想した矢野の方が、「経済的リアリズム」で小日本主義を主張した石橋よりも輿論の支持を集めたのは当然である、というわけです。矢野の議論は、「歴史を正確に読まない」中国ナショナリズムの昂揚と真っ向から対決するもので、日本の大陸政策・侵略主義と同調していくことは避けられませんでした。
敗戦後、公職追放となった矢野は倉敷に隠棲しますが、研究は続けました。矢野が90代半ばの1966年に著した『中国人民革命史論』では、中国共産党にきわめて高い評価が与えられました。かつて日本の大陸政策・侵略主義を支持した矢野が転向したようにも見えますが、本書は、矢野の持論が貫かれていたことを指摘します。それは、毛沢東の革命が、矢野が久しく夢見てきた「王道楽土」を実現しつつあったように見えたからです。具体的には、「官公吏の清廉勤勉」と「匪賊の絶滅」と「犯罪の非常に少なく絶無に近い」状態です。矢野には、中国共産党政権は数千年にわたる「王道政治」と「徳治主義」の現実的弊害を一掃したように見えました。矢野は、毛沢東が変える以前の、「政治の及ばぬ範囲」を無理に治めようとしなかった「王道政治」を、政治と民衆が乖離した社会と認識していました。
矢野は国民党を「道徳的精神」・「道徳的基礎」がないと批判しましたが、これは、政治と民衆、政府権力と民間社会が近接して互いに意思疎通し、影響を及ぼし合い、一体化して国民国家となる構造のことでした。西洋列強と日本は近代にこれを確立しましたが、中華民国までの中国はその逆だった、と矢野は認識します。大多数の農民は、政治に対してひじょうに冷淡で、きょくたんに無関心だった、というわけです。矢野は伝統的な中国社会の構造を、知識階級にして治者階級である「士」と、無識階級にして被治者階級である「庶」の乖離と把握していました。いくら王朝が替わっても、政治に関係ない「庶」には何ら影響変動を及ぼさなかった、と矢野は指摘します。矢野は士を「動く支那」、庶を「動かざる支那」と呼びました。
矢野は、このような中国の政治社会構造は唐やモンゴル時代以来のことではなく、古代から一貫していた、とその「固定性」を強調します。つまり矢野は、時代の経過に伴う中国社会の変遷もしくは歴史的発展を否定したわけで、これは中国社会停滞論に結びつく可能性を有する、と本書は指摘します。中国社会停滞論とは、中国は自力で進歩・発展する契機を持たないので、近代化には外からの衝撃・助力が必要になる、というもので、列強の中国への干渉・侵略を正当化する一つの論拠にもなっており、この点でも矢野の所論は日本の侵略主義に親和的だった、と本書は指摘します。矢野は、当時の中華民国も、13~14世紀のモンゴル時代も、4~5世紀の五胡十六国時代も同じで、中国社会は異民族であれ外国であれ、誰に支配されても差し支えなかった、と論じます。
矢野はそこで、庶民に為政者の徳が行き届き、中国人の「真の利益幸福を図る」政治を日本が実現すべきだ、と考えました。その具体的な表現が「満洲国」だった、というわけです。このような中国伝統社会を打破したように見えたため、矢野は中国共産党政権(中華人民共和国)を高く評価しました。矢野は、中国社会における士と庶の乖離は古来変わらなかった、と主張する時、明白に「賛成し兼ねる」論敵を想定していました。それ京都帝大で矢野の同僚でもあった内藤湖南でした。矢野は内藤の唐宋変革論を真っ向から批判しましたが、それは内藤没後のことでした。内藤は生前、「満洲国」の「王道」を「空言」と批判していました。
そこで本書は、日本帝国主義に加担した矢野の対極にあったように見える内藤の言説を検証していきます。内藤は富永仲基と山片蟠桃を高く評価しており、その評価・観点の基準は「今日唯今のこと」につながる実務的な合理精神でした。京都帝大に迎えられる前にジャーナリストとして世に出た内藤は、学問・歴史に対する同時代的関心を強く抱き続けました。内藤は、時代の全体的な進行・「発達」、あるいは「進歩」を基準とし、歴史は進歩する、という西洋起源の歴史学の観念に基づいていました。これは、現代では無意識的としても大前提とされていますが、中国の伝統歴史思想は違いましたし、日本でも、内藤の頃にはまだ定着しきったとは言えない観念でした。内藤の史観は「進歩的」だった、と本書は評価します。また内藤の基本的な視座として、日本と中国をともに東洋文化の枠組みで把握したことが挙げられます。日中間に顕著な相違があっても、それは絶対的な質的差異ではなく、むしろ同じ文化の先進と後進、あるいは多様性として内藤は認識していた、というわけです。
内藤の中国史認識で重要となるのが、唐と宋の間に画期を認め、宋以降を「近世」とする時代区分論です。ここで内藤が重視するのは「平民発展」で、物質的にも精神的にも平民に大きな発展があった、と指摘します。物質的には「私有」と「所有権」の発達、精神的には、学問では「自由研究の精神」の勃興、絵画では専門家たる「画工」の絵画から「素人」の文人画・山水画が主流になり、工芸でも「平民相手の大量生産」となりました。一方、近世は君主独裁制が確立したと言われますが、内藤は、君主と平民がともに貴族の専有から解放された、と指摘します。内藤は、前代とはまったく異なり、現代にもつながる「平民時代」が宋代に始まった、と主張しました。
内藤は東洋史の創始者の一人とされます。東洋史とは日本独自の区分で、西洋近代史学を受容するさい、「世界史」と言いながら実質的にはヨーロッパ史であることを不充分と考えた日本人歴史学者たちが、その不備を補うべく、まずは漢文史料を中心に、ヨーロッパ外地域の歴史を、近代歴史学の手法で構築したものでした。漢文史料では当然漢人中心の歴史となってしまいますが、那珂通世や桑原隲蔵といった東洋史の創始者たちは、近代歴史学に倣い、東洋史を諸民族の関係史として叙述しようと試みました。その観点から桑原は、東洋史における時代区分を、漢人膨張の殷周(上古)→漢人優勢の秦から唐(中古)→「蒙古人」優勢の五代十国から明(近古)→欧州人東漸の清としました。
一方内藤は、東洋史の創始者の一人とされますが、その学問は厳密には、漢学の流れをくむ「支那学」と分類されます。内藤は西洋近代歴史学を東洋に当てはめたというよりは、多分に前近代の学問を継承しつつ、「日本」と「東洋」の文化を探求しました。内藤の時代区分は、「支那文化」の発展を基準にしており、殷から漢(上古)→六朝から五代十国(中世)→宋から清(近世)というものでした。これは、夏殷周(上世)→秦から宋(中世)→元明清(近世)という那珂の時代区分を強く意識して批判するものでした。さらに内藤は、この「支那文化」の発展が他の「民族」・「種族」を巻き込んで東アジア全体の歴史を形成する、と論じました。これにより、「民族」の優勢を基準にした桑原の時代区分とも近接し、以後の東洋史学の方向を決定づけました。
内藤の学問は「文化史」とされますが、狭義の文化だけではなく、それを成り立たせる「社会の構造」をも含んでいました。内藤の時代区分論は、日本や西洋を基準にしたのではなく、あくまでも中国史の文脈に即したものでした。宋以後の君主独裁制では、高級官僚は科挙で選ばれ、在地で勢力を蓄えて割拠しないよう転任させられたので、行政能力の低い高級官僚が大半となり、民間では、在地の名望家である「父老」や「郷紳」が指導する「自治団体」により民政が担われました。こうして、官と民、国家と社会が乖離していきます。内藤はこうした見解を、すでに辛亥革命前に公表していました。
内藤は、帝政終焉後に「平民」社会を主体とする共和制が確立すると予想していましたが、辛亥革命後の中国は混迷が続き、日本との関係は悪化します。こうした情勢を踏まえて1924年に内藤が発表した『新支那論』では、中国が列強に政治軍事で劣るのは文明が遅れているからではなく、逆に老成しているからで、列強の歴史は「幼稚な」段階にあり、中国は高級な学問芸術は列強に任せて一向に差し支えなく、その方が大多数の中国人にとっても幸福に違いなく、文化の遅れた日本の経済進出が中国の面目を変えつつあるが、中国史を理解しない「新人」が、ナショナリズムを根拠に排日運動を繰り返している、というものでした。この『新支那論』により、内藤の評価は定まりました。戦前は日本の立場を代弁する「支那通」、戦後は中国ナショナリズムを理解しない侵略主義者です。戦後、内藤は矢野と同様に激しく批判され、石橋が批判した「支那通」の典型と言えます。
内藤と矢野は、中国における国家と社会の乖離を、国家と社会が一体化している同時代の日本や西洋諸国などの近代国民国家とは異質な構造と把握し、中国ナショナリズムを「普通の」ナショナリズムとみなさなかった点で共通します。しかし、唐宋変革と宋を中国の「近世」とみなす内藤の見解に、中国の現状を「説明」できないとして、矢野は批判的でした。宋代以降も、庶民は政治社会上無権力無機会で、徴税対象の被搾取階級にすぎなかったのだから、「貴族」に代わって「庶民」が「擡頭勃興」した「変革」はなかった、というわけです。上述のように、矢野は中国における国家・政治と社会の乖離は唐よりもずっと前から続いていた、と主張します。
本書は、矢野の社会論に存在しない論点として、「文化」・「生活」を挙げます。矢野も中国文化を愛好し、造詣も深かったものの、その文化とは儒教に他ならず、歴史の考察において「王道」・「徳義」ら敷衍もしくは収斂されてしまい、政治にほぼ一元化された、というわけです。矢野は社会の内部構造には冷淡で、「大家族精度」や「土匪盗賊」の存在や機能には着眼しても、その内側まで深く検討しませんでした。「王道政治」からの一方通行の立論だった、というわけです。本書は、矢野が政治と社会の乖離を説く場合、必ず「士」と「庶」という史料そのままの原語を用いて、その概念の内実に立ち入った考察・議論は行なわれなかった、と指摘します。
一方内藤は、「士」と「庶」という漢語で割り切るだけでは分析しきれない、中国社会の動態に踏み込んでいました。内藤が言う「平民」は「庶民」と等しいわけではなく、「士」も「庶」も含んだ概念で、「士」も一枚岩ではありませんでした。ただ、内藤は明清時代をつきつめて研究したわけではなく、「平民」・「民衆」の変遷を歴史として描いてはおらず、矢野の批判も無視できない、と本書は指摘します。本書は、「唐宋変革」を主張する内藤の「平民」と、明清時代を専門とする矢野の「庶民」について、内藤と矢野が堂々と論戦をして議論が深まっていれば、中国社会の解明に貢献したかもしれない、と指摘します。
内藤は「満洲国」にも関わりましたが、矢野ほどではなく、その国是である「王道」は「空言」だとして、日本の行動には批判的で、溥儀の皇帝即位にも反対しました。しかし本書は、内藤が矢野のように長命を保てばどう身を処しただろうか、と問題提起します。内藤の『新支那論』での主張は上述のように、中国の政治は外国人、とりわけ日本人に任せてもかまわない、というものでした。これは、矢野と変わらない帝国主義的な言説で、これは学界で今でも尊重され継承されている「唐宋変革」論とも無関係ではありません。そこで本書は、日本人の中国観の特徴と推移を考えることに大きく重なるだろう、という見通しのもと、内藤の中国社会論がどのような評価を受け、また受け継がれたか、と問題提起します。
そこで本書が取り上げるのは、『新支那論』の初版をいちはやく論評した橘樸です。本書は橘を、単なるジャーナリストではなく、中国の本質を究めようとした研究者的側面があり、内藤と通ずる、と指摘します。ただ、橘本人は、「支那社会を対象とする評論家」と自称し、「支那学者」ではない、と主張しました。内藤のように、「支那学者」の多くは「支那通」と称せられましたが、橘は「支那通」を露骨に嫌い、否定しました。それは、知識の内容が非科学的な「支那通」の予想が外れて世間から軽蔑されるからでした。具体的には、その「支那知識」がすべて断片的なので、聴者の側が適当に取捨および統一しない限り、ほとんど実際の役に立たない、というものでした。橘は、「支那通」のみならず「日本人一般」も、中国に対して先進者であることを無反省に自惚れ、中国人を道徳的情操のほとんどまったく欠如した民族であるかのように考えている、と批判します。日本人には中国に対する「没常識」・「誤謬」・「偏見」が蔓延しており、それは「支那通」を典型とする、「断片的」で体系を欠いた中国理解の方法から生じている、というわけです。
そこで橘は、日本人が中国を理解するために、人種学や心理学といった諸社会科学を活用する、「科学的方法」を提唱します。それでも橘は、内藤たちの「支那学」にはそれなりに敬意を払っていました。では、橘の『新支那論』書評がいかなるものだったのかというと、賛辞が目につき、橘は内藤のファンだった、と本書は推測します。橘は、内藤の唐宋変革も見逃していませんでした。しかし本書は、橘が内藤を手放しに称賛したわけではなく、その賛辞もよく読めば、自身の見解を際立たせ、説得力を持たせるために弄した修辞ではないか、と指摘します。
橘が『新支那論』で最も重視したのは、内藤の中国社会論、とくに「郷団自治」でした。橘は、内藤が「郷団自治」という事象を明らかにし、その功績を認めつつ、その原因と意義が明らかにされていない、と批判します。橘は「郷団自治」の「意義」を、「中産階級」の実力・自覚とその団結心の発達にある、と指摘しました。橘は、唐中期までに完成した「国民経済組織」の社会・政治的効果が、その数百年後に「郷団」という社会の根本組織の上に発現した、との見通しを提示します。橘は、「中産階級」や「国民経済組織」といった西洋的な術後概念を駆使し、「団結心の発達」や「階級闘争」といった現象に結びつけました。橘は、「階級意識に目醒める」とか「デモクラテイツクに色彩を看取」とかいった表現も用いており、そうした概念・論点から「環境の相違に関係なく」「適用せられるべき原則」に論旨を収斂させていきました。
これが橘にとっての「科学的方法」でした。橘は、西洋社会とその歴史という「普遍的」軌道に即して、過去と未来の中国社会を考察しようとしました。それは、同じく「郷団自治」と「支那の政治」を扱っても、中国を最も「自然」、西洋を「変則」とみなす内藤とは、正反対の評価でした。橘は、政治において中国はヨーロッパより1世紀か1世紀半ほど遅れており、老成しているのではなく若すぎるのだ、と言って内藤の見解を批判します。橘にとって、「科学的」分析の必然の結果として、中国は「中世的農業国」と位置づけられます。西洋列強や日本との比較で「遅れた」中国との理解は、「支那通」も含めて当時の多くの日本人に共有されるものでした。橘が「支那通」を「非科学的」と見下したのは、西洋の学問に通じていない、あるいはその概念を用いて立論していないからでした。本書は、西洋の用語と理論を用いれば「科学的」と称する橘を、漢文をよめれば「智識の豊富」を称する凡俗な「支那通」と思考方法・精神構造でほとんど変わらない、と指摘します。
そこで本書は、こうした橘の思考法が、同時代に占めた位置と作用を分析します。橘と内藤との間で、中国社会の現状認識に関してへだたりはありません。しかし、その方向性が逆であれば、その評価と展望、させには構想する施策も違ってきます。本書はその見通しのもと、「支那通」の内藤とは異なる、橘の「満洲国」への姿勢を検証します。橘は『新支那論』書評で、中国社会の過去と将来を、西洋思想、とりわけ「社会主義」への展望で把握しました。当時、日本社会ではさまざまな政治思想が流行し始め、その最先端が無政府主義や社会主義でした。橘もこの思想潮流の中にいた、というわけです。橘は、「郷団」と「政客」の対立という内藤の見解を、「階級闘争」と「社会主義」の概念で読み換えました。支配階級たる官僚と、被支配階級の一部たる中産階級との間の、意識的もしくは無意識的な階級闘争だった、というわけです。橘はこの「階級闘争」を中国社会の「骨子」とみなしました。
上海に始まる1925年の5.30運動で、国民革命が大きく進展し、蒋介石による統一へと時代は動きました。「新人」を酷評した内藤は5.30運動にも否定的で、明治維新の志士にはなり得ない、と切り捨てており、新時代の萌芽を認めませんでした。一方橘は、5.30運動を「民族運動」と高く評価し、中国を完全に対等の国家として扱うべきだ、と主張しました。中国は現時点では、西洋近代政治学の観点からは「国家の諸条件」を満たしていないものの、いずれは世界標準の「近世国家を建設するに足る」、と橘は考えました。この点で橘は、同時代では内藤よりも石橋や吉野作造の方に近く、その根底には西洋思想、そこから派生した「社会主義」がありました。しかし、石橋や吉野の議論には、中国社会の全体構造から5.30運動を解明しようとする志向が見えないのに対して、橘は魯迅から、「僕たちよりも中国のことをよく知っている」と評価されたほどでした。
橘は、「青年支那」のような一部の「青年」ではなく、中国全体の社会構造と動態から「民族運動」を説明しようとしました。近世初頭のヨーロッパ商人と同じく、中国の「中産階級」は「階級意識」に目覚めてきており、中国で近いうちに起きる「革命」は、「階級闘争」と「民族運動」を通じた「ブルジョア革命」になるはずだ、というのが橘の見通しでした。橘は、中国の「中産階級」にヨーロッパのギルドとの同質を認め、内藤の「郷団自治」論では中国社会の見通しは不充分だと考えていました。ただ、内藤の「郷団」と橘の「ギルド」は同一ではなく、「郷団」は都市も視野に入れつつ農村の郷紳や宗族を念頭に置いたものでした。一方、橘の「ギルド」には脳槽の「家族団体」は含まれず、「中世的農業国」たる中国の「商工業者の各種団体」に限定されていました。
前代の資本主義への懐疑を基本思潮とする「大正デモクラシー」は、やがてマルクス主義の隆盛を導きます。「社会主義」を信奉していた橘らもそうした傾向はありましたが、中国をよく知っているという点で、橘は当時の多数の知識人とは異なっていました。橘がマルクス主義へ向かわなかったのはそのためだろう、と本書は推測します。橘が行き着いた先は「王道」でした。橘は、「王道」が「永久」に西洋も東洋も包摂する「人類社会」に適用できる普遍性を備えている、と主張しました。橘が依拠したのは、内藤も高く評価した三浦梅園でした。橘は、「王道」実現のための具体策も論じました。それは、地方分権による温情主義的政治でした。資本主義・帝国主義の行き詰まりは、民衆と乖離した「近代国家」の「中央集権」にあると考えた橘は、「マルクス派」や「レーニズム」の社会主義も「中央集権」では同じなので、肯定できませんでした。それは、「秦漢以来の支那」や「明治以来の日本」も例外ではありませんでした。橘は、「世界の大勢」はすでに「中央集権主義の下り坂」を示している、と認識しており、「民衆に直接」した「善政」に導く「地方分権」こそ理想と考え、それを「王道」政治と表現しました。これは橘独自の思惟で、同時代の政治経済学者とも「支那通」とも異なっていました。
日本が昭和を迎えると、中国は国民革命の時代に入ります。しかし、同時代者としての橘は、この「革命」に絶望しました。橘は、中国において、「ギルド」を基点として「全中産階級」の「闘争」になり「革命」が起き、最終的には「社会主義」が実現する、という見通しを大正末には描いていました。しかし、現実の南京国民政府は、橘にとって資本家地主の政治的代弁者に他ならず、「その小市民性はブルジョワジーの勢力の発達と反比例して次第に凋落」しました。橘は、とくに国民政府の農民製作を憂慮しました。貧農や小作農の福利に直接もしくは確実に寄与するものが見当たらず、その全ては地主と富農の利益を計るものだったからです。橘はこの状況を、「貧農と赤色勢力との接近」と「相表裏」する「国民党及び地主富農のフアツシヨ化」とまとめました。国民革命は都市のブルジョワ革命だったかもしれないものの、農民の福利を置き去りにする既成の資本主義的「近代国家」の二の舞になるだけだ、というわけです。ここに、橘が「満洲国」を支持し、「右傾」とも言われる「方向転換」の動機が窺える、と本書は指摘します。
上述のように、「満洲国」はその建国理念として「王道楽土」を標榜しました。中国での社会「革命」に絶望した橘は、理想実現の場として「満洲国」に惹かれました。橘はまず、国民政府が置き去りにした農民の自治を掲げました。中国社会の根幹である「ギルド」から演繹し、「職業自治」を打ち立てようとしたわけです。「農民自治」を「県自治」と「地方分権」にまで高め、やがて国自治にまで拡大されることで「王道政治」の完成に至る、というのが橘の見通しでした。史実から明らかなように、橘の見通しは実現しませんでした。
本書は橘の構想の破綻を、「満洲国」や関東軍に自身の理想を投影したことだけではなく、もっと深いところに原因がある、と指摘します。橘の中国社会論とその「革命構想」、さらには「方向転換」に作用していた基本概念は、中国の「ギルド」とその「自治」機能でした。橘は、「ギルド」と「自治」と「地方分権」で中国社会を把握し、その変革を構想・実践しようと考えました。橘の発想の根源には「ギルド社会主義」があり、中国人より「中国のことをよく知っている」橘は、あくまでも西洋思想で自らの思考と論理を組み立てていた、と本書は評価します。
橘の「ギルド」概念は西洋のものでしたが、橘はそれをそのまま、中国の同郷同業団体である「幇及び公所」に当てはめたわけではなく、中国社会を「ギルド」概念で考察する学術的な方法と根拠が前提になっていました。橘が典拠としたのはモースの『The Gilds of China』でした。モースは中国の「幇」や「会館・公所」を西洋「中世」の「ギルド」になぞらえました。当代一流の中国学者だったモースの著書は学術的権威になり得ました。モースに最も強い影響を受けたのが、橘でした。しかし、モース自身は、両者を同一視することに慎重だった様子も窺えます。実際モースは、西洋の「ギルド」が君主や都市政府の法律に服していたのに対して、中国の「ギルド」は法律の下に入っていなかった、と指摘していました。しかし橘は、モースが指摘した東西の「差違」を棚上げして、中国に現存する「ギルド」を西洋「中世」の「ギルド」と同一視し、当時の中国社会を「中世」と論じたわけです。
本書は、橘の見解とモースの見解との矛盾を指摘します。中国の「ギルド」が法律外に成長した、というモースの見解は、国家と社会の乖離から生じた、という内藤の「郷団自治」論に接近し、中国を「若すぎる」社会とする橘の見解が覆りかねません。本書は、橘のような錯誤を多数の同時代の知識人・専門家が犯していた、と指摘します。中国の「ギルド」研究に関して他には、たとえば東洋史では仁井田陞がいます。本書は、橘など西洋を基準として中国の「ギルド」を考察した知識人が、内藤や矢野よりも一世代以上年下だったことを指摘します。日本における西洋式アカデミズムの確立・普及は、その裏返しとしての「支那通」離れ・軽視でもありました。石橋の中国観も、こうした知的土壌から生まれました。これは中国の社会・政治を無前提・無媒介に日本や西洋と同一視して対比する認識法で、日本人の中国観に定着した、と本書は指摘します。
仁井田たち1930年代以降の「ギルド」研究が、内藤や矢野や橘たちの1920年代の研究と決定的に違うのは、自らの実地調査依拠していたことです。これは欧米の研究手法に倣ったものですが、1930年代に盛んになったのは、とりわけ経済で中国との関係が深まったからでした。とくに有名なのが、南満洲鉄道の調査事業です。その結果、膨大な資料・データが蓄積され、知見も増大しました。しかし本書は、これらの調査の意義を認めつつ、調査に臨む姿勢と、その成果を活かす態度を問いかけます。当時の実地調査から組み立てられた議論は厳密な帰納法ではなかった、と本書は指摘します。
たとえば、1940~1944年にかけての「華北農村慣行調査」を巡って、中国の農村を「共同体」、つまり自然村落に見られる自治的共同機能を強調する平野義太郎の見解と、西欧や日本と比較して、著しくバラバラな個人の集まりにすぎず、とくに契約・権利の実現を支える法共同体の欠如を強調する戒能通孝の見解が提示されました。平野はアジア主義者で、自由競争・弱肉強食のため行き詰まった西洋社会に対峙し、その在り様を超克する「共同体」をアジアに見出そうとして、日本と中国の共通性を重視しました。平野はマルクス主義者から転向し、資本主義の西洋社会を超克しようとした当時の「アジア主義」の根底には、社会主義思想が濃厚に作用していました。西洋資本主義を超克すべき社会主義が、王道主義や「大アジア主義」に転化・分岐しただけだ、と本書は評価します。
一方、戒能は、中国はヨーロッパと類似した発展過程にある日本とは異なる、という観点に立っていました。具体的には、日欧の「封建制」と深い関わりを有する村落共同体を、近代化の基礎と把握します。戒能は、華北農村には共同事業は存在しても、内面的な協同意識はごく希薄で、共同体は存在しないので近代化の可能性は欠如している、と論じました。調査団の一員だった旗田巍は、戦後この問題を改めて追求し、「看青」という農地監視の慣行などを精緻に再検証し、村落の共同事業の実態を明らかにしたうえで、村民は合理的打算に基づいて協力したにすぎず、「共同体」とは言えない、という戒能に近い結論に達しましたが、戒能の立場・観点・展望には同調せず、戒能を「脱亜主義」と批判しました。
本書は、「華北農村慣行調査」を巡る論争に、日本人が中国社会を見て語る観点・思考・論理の癖がよく表れている、と指摘します。同一のデータに依拠しながら、平野と戒能のように結論が正反対なのは、立場と視角と方法が対象・データを見る前に決まっているからで、これが以後の日本における中国観の一方の軸線になる、と本書は指摘します。また、こうした正反対の二視角は、別個の観念に基づく二元的なものではなく、その前提とする理論が資本主義なのか、それとも社会主義なのか、という違いだけです。西欧社会を是として、その既成の資本主義に即して考えると、日欧と大きな差違を見せる中国は異質な社会と措定され、近代化した日欧とは異なり、独力では進歩できない、と位置づける傾向に陥りやすくなります。これが「停滞論」です。一方、欧米社会を非として、それを超克すべき社会主義で日本を位置づけると、欧米と異なる中国を、日本と同じ性格の社会とみなして、連帯を志す傾向となります。既存の欧米社会を超克しようとする点で、「王道」も「大アジア主義」も同様です。ここに、日本の社会主義者が少なからず「方向転換」・「転向」した理由がありました。
「脱亜主義」と「大アジア主義」は、一見すると対極にあるように見えながら、西欧社会を基準にした思想・理論を中国社会分析の大前提にするという核心において、思考の道筋・様式は軌を一にします。「華北農村慣行調査」では、「共同体」という前提概念がその典型です。「停滞論」にしても連帯にしても、西欧基準の進歩・発展という観念がその根底に内在している、というわけです。そのため両者共通して、先進の日本が立ち後れた中国を指導する、という態度・構図・行為として現れます。それは日本人の主観的意図がどうであろうと、中国人からは等しく蔑視・侵略に他ならない、と本書は指摘します。
しかし、日本の中国観は、「脱亜主義」と「アジア主義」という表裏一体の観念に収斂してしまうわけではありませんでした。あらゆる前提に西洋製の理論・概念を用いる方法が、中国社会に対する視座の全てではなかった、というわけです。本書はその代表として、内藤より一世代下、橘とほぼ同世代で、仁井田より一世代上の加藤繁を挙げます。加藤は橘の対極に位置する「支那通」の一人で、中国経済史研究に大きな功績を残しました。加藤の思想は徹底した忠君愛国主義だったものの、研究は全て考証学で思想の片鱗も窺えない、と旗田は評価しました。思想と学問の分離は研究自体への反省を生み出さず、現実との無責任な統合・権力への追随をもたらす、と旗田は加藤を厳しく批判しました。
しかし本書は、「忠君愛国」が加藤の思想の全てなのか、と疑問を呈します。加藤が排除したかったものは「主観」、つまり理論・学説や政治上の主義・宗教上のドグマで、唯物史観とともに自身の「忠君愛国」も同様だったのであり、「主観」排除・「客観」尊重という「主義」こそ加藤の学問思想だった、と本書は指摘します。加藤は、まだ経済関係の漢文史料の読解が五里霧中だった時代に中国経済史の研究に打ち込み、生涯をかけて自分の主義・思想を貫いたのだから、それを「思想」と言わずに貶めたことに、旗田たちの「思想」的立場が窺える、と本書は指摘します。
加藤の研究は唐宋時代を中心とするものの、同時代の清・民国にも言及しており、漢籍を読むだけではなく、実地調査も行なっています。その一例が「ギルド」の研究で、本書は、零細な資料を嵬集し、正確な読解に基づいて「支那ギルド」の歴史的起源を明らかにした加藤の業績を高く評価します。本書が注目するのは、加藤が「ギルド」と記すのは他説を紹介する冒頭と引用箇所のみであることです。内藤も矢野も、「ギルド」とは言いませんでした。しかし、内藤と矢野より一世代下の加藤は、明らかにモースなど欧米の研究を参照したうえで、「ギルド」という概念の使用を控えており、ここが橘とは異なる立場・視座です。加藤は、西洋の理論・思想という「主観」に容易には同調しない慎重な態度を示し、対象の個性に即して、中国社会とその由来をありのままに観察しようとした、と本書は評価します。それは、加藤の一世代下の仁井田が、中国の「ギルド」を直ちに封建制・ヨーロッパ中世と対比したこととは対蹠的でした。
仁井田と同世代で加藤のような見方・姿勢に背を向けなかった研究者もおり、その代表として本書は二人を挙げます。一人は農業経済を専門とする柏祐賢で、中国の「経済秩序」の「個性」を「包」という慣行だと指摘しました。これを日本語に翻訳すると「請負」に近いものの、似て非なる概念で、「包」は「請負」のような偶発的・特例的・附加的・選択的行為ではなく、中国の経済・社会の秩序構造に普遍的に組み込まれており、安定した再生産の役割を不可分的に担っていました。中国経済が内包する「不確定性」という「秩序」のリスク要因を分散・軽減させる機能です。
もう一人は中国経済学の村松祐次で、中国経済の分析において「社会態制」に着目し、西欧の歴史的発展から抽出された段階構成を離れて、中国との距離を測定しようと試みました。工業化が進んだ当時の中国経済の主軸をなす民族資本は、順調な発展を見せませんでした。企業の参入や取引は活発だったものの、持続的な事業の拡大や生産性の向上をもたらすような資本蓄積・技術革新は進みませんでした。村松はこうした状況を「安定なき停滞」と表現し、中国経済独特の「社会態制」からもたらされた、と主張しました。中国市場は規制が乏しく、きわめて開放的かつ競争的で、企業が新たな設備投資に踏み切るにはリスクが高く、多数の零細経営の激しい競争・隆替が起こる半面で、市場・社会は全体としてその「構造」を変えることがない、というわけです。村松の議論では、西洋理論の援用よりも中国の現場の個性重視が勝っていました。市場取引におけるリスクの高さを指摘する点で、柏と村松は一致します。そこが中国経済に「個性」的な事象で、安易な西洋概念の援用・西洋社会との対比を一度離れた故に示し得たものであり、ディシプリンは異なっても加藤と通じている、と本書は指摘します。
第二次世界大戦は、日本人の中国観を大きく変えました。敗戦により、日本の帝国主義勢力はもとより、一般の日本人も中国から一掃されました。中国共産党政権の成立(中華人民共和国)と冷戦構造の継続で、中国との交通や中国人との交流も久しく遮断されました。その結果、現地調査は不可能となり、同時代の中国の情景・推移も見えづらくなって、以前の中国観を支えた環境・条件はほぼ消失しました。「支那通」概念の消滅もそれと並行した現象だろう、と本書は指摘します。
これに拍車をかけたのが価値観の展開でした。日本帝国主義の挫折と中国革命の達成は、日本の取るべき道が誤っていた事実を具体的に実証した、というのが大方の見解というか反省でした。それが以後の時代思潮を形成する原動力になり、最も顕著だったのが、社会主義思想、とりあけマルクス主義でした。日本の少なからぬ知識人は大正時代以来、資本主義に閉塞感を募らせており、社会主義はいわば福音として受け入れられ、歴史学も例外ではありませんでした。戦前には講座派と労農派の論争(日本資本主義論争)もありましたが、日本政府はその頃から社会主義への弾圧を強め、1930年代の終わりには、講座派も労農派も壊滅し、平野のように少なくない者が「アジア主義」に転向しました。
このような近代日本への強い反省という思潮のもと、日本史の文脈では「大アジア主義」や侵略にもつながった皇国史観が、中国関係では「停滞論」が糾弾されました。「停滞論」はアジア社会を見る西洋中心主義の発現で、人種差別と言い換えてもあながち誤りではない、と本書は指摘します。しかし、その偏見が近代科学・学問の形成された時代に、学問的な論理で武装されたため、根拠の確かな学術理論であるかのように扱われました。したがって、「停滞論」はアジアを対象とする西洋理論なら普遍的に存在し、ディシプリンや左右の区別はありませんでした。
ヘーゲルは、中国史とは何の発展もなさない没歴史だと論じました。マルクス史観はヘーゲル哲学をいわば形而下に裏返し、社会経済に置き換えたので、アジアに対する「停滞論」も同じ図式になり、それが「アジア的生産様式」です。工業化・資本制・労働社会を実現した先進国に遅れをとっても、欧米ならば「後進」であって「停滞」ではありませんが、アジアは「後進」地域ではなく、根本的ら異質な「生産様式」を持ち、自生的な発展の契機をまったく持たない普遍の社会と主張するのが「停滞論」でした。たとえばその論拠として、社会発展が生じ得ない自給自足の経済体系を有する村落「共同体」の残存が指摘されました。このように絶対的に停滞した社会は、外からの指導や強制なくして進歩・発展はあり得ず、近代化もできない、と主張されました。
日中戦争期に、このように西洋人の差別意識から生まれた「停滞論」を最も信奉したのは日本人で、それは西洋アカデミズム普及の落とし子でした。「停滞論」は、中国侵略を合理化できる理論として受容され、深められました。「アジア主義」の核心にもこの「停滞論」があり、アジアで唯一近代国家を形成した日本が、西洋列強の支配と圧迫から「停滞」するアジアを解放する、という方針に転化し、日本の援助・指導なくして中国の近代化は困難との論理が導かれ、中国侵略の正当化に用いられました。しかし第二次世界大戦後、中国は資本主義・帝国主義・近代国家の日本を打倒したばかりか、先に革命を成就させ、社会主義に到達した、と受け取られました。日本の学者、とりわけマルクス史学の研究者は、それまで信奉してきた中国「停滞論」に対する批判と、その克服を課題としなければなりませんでした。
本書はその動向をたどる格好の事例として、歴史学研究会(歴研)を取り上げます。歴研は東京帝国大学文学部の若手研究者が中心になって1932年に設立され、専門の区別を超えて世界的規模で歴史を把握し、社会経済史および民衆史に関心を集めた点が特徴的です。1944年には全面的な活動停止に追い込まれたものの、戦後にマルクス主義が解禁となり、マルクス史学も「停滞論」の克服を課題として再生し、歴研はその主要な舞台となります。とくに中国史においては、上述の衝撃から、「停滞論」に代わる新たな理論の構築が強く求められました。マルクス主義において、歴史は原始共産制→奴隷制→封建制→資本制→社会主義と段階的に発展するという「法則」がある以上、社会主義を日本より早く達成した中国をその中に位置づけねばならなくなります。これは同時に日本の中国侵略を正当化してきた「停滞論」を打破するという意味で、日本人の反省の証明でもありました。
歴研の具体的な成果として以後を規定したのが、元朝史を専門とする前田直典の論文「東アジアに於ける古代の終末」でした。マルクス主義では、社会主義へと至るには資本主義に達していなければならない、つまり近代化を経ている必要があり、近代化には中世封建制を経ている必要があります。そのために前田は、中世に先立つ「古代」の存在をまず発見し、それがいつ終わったのか、突き止めようとしました。前田は、上述の内藤の唐宋変革論に基づく時代区分を活用しました。内藤の中国史には「停滞論」とは対極の「発展」の論理が内在していたからです。しかし前田は、内藤説に根幹で重大な修正を加え、ほぼ換骨奪胎しました。前田は唐宋変革を認めて画期としましたが、内藤の云う紀元後3世紀における上古から中世への移行が不分明として、唐までを古代としました。内藤は均田法の崩壊を「平民」の「私有権」確立を示すとみなして唐宋変革の論拠の一つとし、これは宮崎市定にも受け継がれました。しかし前田は、加藤の研究に南北朝時代まで大官豪族の土地はおもに奴僕により耕作されたとあるのに中も増し、奴僕とは「奴隷制」だから古代だ、と主張しました。さらに前田は、唐宋変革とほぼ並行して朝鮮と日本でも社会の大変革(朝鮮では新羅から高麗、日本では貴族の世から武士の世)が起きた、と主張しました。こうして、「東アジアに於ける古代の終末」は「世界史の基本法則」にも適合しました。
前田は夭折しましたが、その中国史理解は長命を保ちました。歴研では1950年の大会にて、唐宋の間で古代と中世を分かつ時代区分が設定されました(歴研派)。その主要な論点は、支配層の経営スカル大土地所有における生産関係を、奴隷制・農奴制などの概念で規定したことでした。中国の生産様式の発展にも、日欧の歴史と本質的に共通する原理・法則が貫徹している、と歴研派は主張しました。ただ歴研派は、中国の「古代」においてヨーロッパのような奴隷労働の普及を史料に見出せなかったので、前漢に確立した、皇帝による個人の直接支配体制を「個別人身支配」と概念規定し、それを奴隷制とみなしました。歴研派では、宋代以降の生産様式が佃戸制とされ、佃戸は農奴とみなされて、宋代以降は中世と主張されました。歴研派の時代区分は、中国共産党の歴史観とも接合し、「封建」国家の中国は1840年のアヘン戦争以降「半植民地半封建」になった、とされました。
こうして「停滞論」は1950年代のうちに早くも過去のものとなった観がありますが、中国史の把握は歴研派の学説一色にはならず、内藤の学説を継承する京大を中心とした「京都学派」との間で時代区分論争が始まりました。京都学派は唐代を中世、宋代以降を近世と主張しました。この時代区分論争により、日本の中国史研究は世界に冠たる水準に達したものの、「論争」そのものは容易に収まらず、今も決着していない、と本書は評価します。本書はそこに、中国史学・歴史学・学問の中だけに留まらない、日本人全体に関わるもっと普遍的な問題がある、と指摘します。
本書はこの時代区分論争の背景として、戦前の東洋史研究が「樸学」的だったことを指摘します。昔の素朴な学問という意味で、後には清代考証学、近代日本では実証史学を意味するようになります。戦前から戦後にかけての狭義の東洋史学は「樸学」的で、権力に賛同も屈服もしなかったものの、反対も抵抗もせず、当局から咎められたことは稀だった、と本書は指摘します。戦前において国策に積極的に協力したように見える矢野も、世間知らずで浮世離れしたところがあり、充分に「樸学」的でした。そのため東洋史学は戦争と深く関わらず、戦後も戦前の気分が濃厚に残っており、とくにその拠点となったのが京大でした。
そのような「京都学派」の代表格が宮崎で、内藤があまり注意を払わなかった社会経済史を精力的に研究し、マルクス史学と同じ土俵で宋代近世説を主張して、歴研派との間で激論が展開されました。さらに宮崎は、西洋の都市国家が中国にもあることを主張し、内藤説を継承しつつも、独自の時代区分論を確立しました。ただ本書は、宮崎が歴研派を批判しつつも、その基礎には西洋の知識体系があり、社会主義・マルクス主義と発想の枠組み・根底は共通するところが多かった、と指摘します。本書は、戦後の歴研派と京都学派との時代区分論争も、「共同体」論争と同じところが多分にあり、史料の読解やデータ解析・事実解釈というよりはむしろ、中国社会・歴史に対する視角とそれを形成する思想の問題で、西洋の学問・モデルで中国社会を観察して位置づけようとするのは同じだった、と指摘します。これは、近代学問全体が西洋で成立した以上仕方ないことでしたが、問題は、どこまで西洋モデルを適用し、修正するのか、ということです。本書は、時代区分論争の当事者たちがそれを自覚していたとは思えず、それ故に論争は仁井田と宮崎の下の世代にも継続した、と指摘します。
戦前の東洋史の論争がおもに「社会団体」を対象としていたのに対して、戦後は専ら「階級」が対象となりました。マルクス主義と科学が同一視され、人類史の発展の究極がソ連および中国とされ、歴史学でもマルクス史学の権威が確立し、そのような背景で「世界史の基本法則」が主張されました。本書は、戦前に社会の結合、とくに「共同体」に関心が集まったのは、マルクス史学がその概念を用いて「アジア式生産様式」を主張したからで、それを中国に当てはめたのが「停滞論」だった、と指摘します。一方、階級闘争は「進歩」・「発展」に直結する概念なので、中国「停滞論」に染まっていた戦前日本では有力な論点とはなりませんでした。つまり、「社会団体」と「階級論」はマルクス史学の論理に基づく限り二者択一となり、両者を同時に関連づけられないわけで、それが東洋史学における戦前と戦後の主要な論点の違いに結びつきました。内藤説を継承して歴研派に対抗したはずの京都学派の宮崎も、内藤が主張した「郷団」には言及しませんでした。時代区分論争は、こうした構造に支えられていました。
この状況を変える新たな動向を築いていった代表的な人物として、本書は谷川道雄を挙げます。谷川は京都学派の代表格の一人とみなされていますが、当初は六朝時代を古代と考えており、また時代区分論争の当事者ではありませんでした。しかし、六朝を古代とする谷川の研究は行き詰まり、六朝を中世と考えるようになります。谷川は、内藤が提示した「貴族制」を独自の観点から深めて「豪族共同体」という説を主張し、「谷川共同体理論」と称されました。谷川は、宮崎が研究した九品官人法の成果に基づき、豪族と貴族の関係、豪族を巡る環境に着目し、社会の基層を解明しようと試みました。宮崎は、郷里の人物評価が貴族制の根底にある、と考えました。谷川はそれを踏まえて、貴族を支配者たらしめる組織を「豪族共同体」と称しました。大土地所有の豪族の周囲には、小土地所有の自作農村が少なからずいました。谷川は、自作農が存在する以上、自作農が暮らせて豪族に高い「人物評価」を与える条件があったはずで、それが豪族の有する人格・倫理だった、と考えました。豪族は余剰資産を困窮した人々に施して救済することで、高い「人物評価」を得た、というわけです。こうして、貧民と小作農と豪族が同じ場で共同して暮らせる社会、つまり「共同体」の維持が可能になり、このような「共同体」を基盤として「貴族制」が成立していた、と谷川は見通していました。
歴研派は「谷川共同体理論」を観念的であまりにも倫理性を強調しすぎている、として厳しく批判し、それは時として特定の政治的立場からの及第の様相さえ呈しました。たとえば、階級支配の本質を曖昧にしたとか、平和と民主主義の実現を目指す現代の闘いに背を向けるとかいったものです。こうした批判に対して谷川は、倫理性もしくは精神性が再生産構造の不可欠な主体的条件だった、と反論しました。谷川も批判者たちと同じく、階級史観の洗礼を受けた研究者で、マルクス主義者としての自覚に揺るぎはありませんでした。
しかし谷川は、「階級史観」の内容を、民衆が存在して権力者と闘い、歴史を変えた、と言うだけでは満足できませんでした。民衆は単に被支配者であるだけではなく、次第に組織化し、新たな社会秩序を形成していったはずである、と考えました。その新たな社会秩序が何なのか、谷川はなかなか把握できませんでした。権力者・勢力家が支配しながら、なお自立小農が多くを占める社会の秩序構造や階級関係を説明するのに、階級闘争だけでは不充分というわけです。谷川はその苦闘の末に「豪族共同体」の理論と、貴族の「倫理性」・精神的指導性に到達しのました。谷川は、あくまでも当時の中国の「階級関係のあり方」を突き詰めて考察した結果、「豪族共同体」理論に達したわけで、歴研派からの批判を受け入れられず、「異端審問」という比喩まで用いて反発し、戦後における「階級史観」の神聖化と批判します。
本書は、「階級史観」を突き詰めて階級関係が「共同体」というあり方で支えられた、と論じた谷川が、階級史観か共同体論かという二者択一的な整理に不満を抱いていたことに注目します。これは、「階級史観」と「共同体」概念は二律背反である、という先入主・定見が評者にあり、そうなる理由は「階級史観」が神聖不可侵とされていたからです。「階級史観」では、「階級」が「闘争」することにより「進歩」と「発展」が生じる、とされます。中国史が「進歩」と「発展」の歴史ならば、史実は「闘争」の過程しかあり得ません。もしそうでなければ「停滞」しかなく、「闘争」しない「共同体」は「停滞」を導く故に中国史の把握において禁忌の概念とされました。「階級史観」で前提される社会の構成もしくは階級関係は、所与の前提でした。これに異を唱えたのが、「階級史観」を信奉していたはずの谷川の「共同体」論だったので、歴研派などは激怒したのだろう、と本書は推測します。階級史観の洗礼を受けた以上、「共同体」を主張すれば「転向」であり、「異端」に他ならない、というわけです。
「異端」とされ「審問」を受けた谷川の反論は、「階級史観」を導く根源的な発想にまで及ばざるを得なくなります。タラ側が行き着いたのは、「戦後の反体制運動に内在している近代主義的発想」でした。「近代主義」はヨーロッパ史の発展過程を正常としており、「近代」とは端的には、ヨーロッパ世界が「主導権を握った」資本主義を指します。資本主義は「私有財産制の最高の段階」で、その私有財産制の「発展」こそ階級との闘争を生み出してきました。ヨーロッパ資本主義だけの「発展史」を他の世界にも「正常」なものとして当てはめ、「人類の全歴史」にすり替えることを、谷川は問題と考えました。本書は「谷川共同体理論」を、単に東洋・中国史学の一学説・理論とみなすだけでは不充分で、日本人に支配的な中国観あるいは「思想」そのものに対する抵抗だった、と谷川の先鋭な問題意識を指摘します。
谷川は、階級闘争史観を「神聖化」する考えに陥ってしまう理由を、階級闘争史観・マルクス史学にそもそも組み込まれていた「近代主義」という西洋思想と、それと向き合う日本人全体の姿勢に求めました。その特徴は、「歴史把握の基準を私有財産制の発展においている点」にあります。そのため、「私有制」が「欠如」すれば、まったく「発展」しない「停滞」論になり、「未熟」ならヨーロッパより「発展」していない落伍した社会と「把握」せざるを得なくなります。中国史の時代区分論は、階級闘争史観か否かに関わらず、この「私有財産制の発展」史しか見ない「近代主義」を前提とするため、「停滞」論あるいは落伍論から脱却できなかった、というわけです。ヨーロッパ社会には私有財産制の発展史として把握できる特徴を有していたかもしれないとしても、それで「私有制がヨーロッパ世界ほど体制化を見なかった中国社会」を本当に理解できるのか、と谷川は問いかけます。谷川は、今後の中国史把握が、従来のヨーロッパ近代主義的歴史認識を単に排除するのではなく、ある意味では包摂しつつ、これを超えていくような視座に立たねばならない、と提言します。本書はこれを、中国史・マルクス史学に留まらない、日本人の「戦後的思想」と「歴史認識」に対する果敢な挑戦だった、と評価します。
谷川は宮崎の門弟で、社会経済史を重視し、六朝時代を「中世」と規定し、「京都学派」とみなされたという点で宮崎と同じですが、大きな差異がある、と本書は指摘します。それは、中国しゃかいあるいは「社会」全般の在り様を突き詰めて考え、表明したかどうか、自身も含む日本人の「思想状況」まで省察したかどうかです。谷川の観点では、宮崎も疑いなく「近代主義」の範疇に入ります。それ故に谷川は孤立した、と本書は指摘します。谷川と研究活動を同じくしていた「中国中世史研究会」の研究者からも、「谷川共同体理論」に対して、「違和感を覚えた」とか「批判的に継承発展させる道を取り得なかった」とかいった評価が寄せられました。
谷川は、時代区分問題が正面から論じられることは少なくなった1980年代以降の歴史学界全体の行く末を憂慮していました。1980年代以降、全時代を見通すような問題に関わるより、個々の歴史事象をミクロに観察して記述する傾向へと変化したからでした。谷川は、それによりもたらされた精緻な研究の価値を認めていたものの、そのような精緻な研究が、「固有の体質をもって生きて動いている中国社会」につながらない、「目標を失った」研究の「細分化」で、「研究者の問題関心が現実世界から離れて自己の個人的興味に向かった」にすぎないのではないか、と考えました。
ただ本書は、「谷川共同体理論」の問題点も指摘します。なぜ「中世」なのか、というわけです。谷川は、「共同体」の性格が秦漢時代から変化したので、六朝時代とは区分できる、と主張しました。「谷川共同体理論」の中核的論点は貴族の「倫理」でしたが、それが「私利」を抑えて「公義」に向かう自己抑制精神ならば、六朝時代に限らない、という疑問が生じます。じっさい谷川は、六朝時代の貴族が有した高い「倫理」と、宋代以降のエリートである「士大夫」の視覚とが、「全く軌を一にする」と述べています。上述のように、歴研派でも京都学派でも、六朝時代と宋代とでは時代区分が異なります。六朝時代に「倫理」で保たれた「共同体」は、時代・段階が変わったはずの宋代以降にどうなるのか、また「全く軌を一に」したはずの「士大夫」は「共同体」を結ばなかったのか、という点についてもっと説明が必要だったのではないか、と本書は指摘します。これは、上述の矢野が内藤に投げかけた「唐宋変革」批判と通じます。つまり、「士」と「庶」の階級関係・社会構成は、中国史を通じて変わらなかったのではないか、という疑問です。本書は、「谷川共同体理論」が矢野の所論と通じる側面もあることを指摘します。
また本書は、谷川が「共同体」という概念を使ったことに注目します。谷川が用いた「共同体」の典拠はマルクス史学の「共同体」概念でした。谷川は中国史における「共同体」の「自己展開過程」をヨーロッパの「私有財産制の発展史」に対置し、それを「包摂」すべきものとして措定しました。また谷川は、「私有制が成立している歴史段階の下での共同体とは、まさしく私有制の抑止ないし超克の意味として実在し機能する」とも述べており、そこに「谷川共同体理論」の理論的基礎がありました。谷川が用いた「共同体」は、「停滞論」の「共同体」ではありませんが、マルクス史学の述語概念には違いなく、論理としては、資本主義の「超克」を共同体の存在に求めた平野たちの「アジア主義」とも同じです。本書は、資本主義=私有制の発展史=階級闘争というテーゼに対抗するのは「共同体」であるとする図式・措定が、抜きがたく残存していた、と指摘します。谷川が「階級史観の洗礼を受け」ながら裏切った、と指摘する「異端審問」にさらされなくてはならなかった究極的理由がそこにある、というわけです。
谷川の云う「共同体」は戦前の「停滞論」や「アジア主義」とまったく無縁とは言えない理論概念で、晩年に内藤研究に従事したことからも、谷川もそれは自覚していただろう、と本書は推測します。谷川は、内藤の「中国社会を内在的に見るという視点」と、「ヘーゲルやマルクスやウェーバーに欠けた」ものを見つめ直すよう、提言します。谷川は、内藤はその「視点」があったからこそ独自の中国史の体系・時代区分論を構築でき、自身もそれを継承して六朝時代を「中世」と説くことができた、と述べます。谷川は、「中世共同体」理論を内藤説の継承と位置づけ、中国史には独自の発展の論理がある、と繰り返しました。
しかし本書は、そうならば、谷川は内藤説の核心たる唐宋変革、つまり「中世」と「近世」、貴族の「倫理」と士大夫の資格との違いを、自らの理論に即して明示する必要があった、と指摘します。本書は、谷川が後年こうした点に思い至った、と推測します。谷川は新たに近世の「宗族共同体」、通時代的な「国家共同体」・「家族共同体」などの概念を用いて、「中世」に留まらない把握を試みましたが、いずれも、「中世共同体」との「共通性」の強調が勝っており、時代・段階を区分する明確な理論・説明には必ずしもなっていない、と本書は評価します。
本書は、近代日本における中国への眼差しの曇りと偏りに関して、最大の焦点となるのが「社会団体」とそれが形成する中国社会の構造だった、と指摘します。戦前に中国の「社会団体」に着眼した立場は、「支那通」やギルド社会主義者などさまざまでした。西洋思想でも社会主義とは限らず、社会主義でもマルクス主義だけではありません。「アジア主義」に「転向」する者もいれば、いずれにも飽き足らず「王道」を主張する者もいました。戦前の中国観にはそれだけの振幅があり、際立つ論点・概念が「ギルド」と「共同体」でした。
既成の資本主義に閉塞感が高まった「大正デモクラシー」の時代に、日本の若き知識層を風靡したのは西洋の社会主義思想でした。その現象は、近代日本の西洋式アカデミズムがこの頃に確立したことと無関係ではありません。「ギルド」も「共同体」も社会主義と深く関わる概念で、いずれも西洋の社会・歴史から生まれた理論を前提とします。それが日本人の中国観にもたらしたのは、中国の政治・社会を西洋・日本と同一視したうえで、西洋を基準として対比する認識法です。それは、中国人「よりも中国のことをよく知っている」橘も、中国「のことは全く分らなかった」吉野も、「我国民の認識不足」を嘆いた石橋も、程度の差こそあれ変わりませんでした。
戒能は資本主義・近代化の理論から共同体の存否を考え、中国には西洋・日本のような近代化の前提がない、と考えました。戒能の「脱亜主義」の結論は、マルクスが唱えた「アジア的生産様式」ら基づく「停滞論」と同じでした。一方、「共同体」ら近代・資本主義の超克を託して「アジア主義」に「転向」する平野のような人物や、橘のように「王道」主義に「方向転換」した人物もいました。いずれも西洋思想の変種で、等しく中国侵略に帰結しました。本書は、こうなってしまう日本人の思惟構造・思考様式にこそ根本的な問題がある、と指摘します。
戦前の中国観は軍国主義の抑圧の所産だったので一新しなくてはならない、と標榜して始まったのが、戦後の「停滞論」克服の動きです。中国は「停滞」しておらず、歴史的に「発展」してきた過程を立証することが、戦前の過ちを払拭するに等しい、というわけです。その目標のため不可欠とされ、「神聖化」されたのが階級闘争論でした。その一方、戦前盛んに議論された「社会団体」・社会構造の問題は、あまり触れられなくなります。階級闘争でなければ「停滞論」という、二者択一の論理になったからです。戦前と戦後の中国観は、一見すると大きく異なるように映ります。
谷川はこうした構造を批判するなかで、階級闘争を「神聖化」する「近代主義」を剔抉しました。戦後日本の「思想状況」の本質が、「私有制」のヨーロッパを前提・基準にして考える「近代主義」に存するならば、それは戦前の在り様とまったく変わっておらず、単に戦後日本でマルクス主義が普遍化し、それにより思想が画一化しただけだった、というわけです。上述の中国観の「振幅」とは、多元的な多様さではなく、あくまでも西洋思想という一つのものの振れ幅でした。
近代の学問・科学がヨーロッパ近代で形成された以上、研究対象が西洋か否かに関わらず、西洋思想・「近代主義」・「私有制」を前提としない研究分野があり得ないことは、中国学・東洋史学に限らず、不可避な宿命です。しかし、その研究の実践は、西洋の理論概念を条件の異なる対象と無前提・無媒介・無批判に短絡させるような安易な手続きであってはならない、と本書は指摘します。靴に合わせて踵を切ってしまうのではなく、靴を絶えず踵に合うよう修正していかねばならない、というわけです。本書は、その逆となってしまうところに問題の核心がある、と指摘します。
「ギルド」にせよ「共同体」にせよ階級闘争にせよ、いずれの理論概念も「近代主義」の産物で、それを安易に中国社会に短絡させている、というわけです。戦前は「ギルド」で中国落伍論、「共同体」で「停滞論」に帰結し、中国侵略に加担しました。しかし、「停滞論」の克服は当然として、それだけでよかったのか、と本書は問題提起します。この問題に気づいたのが谷川でしたが、マルクス主義者の谷川は「共同体」という概念に固執しました。谷川は短絡させたわけではありませんが、「近代主義」の概念範疇に留まったため、中国侵略の再現を恐れる「異端審問」を誘発した、と本書は指摘します。
中国社会の構造を論ずることができない「近代主義」・「西洋思想」で中国に向き合い、心ならずも侵略に加担してしまうことこそ、近代日本の隘路でした。そうならば、そのような「近代主義」の内容と限界を知らなくては始まりませんが、谷川は内容を喝破しても限界を見極めなかったので、それが後進の責務になる、と本書は指摘します。本書は、「近代主義」そのものが問題ではなく、それを無条件に崇め奉る我々の知性・心性や、外来思想なにすべて尊重すべきと信じ、難解な概念ならすべて高尚だと考えるナイーブな感覚こそ問題である、と指摘します。学説や理論・知識は外来語(前近代は漢語、近代以降では英語を中心にヨーロッパ系言語)で表現して立論すべきで、それを知的と考える「知識人」が多い、というわけです。より具体的には、明治の「支那通」や大正のアカデミー・インテリです。これは、外来の難解な漢字・漢文で知性を作り上げてきた日本人の歴史的習癖で、かつての漢学・漢語が横文字に置き換わっただけで、知の組成・体質は今も変わっておらず、それは東洋学と中国学に留まらず、文理を問わずあらゆる分野で同断だろう、と本書は指摘します。
そこから起こる通弊は、理論と事実、概念と対象との乖離です。理論・概念をよく咀嚼できないまま現実の対象に当てはめ、あるいは、事象をじっくり観察しないまま、概念を貼り付けて理論化してしまいます。これは戦前も戦後も変わりません。吉川幸次郎は1944年の時点で、日本人は一つのものを熟視せずにすぐ結論を下したがる、と指摘していました。フランス行政法の専門家で加藤を指導した織田萬は、中国人を「不可解の民族」だと畏怖し、「その不可解なることを了解」せずに、「単純な一片の理屈を振りかざして」はならない、と警告しました。
中国という対象はきわめて難解で、隣人の日本人は中国とずっと付き合っていかねばならない、と本書は指摘します。「単純な一片の理屈を振りかざし」た結末は、侵略と破局でしたが、「友好」・「反日」・「嫌中」といったお題目とレッテル貼りで騒いでいるのが日本の現状です。本書は最後に、中国とその社会、さらには社会の仕組みと動きを、借り物の思想・概念で断ずるのではなく、自分の目でじっくり、しっかり見つめていくことを提言しています。
以上、長くなりましたが、本書をざっと見てきました。本書は、日本人の中国観や中国史をめぐる認識・論争に留まらず、日本人の前近代から続く通時的な知的態度の問題点も指摘しており、たいへん視野が広くなっています。本書には教えられるところと同時に、反省させられるところが多々ありました。私も、外来の概念をよく理解しないまま、安易にある事象に適用しないよう、自戒せねばなりませんが、怠惰な凡人には難しいことも否定できません。せめて、なるべく頭の片隅に留めておくよう、心がけるくらいしかできなさそうです。
著者の他の著書をそれなりに読んできたことと、中国史の時代区分論争に関して多少は予備知識があったことで、本書をすんなりと読み進められました。各分野の専門家からすると、疑問点も色々とあるかもしれませんが、私にとってはひじょうに有益な一冊でした。現代における日本人の中国観で気になるのは、日本より中国が「先進的」という、近代以降の日本人における強い確信が全体的に見て実質的にはほぼ覆ってしまった状況で、日本人が中国をどう認識していくのか、という問題です。
もちろん、本書が指摘するように、第二次世界大戦後まもなく中華人民共和国が成立したことは、日本よりも中国の方が「先を進んだ」として、当時の日本人知識層に大きな衝撃を与えました。しかし、日本に対する中国の「先進性」がほぼ幻想であった当時とは異なり、現在では、経済力・技術力・軍事力など、日本に対する中国の「先進性」がかなり可視化されてきたように思います。もちろん、まだ「民主化」や「選挙」や「自由」などの点で中国を後進的とみなす日本人は少なくありませんが、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が一部都市で流行しながら全国的には抑え込みに成功したことや、さまざまな分野で可視化されてきた高い技術力などから、日本よりも中国の方が「先進的」と考える日本人は、今後増加していくでしょう。
その場合、かつては中国の「後進性」と考えられていた事象が、実は「先進性」の表れだったとか、「先進性」の基盤になったとかいった、評価の逆転も見られるようになるかもしれません。しかしそれが、中国社会をじっくり観察したうえでの内在的考察なのか、何か借り物の思想・概念を表層的に当てはめただけではないのか、と自省することも必要になるでしょう。とはいえ、日本に対する中国の優位を多くの日本人が認めるようになれば、そのように自省的に中国社会を考察する人よりも、表層的に中国社会を「理解」する人の言説の方が、大きな支持を集めて主流になりそうではありますが。それは、かつてのように日本の針路を誤らせる可能性があるという意味で、懸念されます。
また、すでに色々と関連の一般向け書籍も多いでしょうが、日本に対する中国の決定的優位を確信した中国人が、日本をどう理解し、それが日本にどのような影響を及ぼすのか、という点も日本人の私としては気になります。もちろん、日本における中国への関心と中国における日本への関心は非対称的で、変動はあるにしても、通時的に前者が後者よりもずっと高いのでしょうが(日本が圧倒的優位を誇った日清戦争から日中戦争の頃は今よりもずっと差は小さかったでしょうが)、中国は人口が多いだけに、割合は少なくとも、絶対数では日本に関心を抱く中国人は多いでしょうから、日本人が中国人の言説に影響を受けやすい構造は形成されやすい、と思います。
中国は現在、建前としてマルクス主義を放棄していません。したがって、中国において今後、中国風のマルクス主義で日本の社会と歴史を理解しようとする動きが強くなり、日本に影響を及ぼす可能性も考えられます。ただ、少なくとも現時点では、中国は日本も含めて他国に対して、侵略の有無や領土問題といった直接的に関係する事象を除けば、自国の認識およびその前提となる方法論を、他国に対してその社会と歴史の認識に強制することは基本的にないようです。これは、中国が学術や文化に関して、まだ他国、とくに日本など「先進国」に対して、圧倒的優位を確立したという強い確信を抱けていないこともあるのでしょう。
しかし、今後中国が経済・軍事力とともに学術や文化でも日本など「先進国」に対して圧倒的優位を確立したと確信すれば、あるいは自国の認識およびその前提となる方法論を他国に押しつけてくることもあるかもしれません。ただ、門外漢の思いつきにすぎませんが、現時点では、そうならない可能性の方が高いように思います。仮に、今後中国が自国の認識およびその前提となる方法論を日本に押しつけてくるか、日本人の中で「自発的に」中国の認識およびその前提となる方法論を日本の社会と歴史の分析に当てはめようとする動きが出てくるならば、それは本書で批判されたかつての日本の知識層の中国に対する姿勢と同様で、批判されるべきだと思います。たとえば、中国の「発展段階」や時代区分や民族概念・区分・形成過程を、日本の社会と歴史にも当てはめて解釈するような動きです。
中国は現在でもマルクス主義を建前として維持していますから、中国の社会と歴史に関する公的(体制教義的)認識は、かなり偏っている可能性も考えられます。もっとも、専門家の間では、一般向けへの大々的な公表にはかなりの制約があるとしても、研究自体は一定以上の自由が認められているようにも思われますが。問題は、日本に対する中国の優位は決定的だとして、中国の専門家の議論に疎い一般の日本人が、公的(体制教義的)認識を安易に日本の社会と歴史にも安易に当てはめて解釈することで、それは日本人の自国理解を大きく歪めるのではないか、と懸念されます。たとえば、日本史を奴隷制とか封建制とかいった概念で把握しようとすることです。これは、かつての「支那通」のうちの少なからぬ人々と同様の振る舞いだと思います。現在は出版不況のなか「嫌中本」が売れているようですが、日本の情勢が変われば、「先進的な」中国の認識を崇め奉って日本を解釈するような本が、今度は持て囃されるかもしれません。これが杞憂というか私の妄想で終わることを願っています。
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