天野忠幸『松永久秀と下剋上 室町の身分秩序を覆す』
シリーズ「中世から近世へ」の一冊として、平凡社より2018年6月に刊行されました。電子書籍での購入です。随分前に読んだ本か記事では、松永久秀は出自不明とされていたように記憶しています。本書では、久秀の出自は摂津国の五百住の土豪だった可能性が高い、とされています。久秀は当時としてはそれなりの身分の生まれだったようですが、父の名前も伝わっていないくらいですから、土豪でも有力ではなかったようです。とはいえ、子供の頃に武士としての素養や読み書きを習得し、さらに教養を得られるような階層の出身だった、とは言えそうです。
久秀が三好長慶に重用されたのは、久秀が統治にも軍事にも優れた人物だったこともありますが、三好家の事情もあったようです。阿波から畿内へと勢力を拡大した三好家ですが、長慶の父である元長が政争に敗れて自害に追い込まれ、譜代の家臣も多数殉じたため、長慶の代には、畿内での活動には家臣が足りない状況でした。そこで長慶は、摂津の土豪を積極的に登用していったようです。久秀もそうして長慶に登用された一人で、有能だったために台頭し、ついには三好家中で一族の代表格とも言うべき三好長逸と共に長慶に次ぐ地位に至ります。
このように三好家において久秀が破格の出世を遂げたことと関連しているのでしょうが、長慶は旧来の家格秩序を破壊していく傾向がありました。関東にほとんど縁のなかった伊勢家が鎌倉幕府執権の北条を名乗り、越後守護代の長尾家が関東管領の上杉の名跡を継承し、祖父の代から三代かけて成り上がり、父殺しの汚名を負ってしまった斎藤高政(義龍)が室町幕府名門の一色を名乗ったように、当時の「下剋上」は一方で既存の家格秩序を尊重するもので、それにより社会的軋轢を減じていたところがありました。しかし長慶は、より上位の家格の名跡を継承するわけでもなく、官位を昇進させていき、久秀にいたっては長慶の存命中に長慶と同じ位階に昇進します。
また、後の織田信長もそうだったように、京都の支配者はともかく将軍を擁し、幕府秩序を少なくとも形式的には尊重しました。信長は、足利義昭追放後も、その嫡子を「大樹(将軍)若君」として庇護・推戴し、ことあるごとに同道していたくらいです(1575年までは)。しかし長慶は、幕府秩序を無視して京都および畿内とその近国の支配を進めていき、朝廷も財力がなく奉仕できない義輝から長慶を頼るようになっていきます。また長慶は、大和など縁のない国への勢力拡大を進めていきますが、同時代の戦国大名がそうした場合に侵出先の国の守護職を得ることなどで正当化を図っていったのに対して、長慶にはそうした動向が見られません。
こうした幕府秩序の無視が当時の諸大名には異様に映り、上述の長慶の家格秩序無視の傾向もあって、三好を敵視する大名が増え、長慶も将軍の足利義輝との和睦を決断します。しかし、義輝は幕府秩序を無視してきた長慶を脅威に思って敵視し続け、長慶の追い落としを画策し続けたようです。この義輝の対応は、将軍として尤もではありますが、それが落命の原因ともなりました。「急進的」という言葉を安易に使うべきではないでしょうが、長慶は当時としてはかなり「急進的」で、その後に台頭してきた年下の織田信長の方が、私にはよほど「守旧的」というか「現実的」にさえ見えてしまいます。長慶のこうした傾向は、父と多くの譜代重臣たちを一度に失い、家格に頼らず三好家を立て直して勢力をしていかねばならなかった事情に由来するのでしょうか。久秀の大和支配も、単に久秀の野心ではなく、三好家の勢力拡大の一環として行なわれたようです。この久秀の大和支配でも、中世の大和における支配者とも言えた興福寺に対して、久秀の方が織田時代よりも強い対応を示しており、既存秩序を軽視する長慶の傾向は、家臣の久秀にも見られます。
有力ではないと思われる摂津の土豪から、三好家において三好長逸と共に当主の長慶に次ぐ地位に昇進した久秀の運命が大きく変わったのは、1565年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)に起きた将軍の義輝殺害事件(永禄の変)でした。まず、1563年に長慶の後継者の義興が死亡し、長慶の甥である義継が後継者となります。本書は、久秀が義興の死に落胆した様子を取り上げています。その翌年に長慶が死亡し、久秀はすでに息子の久通に家督を譲っていた状況で、永禄の変が起きます。以前は久秀が永禄の変の首謀者の一人とされていましたが、当時久秀は大和におり、襲撃に参加したのは息子の久通でした。本書は、義継と久通が義輝を殺害した理由として、義輝が将軍権威の脅威となる三好を敵視し、両者は表面上和睦を維持しながら、関係が悪化したことを背景として指摘します。その上で本書は、先代ほどの苦労を知らない義継と久通が、一気に討幕を企図したのではないか、と推測しています。永禄の変における久秀の真意は不明ですが、義輝の弟の義昭を保護していることなどからも、義継と久通に批判的だったのではないか、と本書は推測しています。
永禄の変の後、久秀は三好三人衆に追い落とされ、苦境に立ちます。これは、久秀と三好三人衆とが永禄の変以前から激しく対立していたことを意味しない、と本書は指摘します。そもそも、三好三人衆が成立したのは永禄の変の後でした。永禄の変の後、久秀の弟で丹波を任されていた内藤宗勝(松永長頼)が戦死し、三好家は丹波での勢力を大きく後退させてしまいます。さらに、久秀が助命して保護していた義昭が朝倉家の調略により出奔し、反三好陣営に格好の大義名分を与えてしまいます。こうした松永一族の失態と、摂津の有力ではない土豪から成り上がってきた久秀への反感が以前より三好一族の間であったためか、三好三人衆が形成され、三好三人衆は義継を担いで松永一族を追い落とします。
三好三人衆は大和にも侵攻し、久秀は苦境に立たされますが、義継が三好三人衆と対立して久秀を頼り、上洛して将軍就任を図る義昭が織田や毛利や上杉とともに久秀とも連携したことで、久秀は苦境を脱していきます。義昭にとって、久秀は宿敵ではなく命の恩人であり、頼るに足る存在でした。久秀は義昭擁立勢力の一端を担っており、織田信長とはすでにその上洛前から通じていました。上洛してきた信長に茶器を献上することで久秀は信長に赦されて臣従したわけではなく、勢力に大きな格差はあれども、信長と久秀は義昭を推戴して新たな秩序を築く(もしくは室町体制を復興する)大名同士として同盟関係にありました。また本書は、織田軍が京都に向けて進軍を開始してから短期間で京都と周辺を制圧できた一因として、毛利が三好三人衆を牽制すべく軍事行動を起こしたことも指摘しています。義昭の上洛と将軍就任には、織田軍以外の勢力の貢献も少なくなかった、というわけです。
義昭の将軍就任後も、畿内情勢は安定しませんでした。1570年後半、織田信長と義昭は三好三人衆や朝倉や浅井や本願寺との戦いで窮地に追い込まれ、朝廷も担ぎ出して講和を結んでいきます。この過程で、久秀は三好三人衆や阿波三好家当主の三好長治や篠原長房との和睦交渉をまとめ、義昭と信長が窮地から脱するのに貢献します。しかし、この後、久秀と義昭の関係が悪化していきます。そもそも久秀は、三好三人衆と対抗するために義昭を推戴しました。
しかし、三好三人衆や阿波三好家と和解したことにより、三好と将軍の対峙という長慶の頃の構図が再現されます。また、久秀と講和した篠原長房が、将軍の義昭に赦免されたと称して毛利領に攻め込み、毛利が信長に抗議して義昭の斡旋による講和を依頼したことも、毛利を自勢力の有力大名と頼みにしている義昭に、久秀への不信感を募らせることになりました。さらに、義昭が久秀の宿敵である筒井順慶を赦免して優遇したことも、久秀と義昭との関係を悪化させました。しかし、久秀はあくまでも義昭と対立したのであり、直ちに信長と対立したわけではありませんでした。
久秀は筒井順慶に惨敗するなど時として苦境に立たされつつも、義継のもと長慶のころのような三好家の結束が再現され、本願寺や浅井や朝倉なども敵に回した義昭は苦境に追い込まれます。そこで義昭は、本願寺と縁戚関係にある武田信玄に、信長と本願寺との和睦の仲介を命じますが、これは信長には受け入れ難いものでした。結局、武田は織田との対決に踏み切り、1573年1月の時点では、信長と義昭は圧倒的に不利な状況に追い込まれ、反義昭・信長陣営の久秀も勢力を拡大していきました。本書は、筒井順慶と武田信玄を自陣営に引き入れようとした義昭の判断が大局的には妥当だと言えても、自勢力同士の利害関係の配慮に欠けており、大きなものを失ってしまった、と指摘します。追い込まれた義昭は信長への敵対を明示し、信長の説得にも応じました。本書は、義昭は「信長包囲網」を形成したのではなく、追い詰められて信長を見限った、と指摘します。
このように、情勢は久秀に有利に動いているように見えましたが、1573年2月以降に三好三人衆筆頭の三好長逸が死に、同年4月12日に武田信玄が病死して武田軍が三河から甲斐ら退去し、三好長治が信長との和睦に動いたことなどから、情勢は一気に信長有利に傾きました。こうして、同年7月に義昭は京都から追放され(上述のように、信長は義昭の嫡子を擁しており、この時点では室町幕府体制を否定していません)、同年のうちに、8月には朝倉、9月には浅井、11月には三好本宗家が相次いで信長に滅ぼされました。久秀は義継の死後に信長に降伏を申し入れ、多聞山城を引き渡し、久通の子を人質とする条件で久秀は赦免されました。本書は、朝倉・浅井・三好本宗家が相次いで滅ぼされた中、久秀のみが赦された理由として、久秀が築いた豪壮華麗と言われた多聞山城を明け渡すと提案したことと、久秀と信長との対立は、久秀と義昭との対立が原因となっており、久秀自身が信長とはほとんど戦っていないことと、1570年後半の信長の危機のさいに、阿波三好家との和睦交渉をまとめた久秀の交渉能力を挙げています。
こうして久秀は織田家臣となり、大和の支配は尾張出身の塙(原田)直政と大和の豪族である筒井順慶に委ねられることになりました。1575年、長篠の戦いで武田軍を破り、越前を奪還した信長は右近衛大将に就任します。信長は室町幕府とは異なる新たな武家政権の樹立を明示しますが、これが従来の武家秩序を常識とする勢力の反感を買い、信長は本願寺・毛利・上杉・武田など広範な勢力から敵視され、攻撃されることになります。もちろん、これら諸勢力にとって、境目など現実的な利害関係から織田との関係が悪化したため、従来の武家秩序の尊重を大義名分として掲げた、という側面も多分にあるとは思います。
久通と塙直政との関係は良好だったようで、松永家は大和での勢力維持に塙直政を頼りにしていたようです。しかし、塙直政は1576年に本願寺との戦いで討ち死にし、信長は大和の支配権を久秀にとって宿敵の筒井順慶に与えます。本書は、これが久秀にとってかなり不満で、信長に叛く要因になったのではないか、と指摘します。一方、信長の方は、久秀が何に不満を抱いているのか、よく理解できていなかったようです。塙直政と筒井順慶とで久秀にとって何が違うのか、と信長は疑問に思っていたのでしょう。こうした家臣団同士、あるいは同盟者同士の利害関係を信長がよく理解できていなかったことは、金子拓『織田信長 不器用すぎた天下人』でも指摘されています(関連記事)。
信長からの久秀の離反には成算があり、当時、上杉謙信と毛利輝元という東西の有力大名が信長の勢力圏へと侵攻していました。しかし、上杉謙信は加賀で織田軍を破った後に西進するのではなく能登の平定を優先し、信長が大和の国人を速やかに調略して久秀を孤立させたことで、信貴山城に籠った久秀は織田軍に攻め立てられ、切腹に追い込まれます。久秀は挙兵後わずか2ヶ月ほどで鎮圧されてしまいましたが、これは大きな影響を残した、と本書は指摘します。それは、信長への謀反は将軍への忠節であり、義昭を中心に毛利・本願寺・上杉・武田による反織田同盟という受け皿があることを知らしめたからです。本書は、信長は家臣団を統制する正統性を作れておらず、独自の家臣団を有する外様や、自力で敵地を平定して信長から預けられた与力を自分の家臣に再編成した明智光秀や羽柴秀吉に、信長に叛く動機を与えてしまった、というわけです。久秀死後に、別所長治や荒木村重などが信長に叛き、ついには明智光秀の謀反により、信長は自害に追い込まれます。
本書は、久秀の動向だけではなく、三好家の盛衰、さらには大和を中心に畿内の政治情勢、戦国時代における下剋上の位置づけと三好長慶の特異性などを扱っており、この分野に詳しくない私にとって勉強になりました。本書は、久秀が戦ったのは戦国時代の人々にとって常識だった室町の身分秩序であり、その改革こそが久秀の下剋上で、それを完成させたのは久秀と同様に出自が明確ではない羽柴秀吉だった、と本書は指摘します。
久秀は戦国時代や江戸時代にも見られる出頭人で、主君(久秀の場合は三好長慶)に重用され、家格の壁を乗り越えて出世していきました。本書は、長慶に取り立てられた久秀が三好本宗家に忠誠を尽くした、と指摘します。しかし、そうした出頭人が主君の死により失脚することは珍しくなく、久秀も長慶死後に危機を迎えますが、将軍の義昭を推戴して一定の地位を保ちます。それでも、久秀は結局没落してしまい、秩序の不安定な時代に比較的低い階層から成り上がり、その地位を保ち続けることは難しい、と改めて思い知らされます。戦国時代の勉強はもう20年近く停滞していますが、やはりこの時代は面白く、今後も時間を作って本書のような一般向けの良書を読んでいきたいものです。
久秀が三好長慶に重用されたのは、久秀が統治にも軍事にも優れた人物だったこともありますが、三好家の事情もあったようです。阿波から畿内へと勢力を拡大した三好家ですが、長慶の父である元長が政争に敗れて自害に追い込まれ、譜代の家臣も多数殉じたため、長慶の代には、畿内での活動には家臣が足りない状況でした。そこで長慶は、摂津の土豪を積極的に登用していったようです。久秀もそうして長慶に登用された一人で、有能だったために台頭し、ついには三好家中で一族の代表格とも言うべき三好長逸と共に長慶に次ぐ地位に至ります。
このように三好家において久秀が破格の出世を遂げたことと関連しているのでしょうが、長慶は旧来の家格秩序を破壊していく傾向がありました。関東にほとんど縁のなかった伊勢家が鎌倉幕府執権の北条を名乗り、越後守護代の長尾家が関東管領の上杉の名跡を継承し、祖父の代から三代かけて成り上がり、父殺しの汚名を負ってしまった斎藤高政(義龍)が室町幕府名門の一色を名乗ったように、当時の「下剋上」は一方で既存の家格秩序を尊重するもので、それにより社会的軋轢を減じていたところがありました。しかし長慶は、より上位の家格の名跡を継承するわけでもなく、官位を昇進させていき、久秀にいたっては長慶の存命中に長慶と同じ位階に昇進します。
また、後の織田信長もそうだったように、京都の支配者はともかく将軍を擁し、幕府秩序を少なくとも形式的には尊重しました。信長は、足利義昭追放後も、その嫡子を「大樹(将軍)若君」として庇護・推戴し、ことあるごとに同道していたくらいです(1575年までは)。しかし長慶は、幕府秩序を無視して京都および畿内とその近国の支配を進めていき、朝廷も財力がなく奉仕できない義輝から長慶を頼るようになっていきます。また長慶は、大和など縁のない国への勢力拡大を進めていきますが、同時代の戦国大名がそうした場合に侵出先の国の守護職を得ることなどで正当化を図っていったのに対して、長慶にはそうした動向が見られません。
こうした幕府秩序の無視が当時の諸大名には異様に映り、上述の長慶の家格秩序無視の傾向もあって、三好を敵視する大名が増え、長慶も将軍の足利義輝との和睦を決断します。しかし、義輝は幕府秩序を無視してきた長慶を脅威に思って敵視し続け、長慶の追い落としを画策し続けたようです。この義輝の対応は、将軍として尤もではありますが、それが落命の原因ともなりました。「急進的」という言葉を安易に使うべきではないでしょうが、長慶は当時としてはかなり「急進的」で、その後に台頭してきた年下の織田信長の方が、私にはよほど「守旧的」というか「現実的」にさえ見えてしまいます。長慶のこうした傾向は、父と多くの譜代重臣たちを一度に失い、家格に頼らず三好家を立て直して勢力をしていかねばならなかった事情に由来するのでしょうか。久秀の大和支配も、単に久秀の野心ではなく、三好家の勢力拡大の一環として行なわれたようです。この久秀の大和支配でも、中世の大和における支配者とも言えた興福寺に対して、久秀の方が織田時代よりも強い対応を示しており、既存秩序を軽視する長慶の傾向は、家臣の久秀にも見られます。
有力ではないと思われる摂津の土豪から、三好家において三好長逸と共に当主の長慶に次ぐ地位に昇進した久秀の運命が大きく変わったのは、1565年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)に起きた将軍の義輝殺害事件(永禄の変)でした。まず、1563年に長慶の後継者の義興が死亡し、長慶の甥である義継が後継者となります。本書は、久秀が義興の死に落胆した様子を取り上げています。その翌年に長慶が死亡し、久秀はすでに息子の久通に家督を譲っていた状況で、永禄の変が起きます。以前は久秀が永禄の変の首謀者の一人とされていましたが、当時久秀は大和におり、襲撃に参加したのは息子の久通でした。本書は、義継と久通が義輝を殺害した理由として、義輝が将軍権威の脅威となる三好を敵視し、両者は表面上和睦を維持しながら、関係が悪化したことを背景として指摘します。その上で本書は、先代ほどの苦労を知らない義継と久通が、一気に討幕を企図したのではないか、と推測しています。永禄の変における久秀の真意は不明ですが、義輝の弟の義昭を保護していることなどからも、義継と久通に批判的だったのではないか、と本書は推測しています。
永禄の変の後、久秀は三好三人衆に追い落とされ、苦境に立ちます。これは、久秀と三好三人衆とが永禄の変以前から激しく対立していたことを意味しない、と本書は指摘します。そもそも、三好三人衆が成立したのは永禄の変の後でした。永禄の変の後、久秀の弟で丹波を任されていた内藤宗勝(松永長頼)が戦死し、三好家は丹波での勢力を大きく後退させてしまいます。さらに、久秀が助命して保護していた義昭が朝倉家の調略により出奔し、反三好陣営に格好の大義名分を与えてしまいます。こうした松永一族の失態と、摂津の有力ではない土豪から成り上がってきた久秀への反感が以前より三好一族の間であったためか、三好三人衆が形成され、三好三人衆は義継を担いで松永一族を追い落とします。
三好三人衆は大和にも侵攻し、久秀は苦境に立たされますが、義継が三好三人衆と対立して久秀を頼り、上洛して将軍就任を図る義昭が織田や毛利や上杉とともに久秀とも連携したことで、久秀は苦境を脱していきます。義昭にとって、久秀は宿敵ではなく命の恩人であり、頼るに足る存在でした。久秀は義昭擁立勢力の一端を担っており、織田信長とはすでにその上洛前から通じていました。上洛してきた信長に茶器を献上することで久秀は信長に赦されて臣従したわけではなく、勢力に大きな格差はあれども、信長と久秀は義昭を推戴して新たな秩序を築く(もしくは室町体制を復興する)大名同士として同盟関係にありました。また本書は、織田軍が京都に向けて進軍を開始してから短期間で京都と周辺を制圧できた一因として、毛利が三好三人衆を牽制すべく軍事行動を起こしたことも指摘しています。義昭の上洛と将軍就任には、織田軍以外の勢力の貢献も少なくなかった、というわけです。
義昭の将軍就任後も、畿内情勢は安定しませんでした。1570年後半、織田信長と義昭は三好三人衆や朝倉や浅井や本願寺との戦いで窮地に追い込まれ、朝廷も担ぎ出して講和を結んでいきます。この過程で、久秀は三好三人衆や阿波三好家当主の三好長治や篠原長房との和睦交渉をまとめ、義昭と信長が窮地から脱するのに貢献します。しかし、この後、久秀と義昭の関係が悪化していきます。そもそも久秀は、三好三人衆と対抗するために義昭を推戴しました。
しかし、三好三人衆や阿波三好家と和解したことにより、三好と将軍の対峙という長慶の頃の構図が再現されます。また、久秀と講和した篠原長房が、将軍の義昭に赦免されたと称して毛利領に攻め込み、毛利が信長に抗議して義昭の斡旋による講和を依頼したことも、毛利を自勢力の有力大名と頼みにしている義昭に、久秀への不信感を募らせることになりました。さらに、義昭が久秀の宿敵である筒井順慶を赦免して優遇したことも、久秀と義昭との関係を悪化させました。しかし、久秀はあくまでも義昭と対立したのであり、直ちに信長と対立したわけではありませんでした。
久秀は筒井順慶に惨敗するなど時として苦境に立たされつつも、義継のもと長慶のころのような三好家の結束が再現され、本願寺や浅井や朝倉なども敵に回した義昭は苦境に追い込まれます。そこで義昭は、本願寺と縁戚関係にある武田信玄に、信長と本願寺との和睦の仲介を命じますが、これは信長には受け入れ難いものでした。結局、武田は織田との対決に踏み切り、1573年1月の時点では、信長と義昭は圧倒的に不利な状況に追い込まれ、反義昭・信長陣営の久秀も勢力を拡大していきました。本書は、筒井順慶と武田信玄を自陣営に引き入れようとした義昭の判断が大局的には妥当だと言えても、自勢力同士の利害関係の配慮に欠けており、大きなものを失ってしまった、と指摘します。追い込まれた義昭は信長への敵対を明示し、信長の説得にも応じました。本書は、義昭は「信長包囲網」を形成したのではなく、追い詰められて信長を見限った、と指摘します。
このように、情勢は久秀に有利に動いているように見えましたが、1573年2月以降に三好三人衆筆頭の三好長逸が死に、同年4月12日に武田信玄が病死して武田軍が三河から甲斐ら退去し、三好長治が信長との和睦に動いたことなどから、情勢は一気に信長有利に傾きました。こうして、同年7月に義昭は京都から追放され(上述のように、信長は義昭の嫡子を擁しており、この時点では室町幕府体制を否定していません)、同年のうちに、8月には朝倉、9月には浅井、11月には三好本宗家が相次いで信長に滅ぼされました。久秀は義継の死後に信長に降伏を申し入れ、多聞山城を引き渡し、久通の子を人質とする条件で久秀は赦免されました。本書は、朝倉・浅井・三好本宗家が相次いで滅ぼされた中、久秀のみが赦された理由として、久秀が築いた豪壮華麗と言われた多聞山城を明け渡すと提案したことと、久秀と信長との対立は、久秀と義昭との対立が原因となっており、久秀自身が信長とはほとんど戦っていないことと、1570年後半の信長の危機のさいに、阿波三好家との和睦交渉をまとめた久秀の交渉能力を挙げています。
こうして久秀は織田家臣となり、大和の支配は尾張出身の塙(原田)直政と大和の豪族である筒井順慶に委ねられることになりました。1575年、長篠の戦いで武田軍を破り、越前を奪還した信長は右近衛大将に就任します。信長は室町幕府とは異なる新たな武家政権の樹立を明示しますが、これが従来の武家秩序を常識とする勢力の反感を買い、信長は本願寺・毛利・上杉・武田など広範な勢力から敵視され、攻撃されることになります。もちろん、これら諸勢力にとって、境目など現実的な利害関係から織田との関係が悪化したため、従来の武家秩序の尊重を大義名分として掲げた、という側面も多分にあるとは思います。
久通と塙直政との関係は良好だったようで、松永家は大和での勢力維持に塙直政を頼りにしていたようです。しかし、塙直政は1576年に本願寺との戦いで討ち死にし、信長は大和の支配権を久秀にとって宿敵の筒井順慶に与えます。本書は、これが久秀にとってかなり不満で、信長に叛く要因になったのではないか、と指摘します。一方、信長の方は、久秀が何に不満を抱いているのか、よく理解できていなかったようです。塙直政と筒井順慶とで久秀にとって何が違うのか、と信長は疑問に思っていたのでしょう。こうした家臣団同士、あるいは同盟者同士の利害関係を信長がよく理解できていなかったことは、金子拓『織田信長 不器用すぎた天下人』でも指摘されています(関連記事)。
信長からの久秀の離反には成算があり、当時、上杉謙信と毛利輝元という東西の有力大名が信長の勢力圏へと侵攻していました。しかし、上杉謙信は加賀で織田軍を破った後に西進するのではなく能登の平定を優先し、信長が大和の国人を速やかに調略して久秀を孤立させたことで、信貴山城に籠った久秀は織田軍に攻め立てられ、切腹に追い込まれます。久秀は挙兵後わずか2ヶ月ほどで鎮圧されてしまいましたが、これは大きな影響を残した、と本書は指摘します。それは、信長への謀反は将軍への忠節であり、義昭を中心に毛利・本願寺・上杉・武田による反織田同盟という受け皿があることを知らしめたからです。本書は、信長は家臣団を統制する正統性を作れておらず、独自の家臣団を有する外様や、自力で敵地を平定して信長から預けられた与力を自分の家臣に再編成した明智光秀や羽柴秀吉に、信長に叛く動機を与えてしまった、というわけです。久秀死後に、別所長治や荒木村重などが信長に叛き、ついには明智光秀の謀反により、信長は自害に追い込まれます。
本書は、久秀の動向だけではなく、三好家の盛衰、さらには大和を中心に畿内の政治情勢、戦国時代における下剋上の位置づけと三好長慶の特異性などを扱っており、この分野に詳しくない私にとって勉強になりました。本書は、久秀が戦ったのは戦国時代の人々にとって常識だった室町の身分秩序であり、その改革こそが久秀の下剋上で、それを完成させたのは久秀と同様に出自が明確ではない羽柴秀吉だった、と本書は指摘します。
久秀は戦国時代や江戸時代にも見られる出頭人で、主君(久秀の場合は三好長慶)に重用され、家格の壁を乗り越えて出世していきました。本書は、長慶に取り立てられた久秀が三好本宗家に忠誠を尽くした、と指摘します。しかし、そうした出頭人が主君の死により失脚することは珍しくなく、久秀も長慶死後に危機を迎えますが、将軍の義昭を推戴して一定の地位を保ちます。それでも、久秀は結局没落してしまい、秩序の不安定な時代に比較的低い階層から成り上がり、その地位を保ち続けることは難しい、と改めて思い知らされます。戦国時代の勉強はもう20年近く停滞していますが、やはりこの時代は面白く、今後も時間を作って本書のような一般向けの良書を読んでいきたいものです。
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