アフリカにおける完新世人類集団の複雑な移動と相互作用
サハラ砂漠以南のアフリカにおける完新世人類集団の複雑な移動と相互作用に関する研究(Wang et al., 2020)が報道されました。現代のアフリカは言語・文化・経済がひじょうに多様な地域です。この多様性に寄与した集団の相互作用・移住・混合・置換は、遺伝学・考古学・言語学の研究で何十年にもわたって研究の中心的な目的でした。古代DNA研究は、骨格と古代DNAの保存状態の制約から、アフリカでは他地域よりも先史時代の解明には寄与できていませんでした。側頭部の錐体骨の内在性DNAが豊富に保存されている、と明らかになったことなど、技術的発展によりこの状況は変わり始めましたが、既知のアフリカの古代ゲノムは85人分で、ユーラシアの3500人分と比較するとずっと少ないのが現状です。
これまでのアフリカの古代DNA研究は、アフリカ東部および南部における食糧生産拡大前の人口構造を提示し、東部における生計戦略の変化と関連した集団置換を明らかにしました(関連記事)。アフリカ東部と南部で標本抽出された採集民集団は、大まかには地理に従った連続的な遺伝的勾配を形成してきました。牧畜新石器時代(PN)には、銅器時代および青銅器時代レヴァント集団と関連した人々がアフリカ東部に拡散してきて、後期石器時代狩猟採集民と関連した人々や、現在のディンカ人と関連した個体群と、少なくとも2段階で混合しました。現代バンツー語族と関連する系統は、今日ではサハラ砂漠以南のアフリカ全域で優勢ですが、これまでに分析されたほとんどのサハラ砂漠以南のアフリカの古代ゲノムでは欠如しています。
本論文は、新たに生成されたサハラ砂漠以南のアフリカの20人の古代ゲノムの分析に基づき、アフリカにおける早期集団の移動と混合の考察を報告します。本論文は、食糧生産戦略の変化に関わっていると以前に特定された、主要な集団間の集団水準の相互作用を調査します。この主要な集団とは、東部および南部の狩猟採集民集団、東部のPNおよび鉄器時代集団、現代のバンツー語族と関連する鉄器時代集団です。本論文は、生計戦略の変化に関わると予想される主要な地域(とくにアフリカ東部)だけではなく、コンゴ民主共和国とボツワナとウガンダからも、最初となる古代ゲノムデータを報告します。本論文は、これら考古学的に狩猟採集民および食糧生産集団と推測される新たな20人のゲノムデータと、既知の古代および現代のサハラ砂漠以南のアフリカ人のゲノムデータを統合します。
その結果、以前には広範に拡大し、重なっていた、深く分岐した狩猟採集民集団の収縮の証拠が検出されました。また、アフリカ東部における牧畜民集団の到来は、アフリカ北部から東部への牧畜民いくつかの別々の集団の移動に起因した、と示唆されます。さらに、食糧生産の拡大期に、牧畜民と農耕民と狩猟採集民の混合パターンにおいて、顕著な地理的多様性の証拠が得られました。ボツワナの古代ゲノムデータからは、以前に言語学と現代人の遺伝データに基づいて示唆されていたように、バンツー語族集団の到来前に、アフリカ南部へアフリカ東部牧畜民が拡散してきた、と示唆されます。これらのゲノムおよび考古学的データを統合すると、現代アフリカの特徴である経済的不均一性は、集団の混合・相互作用・忌避の多様な地域的歴史に由来する、と示唆されます。
新たに古代ゲノムデータが得られた20人の内訳は、コンゴ民主共和国が5人(795~200年前頃)、ボツワナが4人(1300~1000年前頃)、ウガンダが1人(600~400年前頃)、ケニアが10人(3900~300年前頃)です。ケニアの10人のうち、3人がアフリカ東部狩猟採集民伝統と、5人がPNと、2人が鉄器時代と関連しています。これらの新たな古代ゲノムデータが、アフリカの既知の古代ゲノムデータおよび59集団584人の現代人、アフリカの22集団44人と世界中の142集団300人の高網羅率なゲノムデータと比較されました。近親関係は、ケニアのニャリンディ岩陰(Nyarindi Rockshelter)遺跡の後期石器時代となる3500年前頃の2人(NYA002とNYA003)だけです。
●以前は重複していた狩猟採集民系統の収縮
主成分分析では、3900~1500年前頃のケニアの8人は2クラスタを形成します。クラスタ1はアフリカ東部狩猟採集民、クラスタ2はアフリカ東部牧畜民と命名されています。クラスタ1は、エチオピア高地のモタ(Mota)洞窟遺跡の4500年前頃の個体(関連記事)と高い遺伝的類似性を示します。クラスタ1のうち、3500年前頃となるケニアのニャリンディ遺跡と1400年前頃となるタンザニアのペンバ(Pemba)遺跡の個体は、本論文で検証された他のどの集団とも有意な遺伝的類似性を示しませんが、3900年前頃となるケニアのカカペル(Kakapel)遺跡の1個体は、ムブティ(Mbuti)人やアフリカ中央部の現代狩猟採集民集団と有意な遺伝的類似性を示します。
1300年前頃となるタンザニアのザンジバル(Zanzibar)遺跡の1個体は、南アフリカ共和国の2000年前頃となる個体と類似性を示し、ケニアの400年前頃となる1個体は、ユーラシア西部現代人と類似性を示します。qpAdmでは、3900年前頃となるカカペル個体に18±6%のムブティ関連系統が、ケニアの400年前頃となる個体には、11±3%の古代レヴァント個体群関連系統が見られます。この古代レヴァント関連系統は広く古代アフリカ北東部とレヴァントに存在し、アフリカ北東部現代人集団でも確認されています。これらの追加の系統の寄与は、4500年前頃となるモタ遺跡個体との主成分分析における相対的な位置関係でも示されます。またqpAdmによるモデル化では、3500年前頃となるケニアのニャリンディ個体におけるアフリカ南部サン人と関連したわずかな系統も示唆されます。
これらのデータは全体的に、アフリカ東部を、アフリカ西部・南部・東部狩猟採集民と関連する系統を有する集団間の、集団水準の相互作用のつながりとして示します。これらの系統間の深い分岐は、混合が長期にわたって最小限だったか、比較的最近起きたことを示唆します。これは、今まで想定されてきたよりも、古代アフリカ狩猟採集民集団の拡大と縮小に関する興味深い可能性を示します。ケニアのカカペル遺跡の3900年前頃となる個体は考古学的に、ヴィクトリア湖からウガンダへと至る漁撈狩猟採集民集団に分類されるので、この個体のムブティ関連系統は、熱帯雨林が前期完新世湿潤期により拡大した時に範囲が重なったことによる、集団間の一時的な相互作用により説明できます。ただ、この仮説の検証にはこの地域のさらなる考古学的データが必要です。
古代アフリカ東部個体群におけるサン人関連系統の低水準の持続的な検出は、説明がより困難です。一つ考えられるのは、現代サン人とおもに共有される系統のまだ検出されていない狩猟採集民集団との継続的な相互作用です。もう一つ考えられるのは、サン人関連系統が、南部から東部までというアフリカの狩猟採集民のより広範な、さらに農耕民と牧畜民の中期~後期完新世の移住前というより早期の分布を反映している、ということです。クリック子音を用いるアフリカ東部および南部の狩猟採集民集団間の言語学的・遺伝学的相似からは、クリック言語話者集団の早期かつ広範な分布の存在の仮説が魅力的ですが、これらの言語集団間の直接的なつながりの系統言語学的証拠はありません。
●アフリカ東部への牧畜の複雑な拡大
主成分分析でのケニアの標本群のクラスタ2はアフリカ東部牧畜民を表し、ケニア南部のサバンナPN伝統遺跡群の新たに報告された個体群を含みます。新たに報告されたケニアの個体群は、ルケニヤ丘(LukenyaHill)遺跡の3500年前頃、ハイラクス丘(HyraxHill)遺跡の2300年前頃、モロ洞窟(MoloCave)遺跡の1500年前頃の個体群で、それぞれ、ケニアのPNにおける開始期・中期・末期に相当します。既知のデータでは、タンザニアのルクマンダ(Luxmanda)遺跡の3100年前頃の個体など、アフリカ東部のPN期の個体群がクラスタ2に含まれます。これらの標本群は、2000年にわたる系統の顕著な継続性を示し、主成分分析とクラスタ化分析でも類似の遺伝的構成が示されます。
本論文はまず、ルクマンダ遺跡の3100年前頃の個体の以前モデルに基づき、古代アフリカ北東部系統の最も近い利用可能な代理としてエチオピアのモタ遺跡の4500年前頃となる個体と古代レヴァント集団とを用い、qpAdmで双方向の系統モデルを適用しました。その結果、以前の古代DNA研究と一致して、このモデルは不充分だと分かり、南スーダンのナイル諸語集団である現代ディンカ人と関連する追加の遺伝的構成がデータへの適合に必要と示されます。qpAdmに加えて、f4検定でもこの類似性が確認されました。3方向モデルでは、ケニアのハイラクス丘遺跡の2300年前頃の個体とルケニヤ丘遺跡の3500年前頃の個体はそれぞれ、ディンカ関連系統を33±11%と24±10%有し、ケニアのモロ洞窟遺跡の1500年前頃の個体とタンザニアのルクマンダ遺跡の3100年前頃の個体では、それよりも低い割合となります。
アフリカ東部牧畜民の全標本におけるレヴァント関連系統の推定割合は一定(約30~40%)ですが、アフリカ東部狩猟採集民関連系統とディンカ関連系統の割合は両方、個体間でかなりの違いがあります。以前の研究(関連記事)では、レヴァント関連系統を有する初期牧畜民とアフリカ東部狩猟採集民との間の混合は、おもにケニア南部における牧畜民の到来前に起きた、との結論が提示されました。しかし、本論文のデータは、牧畜民と狩猟採集民もしくは主に狩猟採集民に由来する系統を有する集団との間の断続的混合は、PNへと継続したかもしれない、と示唆します。とくに、新たに報告されたモロ洞窟遺跡の1500年前頃の個体は50%もしくはそれ以上の狩猟採集民関連系統を有しており、他のPN個体全員で観察されたよりもディンカ関連系統は少ない、と推定されます。
狩猟採集民と牧畜民との間の繰り返される相互作用モデルは、連鎖不平衡減衰を用いての推定混合年代により支持されます。銅器時代レヴァント個体群とエチオピアのモタ遺跡の4500年前頃の個体と関連する系統間の混合年代は、その個体群の死の数百年前から数千年前の範囲に及び、混合年代と標本年代の間の明確な相関はなく、単純な混合モデルと一致しません。これが示唆するのは、複数回の混合事象か、長期にわたって系統の均質化を妨げる強い集団構造です。PN後期の中央地溝帯における在来狩猟採集民の存続の考古学的証拠が最小限しかないにも関わらず、これらの遺伝的結果が示唆するのは、狩猟採集民関連系統を高い割合で有するか、混合していない狩猟採集民関連系統を有する共同体が、モロ洞窟遺跡の個体に顕著な遺伝的痕跡を残した、鉄器時代近くまで持続するPN関連系統を高い割合で有するか、混合していないPN関連系統を有する共同体の近くで暮らし続けた、ということです。モロ洞窟遺跡もしくは他の遺跡群からは、混合の時期と速度が、狩猟採集民による牧畜の採用、牧畜民集団への狩猟採集民の吸収、もっと複雑な集団間の社会的変遷のどれを反映しているのか、まだ明確ではありません。
アフリカ東部の遺伝的クラスタ1および2の両方からの証拠を組み合わせると、中央地溝帯のパターンと比較して、アフリカ東部とヴィクトリア湖沿岸の標本抽出された個体群の相互作用と混合のひじょうに様々なパターンが示されます。ヴィクトリア湖とインド洋沿岸の近くでは、たとえばケニアのニャリンディ遺跡の3500年前頃の個体や、タンザニアのザンジバル(Zanzibar)遺跡の1300年前頃の2個体のように、牧畜民の狩猟採集民個体群への混合の証拠はほとんど見られません。また本論文の分析は、ケニアの湿潤な沿岸森林地帯のパンガヤサイディ(Panga ya Saidi)洞窟遺跡で発見された400年前頃の個体群が、同様にアフリカ東部狩猟採集民系統を保持しており、レヴァント関連構成をわずかしか有さないことも示します。これは、牧畜民の介在によりレヴァント関連系統が急速に拡大する、中央地溝帯周辺の個体群で観察されるパターンとは正反対です。安定した沿岸および湖水環境の遅れて戻ってきた狩猟採集民は、他の狩猟採集民よりも、人口が多く、なおかつ/もしくは、侵入してくる食糧生産者との相互作用に抵抗力があったのかもしれません。
本論文のデータはPNの3構成モデルを支持しますが、PNにおける在来集団と外来集団との混合に関して、当初よりもずっと複雑なモデルを示唆します。ディンカおよびアフリカ東部狩猟採集民関連系統は両方、本論文と既知の標本群ではかなり多様です。これは、牧畜の拡大が、長期にわたって維持された複雑な集団構造に関わっていたか、これらの系統の均質化を妨げていたか、相互作用と混合の地域的に異なる軌跡を有する複数集団の移動があった、と示唆します。これは、アフリカ東部における牧畜民拡大の「移動する境界」モデルに寄与する、提案された集団多様性の解像度増加への追加となります。モロ洞窟とルクマンダとパンガヤサイディの個体群はさらに、少なくとも400年前頃まで食糧生産者たちと共存したアフリカ東部狩猟採集民との接触が、接触の最初の段階にのみ起きたのではなく、継続的過程だった、という証拠を提供します。
データはまた、この牧畜民と狩猟採集民との間の相互作用がひじょうに不均衡で、狩猟採集民系統は牧畜民集団に入ってくるものの、他の方向では遺伝子流動がほとんどないことも明らかにしました。牧畜民と狩猟採集民との間のどのような社会体系がこの1方向の混合をもたらしたのかも、明らかではありません。過去には、牧畜民のより低い人口密度と、家畜流行性疾患による家畜損失の高い危険性とが、環境の生態的知識のより多い在来の狩猟採集民との密接な関係を牧畜民に要求した、と推定されていました。これは、クレセント島のような遺跡における、牧畜民と狩猟採集民の相互作用の証拠で支持されてきました。遺伝的証拠からは、これらの相互作用が起きたならば、より構造化され、民族誌の保護庇護関係と一致し、そこでは狩猟採集民共同体の個体群はゆっくりと牧畜民社会に統合されるかもしれない、と示唆されます。また、異なる社会的動態に起因する性的偏りが、2集団間で観察された非対称的な遺伝子流動に役割を果たしたかもしれません。X染色体の網羅率が充分ではないため、これを明確に検証できませんが、これらの動態はアフリカ中央部および南部の狩猟採集民とバンツー語族農耕民との間で以前に報告されました。
●アフリカ中央部および東部における鉄器時代の系統変化
ケニア西部のカカペル(Kakapel)遺跡では、3900年前頃の狩猟採集民個体と、300年前頃および900年前頃となる2人の鉄器時代個体が分析されました。鉄器時代の2個体は、主成分分析とADMIXTUREでは、ディンカ人や他のナイル諸語集団(ルオ人など)と密接な遺伝的類似性を示し、古代の狩猟採集民もしくはPN個体群よりも、バンツー語族現代人と密接な遺伝的類似性を示します。カカペル遺跡の900年前頃と300年前頃の個体が遺伝的にナイル諸語集団(ディンカ人とルオ人)とバンツー語族集団(ルヒヤ人とキクユ人)と類似しているのか、検証されました。これらの集団は、南スーダンのディンカ人を除いてケニアの民族集団です。f4統計とqpAdmでは、カカペル遺跡の300年前頃の個体はディンカ系統と類似しており、ルオ人およびルヒヤ人ともわずかにモデルに適合します。カカペル遺跡の900年前頃の個体は、ディンカ人と密接な遺伝的類似性を共有しますが、アフリカ北東部/レヴァント集団からの追加のわずかな系統構成(12±3%)を示し、早期PN牧畜民の系統構成と類似しています。カカペル遺跡の900年前頃の個体における、ディンカとレヴァントの関連系統の混合は、この個体の死から500±200年前頃と推定され、この地域の鉄器時代の始まりと一致します。これが示唆するのは、カカペル遺跡の900年前頃の個体に表される鉄器時代集団は、アフリカ西部関連系統を有する人々の主要な移住の結果というよりはむしろ、PN関連牧畜民と侵入してきたナイル諸語農耕牧畜民との間の混合から生じた、ということです。
カカペル遺跡の鉄器時代の2個体に見られるナイル諸語関連系統のほぼ90~100%は、PNにおける約40%と比較して顕著な変化で、これは、以前に分析された鉄器時代アフリカ東部個体群に見られるナイル諸語系統の増加よりも、かなり大きくなります。さらに、カカペル遺跡の900年前頃となる個体におけるバンツー語族現代人と関連する系統の欠如は、ケニアの中央地溝帯におけるデロレイン(Deloraine)農耕遺跡の同時代の個体におけるバンツー語族現代人関連系統の存在とは対照的です。ここから示されるのは、鉄器時代アフリカ東部における拡散と混合のパターンは、系統の複雑な地理をもたらした、ということです。いくつかの地域もしくは場所ではナイル諸語集団関連移住からのほぼ完全な置換があり、他の地域では多様な人々の混合が見られるものの、別の地域(たとえばケニアのカカペル遺跡の300年前頃となる個体)ではナイル諸語もしくはバンツー語族と関連する系統からの混合が見られません。
以前の研究では、中央地溝帯の標本群に基づき、鉄器時代のナイル諸語系統の増加を、いわゆる「牧畜鉄器時代」と関連づけていました。本論文の鉄器時代に関する知見は、PNの知見とよく類似しており、異なる地理的経路でアフリカ東部に入ってくるさまざまな生計体系を有する複数集団と一致します。これらは集団変化の単一「段階」として広く集団化できますが、以前に認識されていたよりも、ケニア南部内の集団変化の性質においてより大きな異質性があった、とますます明らかになっています。
コンゴ民主共和国のマタンガイトゥル(MatangaiTuru)遺跡の750年前頃となる個体は、アフリカ中央部への牧畜と農耕の拡大の時の、狩猟採集民と食糧生産者の相互作用の追加の軌跡を強調します。この過程に最適なモデルは、エチオピアのモタ遺跡の4500年前頃の個体と関連する系統を一方の起源、もう一方をPN関連系統に含むものです。モタ遺跡個体の代わりにムブティ人を用いて代替的なモデルを検証すると適合し、主成分分析とも適合してこの個体はムブティの方へと動きます。マタンガイトゥル遺跡個体の利用可能な遺伝的データの精度では、これら2モデルのどちらかを決定できませんが、両モデルは古代DNAの非標本抽出地域におけるPN関連系統を示唆する、と強調されます。この知見は、鉄器時代において、牧畜の有無に関わらずPN集団が継続的に拡大したことを反映しているかもしれません。これは、ナイル諸語およびバンツー語族集団と関連する侵入してくる集団への対応、もしくはそれによる置換と関連しているかもしれません。ただ、この議論は単一個体に基づいており、より正確を期すためには、この地域のより多くのデータが必要です。熱帯雨林地域からの古代DNA抽出の成功は、これが可能と示します。
ウガンダのムンサ(Munsa)遺跡の紀元後14~16世紀頃(500年前頃)の1個体は、既知のタンザニアのペンバ(Pemba)遺跡で発見された600年前頃の1個体とともに、アフリカ東部におけるバンツー語族現代人と関連する系統の拡散を示します。この個体は、ウシの飼育および穀物栽培と関連する、複雑な国家形成期のウガンダにおけるバンツー語族集団を反映している可能性があります。
●アフリカ南部におけるバンツー語族と牧畜民/狩猟採集民との間の混合の直接的証拠
ボツワナでは、北西部のオカヴァンゴデルタ(Okavango Delta)地域で3人、南東部で1人の新たな古代ゲノムデータが得られました。主成分分析では、この4人はほぼバンツー語族現代人と関連する系統で構成されていますが、その中でも優勢な遺伝的系統はアフリカ南部のオヴァンボ(Ovambo)人と関連しています。ボツワナの4人の地理と主成分分析での位置を考えると、アフリカ南部狩猟採集民と関連する別の遺伝的系統が想定されます。そこで、ボツワナの4人に関して、双方向モデルでアフリカ南部の2000年前頃と1200年前頃の個体が検証されました。その結果、北西部のンクォマ(Nqoma)遺跡およびサロ(Xaro)遺跡の3人はアフリカ南部の1200年前頃の個体と関連する系統を30~40%、南東部のタウコメ(Taukome)遺跡の1人はアフリカ南部の2000年前頃の個体と関連する系統を10%程度有する、とモデル化できました。
ンクォマ遺跡とタウコメ遺跡の個体は、両方のアフリカ南部系統起源がデータと適合しましたが、サロの2人は、アフリカ南部の1200年前頃の個体と関連する系統のみが適合しました。アフリカ南部の2000年前頃の個体がアフリカ南部狩猟採集民系統と混合していない一方で、アフリカ南部の1200年前頃の個体はアフリカ東部PN関連系統との混合が示されており、これはほとんどのコイサン集団現代人に存在するパターンです。したがって、アフリカ南部の1200年前頃の個体のみがサロ遺跡の2人と適合するモデルを提供するという事実は、サロ遺跡の2人におけるPN関連系統を示唆します。本論文の知見は、ンクォマ遺跡の1人における同じ系統の存在を示しますが、この個体のゲノムデータは低網羅率なので、これを検証できません。また、古代ボツワナ個体群が現代コイサン集団と異なる系統を有しているのかどうか検証され、ジューホアン(Juhoan)北部集団のみが、グイやナロもしくはジューホアン南部人と比較して、古代ボツワナ個体群と類似性が少ない点で際立っている、と明らかになりました。qpAdmモデリングでさまざまなボツワナ集団の起源を用いて評価すると、バンツー語族現代人と関連する系統のさまざまな代理の中で、ナミビアのオヴァンボ人のみが適合モデルを提供しますが、ボツワナおよび南東部バンツー語族現代人で人口の多いツワナ人とカラハリ人は、モデル化に失敗します。
オヴァンボ人に追加の起源として、タンザニアのルクマンダ遺跡のPNとなる3100年前頃の個体およびアフリカ南部の2000年前頃の個体で、3方向モデルの適合によりPN関連系統が確認されました。ボツワナのサロ遺跡の1400年前頃の個体とンクォマ遺跡の900年前頃の個体は、PN関連系統からの14~22%程度を示します。これと一致して、サロ遺跡の2個体の単系統標識も、混合系統を支持します。サロ遺跡の1人(XAR001)はミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)L3e1a2とY染色体ハプログループ(YHg)E1b1a1a1c1aで、ともにバンツー語族集団で一般的です。サロ遺跡のもう1人(XAR002)は、ほとんどの古代アフリカ東部牧畜民と関連するYHg-E1b1b1b2bで、アフリカ南部の現代の牧畜民でも見られますが、mtHgはL0k1a2で、南アフリカ共和国のコイサン集団起源の可能性があります。
新石器時代牧畜民とバンツー語族集団のどちらの系統が南アフリカ共和国の狩猟採集民関連遺伝子プールと混合したのか、連鎖不平衡減衰を用いて評価され、アフリカ東部牧畜民関連の混合が、一般的にバンツー語族関連系統からの混合に先行する、と明らかになりました。これは、現代アフリカ人のゲノムに基づく南アフリカ共和国の集団の以前のモデル、およびアフリカ東部牧畜民が鉄器時代前にアフリカ南部に定着したとする言語学・考古学的仮説と一致します。
本論文のデータは、アフリカ東部牧畜民とアフリカ南部狩猟採集民の混合がどこで起きたのか、という問題を扱っていません。しかし、古代DNAデータは明確に、ボツワナ北西部のオカヴァンゴデルタにおける紀元後千年紀後半までの、すでに混合した南部狩猟採集民と東部牧畜民系統の存在を示します。ボツワナでの混合事象の順序は、バンツー語族関連系統およびアフリカ南部の1200年前頃の個体を有するオカヴァンゴデルタ個体群における、系統混合の存在により支持されます。逆に、バンツー語族およびアフリカ東部牧畜民集団の祖先間の交雑がアフリカ南部において狩猟採集民系統が入る前に起きたならば、その痕跡は他の地域で明らかですが、これまで、マラウイ近くのバンツー語族の早期の到来者は、このアフリカ東部構成を有していない、と示されています。
むしろ、最節約的なモデルでは、最初の集団混合がアフリカ南部の2000年前頃の個体と関連する集団、および最初の混合の子孫であるアフリカ南部の1200年前頃の個体集団と、アフリカ東部牧畜民との間で起きた、と示します。アフリカ南部に到来したバンツー語族はそれから、サロ遺跡個体と関連する集団と混合しました。これまでに分析されたどの現代人集団も、サロ遺跡の2人と同じ系統の混合はありません。今後の標本抽出の増加により、そうした集団が明らかになるかもしれませんが、現時点では、この集団が後に、混合しておらず現在この地域に居住するバンツー語族集団に置換された、と示唆されます。
ボツワナと南アフリカ共和国におけるアフリカ東部牧畜民関連系統の到来は、この地域における乳糖耐性の出現と関連しており、それはナマ人のようなコイ語現代人に見られます。そこで、乳糖耐性と関連する既知の一塩基多型アレルが古代ボツワナ個体群もしくは他のアフリカ個体群で見つかるのか、検証されました。PN関連の8人では、乳糖耐性関連アレル存在の証拠は見つかりませんでした。バンツー語族の拡大と関連づけられてきたマラリア耐性遺伝子も検証され、サロ遺跡の1個体(XAR002)で派生的アレルがみつかり、この個体の遺伝的構成で見られるバンツー語族関連系統の混合と一致します。遺伝的結果は、早期鉄器時代のボツワナにおける農耕・牧畜・狩猟採集の多様性を示唆する考古学的データを反映しています。ボツワナでもアフリカ東部と同様に、特定の時空間的環境における相互作用と統合の特有の軌跡が、最近までアフリカの歴史の特徴だった生計戦略の多様性に影響を与えたようです。
●アフリカ中央部歴史時代におけるバンツー語族と関連する系統
コンゴ西部最新の古代ゲノムは、キンドキ(Kindoki)遺跡の230年前頃の個体と、ンゴンゴムバタ(NgongoMbata)遺跡の220年前頃の個体で、バンツー語族現代人と関連する混合されていない系統を示し、500年前頃となる上述のウガンダのムンサ遺跡個体と類似しており、主成分分析では、タンザニアのペンバ遺跡の600年前頃となる個体やアフリカ東部および南部の一部のバンツー語族話者とともに、密接にクラスタ化します。キンドキ遺跡の230年前頃の個体とンゴンゴムバタ遺跡の220年前頃の個体が単一の遺伝子集団としてまとめられ、現代バンツー語族集団およびそれと関連するムンサ遺跡個体など古代のゲノムとの遺伝的類似性が、外群f3統計で検証されました。本論文の標本群は、ペンバ遺跡の600年前頃の個体およびケニア鉄器時代のデロレイン遺跡個体と最高の遺伝的類似性を示し、アフリカ南部バンツー語族のオヴァンボ人が続きます。さらに、f4対称性検証では、ペンバ遺跡の600年前頃の個体よりも古代コンゴ個体群もしくはオヴァンボ人のどちらかと、多くの遺伝的類似性を有する他の集団は見つかりませんでした。
バンツー語族と関連する系統を有する古代の個体群が、その顕著な時空間的距離にも関わらず、現代バンツー語族集団とよりも相互に密接に関連しているという事実は、後の移住の結果として、ほとんどの現代バンツー語族集団における追加の系統構成の流入を反映しているかもしれませんが、一般的に現代の遺伝子型決定データと比較して相互にわずかに引きつけられる、古代DNA標本群間のバッチ効果による混同の可能性もあります。また、コンゴ民主共和国や多くの近隣諸国を含む現代集団の標本抽出に明らかな相違があることも要注意です。
キンドキ遺跡のもう1人の古代個体の年代は150年前頃で、主成分分析でも混合分析でも、キンドキ遺跡の230年前頃となる個体とは異なる遺伝的構成を示します。キンドキ遺跡の230年前頃となる個体がンゴンゴムバタ遺跡の220年前頃の個体と集団化され、キンドキ遺跡の150年前頃となる個体がと他の2人の歴史時代集団が遺伝的に類似しているのか、f4統計で検証されました。いくつかのユーラシア西部集団もしくはユーラシア西部系統を有する古代アフリカ集団が、他のコンゴの個体群とよりも有意にキンドキ遺跡の150年前頃となる個体に近い、と示されました。キンドキ遺跡の150年前頃となる個体は、qpAdmではバンツー語族関連系統が85±7%、ユーラシア西部関連系統が15±7%とモデル化できます。この系統構成は、キンドキ遺跡の150年前頃となる個体がポルトガル系統を有する、という仮説と一致します。この仮説は、コンゴの植民地史、およびキンドキ遺跡の150年前頃となる個体や他の個体群のキリスト教埋葬様式と合致します。以下、本論文で取り上げられた主要なサハラ砂漠以南のアフリカ個体の系統構成を示した、本論文の図3です。
●まとめ
本論文は、ケニア・ウガンダ・コンゴ民主共和国・ボツワナの20人分の新たな古代ゲノムデータを提示し、既知のデータと組み合わせることで、サハラ砂漠以南のアフリカ全体の多様な人類集団の共存・移動・相互作用・混合を報告しています。アフリカ全域で最初の視覚化された系統は、南部のサン人や東部のハッザ人や中央部熱帯雨林地帯のムブティ人のような、現代狩猟採集民集団と密接に関連しています。現在のデータが示すのは、この地理的に定義された狩猟採集民集団構造がアフリカ東部では少なくとも中期完新世までさかのぼり(4500年前頃となるエチオピアのモタ遺跡個体に表されます)、現在の狩猟採集民集団はかつて空間的に重なっていた系統の収縮を反映している、ということです。アフリカ東部・南部・中央部の地域的な狩猟採集民間の遺伝子流動の制約は、乾燥化の進展のような気候・環境要因による長期のものなのか、食糧生産集団による包囲の結果なのかに関わらず、アフリカで観察された集団構造に著しく寄与した可能性が高そうです。
重複する狩猟採集民系統が、食糧生産前の移住を反映している可能性もあります。たとえば、早期完新世におけるアフリカ北部から東部への骨製銛技術や波線土器や水産資源に基づく経済も、集団移住を伴っていた可能性があります。当時のより湿潤な気候条件はまた、アフリカ中央部熱帯雨林とアフリカ東部の大湖沼の狩猟採集民間の、以前には見えなかった東西のつながりを促進したかもしれませんが、それはおそらくカカペル遺跡の3900年前頃の個体におけるムブティ関連系統に反映されています。
本論文で新たに報告されたケニアのPNの6人は、以前に報告された同じ地域のPN個体群で観察されたよりもずっと複雑な系統を示します。これがランダムな配偶と均質化を妨げる集団構造の結果であるかもしれない一方で、このパターンの別の説明として、早期牧畜民が複数の同時代の地理的に異なる経路で南下し、それはアフリカ東部全域でのマサイ人などの歴史的な移住と類似していた、という想定もできます。そのような想定では、アフリカ北部の単一集団が、ある牧畜集団はナイル川回廊に沿って移動したり、ある集団はエチオピア南部やあるいはウガンダ東部を通ったりしたように、多数に分岐したかもしれません。さまざまな軌道に沿って、集団は異なる集団と遭遇し、共同体間関係の多様なパターンを形成し、系統のより多様な統合をもたらしました。このモデルは、物質文化・居住戦略・埋葬伝統の明確な多様性が、なぜ密接に共有された系統を有するPN集団間でたいへん長く維持されたのか、説明できるかもしれません。
さらに、ケニアのモロ洞窟遺跡PN期個体におけるかなりのアフリカ東部狩猟採集民系統の存在は、考古学的記録で明らかにされているよりも、在来の狩猟採集民の長期の存続を示唆します。全体的に遺伝的に均一なように見えるにも関わらず、狩猟採集民集団は、遺伝的混合の時期と構造に影響を及ぼす侵入してくる牧畜民とは、抵抗もしくは統合のさまざまな程度で相互作用しました。追加の考古学的・考古遺伝学的データが、このモデルを検証し、移住と相互作用の歴史的に偶然のパターンをよりよく構築するのに依然として必要です。
鉄器時代に入ると、アフリカ東部・中央部・南部で集団移動の複数経路の証拠が再び見られます。ヴィクトリア湖近くのカカペル遺跡の鉄器時代の2人は、以前に報告された中央地溝帯の鉄器時代の5人よりも、極端というかほぼ完全なナイル諸語系統の増加を示し、おそらくはルオ人の到来と関連しています。これに関する唯一の説明は、遺伝的置換が地域特有で、複数の異なる移住を伴った可能性がある、ということです。後期鉄器時代のコンゴ東部におけるPN関連系統の観察は、その時点でのバンツー語族関連系統の欠如と同様に、現時点では孤立した知見となり、これに関しては、アフリカ東部核地域の西方におけるPN関連系統の拡大についてのさらなる調査が必要です。
ルヒヤ人やキクユ人のような現代人集団の系統で明らかな、侵入してくるバンツー語族と、鉄器時代ディンカ関連系統との間の相互作用は依然として不明で、農耕拡大が排他的にバンツー語族集団経由のみだったのか、それとも在来集団の採用だったのか、という問題も含みます。しかし、本論文の新たなゲノムデータは、バンツー語族移住のさらに南方への痕跡を追跡します。本論文のデータは、紀元後千年紀のボツワナにおけるバンツー語族関連系統を有する人々の到来と、アフリカ東部牧畜民およびアフリカ南部狩猟採集民系統との混合を示します。これは、この地域における異なる3系統間の相互作用の証拠を提供し、バンツー語族共同体が1700年前頃までにアフリカ南部に到達した、という仮説と一致し、またアフリカ南部へのバンツー語族拡大前の牧畜民の拡大という仮説への遺伝的証拠を提示します。
アフリカ南部のバンツー語族関連系統の痕跡に加えて、ウガンダとコンゴ西部の歴史時代の個体群で混合されていないこの系統が見つかりました。この遺伝的構成は、以前に報告されたタンザニアのペンバ遺跡の600年前頃の個体や、ケニアの鉄器時代のデロレイン遺跡の個体や、現代バンツー語族南部集団(オヴァンボ人)と類似しており、すでによく記録されているバンツー語族拡大による遺伝的均質化と一致します。それにも関わらず、古代DNA研究は、バンツー語族とサハラ砂漠以南のアフリカの地域的な狩猟採集民および牧畜民とのひじょうに多様な混合パターンを明らかにしつつあります。コンゴ西部とタンザニアでは、歴史時代まで混合されていないバンツー語族関連系統が持続しましたが、アフリカ南部では、バンツー語族の最初の到来から数世紀以内で顕著な混合の証拠が見られます。
本論文は、超地域的研究が大陸規模の過程を理解するのに重要である一方、地域に焦点当てた研究が、文化的および集団の変化の地域特有パターンをよりよく理解するのに将来必要となる、と強調します。アフリカ東部とボツワナ北方地域へ最初に牧畜民をもたらした過程をよりよく理解し、早期牧畜民と南アフリカ共和国の狩猟採集民との間の相互作用についてより詳細を明らかにするには、スーダンとアフリカの角が重要な地域となるでしょう。近年のアフリカの古代DNA研究の進展を考えると、今後の進展が大いに期待されます。
参考文献:
Wang K. et al.(2020): Ancient genomes reveal complex patterns of population movement, interaction, and replacement in sub-Saharan Africa. Science Advances, 6, 24, eaaz0183.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aaz0183
これまでのアフリカの古代DNA研究は、アフリカ東部および南部における食糧生産拡大前の人口構造を提示し、東部における生計戦略の変化と関連した集団置換を明らかにしました(関連記事)。アフリカ東部と南部で標本抽出された採集民集団は、大まかには地理に従った連続的な遺伝的勾配を形成してきました。牧畜新石器時代(PN)には、銅器時代および青銅器時代レヴァント集団と関連した人々がアフリカ東部に拡散してきて、後期石器時代狩猟採集民と関連した人々や、現在のディンカ人と関連した個体群と、少なくとも2段階で混合しました。現代バンツー語族と関連する系統は、今日ではサハラ砂漠以南のアフリカ全域で優勢ですが、これまでに分析されたほとんどのサハラ砂漠以南のアフリカの古代ゲノムでは欠如しています。
本論文は、新たに生成されたサハラ砂漠以南のアフリカの20人の古代ゲノムの分析に基づき、アフリカにおける早期集団の移動と混合の考察を報告します。本論文は、食糧生産戦略の変化に関わっていると以前に特定された、主要な集団間の集団水準の相互作用を調査します。この主要な集団とは、東部および南部の狩猟採集民集団、東部のPNおよび鉄器時代集団、現代のバンツー語族と関連する鉄器時代集団です。本論文は、生計戦略の変化に関わると予想される主要な地域(とくにアフリカ東部)だけではなく、コンゴ民主共和国とボツワナとウガンダからも、最初となる古代ゲノムデータを報告します。本論文は、これら考古学的に狩猟採集民および食糧生産集団と推測される新たな20人のゲノムデータと、既知の古代および現代のサハラ砂漠以南のアフリカ人のゲノムデータを統合します。
その結果、以前には広範に拡大し、重なっていた、深く分岐した狩猟採集民集団の収縮の証拠が検出されました。また、アフリカ東部における牧畜民集団の到来は、アフリカ北部から東部への牧畜民いくつかの別々の集団の移動に起因した、と示唆されます。さらに、食糧生産の拡大期に、牧畜民と農耕民と狩猟採集民の混合パターンにおいて、顕著な地理的多様性の証拠が得られました。ボツワナの古代ゲノムデータからは、以前に言語学と現代人の遺伝データに基づいて示唆されていたように、バンツー語族集団の到来前に、アフリカ南部へアフリカ東部牧畜民が拡散してきた、と示唆されます。これらのゲノムおよび考古学的データを統合すると、現代アフリカの特徴である経済的不均一性は、集団の混合・相互作用・忌避の多様な地域的歴史に由来する、と示唆されます。
新たに古代ゲノムデータが得られた20人の内訳は、コンゴ民主共和国が5人(795~200年前頃)、ボツワナが4人(1300~1000年前頃)、ウガンダが1人(600~400年前頃)、ケニアが10人(3900~300年前頃)です。ケニアの10人のうち、3人がアフリカ東部狩猟採集民伝統と、5人がPNと、2人が鉄器時代と関連しています。これらの新たな古代ゲノムデータが、アフリカの既知の古代ゲノムデータおよび59集団584人の現代人、アフリカの22集団44人と世界中の142集団300人の高網羅率なゲノムデータと比較されました。近親関係は、ケニアのニャリンディ岩陰(Nyarindi Rockshelter)遺跡の後期石器時代となる3500年前頃の2人(NYA002とNYA003)だけです。
●以前は重複していた狩猟採集民系統の収縮
主成分分析では、3900~1500年前頃のケニアの8人は2クラスタを形成します。クラスタ1はアフリカ東部狩猟採集民、クラスタ2はアフリカ東部牧畜民と命名されています。クラスタ1は、エチオピア高地のモタ(Mota)洞窟遺跡の4500年前頃の個体(関連記事)と高い遺伝的類似性を示します。クラスタ1のうち、3500年前頃となるケニアのニャリンディ遺跡と1400年前頃となるタンザニアのペンバ(Pemba)遺跡の個体は、本論文で検証された他のどの集団とも有意な遺伝的類似性を示しませんが、3900年前頃となるケニアのカカペル(Kakapel)遺跡の1個体は、ムブティ(Mbuti)人やアフリカ中央部の現代狩猟採集民集団と有意な遺伝的類似性を示します。
1300年前頃となるタンザニアのザンジバル(Zanzibar)遺跡の1個体は、南アフリカ共和国の2000年前頃となる個体と類似性を示し、ケニアの400年前頃となる1個体は、ユーラシア西部現代人と類似性を示します。qpAdmでは、3900年前頃となるカカペル個体に18±6%のムブティ関連系統が、ケニアの400年前頃となる個体には、11±3%の古代レヴァント個体群関連系統が見られます。この古代レヴァント関連系統は広く古代アフリカ北東部とレヴァントに存在し、アフリカ北東部現代人集団でも確認されています。これらの追加の系統の寄与は、4500年前頃となるモタ遺跡個体との主成分分析における相対的な位置関係でも示されます。またqpAdmによるモデル化では、3500年前頃となるケニアのニャリンディ個体におけるアフリカ南部サン人と関連したわずかな系統も示唆されます。
これらのデータは全体的に、アフリカ東部を、アフリカ西部・南部・東部狩猟採集民と関連する系統を有する集団間の、集団水準の相互作用のつながりとして示します。これらの系統間の深い分岐は、混合が長期にわたって最小限だったか、比較的最近起きたことを示唆します。これは、今まで想定されてきたよりも、古代アフリカ狩猟採集民集団の拡大と縮小に関する興味深い可能性を示します。ケニアのカカペル遺跡の3900年前頃となる個体は考古学的に、ヴィクトリア湖からウガンダへと至る漁撈狩猟採集民集団に分類されるので、この個体のムブティ関連系統は、熱帯雨林が前期完新世湿潤期により拡大した時に範囲が重なったことによる、集団間の一時的な相互作用により説明できます。ただ、この仮説の検証にはこの地域のさらなる考古学的データが必要です。
古代アフリカ東部個体群におけるサン人関連系統の低水準の持続的な検出は、説明がより困難です。一つ考えられるのは、現代サン人とおもに共有される系統のまだ検出されていない狩猟採集民集団との継続的な相互作用です。もう一つ考えられるのは、サン人関連系統が、南部から東部までというアフリカの狩猟採集民のより広範な、さらに農耕民と牧畜民の中期~後期完新世の移住前というより早期の分布を反映している、ということです。クリック子音を用いるアフリカ東部および南部の狩猟採集民集団間の言語学的・遺伝学的相似からは、クリック言語話者集団の早期かつ広範な分布の存在の仮説が魅力的ですが、これらの言語集団間の直接的なつながりの系統言語学的証拠はありません。
●アフリカ東部への牧畜の複雑な拡大
主成分分析でのケニアの標本群のクラスタ2はアフリカ東部牧畜民を表し、ケニア南部のサバンナPN伝統遺跡群の新たに報告された個体群を含みます。新たに報告されたケニアの個体群は、ルケニヤ丘(LukenyaHill)遺跡の3500年前頃、ハイラクス丘(HyraxHill)遺跡の2300年前頃、モロ洞窟(MoloCave)遺跡の1500年前頃の個体群で、それぞれ、ケニアのPNにおける開始期・中期・末期に相当します。既知のデータでは、タンザニアのルクマンダ(Luxmanda)遺跡の3100年前頃の個体など、アフリカ東部のPN期の個体群がクラスタ2に含まれます。これらの標本群は、2000年にわたる系統の顕著な継続性を示し、主成分分析とクラスタ化分析でも類似の遺伝的構成が示されます。
本論文はまず、ルクマンダ遺跡の3100年前頃の個体の以前モデルに基づき、古代アフリカ北東部系統の最も近い利用可能な代理としてエチオピアのモタ遺跡の4500年前頃となる個体と古代レヴァント集団とを用い、qpAdmで双方向の系統モデルを適用しました。その結果、以前の古代DNA研究と一致して、このモデルは不充分だと分かり、南スーダンのナイル諸語集団である現代ディンカ人と関連する追加の遺伝的構成がデータへの適合に必要と示されます。qpAdmに加えて、f4検定でもこの類似性が確認されました。3方向モデルでは、ケニアのハイラクス丘遺跡の2300年前頃の個体とルケニヤ丘遺跡の3500年前頃の個体はそれぞれ、ディンカ関連系統を33±11%と24±10%有し、ケニアのモロ洞窟遺跡の1500年前頃の個体とタンザニアのルクマンダ遺跡の3100年前頃の個体では、それよりも低い割合となります。
アフリカ東部牧畜民の全標本におけるレヴァント関連系統の推定割合は一定(約30~40%)ですが、アフリカ東部狩猟採集民関連系統とディンカ関連系統の割合は両方、個体間でかなりの違いがあります。以前の研究(関連記事)では、レヴァント関連系統を有する初期牧畜民とアフリカ東部狩猟採集民との間の混合は、おもにケニア南部における牧畜民の到来前に起きた、との結論が提示されました。しかし、本論文のデータは、牧畜民と狩猟採集民もしくは主に狩猟採集民に由来する系統を有する集団との間の断続的混合は、PNへと継続したかもしれない、と示唆します。とくに、新たに報告されたモロ洞窟遺跡の1500年前頃の個体は50%もしくはそれ以上の狩猟採集民関連系統を有しており、他のPN個体全員で観察されたよりもディンカ関連系統は少ない、と推定されます。
狩猟採集民と牧畜民との間の繰り返される相互作用モデルは、連鎖不平衡減衰を用いての推定混合年代により支持されます。銅器時代レヴァント個体群とエチオピアのモタ遺跡の4500年前頃の個体と関連する系統間の混合年代は、その個体群の死の数百年前から数千年前の範囲に及び、混合年代と標本年代の間の明確な相関はなく、単純な混合モデルと一致しません。これが示唆するのは、複数回の混合事象か、長期にわたって系統の均質化を妨げる強い集団構造です。PN後期の中央地溝帯における在来狩猟採集民の存続の考古学的証拠が最小限しかないにも関わらず、これらの遺伝的結果が示唆するのは、狩猟採集民関連系統を高い割合で有するか、混合していない狩猟採集民関連系統を有する共同体が、モロ洞窟遺跡の個体に顕著な遺伝的痕跡を残した、鉄器時代近くまで持続するPN関連系統を高い割合で有するか、混合していないPN関連系統を有する共同体の近くで暮らし続けた、ということです。モロ洞窟遺跡もしくは他の遺跡群からは、混合の時期と速度が、狩猟採集民による牧畜の採用、牧畜民集団への狩猟採集民の吸収、もっと複雑な集団間の社会的変遷のどれを反映しているのか、まだ明確ではありません。
アフリカ東部の遺伝的クラスタ1および2の両方からの証拠を組み合わせると、中央地溝帯のパターンと比較して、アフリカ東部とヴィクトリア湖沿岸の標本抽出された個体群の相互作用と混合のひじょうに様々なパターンが示されます。ヴィクトリア湖とインド洋沿岸の近くでは、たとえばケニアのニャリンディ遺跡の3500年前頃の個体や、タンザニアのザンジバル(Zanzibar)遺跡の1300年前頃の2個体のように、牧畜民の狩猟採集民個体群への混合の証拠はほとんど見られません。また本論文の分析は、ケニアの湿潤な沿岸森林地帯のパンガヤサイディ(Panga ya Saidi)洞窟遺跡で発見された400年前頃の個体群が、同様にアフリカ東部狩猟採集民系統を保持しており、レヴァント関連構成をわずかしか有さないことも示します。これは、牧畜民の介在によりレヴァント関連系統が急速に拡大する、中央地溝帯周辺の個体群で観察されるパターンとは正反対です。安定した沿岸および湖水環境の遅れて戻ってきた狩猟採集民は、他の狩猟採集民よりも、人口が多く、なおかつ/もしくは、侵入してくる食糧生産者との相互作用に抵抗力があったのかもしれません。
本論文のデータはPNの3構成モデルを支持しますが、PNにおける在来集団と外来集団との混合に関して、当初よりもずっと複雑なモデルを示唆します。ディンカおよびアフリカ東部狩猟採集民関連系統は両方、本論文と既知の標本群ではかなり多様です。これは、牧畜の拡大が、長期にわたって維持された複雑な集団構造に関わっていたか、これらの系統の均質化を妨げていたか、相互作用と混合の地域的に異なる軌跡を有する複数集団の移動があった、と示唆します。これは、アフリカ東部における牧畜民拡大の「移動する境界」モデルに寄与する、提案された集団多様性の解像度増加への追加となります。モロ洞窟とルクマンダとパンガヤサイディの個体群はさらに、少なくとも400年前頃まで食糧生産者たちと共存したアフリカ東部狩猟採集民との接触が、接触の最初の段階にのみ起きたのではなく、継続的過程だった、という証拠を提供します。
データはまた、この牧畜民と狩猟採集民との間の相互作用がひじょうに不均衡で、狩猟採集民系統は牧畜民集団に入ってくるものの、他の方向では遺伝子流動がほとんどないことも明らかにしました。牧畜民と狩猟採集民との間のどのような社会体系がこの1方向の混合をもたらしたのかも、明らかではありません。過去には、牧畜民のより低い人口密度と、家畜流行性疾患による家畜損失の高い危険性とが、環境の生態的知識のより多い在来の狩猟採集民との密接な関係を牧畜民に要求した、と推定されていました。これは、クレセント島のような遺跡における、牧畜民と狩猟採集民の相互作用の証拠で支持されてきました。遺伝的証拠からは、これらの相互作用が起きたならば、より構造化され、民族誌の保護庇護関係と一致し、そこでは狩猟採集民共同体の個体群はゆっくりと牧畜民社会に統合されるかもしれない、と示唆されます。また、異なる社会的動態に起因する性的偏りが、2集団間で観察された非対称的な遺伝子流動に役割を果たしたかもしれません。X染色体の網羅率が充分ではないため、これを明確に検証できませんが、これらの動態はアフリカ中央部および南部の狩猟採集民とバンツー語族農耕民との間で以前に報告されました。
●アフリカ中央部および東部における鉄器時代の系統変化
ケニア西部のカカペル(Kakapel)遺跡では、3900年前頃の狩猟採集民個体と、300年前頃および900年前頃となる2人の鉄器時代個体が分析されました。鉄器時代の2個体は、主成分分析とADMIXTUREでは、ディンカ人や他のナイル諸語集団(ルオ人など)と密接な遺伝的類似性を示し、古代の狩猟採集民もしくはPN個体群よりも、バンツー語族現代人と密接な遺伝的類似性を示します。カカペル遺跡の900年前頃と300年前頃の個体が遺伝的にナイル諸語集団(ディンカ人とルオ人)とバンツー語族集団(ルヒヤ人とキクユ人)と類似しているのか、検証されました。これらの集団は、南スーダンのディンカ人を除いてケニアの民族集団です。f4統計とqpAdmでは、カカペル遺跡の300年前頃の個体はディンカ系統と類似しており、ルオ人およびルヒヤ人ともわずかにモデルに適合します。カカペル遺跡の900年前頃の個体は、ディンカ人と密接な遺伝的類似性を共有しますが、アフリカ北東部/レヴァント集団からの追加のわずかな系統構成(12±3%)を示し、早期PN牧畜民の系統構成と類似しています。カカペル遺跡の900年前頃の個体における、ディンカとレヴァントの関連系統の混合は、この個体の死から500±200年前頃と推定され、この地域の鉄器時代の始まりと一致します。これが示唆するのは、カカペル遺跡の900年前頃の個体に表される鉄器時代集団は、アフリカ西部関連系統を有する人々の主要な移住の結果というよりはむしろ、PN関連牧畜民と侵入してきたナイル諸語農耕牧畜民との間の混合から生じた、ということです。
カカペル遺跡の鉄器時代の2個体に見られるナイル諸語関連系統のほぼ90~100%は、PNにおける約40%と比較して顕著な変化で、これは、以前に分析された鉄器時代アフリカ東部個体群に見られるナイル諸語系統の増加よりも、かなり大きくなります。さらに、カカペル遺跡の900年前頃となる個体におけるバンツー語族現代人と関連する系統の欠如は、ケニアの中央地溝帯におけるデロレイン(Deloraine)農耕遺跡の同時代の個体におけるバンツー語族現代人関連系統の存在とは対照的です。ここから示されるのは、鉄器時代アフリカ東部における拡散と混合のパターンは、系統の複雑な地理をもたらした、ということです。いくつかの地域もしくは場所ではナイル諸語集団関連移住からのほぼ完全な置換があり、他の地域では多様な人々の混合が見られるものの、別の地域(たとえばケニアのカカペル遺跡の300年前頃となる個体)ではナイル諸語もしくはバンツー語族と関連する系統からの混合が見られません。
以前の研究では、中央地溝帯の標本群に基づき、鉄器時代のナイル諸語系統の増加を、いわゆる「牧畜鉄器時代」と関連づけていました。本論文の鉄器時代に関する知見は、PNの知見とよく類似しており、異なる地理的経路でアフリカ東部に入ってくるさまざまな生計体系を有する複数集団と一致します。これらは集団変化の単一「段階」として広く集団化できますが、以前に認識されていたよりも、ケニア南部内の集団変化の性質においてより大きな異質性があった、とますます明らかになっています。
コンゴ民主共和国のマタンガイトゥル(MatangaiTuru)遺跡の750年前頃となる個体は、アフリカ中央部への牧畜と農耕の拡大の時の、狩猟採集民と食糧生産者の相互作用の追加の軌跡を強調します。この過程に最適なモデルは、エチオピアのモタ遺跡の4500年前頃の個体と関連する系統を一方の起源、もう一方をPN関連系統に含むものです。モタ遺跡個体の代わりにムブティ人を用いて代替的なモデルを検証すると適合し、主成分分析とも適合してこの個体はムブティの方へと動きます。マタンガイトゥル遺跡個体の利用可能な遺伝的データの精度では、これら2モデルのどちらかを決定できませんが、両モデルは古代DNAの非標本抽出地域におけるPN関連系統を示唆する、と強調されます。この知見は、鉄器時代において、牧畜の有無に関わらずPN集団が継続的に拡大したことを反映しているかもしれません。これは、ナイル諸語およびバンツー語族集団と関連する侵入してくる集団への対応、もしくはそれによる置換と関連しているかもしれません。ただ、この議論は単一個体に基づいており、より正確を期すためには、この地域のより多くのデータが必要です。熱帯雨林地域からの古代DNA抽出の成功は、これが可能と示します。
ウガンダのムンサ(Munsa)遺跡の紀元後14~16世紀頃(500年前頃)の1個体は、既知のタンザニアのペンバ(Pemba)遺跡で発見された600年前頃の1個体とともに、アフリカ東部におけるバンツー語族現代人と関連する系統の拡散を示します。この個体は、ウシの飼育および穀物栽培と関連する、複雑な国家形成期のウガンダにおけるバンツー語族集団を反映している可能性があります。
●アフリカ南部におけるバンツー語族と牧畜民/狩猟採集民との間の混合の直接的証拠
ボツワナでは、北西部のオカヴァンゴデルタ(Okavango Delta)地域で3人、南東部で1人の新たな古代ゲノムデータが得られました。主成分分析では、この4人はほぼバンツー語族現代人と関連する系統で構成されていますが、その中でも優勢な遺伝的系統はアフリカ南部のオヴァンボ(Ovambo)人と関連しています。ボツワナの4人の地理と主成分分析での位置を考えると、アフリカ南部狩猟採集民と関連する別の遺伝的系統が想定されます。そこで、ボツワナの4人に関して、双方向モデルでアフリカ南部の2000年前頃と1200年前頃の個体が検証されました。その結果、北西部のンクォマ(Nqoma)遺跡およびサロ(Xaro)遺跡の3人はアフリカ南部の1200年前頃の個体と関連する系統を30~40%、南東部のタウコメ(Taukome)遺跡の1人はアフリカ南部の2000年前頃の個体と関連する系統を10%程度有する、とモデル化できました。
ンクォマ遺跡とタウコメ遺跡の個体は、両方のアフリカ南部系統起源がデータと適合しましたが、サロの2人は、アフリカ南部の1200年前頃の個体と関連する系統のみが適合しました。アフリカ南部の2000年前頃の個体がアフリカ南部狩猟採集民系統と混合していない一方で、アフリカ南部の1200年前頃の個体はアフリカ東部PN関連系統との混合が示されており、これはほとんどのコイサン集団現代人に存在するパターンです。したがって、アフリカ南部の1200年前頃の個体のみがサロ遺跡の2人と適合するモデルを提供するという事実は、サロ遺跡の2人におけるPN関連系統を示唆します。本論文の知見は、ンクォマ遺跡の1人における同じ系統の存在を示しますが、この個体のゲノムデータは低網羅率なので、これを検証できません。また、古代ボツワナ個体群が現代コイサン集団と異なる系統を有しているのかどうか検証され、ジューホアン(Juhoan)北部集団のみが、グイやナロもしくはジューホアン南部人と比較して、古代ボツワナ個体群と類似性が少ない点で際立っている、と明らかになりました。qpAdmモデリングでさまざまなボツワナ集団の起源を用いて評価すると、バンツー語族現代人と関連する系統のさまざまな代理の中で、ナミビアのオヴァンボ人のみが適合モデルを提供しますが、ボツワナおよび南東部バンツー語族現代人で人口の多いツワナ人とカラハリ人は、モデル化に失敗します。
オヴァンボ人に追加の起源として、タンザニアのルクマンダ遺跡のPNとなる3100年前頃の個体およびアフリカ南部の2000年前頃の個体で、3方向モデルの適合によりPN関連系統が確認されました。ボツワナのサロ遺跡の1400年前頃の個体とンクォマ遺跡の900年前頃の個体は、PN関連系統からの14~22%程度を示します。これと一致して、サロ遺跡の2個体の単系統標識も、混合系統を支持します。サロ遺跡の1人(XAR001)はミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)L3e1a2とY染色体ハプログループ(YHg)E1b1a1a1c1aで、ともにバンツー語族集団で一般的です。サロ遺跡のもう1人(XAR002)は、ほとんどの古代アフリカ東部牧畜民と関連するYHg-E1b1b1b2bで、アフリカ南部の現代の牧畜民でも見られますが、mtHgはL0k1a2で、南アフリカ共和国のコイサン集団起源の可能性があります。
新石器時代牧畜民とバンツー語族集団のどちらの系統が南アフリカ共和国の狩猟採集民関連遺伝子プールと混合したのか、連鎖不平衡減衰を用いて評価され、アフリカ東部牧畜民関連の混合が、一般的にバンツー語族関連系統からの混合に先行する、と明らかになりました。これは、現代アフリカ人のゲノムに基づく南アフリカ共和国の集団の以前のモデル、およびアフリカ東部牧畜民が鉄器時代前にアフリカ南部に定着したとする言語学・考古学的仮説と一致します。
本論文のデータは、アフリカ東部牧畜民とアフリカ南部狩猟採集民の混合がどこで起きたのか、という問題を扱っていません。しかし、古代DNAデータは明確に、ボツワナ北西部のオカヴァンゴデルタにおける紀元後千年紀後半までの、すでに混合した南部狩猟採集民と東部牧畜民系統の存在を示します。ボツワナでの混合事象の順序は、バンツー語族関連系統およびアフリカ南部の1200年前頃の個体を有するオカヴァンゴデルタ個体群における、系統混合の存在により支持されます。逆に、バンツー語族およびアフリカ東部牧畜民集団の祖先間の交雑がアフリカ南部において狩猟採集民系統が入る前に起きたならば、その痕跡は他の地域で明らかですが、これまで、マラウイ近くのバンツー語族の早期の到来者は、このアフリカ東部構成を有していない、と示されています。
むしろ、最節約的なモデルでは、最初の集団混合がアフリカ南部の2000年前頃の個体と関連する集団、および最初の混合の子孫であるアフリカ南部の1200年前頃の個体集団と、アフリカ東部牧畜民との間で起きた、と示します。アフリカ南部に到来したバンツー語族はそれから、サロ遺跡個体と関連する集団と混合しました。これまでに分析されたどの現代人集団も、サロ遺跡の2人と同じ系統の混合はありません。今後の標本抽出の増加により、そうした集団が明らかになるかもしれませんが、現時点では、この集団が後に、混合しておらず現在この地域に居住するバンツー語族集団に置換された、と示唆されます。
ボツワナと南アフリカ共和国におけるアフリカ東部牧畜民関連系統の到来は、この地域における乳糖耐性の出現と関連しており、それはナマ人のようなコイ語現代人に見られます。そこで、乳糖耐性と関連する既知の一塩基多型アレルが古代ボツワナ個体群もしくは他のアフリカ個体群で見つかるのか、検証されました。PN関連の8人では、乳糖耐性関連アレル存在の証拠は見つかりませんでした。バンツー語族の拡大と関連づけられてきたマラリア耐性遺伝子も検証され、サロ遺跡の1個体(XAR002)で派生的アレルがみつかり、この個体の遺伝的構成で見られるバンツー語族関連系統の混合と一致します。遺伝的結果は、早期鉄器時代のボツワナにおける農耕・牧畜・狩猟採集の多様性を示唆する考古学的データを反映しています。ボツワナでもアフリカ東部と同様に、特定の時空間的環境における相互作用と統合の特有の軌跡が、最近までアフリカの歴史の特徴だった生計戦略の多様性に影響を与えたようです。
●アフリカ中央部歴史時代におけるバンツー語族と関連する系統
コンゴ西部最新の古代ゲノムは、キンドキ(Kindoki)遺跡の230年前頃の個体と、ンゴンゴムバタ(NgongoMbata)遺跡の220年前頃の個体で、バンツー語族現代人と関連する混合されていない系統を示し、500年前頃となる上述のウガンダのムンサ遺跡個体と類似しており、主成分分析では、タンザニアのペンバ遺跡の600年前頃となる個体やアフリカ東部および南部の一部のバンツー語族話者とともに、密接にクラスタ化します。キンドキ遺跡の230年前頃の個体とンゴンゴムバタ遺跡の220年前頃の個体が単一の遺伝子集団としてまとめられ、現代バンツー語族集団およびそれと関連するムンサ遺跡個体など古代のゲノムとの遺伝的類似性が、外群f3統計で検証されました。本論文の標本群は、ペンバ遺跡の600年前頃の個体およびケニア鉄器時代のデロレイン遺跡個体と最高の遺伝的類似性を示し、アフリカ南部バンツー語族のオヴァンボ人が続きます。さらに、f4対称性検証では、ペンバ遺跡の600年前頃の個体よりも古代コンゴ個体群もしくはオヴァンボ人のどちらかと、多くの遺伝的類似性を有する他の集団は見つかりませんでした。
バンツー語族と関連する系統を有する古代の個体群が、その顕著な時空間的距離にも関わらず、現代バンツー語族集団とよりも相互に密接に関連しているという事実は、後の移住の結果として、ほとんどの現代バンツー語族集団における追加の系統構成の流入を反映しているかもしれませんが、一般的に現代の遺伝子型決定データと比較して相互にわずかに引きつけられる、古代DNA標本群間のバッチ効果による混同の可能性もあります。また、コンゴ民主共和国や多くの近隣諸国を含む現代集団の標本抽出に明らかな相違があることも要注意です。
キンドキ遺跡のもう1人の古代個体の年代は150年前頃で、主成分分析でも混合分析でも、キンドキ遺跡の230年前頃となる個体とは異なる遺伝的構成を示します。キンドキ遺跡の230年前頃となる個体がンゴンゴムバタ遺跡の220年前頃の個体と集団化され、キンドキ遺跡の150年前頃となる個体がと他の2人の歴史時代集団が遺伝的に類似しているのか、f4統計で検証されました。いくつかのユーラシア西部集団もしくはユーラシア西部系統を有する古代アフリカ集団が、他のコンゴの個体群とよりも有意にキンドキ遺跡の150年前頃となる個体に近い、と示されました。キンドキ遺跡の150年前頃となる個体は、qpAdmではバンツー語族関連系統が85±7%、ユーラシア西部関連系統が15±7%とモデル化できます。この系統構成は、キンドキ遺跡の150年前頃となる個体がポルトガル系統を有する、という仮説と一致します。この仮説は、コンゴの植民地史、およびキンドキ遺跡の150年前頃となる個体や他の個体群のキリスト教埋葬様式と合致します。以下、本論文で取り上げられた主要なサハラ砂漠以南のアフリカ個体の系統構成を示した、本論文の図3です。
●まとめ
本論文は、ケニア・ウガンダ・コンゴ民主共和国・ボツワナの20人分の新たな古代ゲノムデータを提示し、既知のデータと組み合わせることで、サハラ砂漠以南のアフリカ全体の多様な人類集団の共存・移動・相互作用・混合を報告しています。アフリカ全域で最初の視覚化された系統は、南部のサン人や東部のハッザ人や中央部熱帯雨林地帯のムブティ人のような、現代狩猟採集民集団と密接に関連しています。現在のデータが示すのは、この地理的に定義された狩猟採集民集団構造がアフリカ東部では少なくとも中期完新世までさかのぼり(4500年前頃となるエチオピアのモタ遺跡個体に表されます)、現在の狩猟採集民集団はかつて空間的に重なっていた系統の収縮を反映している、ということです。アフリカ東部・南部・中央部の地域的な狩猟採集民間の遺伝子流動の制約は、乾燥化の進展のような気候・環境要因による長期のものなのか、食糧生産集団による包囲の結果なのかに関わらず、アフリカで観察された集団構造に著しく寄与した可能性が高そうです。
重複する狩猟採集民系統が、食糧生産前の移住を反映している可能性もあります。たとえば、早期完新世におけるアフリカ北部から東部への骨製銛技術や波線土器や水産資源に基づく経済も、集団移住を伴っていた可能性があります。当時のより湿潤な気候条件はまた、アフリカ中央部熱帯雨林とアフリカ東部の大湖沼の狩猟採集民間の、以前には見えなかった東西のつながりを促進したかもしれませんが、それはおそらくカカペル遺跡の3900年前頃の個体におけるムブティ関連系統に反映されています。
本論文で新たに報告されたケニアのPNの6人は、以前に報告された同じ地域のPN個体群で観察されたよりもずっと複雑な系統を示します。これがランダムな配偶と均質化を妨げる集団構造の結果であるかもしれない一方で、このパターンの別の説明として、早期牧畜民が複数の同時代の地理的に異なる経路で南下し、それはアフリカ東部全域でのマサイ人などの歴史的な移住と類似していた、という想定もできます。そのような想定では、アフリカ北部の単一集団が、ある牧畜集団はナイル川回廊に沿って移動したり、ある集団はエチオピア南部やあるいはウガンダ東部を通ったりしたように、多数に分岐したかもしれません。さまざまな軌道に沿って、集団は異なる集団と遭遇し、共同体間関係の多様なパターンを形成し、系統のより多様な統合をもたらしました。このモデルは、物質文化・居住戦略・埋葬伝統の明確な多様性が、なぜ密接に共有された系統を有するPN集団間でたいへん長く維持されたのか、説明できるかもしれません。
さらに、ケニアのモロ洞窟遺跡PN期個体におけるかなりのアフリカ東部狩猟採集民系統の存在は、考古学的記録で明らかにされているよりも、在来の狩猟採集民の長期の存続を示唆します。全体的に遺伝的に均一なように見えるにも関わらず、狩猟採集民集団は、遺伝的混合の時期と構造に影響を及ぼす侵入してくる牧畜民とは、抵抗もしくは統合のさまざまな程度で相互作用しました。追加の考古学的・考古遺伝学的データが、このモデルを検証し、移住と相互作用の歴史的に偶然のパターンをよりよく構築するのに依然として必要です。
鉄器時代に入ると、アフリカ東部・中央部・南部で集団移動の複数経路の証拠が再び見られます。ヴィクトリア湖近くのカカペル遺跡の鉄器時代の2人は、以前に報告された中央地溝帯の鉄器時代の5人よりも、極端というかほぼ完全なナイル諸語系統の増加を示し、おそらくはルオ人の到来と関連しています。これに関する唯一の説明は、遺伝的置換が地域特有で、複数の異なる移住を伴った可能性がある、ということです。後期鉄器時代のコンゴ東部におけるPN関連系統の観察は、その時点でのバンツー語族関連系統の欠如と同様に、現時点では孤立した知見となり、これに関しては、アフリカ東部核地域の西方におけるPN関連系統の拡大についてのさらなる調査が必要です。
ルヒヤ人やキクユ人のような現代人集団の系統で明らかな、侵入してくるバンツー語族と、鉄器時代ディンカ関連系統との間の相互作用は依然として不明で、農耕拡大が排他的にバンツー語族集団経由のみだったのか、それとも在来集団の採用だったのか、という問題も含みます。しかし、本論文の新たなゲノムデータは、バンツー語族移住のさらに南方への痕跡を追跡します。本論文のデータは、紀元後千年紀のボツワナにおけるバンツー語族関連系統を有する人々の到来と、アフリカ東部牧畜民およびアフリカ南部狩猟採集民系統との混合を示します。これは、この地域における異なる3系統間の相互作用の証拠を提供し、バンツー語族共同体が1700年前頃までにアフリカ南部に到達した、という仮説と一致し、またアフリカ南部へのバンツー語族拡大前の牧畜民の拡大という仮説への遺伝的証拠を提示します。
アフリカ南部のバンツー語族関連系統の痕跡に加えて、ウガンダとコンゴ西部の歴史時代の個体群で混合されていないこの系統が見つかりました。この遺伝的構成は、以前に報告されたタンザニアのペンバ遺跡の600年前頃の個体や、ケニアの鉄器時代のデロレイン遺跡の個体や、現代バンツー語族南部集団(オヴァンボ人)と類似しており、すでによく記録されているバンツー語族拡大による遺伝的均質化と一致します。それにも関わらず、古代DNA研究は、バンツー語族とサハラ砂漠以南のアフリカの地域的な狩猟採集民および牧畜民とのひじょうに多様な混合パターンを明らかにしつつあります。コンゴ西部とタンザニアでは、歴史時代まで混合されていないバンツー語族関連系統が持続しましたが、アフリカ南部では、バンツー語族の最初の到来から数世紀以内で顕著な混合の証拠が見られます。
本論文は、超地域的研究が大陸規模の過程を理解するのに重要である一方、地域に焦点当てた研究が、文化的および集団の変化の地域特有パターンをよりよく理解するのに将来必要となる、と強調します。アフリカ東部とボツワナ北方地域へ最初に牧畜民をもたらした過程をよりよく理解し、早期牧畜民と南アフリカ共和国の狩猟採集民との間の相互作用についてより詳細を明らかにするには、スーダンとアフリカの角が重要な地域となるでしょう。近年のアフリカの古代DNA研究の進展を考えると、今後の進展が大いに期待されます。
参考文献:
Wang K. et al.(2020): Ancient genomes reveal complex patterns of population movement, interaction, and replacement in sub-Saharan Africa. Science Advances, 6, 24, eaaz0183.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aaz0183
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