岩井秀一郎『永田鉄山と昭和陸軍』
祥伝社新書の一冊として、祥伝社より2019年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。最近5年くらい、以前よりも日本近現代史関連の本を多く読むようになりましたが、それらの本で永田鉄山に言及されることが多かったので、一度評伝的な本を読もう、と考えた次第です。本書で初めて知りましたが(以前他の本で読んで忘れてしまっただけかもしれませんが)、永田の父は医者で、その遺言により永田は軍人を志しました。これには、永田の異母兄がすでに軍人だったことも影響しているようです。
永田が優れた頭脳の持ち主だったことは、同時代に永田と接した人も、後世の研究者も作家も記者も、ほぼ全員が認めるところでしょう。本書は、たとえば石原莞爾との比較で、永田が「常識的な」人物だった、と指摘します。永田は、石原のような傲岸不遜な人物ではなく、比較的人当たりがよかったようです。この点が、石原とは異なり、永田が「天才」とあまり言われない理由になっているかもしれない、と本書は指摘します。永田は、天才には奇矯なところがある、という根強そうな通俗的印象から外れた人物と言えそうです。
永田の軍事思想の形成に大きな影響を与えたのは第一次世界大戦で、永田は今後の戦争が総力戦になると確信し、日本がそれに耐えられるような体制を築くことに努めていきます。その「同志」として、同期の小畑敏四郎たち中堅将校がいましたが、長州閥に対して、永田は小畑とは異なり明確な敵意を抱いておらず、そもそも当時の陸軍において長州閥の力は衰えていた、と本書は指摘します。永田と小畑は後に対立し、現代では「統制派」と「皇道派」という枠組みで把握されますが、軍事思想の面では、ソ連の軍備が整う前に短期決戦でソ連を攻撃しようと考える小畑に対して、対ソ連戦は短期では終わらず、日本の現時点での国力では耐えられないので、当面は精鋭主義を取るとしても、総力戦体制を構築していかねばならず、そのためには満洲が必要である、と永田が構想していたことにありました。
1931年の三月事件では、永田はクーデタに批判的だった、と本書は指摘します。永田は小磯国昭に求められて「小説」の如きクーデタ計画を提出しますが、明確にクーデタには否定的でした。永田は、規律の弛緩した陸軍を再建しようとしており、後に「統制派」として把握されるだけのことはあり、統制を重視していました。同年9月の満洲事変では、永田が現地の関東軍と共謀していた、との見解もありますが、本書は、石原から永田に送った書簡などから、永田は関東軍を統制しようとしており、満洲事変のような急進策には否定的だった、と推測します。その永田が満洲事変勃発後に現地軍を支援したのは、いずれ日本は総力戦体制構築のため満洲で覇権を確立しなければならないなので、一度始まった武力衝突を停止し、後にもう一度武力に訴えるよりは、一度動き出した流れに乗り、計画を前倒しした方がよいと考えたからだろう、と本書は推測します。永田は武藤章から「合理適正居士」と呼ばれていました。
永田殺害事件は、相沢三郎の一人の狂気に帰せられる問題ではなく、現代では「統制派」と「皇道派」として認識されている陸軍内の激しい派閥対立の中で起きました。相沢は永田と事件の1ヶ月前に面会していますが、思い込みが強く「情」の人である相沢と、「理」の人である永田とでは、会話が噛み合わなかった、と指摘します。永田殺害事件の直接的契機として重要なのは、「皇道派」の将校に慕われていた真崎甚三郎が教育総監を罷免されたことです。相沢は自分の行為が罪だとは全く考えていなかったようで、現役の要職にある少将を直接殺害したという手段はともかく、相沢に共感を寄せる人は少なくなかったようです。永田殺害事件は、この半年後に二・二六事件を起こす人々を勇気づけ、奮起させた、と言えそうです。
本書は、永田が殺されなければどうなったのか、という問題も取り上げています。上述のように、永田は「常識的な」人物で、人当たりもよく、軍部以外にも広い人脈を築き、また軍人以外にも永田を高く評価する人は少なくありませんでした。まず、二・二六事件の首謀者たちが永田殺害事件に奮起させられたことを考えると、二・二六事件は防がれたか、史実よりも小規模だった可能性があります。永田が殺されなければ、太平洋戦争は防がれたのではないか、との見解は一部で根強いようですが、一方で、永田とは同志から敵対的関係に変わった小畑は、永田こそが太平洋戦争の道を開いた、と指弾します。
本書は、永田が次の世界大戦は避けられないと考えていたことから、永田が殺されなくても戦争は避けられなかっただろう、と指摘します。ただ本書は、永田が後に陸軍の代表として首相に就任した東条英機と比較して、頭脳明晰で人間関係の構築もずっと上だったことから、史実よりも上手く戦争指導を行ない、戦争になっても史実とは異なる展開になった可能性を指摘します。一方で本書は、永田の基本構想が総力戦体制確立のための満洲における日本の覇権確立で、日本にとって陸軍を中心にとても受け入れられなかった中国からの撤兵が日米開戦につながったことに、永田の存在により対米戦は避けられた、との見解(願望)の根本的な弱点があることを指摘します。
私は、永田が殺害されず、1945年まで軍務が可能なくらい健康だったとしても、日中戦争から太平洋戦争への流れを止めることはできず、最後は史実に近い破局を迎えたかな、と思います。ただ、史実よりも対米戦で健闘した可能性はあり、その場合、ソ連の参戦により北海道あるいは東北地方までがソ連に占領され、日本が分断されたかもしれません。とはいえ、本書で永田の優秀な頭脳と幅広い人脈を知ると、どこかで史実よりもましな敗戦を迎えられたのではないか、と妄想したくもなります。
また、永田が日独伊三国同盟締結の流れにどう対応したのか、気になるところです。「合理適正居士」である永田が満洲事変で見せた機会主義者的な側面からは、ドイツの快進撃を見て日独伊三国同盟締結を強く推進し、仏印進駐に踏み切ったのかな、とも思いますが、優秀な永田ですから、ドイツの快進撃は長く続かないと見て、ドイツとの連携強化に慎重な姿勢を示したかもしれません。このように後世の人間の妄想力を掻き立てるところも、永田の優秀さを示しているのかもしれません。
永田が優れた頭脳の持ち主だったことは、同時代に永田と接した人も、後世の研究者も作家も記者も、ほぼ全員が認めるところでしょう。本書は、たとえば石原莞爾との比較で、永田が「常識的な」人物だった、と指摘します。永田は、石原のような傲岸不遜な人物ではなく、比較的人当たりがよかったようです。この点が、石原とは異なり、永田が「天才」とあまり言われない理由になっているかもしれない、と本書は指摘します。永田は、天才には奇矯なところがある、という根強そうな通俗的印象から外れた人物と言えそうです。
永田の軍事思想の形成に大きな影響を与えたのは第一次世界大戦で、永田は今後の戦争が総力戦になると確信し、日本がそれに耐えられるような体制を築くことに努めていきます。その「同志」として、同期の小畑敏四郎たち中堅将校がいましたが、長州閥に対して、永田は小畑とは異なり明確な敵意を抱いておらず、そもそも当時の陸軍において長州閥の力は衰えていた、と本書は指摘します。永田と小畑は後に対立し、現代では「統制派」と「皇道派」という枠組みで把握されますが、軍事思想の面では、ソ連の軍備が整う前に短期決戦でソ連を攻撃しようと考える小畑に対して、対ソ連戦は短期では終わらず、日本の現時点での国力では耐えられないので、当面は精鋭主義を取るとしても、総力戦体制を構築していかねばならず、そのためには満洲が必要である、と永田が構想していたことにありました。
1931年の三月事件では、永田はクーデタに批判的だった、と本書は指摘します。永田は小磯国昭に求められて「小説」の如きクーデタ計画を提出しますが、明確にクーデタには否定的でした。永田は、規律の弛緩した陸軍を再建しようとしており、後に「統制派」として把握されるだけのことはあり、統制を重視していました。同年9月の満洲事変では、永田が現地の関東軍と共謀していた、との見解もありますが、本書は、石原から永田に送った書簡などから、永田は関東軍を統制しようとしており、満洲事変のような急進策には否定的だった、と推測します。その永田が満洲事変勃発後に現地軍を支援したのは、いずれ日本は総力戦体制構築のため満洲で覇権を確立しなければならないなので、一度始まった武力衝突を停止し、後にもう一度武力に訴えるよりは、一度動き出した流れに乗り、計画を前倒しした方がよいと考えたからだろう、と本書は推測します。永田は武藤章から「合理適正居士」と呼ばれていました。
永田殺害事件は、相沢三郎の一人の狂気に帰せられる問題ではなく、現代では「統制派」と「皇道派」として認識されている陸軍内の激しい派閥対立の中で起きました。相沢は永田と事件の1ヶ月前に面会していますが、思い込みが強く「情」の人である相沢と、「理」の人である永田とでは、会話が噛み合わなかった、と指摘します。永田殺害事件の直接的契機として重要なのは、「皇道派」の将校に慕われていた真崎甚三郎が教育総監を罷免されたことです。相沢は自分の行為が罪だとは全く考えていなかったようで、現役の要職にある少将を直接殺害したという手段はともかく、相沢に共感を寄せる人は少なくなかったようです。永田殺害事件は、この半年後に二・二六事件を起こす人々を勇気づけ、奮起させた、と言えそうです。
本書は、永田が殺されなければどうなったのか、という問題も取り上げています。上述のように、永田は「常識的な」人物で、人当たりもよく、軍部以外にも広い人脈を築き、また軍人以外にも永田を高く評価する人は少なくありませんでした。まず、二・二六事件の首謀者たちが永田殺害事件に奮起させられたことを考えると、二・二六事件は防がれたか、史実よりも小規模だった可能性があります。永田が殺されなければ、太平洋戦争は防がれたのではないか、との見解は一部で根強いようですが、一方で、永田とは同志から敵対的関係に変わった小畑は、永田こそが太平洋戦争の道を開いた、と指弾します。
本書は、永田が次の世界大戦は避けられないと考えていたことから、永田が殺されなくても戦争は避けられなかっただろう、と指摘します。ただ本書は、永田が後に陸軍の代表として首相に就任した東条英機と比較して、頭脳明晰で人間関係の構築もずっと上だったことから、史実よりも上手く戦争指導を行ない、戦争になっても史実とは異なる展開になった可能性を指摘します。一方で本書は、永田の基本構想が総力戦体制確立のための満洲における日本の覇権確立で、日本にとって陸軍を中心にとても受け入れられなかった中国からの撤兵が日米開戦につながったことに、永田の存在により対米戦は避けられた、との見解(願望)の根本的な弱点があることを指摘します。
私は、永田が殺害されず、1945年まで軍務が可能なくらい健康だったとしても、日中戦争から太平洋戦争への流れを止めることはできず、最後は史実に近い破局を迎えたかな、と思います。ただ、史実よりも対米戦で健闘した可能性はあり、その場合、ソ連の参戦により北海道あるいは東北地方までがソ連に占領され、日本が分断されたかもしれません。とはいえ、本書で永田の優秀な頭脳と幅広い人脈を知ると、どこかで史実よりもましな敗戦を迎えられたのではないか、と妄想したくもなります。
また、永田が日独伊三国同盟締結の流れにどう対応したのか、気になるところです。「合理適正居士」である永田が満洲事変で見せた機会主義者的な側面からは、ドイツの快進撃を見て日独伊三国同盟締結を強く推進し、仏印進駐に踏み切ったのかな、とも思いますが、優秀な永田ですから、ドイツの快進撃は長く続かないと見て、ドイツとの連携強化に慎重な姿勢を示したかもしれません。このように後世の人間の妄想力を掻き立てるところも、永田の優秀さを示しているのかもしれません。
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