一ノ瀬俊也『東條英機 「独裁者」を演じた男』
文春新書の一冊として、文藝春秋社より2020年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。東条英機については基本的な知識が欠けているので、首相就任前の軍人としての東条英機も詳しく取り上げている本書は、私にとって大いに有益な一冊となりました。東条英機が、その父である軍人の英教から強い反長州閥意識を受け継いだことは知っていましたが、英教の経歴についてはほとんど知らなかったので、この点も勉強になりました。英教は陸大一期生で首席という優秀な人物でしたが、狷介なところがあり、処世に長けていなかったようで、それが中将での退官の要因になったようです。また、英教は兵学では優秀だったものの、実戦指揮では優秀とは言い難く、日露戦争での失態が中将で退官することになった最大の直接的要因だったようです。
東条英機は父親から強い影響を受けたようですが、異なる点もあります。それは旧藩とのつながりで、英教は出身の盛岡藩への帰属意識をまだ強く有していたようでしたが、息子の英機は幼年学校から士官学校を経て職業軍人となる過程で、出自の盛岡藩ではなく陸軍を「お家」とし、陸軍士官としての自尊心と天皇への忠誠を内面化していったようです。これは、1855年生まれで思春期に明治維新を体験した英教と、1884年生まれで誕生時から「近代」を生きた英機との世代差を反映しているのでしょう。この東条の世界観と信念は、最期まで変わらなかったようです。
父の英教は退官前に中将に名誉進級した後に予備役編入となり、東条英機は上流とは言えない、当時日本で勃興しつつあった中産階級で育ちました。そこが、東条英機の「平民派」的な性格を育み、首相就任後にゴミ箱を確認するような行動を取った背景になったようです。また本書は、そのように上流階級ではなかった東条家が、日露戦争後の「戦後デモクラシー」の風潮に乗っていた、という側面も指摘します。日露戦争は徴兵されて出兵した国民だけではなく、財政面で「銃後」の国民にも多大な負担を強いました。その結果、国民の側に自分たちにも立場の上下に関わらず発言する権利がある、との観念が浸透していきます。本書は、昭和期の陸軍における「下剋上」的状況は、この日露戦争後の「戦後デモクラシー」に由来するかもしれない、と指摘します。
東条英機は第一次世界大戦後、ドイツに留学します。これが、東条の軍人としての信念に大きな影響を与えました。東条は、今後の戦争が国力に依存すると強く認識し、戦争指導は統帥権の独立を前提としつつも、国力や政治との調和に基づかねばならない、と考えるようになりました。日露戦争後、次第に軍人の相対的地位が低下し、とくに第一次世界大戦後の世界的な軍縮傾向の中、軍人の間では不遇感と危機感が強くなっており、過去の栄光を持ち出して国民や政治家や官僚に強く出るわけにはいきませんでした。また、この軍人、とくに陸軍の不遇感が、功名を求めての「下剋上」的雰囲気を醸成した側面もあるようです。
東条はドイツから帰国後、陸大教官を務めた後、歩兵連隊長に任ぜられますが、ここでは兵士たちの食事にも気を遣う「人情連隊長」と言われました。これは、軍事と国民との調和という信念もありますが、より実際的な問題として、第一次世界大戦後に日本でも知識層を中心に左翼思想が浸透する中、徴兵された国民の扱いが疎かだと、軍部への不信感を高めて左翼勢力の伸張を許してしまう、という危機感があったようです。そのため東条は、除隊後の国民の再就職にも力を入れました。
ドイツに留学した東条は、永田鉄山などと陸軍の中堅将校団体に加わり、総力戦体制の確立を目指し、その後、陸相就任前にはとくに航空戦力を重視するようになります。当初、東条は小畑敏四郎と懇意にしていましたが、やがて感情的に強く反発し合い、犬猿の仲となります。これは、人事問題とも大きく関わっていますが、「統制派」で総力戦体制の構築を重視する東条と、精神主義的で対ソ連戦志向の「皇道派」との対立でもありました。永田が1935年に「皇道派」に惨殺されるなど、両者の対立は激化しますが、その翌年の二・二六事件の結果、「皇道派」は決定的に没落します。東条は、後に妻を介して小畑と和解しようとしたようで、単に狭量なだけの人物ではなかったようです。もっとも、小畑は拒絶したそうですが。
陸相就任から首相就任直後までの東条は、内心では対米開戦をかなり迷っていたのではないか、と本書は推測します。東条も、内心では日中戦争(公的には「事変」扱いですが)に深入りしすぎたことを後悔していたものの、陸軍中堅層以下と国民からの突き上げ、何よりも東条自身も含めて陸軍首脳部としての対面で、とても中国から撤兵するとは言いだせない状況でした。斎藤隆夫の衆議院での「反軍演説」に代表されるように、陸軍は日中戦争で軍事的に圧倒していると吹聴しているのに、中国から領土や賠償金などを取れないとはどういうことだ、という思いは国民の間で広く共有されていました。多くの犠牲者(中国側の被害は日本側よりもはるかに多いわけですが)を出し、多額の予算を投じながら、米国の要求通りに中国から撤兵することはとてもできない、というわけです。もしそれをやれば、国民が日比谷焼打事件のような暴動を起こすか、陸軍強硬派が二・二六事件のように決起するかもしれない、と東条は恐れていました。
東条は1941年8月に総力戦研究所から報告を受けており、対米戦が厳しいことも内心では気づいており、海軍の方から対米戦は不可と言ってもらいたかったのではないか、と本書は推測します。しかし、海軍の方は対米戦を想定して軍備を拡充してきた、つまり予算を取ってきた、という経緯があり、今さら対米戦不可とは対面上ひじょうに言い出しにくい状況にありました。本書は、東条を代表とする陸軍側も海軍も、対米交渉妥結にせよ対米開戦にせよ、相手に責任を押しつけたかったのではないか、と指摘します。ここは、人間心理としてひじょうによく理解できるというか、共感できるところです。まあ、一国の指導層がそういうことでは困るわけですが。
東条は、対米開戦か否か、なかなか決断を下せない状況で、思いもかけず首相に就任します。結局、海軍の側も、対米戦不可とは明言できず、対米開戦に容認的な立場を示すことにより、対米開戦が決定されます。対米英開戦後、東条は首相就任後それまで悲愴な顔をしていることが多かったのに柔和な顔になり、開戦直後の真珠湾攻撃やマレー沖海戦での戦果を知り、たいへん嬉しそうな表情を見せたそうです。これは、期待以上の戦果を挙げたこともあるのでしょうが、何よりも、対米開戦か米国の要求を受け入れての「臥薪嘗胆」か、悩んでいた東条の心境は、どちらでもよいから早く決めて楽になりたい、というもので、それは天皇や他の指導者や国民も同じだったかもしれない、と本書は指摘します。これは人間心理としてよく理解できます。中国からの撤兵を伴う避戦による国民や右翼や軍部中堅層以下の憤激という目先の困難から逃れようとして、長期的にはもっと悲惨な事態に突入してしまった、ということでしょうか。対米英開戦時の日本人は狂っていた、というような言説を今でもよく目にしますが、「合理的な判断」の積み重ねという側面が多分にあるように思います。また、この決断の前提として、東条もそうですが、対米英戦は絶滅戦争にはならない、という日本の指導層の認識もあったようです。
首相として対米英開戦を決断した東条は、緒戦の快進撃により求心力を高めたようにも見えますが、国民や右翼や皇道派などの反抗を警戒していた、と本書は指摘します。第一次世界大戦後にドイツに留学した東条は、ドイツが軍事面ではやや優勢だったにも関わらず敗北した理由として、国民が経済封鎖による飢餓に不満を抱き耐えられなかったから、ということをよく理解していました。そのため東条は、国民の間で不満が高まっていないか、強く警戒しました。その結果として、ゴミ箱を視察する首相という、現代では嘲笑されることの多い行動も見られたわけですが、本書は、東条が「人情宰相」として国民に親しまれるよう演技をしていた側面が多分にある、と指摘します。これは、東条が「平民派」として育ったことと関連しており、本書は、たとえば東条と敵対的関係にあった石原莞爾ならば、その傲岸不遜からして、東条のような総力戦体制の指導者を演じられなかっただろう、と指摘します。一方で本書は、永田鉄山ならばそうした役回りを案外器用にこなしたかもしれない、と指摘します。本書はとくに言及していませんが、こうした総力戦体制下の「平民派」として親しまれるような首相は、前任の近衛文麿にもとても務まらなかったでしょう。
戦時指導者としての東条は、現在では精神力頼みの頑迷固陋な人物との印象も一部で根強いかもしれませんが、本書は、東条が精神力を強調したのは、陸相就任前から重視していた航空戦力の充実が日本の低い生産力では不可能である現状を認識し、ある意味で「合理的な」選択だったことを指摘します。物量を重視し、その不足を強く認識しているからこその、精神力強調だった、というわけです。本書は、当時の国民の一部にも、特攻作戦を「合理的」と認識するような風潮があった、と指摘します。
東条はサイパン陥落後に、重臣たちに見放されたことを悟り、総辞職に追い込まれます。重臣たちに見放されては、東条が(少なくとも主観的には)忠誠を尽くしてきた天皇からの信用はもはや失われてしまう、との判断がありました。本書は、東条が帝大卒の官僚や政治家といった指導層とは関係が良好ではなく、それは「教養」の格差も一因だったことを指摘します。「平民派」として育ち、少年の頃よりずっと陸軍の世界に生きてきた東条にとって、そうした「教養」を身につけることが難しかったことは否定できないでしょう。また、政権末期の東条は、追い詰められて精神的に不安定なところがあったようです。
敗戦後、東条は戦犯として逮捕され、死刑となります。東京裁判での東条は天皇の免責に尽力し、失言もあったものの、天皇の免責により日本を自陣営に確保しておこうと考えた米国側の意向もあり、天皇が訴追されることはありませんでした。東条は敗戦が決定すると、敵の脅威に怯えて簡単に降伏する無気力な指導層と国民とは夢にも思わなかった、そんな指導層と国民を信頼して開戦を決断した自分には指導者としての責任がある、と述べています。敗戦に対する国民への責任転嫁と言えますが、本書は、国民を総力戦の同志とみてきた東条にとって、敗戦は国民による掌返し・裏切りと感じられたのだろう、と指摘します。
この国民への責任転嫁もそうですが、東条には器の小ささが目立ち、首相や陸相はもちろん、そもそも将官級の器でさえなかった、とも思われます。そんな東条が陸軍内で出世して首相にまで就任したのは、陸軍の利益を強引に貫く姿勢を崩さなかったからだ、と本書は指摘します。もちろん、東条が軍事官僚として優れた事務処理能力を有していたことも大きかったのでしょう。それでも、その時々で懸命に自分の立場を演じた東条には、「怪物」・「天才」ではない凡人としての生涯が見えてきて、もちろん東条は私よりもずっと優秀ではありますが、凡人の私にとっては、責任転嫁を図るようなところも含めて、歴史上の多くの有名人の中では身近な人物として感じられます。また、「平民派」的なところも、私にとって東条を身近に感じる要因となります。まあ、そうしたところが、東条が当時の指導層に嫌われたり軽蔑されたりした理由にもなったのでしょう。東条の生涯についてはよく知らなかったので、本書から得たものは多く、また興味深く読み進められました。
東条英機は父親から強い影響を受けたようですが、異なる点もあります。それは旧藩とのつながりで、英教は出身の盛岡藩への帰属意識をまだ強く有していたようでしたが、息子の英機は幼年学校から士官学校を経て職業軍人となる過程で、出自の盛岡藩ではなく陸軍を「お家」とし、陸軍士官としての自尊心と天皇への忠誠を内面化していったようです。これは、1855年生まれで思春期に明治維新を体験した英教と、1884年生まれで誕生時から「近代」を生きた英機との世代差を反映しているのでしょう。この東条の世界観と信念は、最期まで変わらなかったようです。
父の英教は退官前に中将に名誉進級した後に予備役編入となり、東条英機は上流とは言えない、当時日本で勃興しつつあった中産階級で育ちました。そこが、東条英機の「平民派」的な性格を育み、首相就任後にゴミ箱を確認するような行動を取った背景になったようです。また本書は、そのように上流階級ではなかった東条家が、日露戦争後の「戦後デモクラシー」の風潮に乗っていた、という側面も指摘します。日露戦争は徴兵されて出兵した国民だけではなく、財政面で「銃後」の国民にも多大な負担を強いました。その結果、国民の側に自分たちにも立場の上下に関わらず発言する権利がある、との観念が浸透していきます。本書は、昭和期の陸軍における「下剋上」的状況は、この日露戦争後の「戦後デモクラシー」に由来するかもしれない、と指摘します。
東条英機は第一次世界大戦後、ドイツに留学します。これが、東条の軍人としての信念に大きな影響を与えました。東条は、今後の戦争が国力に依存すると強く認識し、戦争指導は統帥権の独立を前提としつつも、国力や政治との調和に基づかねばならない、と考えるようになりました。日露戦争後、次第に軍人の相対的地位が低下し、とくに第一次世界大戦後の世界的な軍縮傾向の中、軍人の間では不遇感と危機感が強くなっており、過去の栄光を持ち出して国民や政治家や官僚に強く出るわけにはいきませんでした。また、この軍人、とくに陸軍の不遇感が、功名を求めての「下剋上」的雰囲気を醸成した側面もあるようです。
東条はドイツから帰国後、陸大教官を務めた後、歩兵連隊長に任ぜられますが、ここでは兵士たちの食事にも気を遣う「人情連隊長」と言われました。これは、軍事と国民との調和という信念もありますが、より実際的な問題として、第一次世界大戦後に日本でも知識層を中心に左翼思想が浸透する中、徴兵された国民の扱いが疎かだと、軍部への不信感を高めて左翼勢力の伸張を許してしまう、という危機感があったようです。そのため東条は、除隊後の国民の再就職にも力を入れました。
ドイツに留学した東条は、永田鉄山などと陸軍の中堅将校団体に加わり、総力戦体制の確立を目指し、その後、陸相就任前にはとくに航空戦力を重視するようになります。当初、東条は小畑敏四郎と懇意にしていましたが、やがて感情的に強く反発し合い、犬猿の仲となります。これは、人事問題とも大きく関わっていますが、「統制派」で総力戦体制の構築を重視する東条と、精神主義的で対ソ連戦志向の「皇道派」との対立でもありました。永田が1935年に「皇道派」に惨殺されるなど、両者の対立は激化しますが、その翌年の二・二六事件の結果、「皇道派」は決定的に没落します。東条は、後に妻を介して小畑と和解しようとしたようで、単に狭量なだけの人物ではなかったようです。もっとも、小畑は拒絶したそうですが。
陸相就任から首相就任直後までの東条は、内心では対米開戦をかなり迷っていたのではないか、と本書は推測します。東条も、内心では日中戦争(公的には「事変」扱いですが)に深入りしすぎたことを後悔していたものの、陸軍中堅層以下と国民からの突き上げ、何よりも東条自身も含めて陸軍首脳部としての対面で、とても中国から撤兵するとは言いだせない状況でした。斎藤隆夫の衆議院での「反軍演説」に代表されるように、陸軍は日中戦争で軍事的に圧倒していると吹聴しているのに、中国から領土や賠償金などを取れないとはどういうことだ、という思いは国民の間で広く共有されていました。多くの犠牲者(中国側の被害は日本側よりもはるかに多いわけですが)を出し、多額の予算を投じながら、米国の要求通りに中国から撤兵することはとてもできない、というわけです。もしそれをやれば、国民が日比谷焼打事件のような暴動を起こすか、陸軍強硬派が二・二六事件のように決起するかもしれない、と東条は恐れていました。
東条は1941年8月に総力戦研究所から報告を受けており、対米戦が厳しいことも内心では気づいており、海軍の方から対米戦は不可と言ってもらいたかったのではないか、と本書は推測します。しかし、海軍の方は対米戦を想定して軍備を拡充してきた、つまり予算を取ってきた、という経緯があり、今さら対米戦不可とは対面上ひじょうに言い出しにくい状況にありました。本書は、東条を代表とする陸軍側も海軍も、対米交渉妥結にせよ対米開戦にせよ、相手に責任を押しつけたかったのではないか、と指摘します。ここは、人間心理としてひじょうによく理解できるというか、共感できるところです。まあ、一国の指導層がそういうことでは困るわけですが。
東条は、対米開戦か否か、なかなか決断を下せない状況で、思いもかけず首相に就任します。結局、海軍の側も、対米戦不可とは明言できず、対米開戦に容認的な立場を示すことにより、対米開戦が決定されます。対米英開戦後、東条は首相就任後それまで悲愴な顔をしていることが多かったのに柔和な顔になり、開戦直後の真珠湾攻撃やマレー沖海戦での戦果を知り、たいへん嬉しそうな表情を見せたそうです。これは、期待以上の戦果を挙げたこともあるのでしょうが、何よりも、対米開戦か米国の要求を受け入れての「臥薪嘗胆」か、悩んでいた東条の心境は、どちらでもよいから早く決めて楽になりたい、というもので、それは天皇や他の指導者や国民も同じだったかもしれない、と本書は指摘します。これは人間心理としてよく理解できます。中国からの撤兵を伴う避戦による国民や右翼や軍部中堅層以下の憤激という目先の困難から逃れようとして、長期的にはもっと悲惨な事態に突入してしまった、ということでしょうか。対米英開戦時の日本人は狂っていた、というような言説を今でもよく目にしますが、「合理的な判断」の積み重ねという側面が多分にあるように思います。また、この決断の前提として、東条もそうですが、対米英戦は絶滅戦争にはならない、という日本の指導層の認識もあったようです。
首相として対米英開戦を決断した東条は、緒戦の快進撃により求心力を高めたようにも見えますが、国民や右翼や皇道派などの反抗を警戒していた、と本書は指摘します。第一次世界大戦後にドイツに留学した東条は、ドイツが軍事面ではやや優勢だったにも関わらず敗北した理由として、国民が経済封鎖による飢餓に不満を抱き耐えられなかったから、ということをよく理解していました。そのため東条は、国民の間で不満が高まっていないか、強く警戒しました。その結果として、ゴミ箱を視察する首相という、現代では嘲笑されることの多い行動も見られたわけですが、本書は、東条が「人情宰相」として国民に親しまれるよう演技をしていた側面が多分にある、と指摘します。これは、東条が「平民派」として育ったことと関連しており、本書は、たとえば東条と敵対的関係にあった石原莞爾ならば、その傲岸不遜からして、東条のような総力戦体制の指導者を演じられなかっただろう、と指摘します。一方で本書は、永田鉄山ならばそうした役回りを案外器用にこなしたかもしれない、と指摘します。本書はとくに言及していませんが、こうした総力戦体制下の「平民派」として親しまれるような首相は、前任の近衛文麿にもとても務まらなかったでしょう。
戦時指導者としての東条は、現在では精神力頼みの頑迷固陋な人物との印象も一部で根強いかもしれませんが、本書は、東条が精神力を強調したのは、陸相就任前から重視していた航空戦力の充実が日本の低い生産力では不可能である現状を認識し、ある意味で「合理的な」選択だったことを指摘します。物量を重視し、その不足を強く認識しているからこその、精神力強調だった、というわけです。本書は、当時の国民の一部にも、特攻作戦を「合理的」と認識するような風潮があった、と指摘します。
東条はサイパン陥落後に、重臣たちに見放されたことを悟り、総辞職に追い込まれます。重臣たちに見放されては、東条が(少なくとも主観的には)忠誠を尽くしてきた天皇からの信用はもはや失われてしまう、との判断がありました。本書は、東条が帝大卒の官僚や政治家といった指導層とは関係が良好ではなく、それは「教養」の格差も一因だったことを指摘します。「平民派」として育ち、少年の頃よりずっと陸軍の世界に生きてきた東条にとって、そうした「教養」を身につけることが難しかったことは否定できないでしょう。また、政権末期の東条は、追い詰められて精神的に不安定なところがあったようです。
敗戦後、東条は戦犯として逮捕され、死刑となります。東京裁判での東条は天皇の免責に尽力し、失言もあったものの、天皇の免責により日本を自陣営に確保しておこうと考えた米国側の意向もあり、天皇が訴追されることはありませんでした。東条は敗戦が決定すると、敵の脅威に怯えて簡単に降伏する無気力な指導層と国民とは夢にも思わなかった、そんな指導層と国民を信頼して開戦を決断した自分には指導者としての責任がある、と述べています。敗戦に対する国民への責任転嫁と言えますが、本書は、国民を総力戦の同志とみてきた東条にとって、敗戦は国民による掌返し・裏切りと感じられたのだろう、と指摘します。
この国民への責任転嫁もそうですが、東条には器の小ささが目立ち、首相や陸相はもちろん、そもそも将官級の器でさえなかった、とも思われます。そんな東条が陸軍内で出世して首相にまで就任したのは、陸軍の利益を強引に貫く姿勢を崩さなかったからだ、と本書は指摘します。もちろん、東条が軍事官僚として優れた事務処理能力を有していたことも大きかったのでしょう。それでも、その時々で懸命に自分の立場を演じた東条には、「怪物」・「天才」ではない凡人としての生涯が見えてきて、もちろん東条は私よりもずっと優秀ではありますが、凡人の私にとっては、責任転嫁を図るようなところも含めて、歴史上の多くの有名人の中では身近な人物として感じられます。また、「平民派」的なところも、私にとって東条を身近に感じる要因となります。まあ、そうしたところが、東条が当時の指導層に嫌われたり軽蔑されたりした理由にもなったのでしょう。東条の生涯についてはよく知らなかったので、本書から得たものは多く、また興味深く読み進められました。
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