青銅器時代レヴァント南部集団のゲノム解析

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、青銅器時代レヴァント南部集団のゲノム解析に関する研究(Agranat-Tamir et al., 2020)が報道されました。紀元前3500~紀元前1150年頃となる青銅器時代は、現在のイスラエルとヨルダンとレバノンとパレスチナ自治政府とシリア南西部を含むレヴァント南部の形成期でした。この時期には、レヴァント南部全域の大規模な文化崩壊が起き(関連記事)、人口および文化的に後の時代が形成されていきました。

 紀元前1150~紀元前586年頃となる鉄器時代には、フェニキアの都市国家と同様に、聖書に見えるイスラエルやユダヤやアモンやアラム・ダマスカスのような領域的王国が台頭しました。後期青銅器時代の大半において、レヴァント南部はエジプト帝国により支配されていましたが、鉄器時代後半には、メソポタミアを中心とするアッシリアやバビロニアといった帝国に支配されていました。考古学的および歴史学的研究では、青銅器時代と鉄器時代の間の大きな変化が指摘されています。それは、前期青銅器時代のクラ・アラクセス(Kura-Araxes)伝統と関連した北方(コーカサス)集団の文化的影響や、鉄器時代の始まりに西方から到来したペリシテ人のような「海の民」の影響です。

 青銅器時代のレヴァント南部の住民は一般的に「カナン人」、つまりカナンの地の住民と呼ばれています。カナン人という用語は、アマルナ(Amarna)やアララハ(Alalakh)やウガリット(Ugarit)の粘土板といった紀元前二千年紀のいくつかの記録や、紀元前8~紀元前7世紀やそれ以降の聖書に見えます。聖書では、カナン人はイスラエルよりも前のカナンの地の住民とされています。紀元前二千年紀のカナンは都市国家の体系で組織化されており、支配層は都市中心から農村(と一部の牧畜民)を支配しました。これらの都市国家の物質文化は比較的均一でしたが、この均一性が遺伝的系統にまで及ぶのか、不明です。遺伝的系統と物質文化が完全に一致する可能性は低そうですが、過去の古代DNA分析では、時として強く関連すると示されています。他の事例では、遺伝子と文化の間の直接的一致は確立できません。本論文ではいくつかの事例が議論されます。

 以前の古代DNA研究では、レヴァント南部の4ヶ所の青銅器時代遺跡の13人のゲノム規模データが報告されています。紀元前2300年頃(移行期青銅器時代)となるヨルダンのアインガザル(‘Ain Ghazal)遺跡の3人、紀元前1750年頃(中期青銅器時代)となるレバノンのシドン(Sidon)遺跡の5人、紀元前1250年頃(後期青銅器時代)となるイスラエルのテルシャドゥド(Tel Shadud)遺跡の2人、紀元前1650~紀元前1200年頃(中期および後期青銅器時代)となるイスラエルのアシュケロン(Ashkelon)遺跡の3人です。

 これらの個体群の系統は、それ以前の在来集団およびザグロス山脈の銅器時代の人々(以前はイランChLとされていました)と関連する集団との混合としてモデル化できます。青銅器時代シドン集団は、現代の同地域集団の主要な祖先集団(93±2%)としてモデル化できます。イスラエルのガリラヤのペキイン(Peqi'in)洞窟の銅器時代個体群の研究では、この在来集団の系統は、早期アナトリア半島農耕民と関連する追加の構成を含んでいた、と示されています(関連記事)。このアナトリア半島農耕民系統は、レヴァント南部の後の青銅器時代集団では見られませんが、シドンやアシュケロンの沿岸部集団は例外です。これらの観察は、銅器時代から青銅器時代の移行期における集団置換の程度を示しており、銅器時代文化と前期青銅器時代文化との間の中断を指摘する考古学的証拠と一致します。

 本論文は三つの問題を検証します。まず、カナン人の物質文化と関連した遺跡間の遺伝的均質性の程度の決定です。次に、ザグロスおよびコーカサス関連系統を青銅器時代レヴァント南部にもたらした遺伝子流動の、年代・程度・起源を解明するためのデータ分析です。最後に、追加の遺伝子流動事象が青銅器時代以降にどの程度影響を与えたのか、という評価です。これらの問題の解明のため、移行期青銅器時代から前期鉄器時代まで約1500年にまたがる、青銅器時代71人と鉄器時代2人のゲノム規模の古代DNAデータが生成されました。これらのデータがレヴァント南部における青銅器時代および鉄器時代の既知のデータと組み合わされ、現在のイスラエルとヨルダンとレバノンにまたがる、すべてカナン人の物質文化を示す9遺跡93人のデータセットが生成されました。

 異なる遺跡から標本抽出された個体群は、とくにシドンやアシュケロンのような沿岸部地域住民において、いくつかの事例では微妙ではあるものの有意な違いがあるにも関わらず、一般に遺伝的に類似しています。ほぼ全ての個体が、この時期以前の在来新石器時代集団と近東北東部集団との混合としてモデル化できます。しかし、混合の割合は経時的に変化し、青銅器時代におけるレヴァント南部の人口動態を明らかにします。現代のユダヤ人集団とレヴァントのアラブ語話者集団を含む、青銅器時代のレヴァントと地理的および歴史的に関連する現代人集団のゲノムは、青銅器時代のレヴァントと銅器時代のザグロス地域の集団と関連する人々から50%もしくはそれ以上の系統を有している、と示されます。またこれらの現代人集団は、利用可能な古代DNAデータではモデル化できない系統も示しており、青銅器時代以降のレヴァント南部への追加の大きな遺伝的影響の重要性が強調されます。


●データセット

 レヴァント南部の5遺跡から計73人のDNAが抽出されました。イスラエル北部のテルメギド(Tel Megiddo)遺跡からは35人で、その大半は中期~後期青銅器時代ですが、1人は移行期青銅器時代、1人は前期鉄器時代です。ヨルダン中央部のバクア(Baq‛ah)遺跡からは21人で、その大半は後期青銅器時代です。イスラエル中央部のイェハド(Yehud)遺跡からは13人で、年代は移行期青銅器時代です。イスラエル北部のテルハツォル(Tel Hazor)遺跡からは3人で、年代は中期~後期青銅器時代です。イスラエル北部のテルアベルベトマアカ(Tel Abel Beth Maacah)遺跡からは1人で、年代は鉄器時代です。1人を除く全個体のDNAは錐体骨から抽出されました。これらの新たなデータは、上述のレヴァント南部の青銅器時代の13人と、アシュケロン遺跡の鉄器時代の7人の既知のデータと組み合わされました。

 主成分分析では、777人のユーラシア西部現代人も対象とされました。ただ、常染色体で少なくとも3万ヶ所の一塩基多型(系統推定が堅牢となる閾値)が得られていない個体は除外され、古代人では68個体が分析対象とされました(図1B)。青銅器時代~鉄器時代のレヴァント南部の個体群(青色および緑色)は密集したクラスタを形成しますが、イスラエル北部のメギド(Megiddo)遺跡のうち3人と、以前に外れ値として特定されたアシュケロン遺跡集団IA1(鉄器時代1)は例外です。現代人および古代人計1633人を対象にADMIXTUREを実行すると、主成分分析と定性的に一致しており、外れ値であるメギド遺跡とアシュケロン遺跡IA1集団以外の全個体は類似の系統を有する、と示唆されます(図1C)。以下、本論文で分析対象となった標本の場所(A)と主成分分析(B)と系統構成(C)を示した本論文の図1です。
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 データセット内の親族関係では、1~3親等の関係にある17人が特定されました。この17人は7家族に分類され、テルメギド遺跡で5家族、バクア遺跡で2家族です。ほとんどの家族では、高い一塩基多型網羅率を有する構成員のみが分析に用いられました。メギド遺跡の外れ値3人のうち2人は、兄妹もしくは姉弟でした(家族4、I2189およびI2200)。低網羅率の個体群と密接な関係にある親族を除く62人が、さらなる分析に用いられました。


●複数遺跡間の高度の遺伝的類似性

 テルメギド遺跡の高網羅率の26人は、地理と考古学的期間と主成分分析に基づいて、移行期青銅器時代(メギドIBA、1人)、中期~後期青銅器時代(メギドMLBA、22人)、鉄器時代(メギドIA、1人)、外れ値2人(メギドI2200およびメギドI10100)に区分されました。これらの集団と本論文のデータセットにおける他の集団が、より広範な地域とより古い年代を含む他の遺跡の既知のデータと比較されました。それは、前期青銅器時代コーカサス(アルメニアEBA)、中期~後期青銅器時代コーカサス(アルメニアMLBA)、銅器時代ザグロス山脈(イランChL)、銅器時代コーカサス(アルメニアChL)、新石器時代レヴァント南部(レヴァントN)、新石器時代ザグロス山脈(イランN)、新石器時代アナトリア半島(アナトリアN)です。

 レヴァントの青銅器時代と鉄器時代の集団間の系統の割合における多様性を検証するため、qpWaveが用いられました。qpWaveは、潜在的な集団の組み合わせごとに、共通の祖先集団の子孫、つまりクレード(単系統群)と一致するのか、検証します。qpWaveはf4形式(Testi、Testj;Outgroupk、Outgroupl)の対称性検証統計の計算により機能し、検証対象(Testi、Testj)が外群に関してクレードを形成するならば、期待値はゼロです。遠い関係の一連の外群を用いると、メギドとアシュケロンIA1とシドンの外れ値を除いて、レヴァント南部の青銅器時代および鉄器時代の全個体は、外群に関して相互に対のクレードである、と明らかになりました。

 続いてqpWaveで集団の下部構造が調べられました。メギド遺跡の外れ値2人は、他集団とクレードを形成しませんでしたが、相互とはクレードを形成します。アシュケロンIA1はヨーロッパ系統を有している、と以前の研究では推定されており(関連記事)、同時代の集団と遺伝的に異なる事例は、とくに意外ではありません。qpWaveにおけるシドン遺跡個体群の有意な違いは、主成分分析において他のレヴァント南部青銅器時代集団と大まかにはクラスタを形成するという事実にも関わらず、注目に値します。それはとくに、シドン個体群がとヨーロッパ人関連の混合を有さない沿岸部のアシュケロン遺跡の2集団(青銅器時代と鉄器時代のアシュケロンLBAとアシュケロンIA2)とクレードを形成する、と明らかになったからです。

 この観察は、シドンとアシュケロンの両遺跡がレヴァント南部外の他の地中海沿岸集団とつながりのある港町だった、という事実と関連しているかもしれません。そのため、レヴァントの内陸部青銅器時代集団では欠けている系統構成がもたらされた、というわけですが、この仮説の検証は、地中海東方周縁部の高解像度の古代DNA標本抽出が欠けているので、困難です。シドン個体群の遺伝的特徴は、ペキイン洞窟の銅器時代レヴァント個体群が、シドン個体群へと一部の系統を伝えたものの、アインガザル個体群には伝えなかった、という以前の知見とも一致します。シドン個体群内の下部構造の証拠は見つかりましたが、一部はレヴァント南部内陸部集団とクレードを形成しており、シドン遺跡のかなりの「国際的」性質を反映しているかもしれません。

 より微妙な集団構造を明らかにするため、アルメニアMLBAやナトゥーフィアン(Natufian)のような遺伝的に検証集団とより密接な外群を追加して、qpWave分析が繰り返されました。このより強力な外群セットにより、バクアおよびメギドIBAも、残りの集団と対でのクレードになっていない、という証拠が提供されます。したがって、これらの遺跡間の遺伝的類似性の広範な観察を超えて、青銅器時代のレヴァント南部では、微妙な系統不均質も観察されます。


●青銅器時代のレヴァント南部における遺伝子流動

 以前の研究では、アインガザル遺跡とシドン遺跡の青銅器時代個体群は、それ以前の在来集団(レヴァントN)と銅器時代ザグロス山脈の人々と関連する集団(イランChL)の混合としてモデル化されています。レヴァントN関連系統を、アインガザル個体群は56±3%、シドン個体群は48±4%有している、と推定されています。qpAdmを用いると、レヴァントN関連系統の割合は、アシュケロンLBAが54±5%、アシュケロンIA2が42±5%と推定されます。次に、qpAdmを用いて本論文で報告されたデータの同じモデルを検証すると、ほとんどの中期~後期青銅器時代集団は、レヴァントN関連系統を48~57%有する、というモデルと適合しました。これらの系統の割合は統計的に区別できず、qpWaveで対でのクレードを形成することと一致する、という事実を確証します。広範な外群集団を用いた時でさえ、バクア集団だけはこのモデルに適合しませんでした。これは、バクア個体群全体の系統の不均質性の結果かもしれません。

 ザグロス関連系統構成を検証するため、起源と年代に焦点が当てられました。銅器時代ザグロスの人々は、現時点でこの系統構成の最良の代理集団ですが、青銅器時代におけるザグロスからレヴァント南部への直接的な文化拡大の考古学的証拠はありません。対照的に、青銅器時代のレヴァント南部集団とコーカサス(現代のコーカサスおよびアナトリア半島東部のような近隣地域)との間のつながりは考古学的に支持されています。これらの事象の年代に関して考古学では、紀元前三千年紀前半におけるコーカサスのクラ・アラクセス文化とレヴァント南部のヒルベットケラク(Khirbet Kerak)文化との間の類似性が指摘されており、文字記録の証拠では、たとえば紀元前14世紀のアマルナ文書のように、紀元前二千年紀における多くの非セム人や古代近東北東部のフリル語の個人名が記載されています。したがって、銅器時代ザグロス構成は、コーカサス、さらにはもっと直接的に古代近東の北東部地域を通ってレヴァント南部に到来したかもしれない、と推測されます。しかし、古代近東の北東部地域からの古代DNA標本はありません。この移動は、短期の波に限定されておらず、青銅器時代を通じて複数回の波があったかもしれません。

 遺伝子流動の起源が直接的にザグロス地域からというよりはむしろコーカサスからなのかどうか検証するため、qpAdmが実行され、イランChLが前期青銅器時代コーカサス集団(アルメニアEBA)と置換されました。その結果、コーカサスモデルはザグロスモデルと類似の支持を受ける、と明らかになりました。次に、アルメニアEBAをより古いコーカサス集団(アルメニアChL)およびイランChLの混合としてモデル化すると、アルメニアEBAはこのモデルに適合しました。まとめると、本論文のデータは、レヴァント南部におけるザグロス関連系統のレヴァント南部への到来経路が、コーカサス、もしくは直接的にザグロス地域あるいは中間地を経由してのものだった、というモデルと適合します。

 レヴァント南部におけるザグロス関連系統の混合の年代を検証するため、移行期青銅器時代から前期鉄器時代まで、本論文のデータセットにおける広範な年代の個体群が用いられました。個体群それぞれのqpAdmに基づく系統推定を用いると、ほぼ全ての個体は新石器時代レヴァントおよび銅器時代ザグロスと関連する集団の混合モデルと適合しました。例外の一つはメギドMLBA個体で、このモデルとの適合が弱くなっています。もう一つの例外はバクア遺跡の3人で、新石器時代レヴァントおよび銅器時代ザグロスとの混合としてのモデル化が困難であることは、系統の不均質性を反映しているかもしれない、と示唆されます。

 これらの結果は、外より多くの群集団を用いても定性的に変わりませんでした。本論文のデータセットで最古級となる移行期青銅器時代の個体群は、すでに有意なザグロス関連系統を有している、と明らかになり、この遺伝子流動が紀元前2400年前頃以前に始まった、と示唆されます。これは、紀元前三千年紀のクラ・アラクセス複合の人々が、レヴァント南部へと文化的にだけではなく、ある程度の人々の移動でも影響を与えたかもしれない、という仮説と一致します。本論文のデータも、移行期青銅器時代後のザグロス関連系統の割合の増加を示唆します。しかし、ザグロス関連系統の増加が中期~後期青銅器時代に継続して起きたのか、複数回の異なる移住事象があったのか決定するには、個体数と期間が不充分である、と本論文は注意を喚起します。

 メギド遺跡の2つの外れ値(兄妹もしくは姉弟の組み合わせを含む3個体)は、レヴァント南部への遺伝子流動の年代と起源に関する追加の証拠を提供します。この3人はK10層で相互に近接して発見され、放射性炭素年代測定法で紀元前1581~紀元前1545年(家畜)と紀元前1578~紀元前1421年(埋葬)と推定されていますが、3人のうち1人(I10100)の骨の直接的な年代は紀元前1688~紀元前1535年です。この3人が他の個体と異なっている理由は、コーカサスもしくはザグロス関連の遺伝的構成がずっと高く、北東からレヴァント南部への進行中の遺伝子流動を反映しているからです。3人のうち2人の新石器時代レヴァント構成は、I2200では22~27%、I10100では9~26%です。

 外れ値の兄妹もしくは姉弟(I2189とI2200)のストロンチウム同位体分析では、2人がメギド遺跡付近で育ったと示唆されているので、この外れ値3人が移民第一世代だった可能性は低そうです。これは、メギド遺跡の外れ値3人の直近の祖先がメギド遺跡に到来した可能性を示唆します。この仮説の直接的支持は、密接に関連する集団を含む敏感なqpAdmモデル化では、この2人のレヴァント南部の北東方向地域の起源集団として唯一機能するのが、アルメニアMLBAである一方で、イランChLおよびアルメニアEBAではない、という事実に由来します。外群にイランChLを追加しても、この結果は変わらないか、モデル化に失敗しません。他のレヴァント集団はどれも類似の混合パターンを示しません。これは、レヴァントへのある程度の遺伝子流動が青銅器時代後半に起きたことを示し、この遺伝子流動の起源がコーカサスだったことを示唆します。

 まとめると、本論文の分析は、コーカサスもしくはザグロス集団と関連する人々からレヴァントへの遺伝子流動が、すでに移行期青銅器時代には起きつつあり、それが一時的もしくは継続的に、中期~後期青銅器時代において少なくとも内陸部の遺跡では持続した、と示します。


●青銅器時代以降のレヴァント集団のさらなる変化

 青銅器時代以降のレヴァントにおける集団変化を検証するため、さまざまな古代起源集団の混合としてのレヴァント地域アラブ語話者と、レヴァントにおける古代の人々の子孫(ユダヤ人)の伝統を有する集団がモデル化されました。qpAdmでは、外群と関連する集団と起源集団との間での混合は推測されませんが、ほぼ全てのレヴァント現代人および地中海集団は、古代集団が有していない、有意なサハラ砂漠以南アフリカ関連混合を有しています。

 これによりqpAdmの多くの主要な外群が除去され、この文脈での手法の有用性が減少します。とくに、qpAdmを適用して、ユーラシア西部現代人集団の大半への単一の機能するモデルを得ることはできませんでした。代わりに、LINADMIXと呼ばれる手法が開発されました。これはADMIXTUREの出力に依存し、制約付きの最小二乗法を用いて、対象となる集団への想定される起源集団の寄与を推定します。補足的な手法として、擬似ハプロタイプChromoPainter(PHCP)と呼ばれる手法が開発されました。これは、ハプロタイプに基づく手法であるChromoPainterの、古代ゲノムへの適用です。

 まず、これらの手法は、qpAdmでモデル化できた系統の割合の再計算により、本論文の文脈において系統の有意義な推定を提供する、と確証されました。LINADMIXとPHCPは両方とも、qpAdmと定性的に類似した推定を生成します。これらの手法をさらに確証するため、本論文と類似の設定で現代人集団の系統の割合を推定する能力を検証するよう設計された、シミュレーションが実行されました。そのために、第三のより遠い関係にある集団を有する場合とそうでない場合とで、2つの密接に関連した古代人集団の混合として、現代人集団が生成されました。

 どちらの手法でも、遠い関係の起源集団の系統の割合は最大4%のエラーで、密接に関連した起源集団の割合は最大10%のエラーで推定されました。したがって、LINADMIX の基礎であるADMIXTUREは、系統の割合を定量化する手法としてある程度の危険性があると知られているものの、本論文で分析された集団と類似した系統起源を有する個体群の事例では、本論文の結果から、LINADMIXとPHCPは両方ともひじょうに有益である、と示唆されます。

 現代人集団のLINADMIX分析では、一塩基多型で遺伝子型決定された293集団1663人の現代人および古代人のデータセットが用いられ、対照として用いられた現代のイングランド人・トスカーナ人・モロッコ人集団とともに、14の現代ユダヤ人およびレバノン人集団に焦点が当てられました。LINADMIXを用いて、現代人17集団のそれぞれが、4起源集団の混合としてモデル化されました。それは、(1)中期~後期青銅器時代構成の代表としてのメギドMLBA(最大集団となります)、(2)ザグロスおよびコーカサスの代表としてのイランChL、(3)アフリカ東部起源集団の代表としての現代ソマリア人(この地域の古代人集団の遺伝的データが欠如しているため)、(4)後期新石器時代から前期青銅器時代の古代ヨーロッパ人の代表としてのヨーロッパLNBAです。

 また、17の現代人集団にPHCPが適用されました。PHCPとLINADMIXを比較すると、ソマリアとヨーロッパLNBAの構成に関して、またイランChLとメギドMLBAの組み合わされた寄与でも、よく一致する、示されます。しかし、イランChLとメギドMLBAのそれぞれの寄与に関して、おそらくはメギドMLBAとイランChLがすでにひじょうに類似した集団であるという事実のため、逸脱します。堅牢でLINADMIXとPHCPにより共有される結果のみを考慮するため、メギドMLBAとイランChLが、本論文の主要な結果として中東を表す単一の起源集団に組み合わされました。起源集団として青銅器時代レヴァント集団の異なる代表を用い、ADMIXTUREパラメータへの摂動を使用して、推定の堅牢性とこれらの結論が実証されました。これらの組み合わせによる結果から、レヴァントと関連する現代人集団は、青銅器時代レヴァント南部および銅器時代ザグロス地域からかなりの系統構成を有する、と示唆されます。それにも関わらず、他の潜在的な系統起源があり得るので、より多くの古代標本が洗練された人口史を可能とするかもしれません。

 また分析の結果、青銅器時代以降レヴァント南部に、ヨーロッパ関連系統(ヨーロッパ関連構成を41%有するアシュケナージ系ユダヤ人を除くと平均8.7%)と同様に、追加のアフリカ東部関連構成(アフリカ東部構成を80%有するエチオピアのユダヤ人を除くと平均10.6%)があった、と示されます。アフリカ東部関連構成は、エチオピアのユダヤ人とアフリカ北部人(モロッコ人とエジプト人)で最高となり、ドゥルーズ派を除く全てのアラブ語集団に存在します。ヨーロッパ関連構成は、ともにヨーロッパに居住した歴史を有するアシュケナージとモロッコのユダヤ人と同様に、ヨーロッパの参照集団(イングランド人とトスカナ人)で最高でした。この構成は、ベドウィンとエチオピアのユダヤ人を除く全ての他集団に、わずかながら存在します。

 予想通り、イングランドおよびトスカーナ集団には、中東関連系統はわずかしかありません。LINADMIXとPHCPでは、メギドMLBAとイランChLの相対的寄与の推定に不確実性がありますが、それにも関わらず、結果とシミュレーションからは、追加のザグロス関連系統が青銅器時代以降、レヴァント南部に浸透してきた、と示唆されます。最高のザグロス関連構成を有する集団を除いて、PHCPではザグロス関連構成のより低い程度が推定されているので、ザグロス関連系統のPHCPによる検出は、この構成の存在の指標である可能性が高そうです。じっさい、4起源集団全てのLINADMIXとPHCPの結果の検証では、多くのアラビア語集団における比較的大きなザグロス関連構成が観察され、ザグロスおよびコーカサスと関連する集団(必ずしも、これらの特定地域に由来するとは限りませんが)からの遺伝子流動は、鉄器時代後も継続した、と示唆されます。

 まとめると、現代人集団のパターンは、青銅器時代後に起き、おそらく歴史的文献で知られている過程と関連している、人口統計学的過程を反映しています。これらは、アラブ語集団に存在するものの、エチオピアではないユダヤ人集団にはより低い割合で存在するアフリカ東部関連構成を含んでおり、それはレヴァント集団へのザグロス関連の寄与と同様です。このザグロス関連構成は、検証されたうちでは北端の集団で最高となり、青銅器時代と鉄器時代の後でさえ、ザグロス関連集団の寄与があった、と示唆されます。


●まとめ

 本論文の結果は、歴史的記録や「カナン人」としての物質文化の共有に基づいて知られていた、紀元前二千年紀のレヴァント南部のおもな住民の包括的な遺伝的状況を提供します。本論文では、三つの基本的な問題に答えるため、詳細な分析が行なわれました。それは、これらの人々はどの程度遺伝的に均質だったのか、それ以前の人々との比較で可能性の高い起源は何なのか、青銅器時代以降、この地域ではどの程度系統に変化があったのか、ということです。

 以前の遺伝的分析では、レヴァント南部の中期~後期青銅器時代の人々が、それ以前の在来集団(レヴァントN)と、銅器時代ザグロス関連集団とのほぼ等しい共有としてモデル化され、北東地域からレヴァント南部への移動が示唆されました。本論文はこの過程に関して、考古学と時空間的に多様な遺伝的データの両方を考慮に入れて、より詳細な分析を提供しました。この期間に、レヴァント南部とザグロス地域との間で直接的な文化的つながりの証拠はほとんどないので、コーカサスがこの系統の起源である可能性が高そうです。本論文はこれらのデータを用いて、これら2つの想定を比較し、遺伝的データが両方と適合する、と結論づけました。

 メギド遺跡の外れ値個体は、直近の祖先が移民第一世代だったと推測されますが、遺伝子流動が青銅器時代を通じて継続したことと、遺伝子流動の少なくとも一部はザグロスよりもむしろコーカサスに由来する可能性が高い、と示した点でとくに重要です。この外れ値2個体は、本論文のデータセットにおいて、ザグロスもしくはコーカサス関連系統の最高の割合を示します。この外れ値の分析は、ザグロスと比較してコーカサス起源の有意により強い証拠をもたらしますが、この結論は、ザグロス地域の中期~後期青銅器時代の古代DNAデータが利用可能になれば、修正されるかもしれません。

 次に新石器時代レヴァント構成の低い2個体(兄弟のI10769とI10770)は、メギド遺跡の宮殿と関連している可能性が高い巨大墓の近くで発見されており、2人が支配的な社会的地位(カースト)と関連していた可能性を提示します。じっさい、遺跡で発見された紀元前15世紀の楔形文字の粘土板に記されているメギド遺跡のすぐ南に位置する町であるタアナク(Taanach)の支配者と、エジプトで発見された紀元前14世紀のアマルナ文書に記されたメギドとタアナクの支配者たちは、フルリ語(古代近東の北東部で話された言語で、コーカサスも含まれるかもしれません)の名前を有しています。これは、今まで示唆的ではあったものの、これらの都市の支配者集団の少なくとも一部は、古代近東の北東部に起源がある、といういくつかの証拠を提供します。

 本論文では、コーカサスは現在のアルメニアの古代集団により代表されますが、レヴァント南部と文化的つながりがあったと知られている地域は、もっと広範です。レヴァント南部への文化的影響の証拠は、おもに前期青銅器時代のクラ・アラクセス文化(考古学)と、中期~後期青銅器時代のフリル語(言語的証明)に焦点が当てられます。これら二つの複合はコーカサスおよびアナトリア半島東部とその近隣地域に拡大しました。本論文で分析されたアルメニアの遺跡は、これらの文化のこれまでで最高の代表です。アルメニアの前期青銅器時代個体群(アルメニアEBA)は、前期青銅器時代のクラ・アラクセス文化墓地で、その後の中期~後期青銅器時代個体群(アルメニアMLBA)は、アルメニア北西部のアラガツォトゥン(Aragatsotn)州で発見されました。本論文で分析された新石器時代および銅器時代のアナトリア半島個体群は、アナトリア半島北西部で発見されており、コーカサスの一部ではないことが重要です。銅器時代ザグロス個体群はイランのカンガーヴァル(Kangavar)渓谷で発見されており、クラ・アラクセス文化の影響の境界に位置します。

 「カナン人」という用語は大まかに定義されており、青銅器時代に都市国家で組織化されていた集団の集合を指しているので、原則として遺伝的一貫性に欠ける可能性があります。本論文で調査された個体群は、現在のレバノンとイスラエルとヨルダンの9遺跡に由来し、広範な地域にわたります。本論文の分析で明らかになったのは、シドン遺跡(およびバクア遺跡のより少ない個体)を除いて、これらの個体群が他の同時代および近隣の集団よりも、相互に密接であるという意味で均質である、ということです。これは、「カナン人」の考古学的および歴史学的分類が共有された系統と相関している、と示唆します。

 これは、紀元前二千年紀にエーゲ海地域観察されたパターンと類似しています。当時のエーゲ海地域では、ミノアやミケーネという文化的分類が、これら集団内の潜在的に微妙な系統の違いにも関わらず、複数の遺跡にわたって遺伝的同質性を示しました。別の事例は、ユーラシア西部草原地帯における紀元前三千年紀後期と紀元前二千年紀前期の「ヤムナヤ(Yamnaya)」牧畜民です。こちらは、紀元前二千年紀の鐘状ビーカー(Bell Beaker)文化複合で、類似の文化的慣行を共有する人々が広く異なる系統を有するように、他の場所で見られるパターンとは対照的です。いずれにせよ、本論文でも示されたそのような関連の検出だけでは、過去の集団的自己認識が遺伝学と関連していたことを証明できません。

 本論文で調べられた集団で、他集団とわずかに異なるのはシドンだけです。本論文は、この観察が誤差である可能性に対する証拠を提供します。むしろ、本論文の結果からは、シドン集団の相対的な遠隔は、シドン集団が遺伝的に不均質で、異なるレヴァント南部集団との類似を示す異なる個体群を有しているという事実に由来する、と示唆されます。紀元前二千年紀に、シドンは主要な港湾都市で、地中海東部とは交易関係でつながっていたので、顕著な遺伝子流動がもたらされ、内陸部の都市よりも集団が不均質になったかもしれません。これは、シドン集団に最も類似しているのが、同じく沿岸都市のアシュケロン集団である理由かもしれません。シドン集団と類似している唯一の内陸部集団がアベルベトマアカで、おそらくは沿岸部との地理的近接のためです。シドン集団以外ではバクア集団も、外群集団を多くすると、他の集団からやや逸脱します。バクア遺跡はシリア砂漠の端に位置しているので、この集団は、まだ遺伝的に標本抽出されていないより東方の集団と混合したかもしれません。これは、バクア遺跡の個体群がその系統パターンにある程度の変動性を示す、という事実に反映されている可能性があります。

 本論文は青銅器時代に焦点を当てていますが、鉄器時代の新たな2標本も報告しており、一方はメギド遺跡、もう一方はアベルベトマアカ遺跡で発見されました。この2人は、中期~後期青銅器時代個体群で観察されたものと類似した系統パターンを示し、この地域の青銅器時代末の破壊が、各遺跡での遺伝的不連続につながったとは限らないことを示唆します。とくに、アベルベトマアカ遺跡とメギド遺跡はともに内陸部の都市で、青銅器時代から鉄器時代の移行期を通じての遺伝的連続性は、レヴァント南部の他の遺跡の典型ではなかったかもしれません。たとえば、ペリシテ人の沿岸部都市であるアシュケロン遺跡の鉄器時代2集団の一方(ASH_IA1)は、青銅器時代から鉄器時代の移行期に、ヨーロッパ南部関連集団の移動の証拠を示しました(関連記事)。

 かなりのサハラ砂漠以南のアフリカ人との混合を有する現代中東集団における系統の割合の推定は、地中海の異なる地域の混合の複数起源と同様に困難です。本論文ではこの問題が、二つの統計的手法の開発と、これらの手法間の比較、シミュレーション、入力の摂動に基づく推論の堅牢性の検証により対処されました。歴史的もしくは遺伝的にレヴァント南部と関連する14の現代人集団が調べられ、レヴァント南部集団系統へのアフリカ東部とヨーロッパと中東(レヴァント南部青銅器時代集団およびザグロス関連銅器時代集団の組み合わせ)の寄与が検証されました。アラビア語集団およびユダヤ人集団はともに、中東関連系統を50%以上有する、というモデルと適合します。これは、あらゆるこれらの現代人集団が、中期~後期青銅器時代のレヴァントもしくは銅器時代ザグロスに居住していた人々からの直接的な系統を有することを意味するのではなく、むしろ、古代の代理が中東と関連し得る集団からの系統を有する、と示唆されます。

 ザグロスもしくはコーカサス関連系統のレヴァント南部への流入は、青銅器時代後も続いたようです。また、アフリカ東部関連系統が青銅器時代後に、ほぼ南から北への勾配でレヴァント南部に入ってきたことも明らかになりました。さらに、反対方向の勾配(北から南)を有するヨーロッパ関連系統も観察されました。レヴァント南部とザグロスから到来する系統構成の分離が困難であることを考慮すると、将来の研究の重要な方向性は、各現代人集団の系統の軌跡を高解像度で再構築し、レヴァント南部青銅器時代に由来する人々が、後の時代の他の人々とどのように混合したのか、過去3000年の豊富な考古学的および歴史的記録で知られている過程の文脈において理解することです。


参考文献:
Agranat-Tamir L. et al.(2020): The Genomic History of the Bronze Age Southern Levant. Cell, 181, 5, 1146–1157.E11.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2020.04.044

この記事へのコメント

チェンジ
2020年09月26日 13:25
すっきりした部分があります。以前からハプロで中東でBとか出てるのですが、なんだろうと思っていたのですが、青銅器時代のアフリカ東部からの移住だったんですね。

これHLAハプログループで中国ともかかわっていて、てっきりイラン農耕民の拡散だと見てたんですけど、時期が違う。回族でも良いのですが、結構な量関わっていてなんだろう?と不思議になってる部分です。青銅器時代以降となるとやはり回族なのかなと。

どのみち羊が早期新石器時代に来てるので、あのあたりの民族がモンゴルを経て中国に流れ込んでるのですが、モンゴルでいったん止まって中国までは無いかな?と考え直しています。

古い石刃石器時代の移住の可能性もありますが、それならもろ北方ルートだと思います。それが主流だったのか?は別ですがJCウイルスなんかもモンゴルと中原あたりの関係の深さが出ています。JCVは古い消えてしまった遺伝子とかに結構有効なので石刃技法の北方ルートは多分あるかもと思っています。何度も書きますが主流とは思ってませんよ。
管理人
2020年09月27日 09:45
中東集団におけるアフリカ東部系統は、イスラム教勃興後のアフリカとの奴隷貿易の影響も大きかったかもしれませんが、遺伝学的な研究があるのか、把握していません。

大西洋奴隷貿易については大規模な遺伝学的研究が始まりつつあるので、アラブ世界の奴隷貿易に関して仮にまだ本格的な遺伝学的研究がないとしても、そのうち進められるとは思いますが。
チェンジ
2020年09月27日 11:35
全くその通りで奴隷についても考えたんですよ。ただかなりの量残ってて、そんなに奴隷が残るか?疑問があったのがあります。後海岸部に多いって点で、アフリカ東海岸との関係が書いてる記事があったので、なるほどと思ったのもあります。

奴隷であれば南北勾配みたいなものはできにくいのじゃないか?と思うのですよ。今回の記事でも南北勾配の話があったでしょ。

船によるものだったのじゃないか?って話もあります。

明確になったほどじゃないとしても、奴隷の子孫以外の可能性が出てきたなと言うのは単純に面白いです。真実の面白さってやつですね。奴隷の方も真実だと思うのですが、それだけじゃないと。

後やっぱかなり無視できないほど中東人に影響を与えてるってのは奴隷じゃどうなのか?とは思いますよ。アメリカ大陸だとそれぐらい来てますけどね。

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