青木健『ペルシア帝国』

 講談社現代新書の一冊として、講談社より2020年8月に刊行されました。電子書籍での購入です。まず、「ペルシア」の語源はシュメール語で「名馬の産地」を意味する「パラフシェ」で、紀元前三千年紀にアッシリア語の「パルスアシュ」となり、イラン高原西北部を指す言葉として定着しました。後の「ペルシア」であるイラン高原西南部は、紀元前三千年紀後半以降、シュメール語やアッカド語で「アンシャン」と呼ばれており、後にエラム語で「アンザン」と呼ばれるようになりました。紀元前9世紀、中央アジアもしくはコーカサスから移動してきたイラン系アーリア民族の一派がイラン高原西北部の「パルスアシュ」に定着し、「パルスア人」と呼ばれるようになります。パルスア人は後続のイラン系アーリア民族の南下・西進により「パルスアシュ」から押し出され、イラン高原西南部の「アンシャン」付近にまで進出しました。この時、集団名ではなく地名の方が変わって「パルスアシュ」となり、紀元前6世紀後半には、古代ペルシア語「パールサ」と呼ばれるようになります。

 本書はこのように「ペルシア」の前提を把握したうえで、最初の「ペルシア帝国」であるハカーマニシュ王朝の興亡を解説します。日本でも知られるようになってきたと思いますが、最初の「ペルシア帝国」は初期に王家簒奪が起きています。最初の王家はチシュピシュ家で、「帝国」の開祖はクールシュ2世でした。チシュピシュ王朝は紀元前7世紀後半、宗主国をエラムから新アッシリアに変更し、新アッシリア滅亡後は、イラン高原西北部を支配するメディア王国に服属しました。クールシュ2世は父のカンブージヤ1世とメディア王の娘との間に生まれます。本書は、クールシュ2世が西アジアを征服できた理由について、判然としないものの、母親を通じてのメディア王国とのつながりが大きかったのではないか、と推測しています。

 クールシュ2世は中央アジアのアーリア系遊牧民マッサゲタイとの戦いで奇襲を受けて落命し、後を継いだのはその長男のカンブージヤ2世でした。カンブージヤ2世は、エジプトを征服しましたが、紀元前522年、急死します。その後の混乱を収めて巨大勢力の君主として君臨したのがダーラヤワウシュ1世です。カンブージヤ2世は暗殺されたのか、そうだとして弟なのか別人なのか、この間の事情は定かではありませんが、ともかく最終的にダーラヤワウシュ1世がチシュピシュ王家に対する簒奪者として君主の地位に就いたことは間違いありません。ダーラヤワウシュ1世は、チシュピシュ王家とは4世代前の父系祖先を同じくする、という系図を喧伝しましたが、おそらく多くの研究者はこれに懐疑的で、本書も同様です。

 ダーラヤワウシュ1世は即位時にまだ祖父も存命だったようで、若かったのでしょう。そのため、統治機構を整備するだけの時間的余裕があり、それは連邦的性格を有していた、と本書は指摘します。ダーラヤワウシュ1世は比較的短期間で反対勢力を鎮圧し、ハカーマニシュ王朝の「帝国」が成立します。ダーラヤワウシュ1世はチシュピシュ王家の娘であるウタウサを正妻とし、その間の息子クシャヤールシャン1世が後継者となります。チシュピシュ王家もそうでしちが、ハカーマニシュ王家も近親婚が盛んでした。クシャヤールシャン1世の治世に起きたのがギリシアとの戦いで、西洋史では大きく扱われてきましたが、「ペルシア帝国」にとってこれは辺境の出来事で、重要だったのは中枢のバビロンで起きた叛乱だった、と本書は指摘します。3回にわたる叛乱の結果、バビロンは徹底的に破壊されます。

 クシャヤールシャン1世の後継者となったアルタクシャサ1世は、ハーレムに閉じ籠った暗君との評価が一般的なようですが、本書は、「帝国」の行政機構がよく機能しており、軍事遠征など「余計なことをしなかった」ことなどから、名君と言えるかもしれない、と指摘します。ダーラヤワシュ2世の頃から、「帝国」では西部諸州の叛乱が頻発するようになります。これは、経済的な先進地域である西部から政治的中心地である東部へと徴収された富が、勢力拡大の限界に伴う軍事的停滞により、軍隊への支払いという形での社会還元を阻害したからでした。この動向の中、エジプトが「帝国」の支配下から脱し、アルタクシュサ2世の時代には、西部諸州が「中央政府」から独立していきます。アルタクシュサ2世の後継者となった息子のアルタクシュサ3世は、異母兄弟を100人以上、従兄弟たちや女性王族も多数殺害し、王位は安定しましたが、その息子の代でハカーマニシュ王家が断絶する原因ともなりました。アルタクシュサ3世は在位中武断的方針を貫き、西部諸州を再度支配下に置くとともに、エジプトも奪還しました。しかし、「帝国」の根本的問題の解決には遠かった、と本書は指摘します。

 アルタクシュサ3世の死後、息子のアルタクシュサ4世が即位しますが、宦官の傀儡で、その宦官を討とうとして逆に殺されます。その後、大王位に擁立されたのは明らかに王族ではなかったアルタシヤータ将軍で、ダーラヤワシュ2世の父系曾孫という系図が作られました(ダーラヤワシュ3世)。ダーラヤワシュ3世は自身を擁立した宦官の殺害には成功したものの、これにより「中央政府」の統制力はさらに低下したようです。ハカーマニシュ王家の出身ではないダーラヤワシュ3世が各属州に権威を承認されたとは言い難い状況で、アレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)のマケドニアが「帝国」に侵攻してきます。本書は、アレクサンドロス3世による「帝国」の征服は、西洋史の観点ではその軍事的才能を示したとされるものの、イラン史の観点では解体傾向に歯止めのかからない「帝国」へ絶好の機会に侵攻してきた、と指摘します。3回の会戦に敗れたダーラヤワシュ3世は紀元前330年に逃亡中に殺害され、後継者争いを繰り返しながらも長期にわたって大勢力を維持した「帝国」は滅亡します。アレクサンドロス3世はハカーマニシュ王家の生き残りの王女2人を自身の側室としますが、アレクサンドロス3世の死後、2人はアレクサンドロス3世の正妻に殺され、ハカーマニシュ王家は断絶します。

 この後、イラン高原を含む西アジアを支配した大勢力は、ギリシア系のセレウコス朝とパルティア系のアルシャク朝でした。この間ペルシア州では、地方政権としてフラタラカー朝とペルシス朝が存在しました。アルシャク朝は、ハカーマニシュ王家のアルタクシュサ2世の末裔と称していました。遊牧民であるアルシャク朝は、度々拠点を移しつつ、勢力を拡大しました。アルシャク朝の統治体制はハカーマニシュ朝とは大きく異なっていたようで、しばしば土着の王国をそのまま温存しました。

 この地方政権時代を経て、ペルシア州からサーサーン朝という政治勢力が勃興し、大勢力を築きます。サーサーン朝の始祖はサーサーン・フワダーイ(サーサーン卿)という人物とされます。サーサーン卿の息子パーバグは紀元後208年頃、アルシャク朝に叛きます。222年、パーバグが没して長男のシャーブフルが跡を継ぎますが、直後に事故死し、弟のアルダフシール1世が即位します。アルダフシール1世は224年にアルシャク朝最後の王を討ち取り「エーラン・シャフル=アーリア民族の帝国」の「シャーハーン・シャー=皇帝」と名乗ります。本書はサーサーン王朝の国名を、他称の「ペルシア帝国」ではなく、「エーラーン帝国」と表記し、君主の称号を日本語では馴染みにくい「諸王の王」ではなく、「皇帝」で統一します。エーラーン帝国で本書が注目しているのは海軍力の増強で、帝国全体としては大陸国家であるものの、サーサーン家の直轄領に限れば多分に海洋国家としての性質を備えており、インド洋貿易の観点からもペルシア湾海軍の存在は有意だった、と本書は指摘します。

 初期のエーラーン帝国では、パルティア系大貴族の存在感が無視できないものだったようで、これはアルシャク朝末期にパルティア系大貴族が相次いでサーサーン朝に帰順したことを反映しているようです。本書は初期エーラーン帝国を、「ペルシア=パルティア二重軍事帝国」と指摘しています。経済的には、エーラーン帝国の基盤はメソポタミア平原にあり、メソポタミア平原とペルシア州を結ぶ地域の都市がサーサーン朝の直轄領を形成しました。支配層はあたかも「アーリア民族の帝国」であるかのように装っているものの、「メソポタミア=ペルシア二重経済帝国」としての性格も有する、と本書は指摘します。また、直轄領以外の地域ではサーサーン朝の支配力は急激に低下し、きわめて封建的な要素を残したパルティア系大貴族が君臨していました。ここが上述の「ペルシア=パルティア二重軍事帝国」的側面となります。

 サーサーン朝の軍事拡大路線は、270年のシャーブフル1世の死でいったんは終了します。シャーブフル1世の死後、次第にマズダー教(ゾロアスター教)がサーサーン朝において勢力を拡大し、ついには宗教界で覇権を握るに至ります。ただ本書は、アルダシフール1世からシャーブフル2世までのマズダー教は、9世紀以降のゾロアスター教では認められないような要素を含んでおり、ザラスシュトラ・スピターマ(ゾロアスター)の名称も見えないことなどから、「ゾロアスター教」と呼べるのか、疑問を呈しています。

 4世紀になると、サーサーン王家の内紛や若年・幼年皇帝の出現もあり、パルティア系大貴族が復権します。周辺では唯一の大国であるローマ帝国との戦いでも、軍を指揮するのは皇帝自身ではなく、旧パルティア系大貴族でした。ローマ帝国がキリスト教迫害から公認へと方針を転換すると、キリスト教徒はエーラーン帝国の潜在的味方ではなく敵とみなされるようになり、大規模な迫害が始まります。これと関連して、エーラーン帝国では「神々の末裔」との皇帝観念が消え、新たな帝国イデオロギーの創出をマズダー教神官団が担いました。

 このように、4世紀はエーラーン帝国の変容期として重要ですが、この期間の大半で皇帝だったのは誕生前に「即位」したシャーブフル2世で、ナルセフ1世時代に失った北メソポタミアとアルメニア王国を奪回した、帝国興隆の時代とも言えます。本書はこの時期を、官僚制の成熟と国制の安定とも、対ローマ戦で旧パルティア系大貴族が軍を率いていたように、皇帝権力が失墜したとも評価できる、と指摘します。旧パルティア系大貴族に圧迫されていったサーサーン皇室の財政を支えたものとして本書が注目するのは「国際」貿易で、上述のペルシア湾海軍はこの点で重要な役割を果たしたようです。

 皇帝権力が失墜傾向にある中、4世紀末から5世紀前半にかけて帝位にあったヤザドギルド1世は、大貴族を多数殺害したり、強大化しすぎたマズダー教神官団を牽制すべくキリスト教を保護したりと、皇権強化を企図したものの、それが反感を買って大貴族たちにより殺害されたようです。キリスト教を保護したヤザドギルド1世でしたが、キリスト教徒からマズダー教神官への攻撃が過激化していくと、治世晩期に方針を変え、パルティア系大貴族でマズダー教の熱心な信仰者であるミフル・ナルセフ・スーレーンを大宰相に任命します。それまで、エーラーン帝国には大宰相という役職はありませんでした。ミフル・ナルセフはその後5代の皇帝で大宰相を務め、エーラーン帝国の政策に影響を及ぼしました。ヤザドギルド1世の後、しばらくは皇帝暗殺がないので、大宰相にパルティア系大貴族が就任する慣行は、サーサーン朝皇帝とパルティア系大貴族との妥協の結果ではないか、と本書は推測します。

 ミフル・ナルセフはマズダー教を帝国内で熱心に広めましたが、その中核教義は現在ゾロアスター教の正統教義として認識されている二元論ではなく、時間の神ズルヴァーンの下で、善神オフルマズド(アフラ・マズダー)と悪神アフレマン(アンラ・マンユ)が闘争を繰り広げる、というものでした。ここでも、ゾロアスター教の教祖とされるザラスシュトラ・スピターマに関する伝説は欠落しています。本書はこの競技を、マズダー教の最終教義となる「マズダー教ズルヴァーン主義」と定義しています。ただ本書は、これを帝国イデオロギー混乱期の最終段階の象徴にすぎない、と指摘します。ヤザドギルド2世の時代に、サーサーン朝皇帝は「神々の末裔」たる現人神からゾロアスター教の守護者たるカウィ王朝の末裔としての立場へと変わります。本書は、ヤザドギルド2世が中央アジアに長期対陣する中で、中央アジア系のゾロアスター教伝承に触れ、揺れ動いていた帝国イデオロギー問題の最終的決着を図ったのではないか、と推測します。

 ヤザドギルド2世没後の兄との内乱を制したのはペーローズ1世でした。この内乱で兄を支持したらしいミフル・ナルセフは、この内乱を生き延びるものの、ローマ帝国との交渉に赴いたところで消息不明となります。その長男のズルヴァーン・ダードはペーローズ1世時代に「犯罪者」として失脚します。こうしてスーレーン家は没落し、それと共にエーラーン帝国イデオロギー混迷期の最終段階を担った「マズダ教ズルヴァーン主義」の痕跡も消え去った、と本書は指摘します。スーレーン家に代わってエーラーン帝国の実権を握ったのはミフラーン家でした。

 ペーローズ1世は父のヤザドギルド2世に倣って、東方から新規導入したゾロアスター教の整備を進めます。また、従来のサーサーン朝皇帝が対ローマ帝国の西部戦線に注力したのに対して、ヤザドギルド2世からホスロー1世までは、東部戦線を重視する傾向にありました。ペーローズ1世は首尾よく東方でキダーラを破りますが、これはさらに東方で台頭してきた遊牧民エフタルとの共同作戦の成果だろう、と本書は推測します。ところが、そのエフタルがバクトリアを制圧したため、ペーローズ1世は481年にエフタルを攻めたものの敗れ、しかも捕虜となってしまいます。皇太子を人質として貢納金を支払うことでエフタルと講和したペーローズ1世ですが、貢納金の支払いを完了し、皇太子が帰還した484年に、側近の制止を振り切り、再度大軍でエフタルを攻めます。ペーローズ1世はまたしても大敗し、30人の息子とともに玉砕し、ゾロアスター教神官たちと共に捕虜となったペーローズ1世の娘はエフタル王の妻とされました。

 このエーラーン帝国始まって以来の大惨事が、エーラーン帝国の転機だった、と指摘します。エーラーン帝国では、遊牧民と定住民という構図で遊牧民側が政治権力を掌握する、というイスラム・イラン史の大前提が、ペーローズ1世の時代前には当てはまらず、都市住民が政治権力と経済力を掌握していた、というわけです。しかし、エフタルの台頭により、都市住民と遊牧民の軍事バランスが逆転します。このように冴えなかったペーローズ1世の時代ですが、エーラーン帝国社会では貨幣経済が急速に浸透します。

 ペーローズ1世戦死後の大混乱を勝ち抜いて即位したのは、ぺーローズ1世の弟のヴァラーフシュ1世でした。が、実権を掌握したスフラー・カーレーンにより短期間で退位させられ、その甥のカヴァード1世が即位しました。カヴァード1世はスフラー・カーレーンの失脚後、政治改革を進めたものの、反感を買って退位させられ、幽閉先から脱出してエフタルを頼って復位します。復位後のカヴァード1世は、詳細不明ながら改革に成功し、大貴族の勢力は削減され、経済状況は好転し、息子のホスロー1世時代にはゾロアスター教の正統教義が確立します。

 母方の身分が見劣りするためか、即位後のホスロー1世は兄弟や従兄弟たちを殺害し、改革を進めます。ホスロー1世は税制を現物徴収から定額貨幣に改め、人頭税を導入しました。こうした税制改革は後にイスラム勢力にも継承されました。ホスロー1世は税収増により軍制改革を進め、ローマ帝国だけではなく、エフタルなど遊牧民勢力も脅威として台頭してきたことを受けて、4軍管区制を導入し、海軍を再建しました。これにより海上交易が盛んになったようで、陸路の交易の担い手がソグド人だったのに対して、海路の交易の担い手は多様だったようです。またホスロー1世の時代には、東ローマ(ビザンティン)帝国のユスティニアヌス帝がアカメデイアを閉鎖したため、追放されたギリシア人学者たちがエーラーン帝国に亡命してきて、エーラーン帝国の文化に影響を与えたようです。

 エーラーン帝国を立て直したホスロー1世は、540年、ユスティニアヌス帝治下のビザンティン帝国に宣戦布告します。直接的な契機というか名分は、東ゴート王国からの救援要請でした。この戦いは、エーラーン帝国優位の条件で562年に講和が締結されます。まだ講和締結前だったとはいえ、ビザンティン帝国との戦いがほぼ落ち着いた557年、ホスロー1世は突厥と結んでエフタルを攻撃し、瓦解に追い込みます。ホスロー1世は、エチオピアのアクスム王国に制圧されたイエメンにも570年に侵攻し、衛生国としています。このようにホスロー1世の軍事行動は一定以上の成果を収めましたが、軍司令官職を分割しつつも、あくまでも大貴族の勢力均衡に拘泥した点が、ホスロー1世の軍事政策の限界だった、と本書は評価します。

 本書は、ホスロー1世の改革が一定の成功を収めたことは認めつつも、ホスロー1世が579年に没してからわずか63年でエーラーン帝国が滅亡したことを重視し、ホスロー1世の軍制改革は、意図がよかったとしても、結果的にはパルティア系大貴族の叛乱を次々に誘発してしまい、アルダシフール1世が築いた「ペルシア=パルティア二重軍事帝国」の基礎を根底から覆した、と指摘します。また本書は、税制改革と同時期に、少なくともサーサーン家の直轄領では人口の都市集中が見られ、貨幣経済をさらに振興させたものの、反面ではサーサーン朝初期以来帝国経済を支えてきた農業を推戴させた可能性がある、と指摘します。本書の見解は、アラブ人イスラム教徒は再度全盛期を迎えたエーラーン帝国を正面から打破したのではなく、イスラム教興隆前にエーラーン帝国は実質的に解体しつつあった、というものです。

 ホスロー1世の死後、即位したのは皇太子だったオフルマズド4世でした。当初、オフルマズド4世の治世は東方でのエフタル残党の殲滅など順調でしたが、580年代半ば以降、大貴族粛清に乗り出し、次の粛清対象とされたヴァフラーム・チョービン・ミフラーンが叛乱を起こし、その混乱の中でオフルマズド4世は処刑されます。ヴァフラーム・チョービンは、アルダシフール1世の支配はサーサーン家による簒奪なので、正しいアルシャク家の支配を回復する、という名目で591年3月9日にエーラーン皇帝に即位します。本書は、上述の軍司令官職に大貴族を起用し続けた点とともに、現人神思想からゾロアスター教の守護者という帝国のイデオロギー転換がまだ効果を挙げていなかった点を、この王朝簒奪の要因として指摘します。極論を言えば、ゾロアスター教の守護者なら誰でも支配の正統性を主張できるからです。

 オフルマズド4世の長子であるホスロー2世は、オフルマズド4世の死後即位しましたが、ヴァフラーム・チョービンに敗れてビザンティン帝国に亡命し、ビザンティン皇帝マウリキウスの娘を娶り、コーカサス諸国をビザンティン帝国に割譲するという条件で、ビザンティン帝国からの援助を得ることに成功しました。ホスロー2世は591年夏、ヴァフラーム・チョービンを破ってサーサーン朝皇帝に復辟します。ヴァフラーム・チョービンは敗走して西突厥に亡命した後、ホスロー2世の刺客により殺害されます。

 ホスロー2世は浪費家で、私生活での享楽に耽溺するだけではなく、政治でも軍事でも成功を求める野心的な人物でもあり、対外強硬策と大貴族粛清を同時に追求し始めます。本書はホスロー2世を、エーラーン帝国とビザンティン帝国の勢力が均衡し、ゾロアスター教とキリスト教が東西で教勢を分かち合っていた古代末期の世界秩序を、最終的に破滅させた重要人物と評価しています。ホスロー2世はまたしても大貴族粛清の反動で起きた叛乱を何とか乗り切り、大宰相を置かず、皇帝権力の強化には成功した、と言えるかもしれません。叛乱を何とか制圧した浪費家のホスロー2世の宮廷は爛熟を迎えます。しかし本書は、隆盛を極めているかに見える帝国内部の商工業が、時として拉致してきた外部の民に依存していることや、キリスト教徒人口の増加など、帝国の脆弱性を指摘します。キリスト教徒が増加したのは、職人・商人への蔑視が強いゾロアスター教に対して、それらにより容易に順応できるキリスト教の方が、当時の社会情勢に適合的だったからです。

 エーラーン帝国の命運を大きく変えた戦いは、ビザンティン帝国の内紛から始まりました。ビザンティン帝国の指揮官フォカスが叛乱を起こし、ホスロー2世にとって恩人だったマウリキウス帝が処刑され、その長子のテオドシウスがエーラーン帝国に亡命してきます。これを好機と考えたホスロー2世は602年にフォカスに宣戦布告しますが、ビザンティン帝国との戦いは長期化します。610年、フォカスを殺害して即位したヘラクレイオスからホスロー2世へと講和の使節団が派遣されますが、テオドシウスの即位に拘るホスロー2世はこれを皆殺しにし、ビザンティン帝国に全面的に攻勢に出ます。エーラーン帝国軍はコンスタンティノープルに迫りながら、海軍の不足で陥落させられず、さらに、620年代前半にティグリス川で大氾濫が起きたため、エーラーン帝国は経済的にも疲弊していました。それでも、これまでの軍事的成功により自我が肥大しきったホスロー2世は壮大な軍事作戦を実行し続け、ついには628年に宮廷内の陰謀により処刑されます。

 ホスロー2世の死後、その息子のカヴァード2世が擁立され、直ちにビザンティン帝国との間の停戦交渉が始まりますが、カヴァード2世はその最中の628年9月に疫病で死亡し、その息子のアルダシフール3世が即位します。この後、アルダシフール3世もすぐに殺害され、シャフルヴァラーズ・ミフラーンの短期間の簒奪を経て、ホスロー2世の長女でカヴァード2世の姉妹妻だったポーラーン・ドゥフトが擁立されます。数々の粛清で、サーサーン家にはもう男系相続人がいなかったのかもしれません。ここでようやくエーラーン帝国とビザンティン帝国の間に和議が締結されますが、その条件はエーラーン帝国が全占領地をビザンティン帝国に返還するというもので、この26年に及ぶ「世界大戦」はエーラーン帝国の敗北で終わります。ポーラーン・ドゥフトは短期間で廃位され、短期間の簒奪を経て、ポーラーン・ドゥフトの妹であるアードゥルミーグ・ドゥフトが擁立されます。アードゥルミーグ・ドゥフトも短期間で簒奪され、その簒奪者も短期間で失脚した後、ポーラーン・ドゥフトが再度擁立されます。しかし、ポーラーン・ドゥフトも632年に殺害されます。

 ホスロー2世の死からここまでわずか4年ほどですが、エーラーン帝国では政変が相次ぎ、数少なくなったサーサーン王家の人々も相次いで没し、まさに末期状況を呈します。この4年に及ぶ内乱後のエーラーン帝国では、各地の有力貴族が軍閥化し、ホスロー2世の浪費と無理な軍事行動と災害に対する無策により、経済は破綻していました。この混乱のなかで擁立されたのは、ホスロー2世の孫と伝わるヤザドギルド3世ですが、本当にホスロー2世の孫なのか、不明です。この状況でエーラーン帝国軍は相次いで、北上してきたイスラム教徒の軍に敗れます。これらの戦いではエーラーン帝国軍が質量ともに圧倒していたとされますが、エーラーン帝国はビザンティン帝国との長期の戦いとメソポタミア平原の災害により疲弊していたことから、本書は疑問を呈しています。

 637年、ついに帝都のテースィーフォンがイスラム教徒の軍により陥落させられます。642年、ネハーヴァンドの戦いでエーラーン帝国軍はイスラム教徒の軍に大敗し、混乱期に大宰相を務め続けたペーローズ・ホスローは戦死し、サーサーン家の直轄軍も解体しました。これにより、帝室としてのサーサーン家は実質的に消滅します。ヤザドギルド3世はこの後逃亡を続けますが、651年に殺害されます。本書は、サーサーン朝が滅亡してもエーラーン帝国が存続した可能性はある、と指摘します。本書は、サーサーン朝の凋落はホスロー1世の制度改革の運用面での失敗により確定的になった、と指摘します。貨幣経済が隆盛に向かう中で、過度に軍事力に依存するのは時代遅れだった、というわけです。

 サーサーン朝の没落をエーラーン帝国の消滅にまで拡大させたのは、帝国の経済力と軍事力を自発に極限まで消耗させたホスロー2世で、その後の4年の内乱で、サーサーン家と代替可能な大貴族も無意味に蕩尽させられた、と本書は指摘します。さらに、イスラム教徒軍との戦いで連敗したことにより、エーラーン帝国の機構自体が解体されました。イスラム教勢力の支配下で、都市部ではイスラム教への改宗が進み、逆に農村は10世紀までゾロアスター教文化の拠点でした。サーサーン朝の大貴族たちは、イスラム教勢力に順応するか徹底抗戦して滅亡し、あるいは唐王朝に亡命しました。ヤザドギルド3世の次男ペーローズは、唐王朝で将軍に任命されています。

 本書は最後に、ハカーマニシュ朝もサーサーン朝も自称したことのない「ペルシア帝国」 という概念を検証します。ハカーマニシュ朝はペルシア州を基盤に勃興し、「大王」はペルシアの一部族により占められ、イデオロギーの中心はペルシア州で、ペルシア人貴族が特権的な身分を保持したという点で、外国人がハカーマニシュ朝を「ペルシア帝国」と認識するのは当然だった、と本書は指摘します。一方、サーサーン朝の自称は「アーリア民族の帝国(エーラーン・シャフル)」でしたが、軍事力をペルシア州出身のサーサーン家とパルティア系大貴族が担っており、「ペルシア=パルティア二重軍事帝国」と言うべき存在でした。サーサーン朝は経済的には、サーサーン家の直轄領だったメソポタミア平原からペルシア州が中核を占め、「ペルシア=メソポタミア二重経済帝国」と言うべき存在でした。その意味で、サーサーン朝も「ペルシア帝国」と呼べる、と本書は指摘します。

 イスラム期には、ペルシア人もアーリア民族も特権を保持しておらず、経済的にもペルシア州は主要な地位を占めていないので、これ以降にペルシア州に成立したイスラム国家を「ペルシア帝国」と把握するのは難しく、これ以降のペルシア史は取るに足りない地方史の連続である、と本書は指摘します。ヨーロッパでは、ビザンティン帝国の保守的な知識層の認識に由来して、東方の勢力が「ペルシア帝国」と呼ばれました。一方イランでは、サーサーン朝の領域を継承したという意味で、「ペルシア帝国」は存続している、と無理やりではあるものの主張できなくもなかった、と本書は指摘します。この観点から本書が画期としているのはサファヴィー朝で、君主は「シャー」と名乗り、オスマン帝国との対峙は、あたかもかつてのエーラーン帝国とビザンティン帝国との対立の再現でした。この「ペルシア帝国」意識は、パフラヴィー朝にも存続しましたが、1979年のイラン・イスラム革命で、「ペルシア帝国」という共同幻想を継承する国家は地上から消え、現在では復活する見込みすらありません。ハカーマニシュ朝とサーサーン朝の通史には疎かったので、本書を興味深く読み進められました。Twitterなどでは本書への批判も見られますが、それらも踏まえつつ、今後も何度か再読するつもりです。

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