『科学の人種主義とたたかう』の紹介記事
アンジェラ・サイニー(Angela Saini)氏の著書『科学の人種主義とたたかう 人種概念の起源から最新のゲノム科学まで』(東郷えりか訳、作品社、2020年)の紹介記事を読みました。同書には興味がありますが、購入を躊躇っているので、この紹介記事は参考になりました。内容は、ある程度私の予想した通りかな、という感じで、不勉強な私にとって得るものが多そうではあるものの、これから読もうと考えている本や論文を後回しにしても読もう、という気にはなりませんでした。この紹介記事では、
サイニー本に関して、日本だと、安藤寿康、もっと俗っぽい人なら橘玲などが物申したいことがあるだろう。ぜひ書評を書いてほしい。
とありますが、すでに橘玲氏は同書に言及しています。橘氏は同書について、「科学の人種主義」としてサイニー氏は行動遺伝学と遺伝人類学を批判している、と紹介しています。橘氏によると、サイニー氏は『交雑する人類』(関連記事)の著者であるデイヴィッド・ライク(David Reich)氏に取材し、ライク氏から「われわれが築く社会的な構造と相関する集団間の系統の違いは実際にあります」と断言され、大きなショックを受けたそうです。橘氏は(おそらく同書から)以下のように引用しています。
ライクはアメリカの黒人と白人のあいだには、表面上の平均的な違い以上のものがあるかもしれないとほのめかす。それは認知的、心理的な違いにおよぶ可能性すらあり、アメリカにやってくるまで、それぞれの集団グループは7万年にわたって別個にそれぞれ異なる環境に適応してきたためなのだ。これだけの時間の尺度のあいだに、自然選択は双方に異なった形で作用し、一皮むいた以上に深いところの変化を生み出したかもしれないと彼は示唆する。ライクは思慮深く、これらの違いが大きなものだとは自分は考えず、1972年に生物学者のリチャード・ルウォンティンが推定したように、個人間の差異よりもわずかに大きい程度だろうと付け足す。それでも、こうした違いは存在しないとは考えていないのだ
橘氏によると、ライク氏は(ヒト集団のちがいを否定する)サイニー氏に対して、「まったく悪気のない人びとが科学と矛盾することを言うのは少々辛いものがあります。悪気のない人には正しいことを言ってもらいたいからです」と語ったそうです。私はライク氏の見解をほぼ全面的に支持します。以前、サイニー氏による書評を当ブログで取り上げましたが(関連記事)、率直に言って、「科学の人種主義」に対するサイニー氏の認識はかなり疑問です。
サイニー氏の認識はおそらく現在のアメリカ合衆国(やイギリス?)の学界や報道業界の「主流派」では常識で、日本でも、サイニー氏のような認識を「最新の常識」として、それに反するような見解を「保守反動」とか「意識が低い」とか「差別主義」とか言って批判・罵倒・嘲笑する人が、それなりにいるかもしれません。確かに、集団遺伝学が悪用される危険性はありますし、現実にその研究成果の一部は悪用されていますが(関連記事)、上記の紹介記事にあるような、「そもそも人間をグループ分けする必要があるところに問題があるのだ」という認識にはまったく同意できません。
ライク氏は、集団遺伝学でも古代DNA研究において現在最先端を行く一人ですが、サイニー氏以外の「主流派(と思われる人々)」からも批判を受けています(関連記事)。確かに、古代DNA研究に関して「主流派」の懸念に尤もなところはありますし、それはライク氏も率直に認めて、今後改善を図っていく考えのようです。その意味で、サイニー氏のような「主流派」の批判にも有意義なところはあるでしょうが、正直なところ、サイニー氏に関しては、その批判が行き過ぎというか、的外れなところが多分にあるのではないか、と私は考えています。
サイニー本に関して、日本だと、安藤寿康、もっと俗っぽい人なら橘玲などが物申したいことがあるだろう。ぜひ書評を書いてほしい。
とありますが、すでに橘玲氏は同書に言及しています。橘氏は同書について、「科学の人種主義」としてサイニー氏は行動遺伝学と遺伝人類学を批判している、と紹介しています。橘氏によると、サイニー氏は『交雑する人類』(関連記事)の著者であるデイヴィッド・ライク(David Reich)氏に取材し、ライク氏から「われわれが築く社会的な構造と相関する集団間の系統の違いは実際にあります」と断言され、大きなショックを受けたそうです。橘氏は(おそらく同書から)以下のように引用しています。
ライクはアメリカの黒人と白人のあいだには、表面上の平均的な違い以上のものがあるかもしれないとほのめかす。それは認知的、心理的な違いにおよぶ可能性すらあり、アメリカにやってくるまで、それぞれの集団グループは7万年にわたって別個にそれぞれ異なる環境に適応してきたためなのだ。これだけの時間の尺度のあいだに、自然選択は双方に異なった形で作用し、一皮むいた以上に深いところの変化を生み出したかもしれないと彼は示唆する。ライクは思慮深く、これらの違いが大きなものだとは自分は考えず、1972年に生物学者のリチャード・ルウォンティンが推定したように、個人間の差異よりもわずかに大きい程度だろうと付け足す。それでも、こうした違いは存在しないとは考えていないのだ
橘氏によると、ライク氏は(ヒト集団のちがいを否定する)サイニー氏に対して、「まったく悪気のない人びとが科学と矛盾することを言うのは少々辛いものがあります。悪気のない人には正しいことを言ってもらいたいからです」と語ったそうです。私はライク氏の見解をほぼ全面的に支持します。以前、サイニー氏による書評を当ブログで取り上げましたが(関連記事)、率直に言って、「科学の人種主義」に対するサイニー氏の認識はかなり疑問です。
サイニー氏の認識はおそらく現在のアメリカ合衆国(やイギリス?)の学界や報道業界の「主流派」では常識で、日本でも、サイニー氏のような認識を「最新の常識」として、それに反するような見解を「保守反動」とか「意識が低い」とか「差別主義」とか言って批判・罵倒・嘲笑する人が、それなりにいるかもしれません。確かに、集団遺伝学が悪用される危険性はありますし、現実にその研究成果の一部は悪用されていますが(関連記事)、上記の紹介記事にあるような、「そもそも人間をグループ分けする必要があるところに問題があるのだ」という認識にはまったく同意できません。
ライク氏は、集団遺伝学でも古代DNA研究において現在最先端を行く一人ですが、サイニー氏以外の「主流派(と思われる人々)」からも批判を受けています(関連記事)。確かに、古代DNA研究に関して「主流派」の懸念に尤もなところはありますし、それはライク氏も率直に認めて、今後改善を図っていく考えのようです。その意味で、サイニー氏のような「主流派」の批判にも有意義なところはあるでしょうが、正直なところ、サイニー氏に関しては、その批判が行き過ぎというか、的外れなところが多分にあるのではないか、と私は考えています。
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