インダス文化に関するまとめ

 当ブログのインダス文化に関する記事を短くまとめます。インダス文化はメソポタミアやエジプトといった年代の重なる他地域の古代文字文化と比較して、謎めいた印象を持たれているように思いますが、それはインダス文字(インダス文化の印章記号)がまだ解明されていないからなのでしょう。インダス文字で書かれた文書の文字配列の統計的構造を、シュメール語や古代タミル語やリグ・ヴェーダのサンスクリット語といった他の言語体系、人間のDNAや細菌の蛋白質配列といった非言語体系、人工の言語体系と比較した研究では、インダス文字は言語体系と酷似しており、非言語体系とは似ていない、と指摘されています(関連記事)。ただ、この研究により文字の意味的理解が進んだわけではなく、インダス文字の解読には、インダス文字と他の解読済の文字の併記された文書の発見が必要となるでしょう。

 インダス文化は、メソポタミア・エジプト・黄河・長江といった他の古代文化とともに、大河文化と定義されてきました。しかし近年では、インダス文化は他の大河文化とは大きく異なる性格を有する、との認識が浸透しつつあるように思います。従来の通俗的なインダス文化像の見直しを強く主張するのが、長田俊樹『インダス文明の謎 古代文明神話を見直す』です(関連記事)。同書は、メソポタミア文化やエジプト文化をモデルに構築された古典的なインダス文化像を徹底的に批判します。つまり、王のような専制権力の存在・活発な軍事活動・大河に依存した灌漑農耕・奴隷制社会を特徴とする文化像です。また同書は、モヘンジョダロとハラッパーに偏ったインダス文化像の構築も批判します。

 さらに同書は、インダス文化は大河文化ではない、と指摘します。現在は乾燥地帯にある遺跡の側をかつて大河が流れていた、という説は今では否定されているそうです。また同書は、植物遺存体の分析から、インダス文化において大河に依存した灌漑農耕の比重は必ずしも高くなく、多様な作物が栽培されていた、と指摘します。同書が提示する新たなインダス文化像は、牧畜民も含む流動性の高い人々により各都市が密接に結びつき、ヒトだけではなくモノも活発に動いた多民族・多言語共生社会だった、というものです。また同書は、インダス文化期には現代よりも海水面が高かったので、南部の都市は海に面しており、オマーンやバーレーンやメソポタミア方面とも交易していた、とも強調します。同書刊行後の研究でも、インダス文化の多くの都市が、大河から離れて反映していた、と指摘されています(関連記事)。

 インダス文化の担い手については確定していませんが、ドラヴィダ系住民との見解が有力だと思います。しかし、アジア中央部考古学専攻の研究者の中には、インダス文化の担い手を「アーリア系」と考える人もいます(関連記事)。この問題は、アジア南部における古代DNA研究の進展(関連記事)により明らかになりつつあります。インダス文化最大級の都市となるラーキーガリー(Rakhigarhi)遺跡で発見された1個体(I6113)のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はU2b2で、アジア中央部の古代人では現時点で確認されていません。

 I6113は核DNA解析では、紀元前2500~紀元前2000年頃のバクトリア・マルギアナ複合(BMAC)文化遺跡と紀元前3300~紀元前2000年頃のイラン東部遺跡で確認された11人と類似しており、アジア南部現代人集団の変異内には収まりません。これはインダス川流域集団と呼ばれており、その遺伝的構成は、イラン関連系統およびシベリア西部狩猟採集民(WSHG)関連系統の混合系統(50~89%)と、アンダマン諸島狩猟採集民(AHG)関連系統(11~50%)の混合です。イラン関連系統とAHG関連系統との混合が紀元前5400~紀元前3700年頃に起きたと推定されていることからも、インダス川流域集団はインダス文化の担い手と考えられます。インダス川流域集団にはアナトリア新石器時代農耕民関連系統が検出されず、イランからアジア南部への人類集団の移住は、イランにおける農耕開始前だったと推測されます。

 アジア南部のインド・ヨーロッパ語族はユーラシア中央草原地帯、より具体的にはポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)起源と考えられますが、インダス川流域集団のゲノムにはユーラシア中央草原地帯関連系統が見られないので、インダス文化の担い手はインド・ヨーロッパ語族ではなかった、と推測されます。インダス川流域集団と古代祖型インド南部人関連系統(AASI)が紀元前2000年以後に混合して祖型南インド人(ASI)が形成され、紀元前2000~紀元前1000年の間に、ユーラシア中央草原地帯系統がアジア南部へと拡大し、インダス川流域集団と混合して祖型北インド人(ANI)が形成されました。アジア南部現代人は遺伝的に、ASIとANIの地理的勾配として表されます(関連記事)。

 アジア南部で2番目に大きな言語集団であるドラヴィダ語族の起源に関しては、ASI系統との強い相関が見られることから、インダス文化衰退後に形成されたASIに起源があり、インダス文化集団により先ドラヴィダ語が話されていた、と推測されます。これは、インダス文字がドラヴィダ語を表している、との見解と整合的です。また、先ドラヴィダ語がインダス川流域集団ではなくインド南部および東部起源である可能性も想定されます。この仮説は、インド特有の動植物の先ドラヴィダ語復元の研究と整合的です。これらの知見から、インダス文化の担い手の言語は先ドラヴィダ語と考えられます。ただ、インダス文化は広範な地域に分布しており、その担い手の遺伝的構成は多様だった可能性が高そうです。とはいえ、アジア南部にインド・ヨーロッパ語族をもたらしたと考えられ、アジア南部現代人のゲノムに大きな影響を残しているユーラシア中央草原地帯関連系統は、基本的に欠けていたでしょう。おそらくインダス文化の担い手の多くの遺伝的構成は、イラン関連系統とAHG関連系統の割合が多様だったのではないか、と推測されます。

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