4万年前頃までさかのぼるポルトガルのオーリナシアン遺跡
ポルトガルにおける4万年前頃までさかのぼるオーリナシアン(Aurignacian)の痕跡に関する研究(Haws et al., 2020)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。本論文の見解の概要は、すでに人間進化研究ヨーロッパ協会第9回総会で報告されていました(関連記事)。以下の年代は、基本的に放射性炭素年代測定法の結果に基づく較正年代で、最近更新されたIntCal20が用いられています(関連記事)。
ユーラシア西部全域における上部旧石器と関連する現生人類(Homo sapiens)の拡散は、他地域と比較してよく記録されていますが、有力説を覆す可能性のある発見、とくに最初の出現年代に、依然として影響を受けやすくなっています。現時点でヨーロッパ最古(47000年前頃)となる上部旧石器と関連した現生人類遺骸は、ブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)で発見されました(関連記事)。その後、現生人類は比較的短期間にドナウ川流域と地中海に沿って拡大しました。この過程は、空白地への拡散と、在来のネアンデルタール人集団との相互作用を含む、モザイク状だった可能性があります。43000~42000年前頃のある時点で、初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)の地域的変異形がオーリナシアン技術複合に合体し、ユーラシア西部全域で同時に出現しました。
イベリア半島は、スペイン北部のエルカスティーヨ(El Castillo)やラルブレーダ(l’Arbreda)やアブリックロマニ(Abric Romaní)において最初の上部旧石器の出現が予想以上に早いと報告されて以来、現生人類拡散の問題において特有の立場を占めています。これらと追加の遺跡の年代測定により、スペイン北部におけるオーリナシアンの到来は43300~40500年前頃と推定されました(関連記事)。これらの年代は急速な現生人類の拡散を実証し、スペイン北部におけるネアンデルタール人と現生人類との重複期間は1000年以上となり、イベリア半島南部ではさらに長くなります。さらに、関連する人類遺骸の欠如により概要は複雑で、フランス南西部からカンタブリア山脈にかけてのフランコ・カンタブリア地域の早期オーリナシアンの担い手が現生人類とネアンデルタール人のどちらかである、という可能性も残されています。早期オーリナシアンとの直接的関連の欠如にも関わらず、この時期の現生人類遺骸がルーマニアとイタリア(関連記事)で確認されています。ネアンデルタール人遺跡では小型石刃(bladelet)製作に竜骨型技術使用の証拠が含まれないので、オーリナシアン文化複合全体の製作者は現生人類だった、と推測できます。
この不確実性に囚われず、イベリア半島南部における上部旧石器の早期出現年代と中部旧石器時代ネアンデルタール人の後期出現年代から、この2集団を分離する明白な生物地理的境界を説明する、さまざまなモデルが復元されました。これらのモデルでは、生態学的適応によりネアンデルタール人の存続が可能となり、イベリア半島南部における現生人類の拡散は37000~30000年前頃と、イベリア半島北部への到来以降、6000~12000年妨げられた、と主張されました。
スペイン南部沿岸のバホンディージョ洞窟(Bajondillo Cave)の年代測定結果は、おそらく45000~43000年前頃における現生人類の最初の存在を示しており、地質学的には一瞬でヨーロッパ全域に現生人類が広範に拡大した可能性を示唆します(関連記事)。バホンディージョ洞窟の新たな年代により、イベリア半島南部における現生人類の最初の出現は数千年さかのぼり、イベリア半島における現生人類拡散の問題は混乱してきました。ただ、バホンディージョ洞窟の年代測定結果と石器群の分類には疑問が呈されており、議論が続いています(関連記事)。バホンディージョ洞窟の新たな年代が提示されるまで、この地域で最初の上部旧石器時代遺跡は、35000年前頃となる地中海沿岸のコヴァデレスセンドレス(Cova de les Cendres)と、36500年前頃となるスペイン南部のラボヤ(La Boja)と、34500年前頃となるポルトガル中央部のペゴドディアボ(Pego do Diabo)とされており、いずれも発展オーリナシアン(Evolved Aurignacian)もしくは後期オーリナシアン(Late Aurignacian)に分類されていました。
また、ネアンデルタール人と中部旧石器の最後の出現にも疑問が呈されてきました。42000年前頃以降となる「後期」ネアンデルタール人遺跡の数は、新たな年代測定技術の適用により年代がずっと古くなったため、以前の見解よりも大幅に減少しました。スペイン中央部全域には、ネアンデルタール人遺骸もくしは42000年前頃以後の中部旧石器遺跡はありません。現時点で、イベリア半島南部において37000年前頃もしくはそれ以後の年代測定結果が得られている「後期」ネアンデルタール人の遺跡は、オリベイラ洞窟(Gruta da Oliveira)とゴーラム洞窟(Gorham's Cave)とアントン洞窟(Cueva Antón)だけです(関連記事)。
明らかに、42000~37000年前頃の遺跡は稀なので、エブロ川流域以南のイベリア半島の大半は、現生人類が容易に拡散できなかった過疎地域だった、と示唆されます。この期間の考古学的および化石証拠の欠如は、気候と景観の不安定性が原因で、それが記録を消したか、その形成を妨げたかもしれません。これらの条件下では、蓄積過程が物質的証拠を保存しやすい場所が重要となり、その一例が、ポルトガル西部中央部のタホ川(Tagus River)流域北側のカルスト山地であるアイレ山脈(Serra de Aire)の西向き斜面に位置する、海抜570mの石灰岩洞窟であるラパドピカレイロ(Lapa do Picareiro)です。15m×15mの洞窟は、後期更新世の大半を表す泥質の厚い堆積物で満たされている大きな岩盤窪み(25m×30m)の一部です。36の更新世の層序(E~NN)の10.6mの深さの区画が発掘され、厚い上部旧石器時代系列(E~II層)から中部旧石器時代系列(JJ~NN層)へと続きます。年代は、過去25年の調査で得られた80点の放射性炭素年代に由来します。ラパドピカレイロ洞窟の層序系列には、45000~35000年前頃となる2mの堆積物があり、イベリア半島南部における中部旧石器時代から上部旧石器時代の移行期間と対応します。進行中の発掘調査により、洞窟の奥にあるより深い堆積物が露出したので、これまで検出されなかった早期上部旧石器時代の証拠が明らかになりました。
ラパドピカレイロ洞窟の中部旧石器時代後期~上部旧石器時代早期の年代は、放射性炭素年代測定法により、人為的加工の痕跡のある有蹄類から得られました。JJ層では中部旧石器に典型的な円盤状の石核・剥片技術の石器群が含まれており、下部は51500~44100年前、上部は45000~43500年前です。JJ層の上部20~30cmの年代は42900~42400年前で、人類による意図的な打撃痕のある骨が含まれていますが、石器は見つかっていません。
II層からGG層は、堆積物の分析から、短い温暖期と長期の寒冷乾燥期が推測されており、石器群が発見されています。これらの石器は、早期オーリナシアンに典型的な小型石刃と現在では石核と認識されている竜骨型掻器(carinated endscraper)から構成され、上部旧石器と分類されています。小型石刃は、イベリア半島北部の早期オーリナシアンの石器群と類似してやり、おもに燵岩から作られていますが、少数ながら石英も含まれます。加速器質量分析法(AMS法)による放射性炭素年代は、上限が41900~41100年前、下限が39400~38100年前です。したがって、ラパドピカレイロ遺跡II層からGG層の石器群は、ヨーロッパにおけるプロトオーリナシアン(Proto-Aurignacian)の大半および早期オーリナシアンの全期の範囲内に収まります。これらの石器群の堆積は、39900~38200年前のハインリッヒイベント(HE)4もしくは41400~40800年前頃のグリーンランド間氷期10 (GS-10)に起きたかもしれませんが、もっと早く、41400~40800年前頃のグリーンランド亜間氷期10(GI-10)および42200~41500年前頃のGS-11だったかもしれません。これは、イベリア半島西部におけるオーリナシアンの正確な年代としては最古となります。
GG層の上のFF層の年代は38600~36400年前で、堆積物の分析からGI-8と関連した比較的穏やかな気候と推測されます。EE層では考古学的痕跡が見られず、その年代は36700~36100年前で、放射性炭素年代測定法ではFF層と区別できません。DD層の年代は35400~34800年前でGS-8に相当し、石器群はプリズム石核技術を用いた大型剥片の製作により特徴づけられ、石材はほぼ燵岩です。ヨーロッパ西部ではオーリナシアンの年代となりますが、これらの石器群には特定の段階に分類する特徴が欠けています。JJ・FF・DD層の石器群は、完全な剥片と剥片断片が優占しますが、GG~II層の石器群では小型石刃およびその断片が高頻度です。GG~II層では石刃も存在しますが、本論文で検証された残りの層ではほぼ完全に欠けています。全体的に、石核と再加工石器は全ての石器群でひじょうに稀です。また、層位により石器製作過程が異なります。JJ層では求心および亜求心と他のパターンが均等に見られ、ムステリアン(Mousterian)石器群に典型的ですが、その上の層では単方向戦略が優占します。
石材も層により大きく異なり、JJ層とFF層では珪岩と石英が特徴的で、燵岩は中部旧石器時代となるムステリアンのJJ層では15%のみで、FF層ではまったく存在しません。GG~II層とDD層では石材は燵岩が最も多く(75%以上)、乳白色の水晶・岩石結晶(GG~II層)と珪岩(DD層)も用いられています。
全ての層では豊富な動物遺骸が発見されています。まだ予備的な分析ですが、大型・小型ともに哺乳類の分類は、中部旧石器時代後期~上部旧石器時代早期でほとんど変化しなかったようです。全ての層に含まれる哺乳類は、アカシカと野生ヤギ(アイベックス)とウサギです。有蹄類遺骸のいくつかには、解体痕や打撃痕や骨髄除去と一致する長骨の特徴など、屠殺の証拠が見られます。ウマは中部旧石器時代後期のJJ層でも利用されていました。人類がウサギを利用していた証拠はほとんど得られていませんが、詳細に分析された標本はごくわずかです。肉食動物は、おもにDD~FF層およびJJ層のオオヤマネコです。キツネは中部旧石器時代後期にも見られます。鳥類も存在しますが、遺骸が人類により洞窟まで運ばれたのか不明で、これは小型哺乳類および爬虫類も同様です。
ラパドピカレイロ洞窟の層序学・石器技術分析・放射性炭素年代から、GG~II層の石器群は上下の層のものとは完全に異なり、別々のものである、と示されます。GG~II層の石器群は小さいものの、早期オーリナシアンに分類されます。GG~II層の年代は41100~38100年前頃です。これは、当時イベリア半島西部に現生人類が存在した決定的証拠を提示します。この頃、ネアンデルタール人集団は存在したとしても、ひじょうに少なかった、と推測されます。ラパドピカレイロ洞窟の証拠から、ネアンデルタール人と現生人類の両集団により、イベリア半島南部は放棄されていた、という仮説を棄却でき、現生人類がイベリア半島北部に到達してすぐ、イベリア半島南部に拡大した、という仮説が確認されます。ネアンデルタール人がイベリア半島南部にかなり後期(4万年前頃もしくは35000年前頃以降)まで存在していた、という仮説に関しては、ラパドピカレイロ洞窟のデータだけでは解決できません。ラパドピカレイロ洞窟の中部旧石器時代は42500年前頃に終了しましたが、現時点での証拠に基づくと、わずか4.2km離れたオリベイラ洞窟では、中部旧石器が36000年前頃まで続きました。
また本論文の結果は、イベリア半島ではネアンデルタール人と現生人類との間に、たとえばエブロ川で区切られるような境界が42000~37000年前頃に存在した、という見解にも疑問を投げかけます。その代わりに本論文は、エブロ川流域で拡散が促進された可能性を指摘します。現生人類は少数のネアンデルタール人集団と遭遇したかもしれませんが、エブロ川の南側のイベリア半島の大半は、すでに過疎化していたようです(関連記事)。このパターンはポルトガルにおいて明らかで、中部旧石器時代の終焉年代は45000~42000年前頃に集中し、その後、ネアンデルタール人の証拠はほぼ完全に存在しません。
ラパドピカレイロ洞窟のデータは、イベリア半島全域での急速な現生人類の拡散を確証し、中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行に関して、追加の調査と検証可能な仮説を導きます。まず、早期オーリナシアンは、上部旧石器時代前期のラパドピカレイロ洞窟の記録とこの地域の他の遺跡との間の、かなりの年代差を示唆します。これは、人口密度が低いために目立つ痕跡を残さなかったか、この地域では恒久的な居住を確立できなかった小規模な開拓集団の拡大を反映しているかもしれません。あるいは、気候による浸食のため、考古学的証拠の多くが失われたのかもしれません。どちらの場合も、初期の開拓者の検出可能性を制約します。
別の可能性は、石器技術の分類および/もしくは放射性年代の欠けている地域の石器群の証拠が存在する、というものです。ラパドピカレイロ洞窟FF層の年代は発展オーリナシアンの時期に収まり、単純な剥片と、おもに珪岩と石英から構成される石材と、定形的ではない石器群を示します。層序学的位置と放射性炭素年代を除くと、この石器群にはオーリナシアンの分類要素はありません。FF層は低コストで便宜的な技術を表しており、これはしばしば42000~32000年前頃のイベリア半島の遺跡では中部旧石器に分類されます。このような石器群は、現生人類の拡散における先駆者段階の通常要素だったかもしれません。これらの石器群がオーリナシアン期にどのくらい広範に分布して一般的だったのか、まだ調査されていませんが、類似の石器製作技術は、ラパドピカレイロ洞窟を含む多くの遺跡で上部旧石器時代を通じて知られています。
次に、44000~40000年前頃の連続した気候悪化は、この地域への現生人類拡散の新たな機会を生み出したかもしれません。おそらくは、大西洋沿岸を南進したか、東西に流れるドゥエロ(Duero)川もしくはタホ川流域を進んだのかもしれません。このような河川体系は、ヨーロッパにおける現生人類拡散で重要な役割を果たしました。拡散の重要な側面は、未知の景観を案内する認知地図の発展で、川は最も追跡しやすい空間的特徴です。ポルトガル北東部のドゥエロ川流域の開地遺跡であるカルディナ(Cardina)の光刺激ルミネッセンス法(OSL)年代は、最後の中部旧石器時代の痕跡となる42900年前頃と、発展オーリナシアンの痕跡の33600年前頃との間の、長い中断を示します。より早期のオーリナシアンの痕跡の欠如から、ドゥエロ川流域を拡散経路として除外できるかもしれませんが、この地域から最終的には裏づけとなる証拠が得られるかもしれません。むしろ、イベリア半島全域の現生人類の拡大は、イベリア半島の非生産的地域もしくはより乾燥した内陸部のような高い危険性のある地域を、避けるか迂回したような、「飛び地拡散」を表しているかもしれません。内陸部の河川流域の急速な拡散は、HEと関連する極端な旱魃期の水不足を軽減するために必要だったのかもしれず、そうだとすると、早期オーリナシアン遺跡の欠如を説明できます。あるいは、沿岸経路仮説は、イベリア半島沿岸の上部旧石器時代前期遺跡群によっても支持されます。この経路は、気候悪化期に、より予測可能な資源と、より少ない生態学的リスクを提供した可能性があります。また沿岸の地形は、開拓者集団間の意思伝達と情報伝達を促進したかもしれません。
第三に、ネアンデルタール人と現生人類は同時代に共存し、ポルトガルのエストレマドゥーラ(Estremadura)石灰岩山塊では近接していたかもしれません。もしそうならば、ラパドピカレイロ洞窟GG~II層はオリベイラ洞窟の9層と8層の間に相当するので、両者の直接的接触の証拠はありません。しかし、特定の分類がされていないラパドピカレイロ洞窟FF層の石器群は、オリベイラ洞窟8層と同時代で、異なる集団の共存もしくは連続的な交互の存在を示しているかもしれません。ネアンデルタール人と年代的に重なる現生人類の存在は、ネアンデルタール人の絶滅に関する、競争的排除の仮説(関連記事)を支持します。一方、オリベイラ洞窟8層の現時点での年代がじっさいよりも新しすぎる場合は、42000年前頃以後にポルトガルでネアンデルタール人もしくは中部旧石器の遺跡は存在しないことになります。そうすると、この地域において、最後のネアンデルタール人と最初の現生人類との間で、年代的重複もしくは競争はなかったかもしれません。
最後に、ラパドピカレイロ洞窟の記録は、最後のネアンデルタール人と初期現生人類との間の、人為的痕跡の空白層が、千年規模の気候周期および環境変化と関連してきた、ユーラシア西部全域のパターンを反映しているようです(関連記事)。過疎化はユーラシア西部全域で、生息域を中断・断片化させた深刻な寒冷で乾燥した亜氷期に起きたようで、ネアンデルタール人集団に悪影響を及ぼし、現生人類の拡散に新たな空間を開きました。イベリア半島では、古気候記録は、44300~43300年前頃のGS-12、42200~41500年前頃のGS-11、39900~38200年前頃のGS-9もしくはHE4と対応する、陸上の地域的変動性を示します。ラパドピカレイロ洞窟や他の遺跡からの考古学および堆積学的データの解像度は現時点では粗すぎますが、これらの連続した摂動の年代が、地域的なネアンデルタール人の過疎化と一致しているようです。ラパドピカレイロ洞窟では、最後の中部旧石器の痕跡がGS-12の始まりと対応しており、続いて明らかな人為的痕跡の中断が上部のJJ 層で20~30cmほど見られ、その後でGS-11~9の間にオーリナシアンが到来します。
エブロ川流域以南のイベリア半島における、現生人類の最初の存在とネアンデルタール人の最後の存在を知ることはできないかもしれませんが、ラパドピカレイロ洞窟のデータは、現生人類拡散に関する知識を拡大します。中部旧石器時代および上部旧石器時代の技術的関連の現時点での理解に基づくと、ラパドピカレイロ洞窟の事例は、ユーラシア西端における現生人類の早期出現の決定的な証拠を提供し、以前のモデルを混乱させ、新たな調査の機会を生み出します。42000~37000年前頃の知識に関する大きな空白は、さらなる調査と継続的な野外研究で埋められる必要があります。
参考文献:
Haws JA. et al.(2020): The early Aurignacian dispersal of modern humans into westernmost Eurasia. PNAS, 117, 41, 25414–25422.
https://doi.org/10.1073/pnas.2016062117
ユーラシア西部全域における上部旧石器と関連する現生人類(Homo sapiens)の拡散は、他地域と比較してよく記録されていますが、有力説を覆す可能性のある発見、とくに最初の出現年代に、依然として影響を受けやすくなっています。現時点でヨーロッパ最古(47000年前頃)となる上部旧石器と関連した現生人類遺骸は、ブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)で発見されました(関連記事)。その後、現生人類は比較的短期間にドナウ川流域と地中海に沿って拡大しました。この過程は、空白地への拡散と、在来のネアンデルタール人集団との相互作用を含む、モザイク状だった可能性があります。43000~42000年前頃のある時点で、初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)の地域的変異形がオーリナシアン技術複合に合体し、ユーラシア西部全域で同時に出現しました。
イベリア半島は、スペイン北部のエルカスティーヨ(El Castillo)やラルブレーダ(l’Arbreda)やアブリックロマニ(Abric Romaní)において最初の上部旧石器の出現が予想以上に早いと報告されて以来、現生人類拡散の問題において特有の立場を占めています。これらと追加の遺跡の年代測定により、スペイン北部におけるオーリナシアンの到来は43300~40500年前頃と推定されました(関連記事)。これらの年代は急速な現生人類の拡散を実証し、スペイン北部におけるネアンデルタール人と現生人類との重複期間は1000年以上となり、イベリア半島南部ではさらに長くなります。さらに、関連する人類遺骸の欠如により概要は複雑で、フランス南西部からカンタブリア山脈にかけてのフランコ・カンタブリア地域の早期オーリナシアンの担い手が現生人類とネアンデルタール人のどちらかである、という可能性も残されています。早期オーリナシアンとの直接的関連の欠如にも関わらず、この時期の現生人類遺骸がルーマニアとイタリア(関連記事)で確認されています。ネアンデルタール人遺跡では小型石刃(bladelet)製作に竜骨型技術使用の証拠が含まれないので、オーリナシアン文化複合全体の製作者は現生人類だった、と推測できます。
この不確実性に囚われず、イベリア半島南部における上部旧石器の早期出現年代と中部旧石器時代ネアンデルタール人の後期出現年代から、この2集団を分離する明白な生物地理的境界を説明する、さまざまなモデルが復元されました。これらのモデルでは、生態学的適応によりネアンデルタール人の存続が可能となり、イベリア半島南部における現生人類の拡散は37000~30000年前頃と、イベリア半島北部への到来以降、6000~12000年妨げられた、と主張されました。
スペイン南部沿岸のバホンディージョ洞窟(Bajondillo Cave)の年代測定結果は、おそらく45000~43000年前頃における現生人類の最初の存在を示しており、地質学的には一瞬でヨーロッパ全域に現生人類が広範に拡大した可能性を示唆します(関連記事)。バホンディージョ洞窟の新たな年代により、イベリア半島南部における現生人類の最初の出現は数千年さかのぼり、イベリア半島における現生人類拡散の問題は混乱してきました。ただ、バホンディージョ洞窟の年代測定結果と石器群の分類には疑問が呈されており、議論が続いています(関連記事)。バホンディージョ洞窟の新たな年代が提示されるまで、この地域で最初の上部旧石器時代遺跡は、35000年前頃となる地中海沿岸のコヴァデレスセンドレス(Cova de les Cendres)と、36500年前頃となるスペイン南部のラボヤ(La Boja)と、34500年前頃となるポルトガル中央部のペゴドディアボ(Pego do Diabo)とされており、いずれも発展オーリナシアン(Evolved Aurignacian)もしくは後期オーリナシアン(Late Aurignacian)に分類されていました。
また、ネアンデルタール人と中部旧石器の最後の出現にも疑問が呈されてきました。42000年前頃以降となる「後期」ネアンデルタール人遺跡の数は、新たな年代測定技術の適用により年代がずっと古くなったため、以前の見解よりも大幅に減少しました。スペイン中央部全域には、ネアンデルタール人遺骸もくしは42000年前頃以後の中部旧石器遺跡はありません。現時点で、イベリア半島南部において37000年前頃もしくはそれ以後の年代測定結果が得られている「後期」ネアンデルタール人の遺跡は、オリベイラ洞窟(Gruta da Oliveira)とゴーラム洞窟(Gorham's Cave)とアントン洞窟(Cueva Antón)だけです(関連記事)。
明らかに、42000~37000年前頃の遺跡は稀なので、エブロ川流域以南のイベリア半島の大半は、現生人類が容易に拡散できなかった過疎地域だった、と示唆されます。この期間の考古学的および化石証拠の欠如は、気候と景観の不安定性が原因で、それが記録を消したか、その形成を妨げたかもしれません。これらの条件下では、蓄積過程が物質的証拠を保存しやすい場所が重要となり、その一例が、ポルトガル西部中央部のタホ川(Tagus River)流域北側のカルスト山地であるアイレ山脈(Serra de Aire)の西向き斜面に位置する、海抜570mの石灰岩洞窟であるラパドピカレイロ(Lapa do Picareiro)です。15m×15mの洞窟は、後期更新世の大半を表す泥質の厚い堆積物で満たされている大きな岩盤窪み(25m×30m)の一部です。36の更新世の層序(E~NN)の10.6mの深さの区画が発掘され、厚い上部旧石器時代系列(E~II層)から中部旧石器時代系列(JJ~NN層)へと続きます。年代は、過去25年の調査で得られた80点の放射性炭素年代に由来します。ラパドピカレイロ洞窟の層序系列には、45000~35000年前頃となる2mの堆積物があり、イベリア半島南部における中部旧石器時代から上部旧石器時代の移行期間と対応します。進行中の発掘調査により、洞窟の奥にあるより深い堆積物が露出したので、これまで検出されなかった早期上部旧石器時代の証拠が明らかになりました。
ラパドピカレイロ洞窟の中部旧石器時代後期~上部旧石器時代早期の年代は、放射性炭素年代測定法により、人為的加工の痕跡のある有蹄類から得られました。JJ層では中部旧石器に典型的な円盤状の石核・剥片技術の石器群が含まれており、下部は51500~44100年前、上部は45000~43500年前です。JJ層の上部20~30cmの年代は42900~42400年前で、人類による意図的な打撃痕のある骨が含まれていますが、石器は見つかっていません。
II層からGG層は、堆積物の分析から、短い温暖期と長期の寒冷乾燥期が推測されており、石器群が発見されています。これらの石器は、早期オーリナシアンに典型的な小型石刃と現在では石核と認識されている竜骨型掻器(carinated endscraper)から構成され、上部旧石器と分類されています。小型石刃は、イベリア半島北部の早期オーリナシアンの石器群と類似してやり、おもに燵岩から作られていますが、少数ながら石英も含まれます。加速器質量分析法(AMS法)による放射性炭素年代は、上限が41900~41100年前、下限が39400~38100年前です。したがって、ラパドピカレイロ遺跡II層からGG層の石器群は、ヨーロッパにおけるプロトオーリナシアン(Proto-Aurignacian)の大半および早期オーリナシアンの全期の範囲内に収まります。これらの石器群の堆積は、39900~38200年前のハインリッヒイベント(HE)4もしくは41400~40800年前頃のグリーンランド間氷期10 (GS-10)に起きたかもしれませんが、もっと早く、41400~40800年前頃のグリーンランド亜間氷期10(GI-10)および42200~41500年前頃のGS-11だったかもしれません。これは、イベリア半島西部におけるオーリナシアンの正確な年代としては最古となります。
GG層の上のFF層の年代は38600~36400年前で、堆積物の分析からGI-8と関連した比較的穏やかな気候と推測されます。EE層では考古学的痕跡が見られず、その年代は36700~36100年前で、放射性炭素年代測定法ではFF層と区別できません。DD層の年代は35400~34800年前でGS-8に相当し、石器群はプリズム石核技術を用いた大型剥片の製作により特徴づけられ、石材はほぼ燵岩です。ヨーロッパ西部ではオーリナシアンの年代となりますが、これらの石器群には特定の段階に分類する特徴が欠けています。JJ・FF・DD層の石器群は、完全な剥片と剥片断片が優占しますが、GG~II層の石器群では小型石刃およびその断片が高頻度です。GG~II層では石刃も存在しますが、本論文で検証された残りの層ではほぼ完全に欠けています。全体的に、石核と再加工石器は全ての石器群でひじょうに稀です。また、層位により石器製作過程が異なります。JJ層では求心および亜求心と他のパターンが均等に見られ、ムステリアン(Mousterian)石器群に典型的ですが、その上の層では単方向戦略が優占します。
石材も層により大きく異なり、JJ層とFF層では珪岩と石英が特徴的で、燵岩は中部旧石器時代となるムステリアンのJJ層では15%のみで、FF層ではまったく存在しません。GG~II層とDD層では石材は燵岩が最も多く(75%以上)、乳白色の水晶・岩石結晶(GG~II層)と珪岩(DD層)も用いられています。
全ての層では豊富な動物遺骸が発見されています。まだ予備的な分析ですが、大型・小型ともに哺乳類の分類は、中部旧石器時代後期~上部旧石器時代早期でほとんど変化しなかったようです。全ての層に含まれる哺乳類は、アカシカと野生ヤギ(アイベックス)とウサギです。有蹄類遺骸のいくつかには、解体痕や打撃痕や骨髄除去と一致する長骨の特徴など、屠殺の証拠が見られます。ウマは中部旧石器時代後期のJJ層でも利用されていました。人類がウサギを利用していた証拠はほとんど得られていませんが、詳細に分析された標本はごくわずかです。肉食動物は、おもにDD~FF層およびJJ層のオオヤマネコです。キツネは中部旧石器時代後期にも見られます。鳥類も存在しますが、遺骸が人類により洞窟まで運ばれたのか不明で、これは小型哺乳類および爬虫類も同様です。
ラパドピカレイロ洞窟の層序学・石器技術分析・放射性炭素年代から、GG~II層の石器群は上下の層のものとは完全に異なり、別々のものである、と示されます。GG~II層の石器群は小さいものの、早期オーリナシアンに分類されます。GG~II層の年代は41100~38100年前頃です。これは、当時イベリア半島西部に現生人類が存在した決定的証拠を提示します。この頃、ネアンデルタール人集団は存在したとしても、ひじょうに少なかった、と推測されます。ラパドピカレイロ洞窟の証拠から、ネアンデルタール人と現生人類の両集団により、イベリア半島南部は放棄されていた、という仮説を棄却でき、現生人類がイベリア半島北部に到達してすぐ、イベリア半島南部に拡大した、という仮説が確認されます。ネアンデルタール人がイベリア半島南部にかなり後期(4万年前頃もしくは35000年前頃以降)まで存在していた、という仮説に関しては、ラパドピカレイロ洞窟のデータだけでは解決できません。ラパドピカレイロ洞窟の中部旧石器時代は42500年前頃に終了しましたが、現時点での証拠に基づくと、わずか4.2km離れたオリベイラ洞窟では、中部旧石器が36000年前頃まで続きました。
また本論文の結果は、イベリア半島ではネアンデルタール人と現生人類との間に、たとえばエブロ川で区切られるような境界が42000~37000年前頃に存在した、という見解にも疑問を投げかけます。その代わりに本論文は、エブロ川流域で拡散が促進された可能性を指摘します。現生人類は少数のネアンデルタール人集団と遭遇したかもしれませんが、エブロ川の南側のイベリア半島の大半は、すでに過疎化していたようです(関連記事)。このパターンはポルトガルにおいて明らかで、中部旧石器時代の終焉年代は45000~42000年前頃に集中し、その後、ネアンデルタール人の証拠はほぼ完全に存在しません。
ラパドピカレイロ洞窟のデータは、イベリア半島全域での急速な現生人類の拡散を確証し、中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行に関して、追加の調査と検証可能な仮説を導きます。まず、早期オーリナシアンは、上部旧石器時代前期のラパドピカレイロ洞窟の記録とこの地域の他の遺跡との間の、かなりの年代差を示唆します。これは、人口密度が低いために目立つ痕跡を残さなかったか、この地域では恒久的な居住を確立できなかった小規模な開拓集団の拡大を反映しているかもしれません。あるいは、気候による浸食のため、考古学的証拠の多くが失われたのかもしれません。どちらの場合も、初期の開拓者の検出可能性を制約します。
別の可能性は、石器技術の分類および/もしくは放射性年代の欠けている地域の石器群の証拠が存在する、というものです。ラパドピカレイロ洞窟FF層の年代は発展オーリナシアンの時期に収まり、単純な剥片と、おもに珪岩と石英から構成される石材と、定形的ではない石器群を示します。層序学的位置と放射性炭素年代を除くと、この石器群にはオーリナシアンの分類要素はありません。FF層は低コストで便宜的な技術を表しており、これはしばしば42000~32000年前頃のイベリア半島の遺跡では中部旧石器に分類されます。このような石器群は、現生人類の拡散における先駆者段階の通常要素だったかもしれません。これらの石器群がオーリナシアン期にどのくらい広範に分布して一般的だったのか、まだ調査されていませんが、類似の石器製作技術は、ラパドピカレイロ洞窟を含む多くの遺跡で上部旧石器時代を通じて知られています。
次に、44000~40000年前頃の連続した気候悪化は、この地域への現生人類拡散の新たな機会を生み出したかもしれません。おそらくは、大西洋沿岸を南進したか、東西に流れるドゥエロ(Duero)川もしくはタホ川流域を進んだのかもしれません。このような河川体系は、ヨーロッパにおける現生人類拡散で重要な役割を果たしました。拡散の重要な側面は、未知の景観を案内する認知地図の発展で、川は最も追跡しやすい空間的特徴です。ポルトガル北東部のドゥエロ川流域の開地遺跡であるカルディナ(Cardina)の光刺激ルミネッセンス法(OSL)年代は、最後の中部旧石器時代の痕跡となる42900年前頃と、発展オーリナシアンの痕跡の33600年前頃との間の、長い中断を示します。より早期のオーリナシアンの痕跡の欠如から、ドゥエロ川流域を拡散経路として除外できるかもしれませんが、この地域から最終的には裏づけとなる証拠が得られるかもしれません。むしろ、イベリア半島全域の現生人類の拡大は、イベリア半島の非生産的地域もしくはより乾燥した内陸部のような高い危険性のある地域を、避けるか迂回したような、「飛び地拡散」を表しているかもしれません。内陸部の河川流域の急速な拡散は、HEと関連する極端な旱魃期の水不足を軽減するために必要だったのかもしれず、そうだとすると、早期オーリナシアン遺跡の欠如を説明できます。あるいは、沿岸経路仮説は、イベリア半島沿岸の上部旧石器時代前期遺跡群によっても支持されます。この経路は、気候悪化期に、より予測可能な資源と、より少ない生態学的リスクを提供した可能性があります。また沿岸の地形は、開拓者集団間の意思伝達と情報伝達を促進したかもしれません。
第三に、ネアンデルタール人と現生人類は同時代に共存し、ポルトガルのエストレマドゥーラ(Estremadura)石灰岩山塊では近接していたかもしれません。もしそうならば、ラパドピカレイロ洞窟GG~II層はオリベイラ洞窟の9層と8層の間に相当するので、両者の直接的接触の証拠はありません。しかし、特定の分類がされていないラパドピカレイロ洞窟FF層の石器群は、オリベイラ洞窟8層と同時代で、異なる集団の共存もしくは連続的な交互の存在を示しているかもしれません。ネアンデルタール人と年代的に重なる現生人類の存在は、ネアンデルタール人の絶滅に関する、競争的排除の仮説(関連記事)を支持します。一方、オリベイラ洞窟8層の現時点での年代がじっさいよりも新しすぎる場合は、42000年前頃以後にポルトガルでネアンデルタール人もしくは中部旧石器の遺跡は存在しないことになります。そうすると、この地域において、最後のネアンデルタール人と最初の現生人類との間で、年代的重複もしくは競争はなかったかもしれません。
最後に、ラパドピカレイロ洞窟の記録は、最後のネアンデルタール人と初期現生人類との間の、人為的痕跡の空白層が、千年規模の気候周期および環境変化と関連してきた、ユーラシア西部全域のパターンを反映しているようです(関連記事)。過疎化はユーラシア西部全域で、生息域を中断・断片化させた深刻な寒冷で乾燥した亜氷期に起きたようで、ネアンデルタール人集団に悪影響を及ぼし、現生人類の拡散に新たな空間を開きました。イベリア半島では、古気候記録は、44300~43300年前頃のGS-12、42200~41500年前頃のGS-11、39900~38200年前頃のGS-9もしくはHE4と対応する、陸上の地域的変動性を示します。ラパドピカレイロ洞窟や他の遺跡からの考古学および堆積学的データの解像度は現時点では粗すぎますが、これらの連続した摂動の年代が、地域的なネアンデルタール人の過疎化と一致しているようです。ラパドピカレイロ洞窟では、最後の中部旧石器の痕跡がGS-12の始まりと対応しており、続いて明らかな人為的痕跡の中断が上部のJJ 層で20~30cmほど見られ、その後でGS-11~9の間にオーリナシアンが到来します。
エブロ川流域以南のイベリア半島における、現生人類の最初の存在とネアンデルタール人の最後の存在を知ることはできないかもしれませんが、ラパドピカレイロ洞窟のデータは、現生人類拡散に関する知識を拡大します。中部旧石器時代および上部旧石器時代の技術的関連の現時点での理解に基づくと、ラパドピカレイロ洞窟の事例は、ユーラシア西端における現生人類の早期出現の決定的な証拠を提供し、以前のモデルを混乱させ、新たな調査の機会を生み出します。42000~37000年前頃の知識に関する大きな空白は、さらなる調査と継続的な野外研究で埋められる必要があります。
参考文献:
Haws JA. et al.(2020): The early Aurignacian dispersal of modern humans into westernmost Eurasia. PNAS, 117, 41, 25414–25422.
https://doi.org/10.1073/pnas.2016062117
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