加藤真二「いくつかの事例からみる中国北部における後期旧石器の開始について」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A01「アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2019年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 25)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P23-30)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 中国北部(中国東北部、華北)においては、較正年代で42000~40000年前頃以降に、石器群に石刃技術・磨製骨角器・装身具などの後期旧石器(ユーラシア西部では上部旧石器時代、サハラ砂漠以南のアフリカではおおむね後期石器時代に相当)的な様相が明瞭に現れてきます。本論文は、この42000~40000年前頃を前後する時期の石器群が出土したいくつかの多層遺跡を取り上げ、石器群の変遷を示します。さらに本論文は、中国北部における中期旧石器時代から後期旧石器時代への移行のシナリオも提示します。本論文で取り上げられる遺跡は、内モンゴル自治区金斯太(チンスタイ、Jinsitai)、吉林省寿山仙人洞、遼寧省小孤山仙人洞、河北省油房、河北省水簾洞、山西省下川遺跡群、寧夏回族自治区水洞溝遺跡群、河南省龍泉洞です。なお、以下の年代は基本的に放射性炭素年代測定法による較正年代です。

 内モンゴル自治区金斯太遺跡では、第8層(47034~43720年前、44289~42306年前)において、円盤状石核(13点34.2%)、単設打面石核ならびにテスト石核(12点31.6%)、多面体石核(11点28.9%)から剥離された分厚い剥片を素材にした鋸歯縁石器類(32点41.6%、鋸歯縁20点、ノッチ9点、錐3点)、各種削器(23点30.0%、単刃型10点、両刃型1点、収斂型4点、デジェ型3点、横刃型5点)などが出土しました。また、掻器(非典型的なもの5点6.5%)、彫器(0点)などの後期旧石器的な石器は基本的に欠落しています。これらの特徴から、チンスタイ遺跡第8層の石器群は、鋸歯縁石器群(D群)と判断されます。また、ルヴァロア(Levallois)石核1点、ルヴァロア剥片4点、ルヴァロアポイント2点、ルヴァロア石刃2点など、少数ながらルヴァロア技術の存在を示す資料も見られます。第7層(39690~37825年前、40286~38664年前)でも、円盤状石核(8点24.2%)、単設打面石核ならびにテスト石核(10点30.3%)、多面体石核(15点45.5%)で剥離された剥片を素材とする鋸歯縁石器類(16点47.1%、鋸歯縁7点、ノッチ4点、錐5点)、各種削器(12点35.3%、単刃型6点、デジェ型1点、横刃型5点)などが出土しました。第8層石器群と同様、鋸歯縁石器群(D群)と判断されますが、第7層のルヴァロア技術的な要素は、ルヴァロア剥片2点、ルヴァロアポイント1点などで、第8層より微弱になっています。また、後期旧石器的な石器として彫器が見られます。中文化層(第6層・第5層、27680~27044年前)では、削器303点を中心とする石器群が出土しました。削器には、ノッチ状の凹刃をもつもの35点が含まれるとともに、ベック状削器1点、錐18点もあり、尖頭石器31点も見られます。108点出土した石球には、多面体石核が含まれると考えられます。これらから、中文化層も鋸歯縁石器群(D群)と判断できます。これに、長型掻器2点などの後期旧石器的な石器、角錐状細石核(第5層)、おそらくは搬入品の可能性が高い大型石刃や砥石が伴います。

 吉林省寿山仙人洞遺跡では、下文化層(ウラン系列法で第4層162100±18,000年前、第3層)から多面体石核から剥離された分厚い剥片、それを素材とした鋸歯縁石器、ノッチ、削器が出土しました。打製骨器も出土しています。そのため、鋸歯縁石器群(D群)と判断できます。上の文化層(第2層40008~37319年前)では、石核はないものの、不定形な分厚い剥片を素材とした大型の鋸歯縁石器、ベックが見られ、鋸歯縁石器群(D群)の可能性が高そうです。これとともに、中国東北部では最古の黒曜石素材の石器となる掻器や磨製骨器などの後期旧石器的な様相も見られます。

 遼寧省小孤山仙人洞遺跡では、第2層下部(44641~43306年頃?)から、閃長岩製のルヴァロアポイント類似品が単独で出土しています。第2層上部から第3層(40000~21000年前頃)にかけて出土した石器は、少数を除くと基本的に石英を素材とし、節理面を打面とする単設打面石核が主体的です。両極石核・両極剥片も多く見られます。多数検出されている石球には、多面体石核が含まれていると予測されます。少数ながら石刃石核と石刃、稜付き剥片などもあります。トゥールには、鋸歯縁石器(26件5%)、ノッチ(27点5%)、ベック(222点39%)、錐(53点10%)などの鋸歯縁石器類が多く、各種削器(20点4%)がこれに続きます。尖頭石器(3点1%)や彫器(3点1%)、礫器(11点2%)なども少数ながら存在します。こうした剥片剥離技術や石器組成から、石英素材の鋸歯縁石器群(DQ群)と判断されます。また、磨製骨角器、各種装身具が共伴する点も特徴的です。

 河北省油房遺跡では、基盤上にのる第4層の年代測定は光刺激ルミネッセンス法(OSL)に基づいており(黒色帯ならびに黄橙色粘質砂層、56000~52000年前頃)、さらにその上の第3層(橙褐色粘質土層)下半部(OSLで52000~48000年前頃)では、少数の小型剥片石器群が出土していると報告されており、複数の鋸歯縁石器と厚型削器が確認されていることから、D群と判断できます。第3層上に堆積する第2層(黄土層)の中・下部(OSLで35200~27400年前頃)では、石刃と小石刃を交える石器群が出土しています。石器群の詳細な内容は不明ですが、後期旧石器的な石器群(UP群)、もしくは同じ泥河湾盆地に所在する河北省梅溝遺跡のように小型~中型石刃を用いた背付き尖頭器をもつ石器群(TB群)と考えられます。第2層上部(OSLで27400年前頃以降)からは、細石刃石器群(M群)が出土しました。

 河北省水簾洞遺跡では、堆積層において、炭化物を多く含む層が多数観察されます。基盤の上に直接堆積する最下層の第4層(42500年前頃)からは、石英を主な石器石材とした石器群が出土しました。剥片剥離は直接打撃と両極打撃によるものが報告されています。トゥールは、二次加工による素材の改変度合いが低く、素材剥片の形状をほとんど変えない簡素な二次加工で作出されたものが多く、ベック・ノッチ・鋸歯縁石器などの鋸歯縁石器類を主要な器種とし、厚型削器なども見られます。典型的な石英素材の鋸歯縁石器群(DQ群)と判断できます。トラバーチン層をはさんで、第4層の上に堆積する第3層/第2層(35000~28000年前頃?)では、ベック・ノッチ・鋸歯縁石器などの石英製の鋸歯縁石器類を主要な器種とする石器群に、第3層では石英岩や珪質頁岩を素材とした小~中型石刃やそれを剥離した直方体小口面型石刃石核、石英製小型円形掻器、第2層では石英製掻器・磨製骨角器などの後期旧石器的な要素を見出すことができます。また、黒曜石製剥片1点が地中のクラックから採集されていますが、出土レベルや表面の状況から第3層に包含されていた可能性が高いと報告されています。第3層・第2層の石器群も石英素材の鋸歯縁石器群(DQ群)と判断できます。

 山西省下川遺跡群では、富益河圪梁地点において、第4層(微紅色砂質粘土層、38000年以上前)で、石英岩・石英砂岩を主な石器石材とする単設打面石核(6点27.3%)、両設打面石核(8点36.4%)、多面体石核(8点36.4%)などの石核、同じく石英岩・石英砂岩を素材とした礫器10点、多面体石器もしくは石球5点、ピック4点などの大型石器、ノッチ・ベック・非典型的な掻器などの剥片石器が出土しました。石核には打面調整などは見られません。これらとは別に、本層で石英岩・砂岩製の剥片、礫器5点、石球1点に交じって燧石製剥片・スクレイパー・鋸歯縁石器若干が出土しています。礫器を多くもつ鋸歯縁石器群(DP群)、もしくは長い石核石器(LCT)をもつ鋸歯縁石器群(DL群)と考えられます。第4層の上に堆積する第3層(紅褐色粘土層:4万年前頃)では、石英砂岩・砂岩・石英岩などを用いた、少数の礫器・ベック・ノッチなどが出土しました。礫器を多くもつ鋸歯縁石器群(DP群)と考えられます。第3層上に堆積する第2層(褐色亜粘土層)では、下半部に石英岩・石英砂岩・砂岩などを素材とした磨盤・礫器・斧形石器・多面体石器などの粗大な石器に、石英岩・石英砂岩・フォルンフェルスなどを石器石材とした掻器・削器・鋸歯縁石器などの大ぶりな剝片石器、少数のチャート製剥片石器を伴う石器群が報告されています。これには、漏斗状・亀甲状・多面体石核、チョッパーコアなどが見られますが、石刃状剥片の剥離痕を残すものも散見されます。富益河圪梁地点では、最古の旧石器文化は、石英砂岩を主な素材とした簡易な石核-剥片技術石器群であり、前期旧石器から中期旧石器に相当します。その後、黒色チャートを素材とした簡易な石核-剥片技術石器群の段階(43000~39000年前)、台形石器を含む黒色チャート製石器群に石英砂岩製打製石斧・片刃石斧(手斧)、赤鉄鉱を粉化した磨盤などがみられる段階(39000~-29000年前)、石刃技術をもつ細石刃石器群の段階(29000~26000年前頃以降)と続きます。このうち、39000~29000年前段階の石器群は後期旧石器的な石器群(UP群)もしくは台形石器をもつ石器群(TB群)、29000~26000年前頃以降の石器群はM群と判断できます。小白樺圪梁地点では、富益河圪梁地点の第3・4層に対応すると考えられる赤色粘土層上面に堆積する第3層(頂部に黒色帯をもつ橙黄色亜粘土層、3万年前頃)では、チャート・メノウを主な石器石材とする剥片石器群が出土しました。調整を施さない節理面を打面とする単設、両設石核、両極打撃によるものから剥離され剥片を素材とする、掻器2点、削器7点、楔形石器2点、ベック1点、鋸歯縁石器1点、砂岩製礫器1点が出土しました。このうち、掻器に分類された「掻器―彫器」は、分厚い剥片を素材とした小石刃石核の可能性が高く、鋸歯縁石器群(D群)と判断できそうです。第3層上に堆積した第2層(灰褐色亜粘土層、27000~25000年前頃)以上では、チャートを主な石材とする細石刃石器群(M群)が出土します。小白樺圪梁地点第3層・第2層は、富益河圪梁地点第2層下半部・同上半部にそれぞれ対応すると推測されます。

 寧夏回族自治区水洞溝遺跡群の最古の段階の石器群は、Loc.1(の下文化層(41300~40400年前)、Loc.2の第7文化層(41400~40400年前)に代表されます。盤状石核を含む石刃石核から剥離された大型石刃、ならびにそれを素材とする各種のトゥールで構成される石器群(B群)です。確実な年代値をもたないLoc.9のB群の石器群もこの段階と考えられます。次いで、単打面石核や多面体石核、両極打撃によるものなどで剥離された不定形な剥片を素材とする掻器、削器で構成される石器群(UP群)、あるいは、削器を中心とし、ノッチ・鋸歯縁石器・各種尖頭石器などの見られる鋸歯縁石器群(D群)が盛行します。前者には、Loc.2 第6・第5b・第4・第3(32600~31600年前)・第2(31200~28800年前、第1a(28200~27300年前)の各文化層、後者にはLoc.7(OSLで27200±1500年前頃)、Loc.8(31300~29900年前)などが挙げられます。このうち、Loc.2第2・第1a文化層には、良質な石材を用いた小石刃も見られます。また、ダチョウの卵殻(Loc.2第2文化層、Loc.7、Loc.8)や淡水性貝類の貝殻(Loc.2第3文化層)を素材とするビーズなども報告されています。この段階では、Loc.2第5a文化層(32800年前)でB群の石器群が検出されています。

 河南省龍泉洞遺跡では、最深部に当たるC区第3層(42000年前頃)、主要な堆積層であるC区第2層・D区(35000~31000年前頃)出土の石器群が一括して報告されています。石器群は石英を主な石器石材とし、単設打面石核(23点24%)、複設打面石核(33点34%)、多面体石核(2点2%)、礫器状石核(チョッパーコア)を含む盤状石核(5点5%)、両極打撃によるもの(14点15%)から剥離された剥片を素材とした削器(34点71%)、尖頭器(2点4%)、錐・ベック(12点25%)などのトゥールで構成され、DQ群と判断できます。このうち、C区第2層に入ると、石刃状剥片を含む縦長剥片が目立つとともに、磨製骨器(骨錐)が出土しました。

 これらをまとめると、以下のようになります。
●チンスタイ遺跡
第8層(47034~43720年前、44289~42306年前):D群+ルヴァロア技術
第7層(39690~37825年前、40286~38664年前):D群+ルヴァロア技術
第6層・第5層(27680~-27044年前):D群+大型石刃、磨石+M群
●寿山仙人洞遺跡
下文化層(第4層はウラン系列法で162100±18000年前、第3層):D群
上文化層(第2層40008~37319年前):D群+黒曜石製石器,磨製骨器
●小孤山仙人洞遺跡
第2層下部(44641~43306年前頃?):閃長岩製のルヴァロアポイント
第2層上部から第3層(40000~21000年前頃):DQ群+磨製骨器、装身具
●油房遺跡
第4層(OSLで56000~52000年前頃)・第3層下半部(OSLで52000~48000年前頃):D群
第2層中・下部(OSL で35200~27400年前頃):UP群もしくはTB群
第2層上部(OSL で274000年前頃以降):M群
●水簾洞遺跡
第4層(425000年前頃):DQ群
第3層/第2層(35000~28000年前頃?):DQ群+小・中型石刃,掻器、磨製骨器,黒曜石製剥片
●下川遺跡群
第4層(38000年前頃以上):DP群もしくはDL群。
第3層(4万年前頃):DP群
第2層下半部(3万年前頃):D群もしくはUP群もしくはTB群+磨盤、石斧類、赤鉄鉱
第2層上半部(27000~25000年前頃):M群
●水洞溝遺跡群
第1段階(41400~40400年前):B群
第2段階(32600~27300年前):UP群もしくはD群、B群+装身具、小石刃
●龍泉洞遺跡
第3層(42000年前):DQ群
第2層(35000~31000年前):DQ群+石刃状剥片・縦長剥片、磨製骨器

 本論文は、中国北部における石器群の様相の変化を、冒頭では42000~40000年前頃としましたが、これまでに検証してきた各遺跡の石器群の変遷からは、41500~40000年前頃まで絞り込めた、と指摘します。41500~40000年前頃以前には、鋸歯縁石器群グループ(D群・DQ群・DP群)が盛行します。この段階でのD群・DQ群には、石刃技術・掻器・磨製骨角器などの後期旧石器的な要素は見られません。代わりにチンスタイ遺跡では、ルヴァロア技術がともなっているほか、小孤山仙人洞でも単品ながらルヴァロア尖頭器に類似する資料が出土しています。このほか、西方の中期旧石器にみられるカンソンポイント・タヤックポイントなどに類似した尖頭器類も共伴しています。このため、4万年前頃以前が中国北部の中期旧石器時代と言えます。41500~40000年前頃になると、大型石刃石器群(B群)が一時的、局地的にみられる。B群は、中国北部の初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)と言えます。4万年前頃以後、鋸歯縁石器群グループ(D群・DQ群・DP群)に加えて、後期旧石器的なトゥールをもつ石器群(UP群)、台形石器・ナイフ形石器をもつ石器群(TB群)が見られるなど、石器群が多様化します。また、しばしば装身具や磨製骨角器や小・中型石刃や掻器・彫器などの後期旧石器的な要素が伴います。28000~27000年前頃以後は細石刃石器群が盛行します。41500~40000年前頃に見られる大型石刃石器群(B群)を考慮すると、41500~40000年前頃以後が中国北部の後期旧石器時代と言えます。

 このように、中国北部においては、41500~40000年前頃を境に中期旧石器から後期旧石器に変遷します。しかし、41500~40000年前頃の局地的な大型石刃石器群(B群)を除けば、いずれも主体的な石器群は鋸歯縁石器群集団です。また、4万年前頃以後、鋸歯縁石器群に後期旧石器的な要素が付加された結果、素材剥片の定形化、縞状剥離や刃つぶし加工などの出現に示される二次加工の洗練化、掻器や背付き石器類など、新たな器種の登場などの構造変化が鋸歯縁石器群に起き、後期旧石器的なトゥールをもつ石器群(UP群)、台形石器・ナイフ形石器をもつ石器群(TB群)が派生した、と考えられます。このように、中国北部における中期旧石器時代から後期旧石器時代にかけての変遷の特徴として、主体となる石器群に断絶が見られず、連続的・漸移的に変化していく点がきわめて特徴的と言えます。石器群に断絶がみられるのは、28000~27000年前頃における細石刃石器群(M群)の出現まで待つことになります。

 これら中期~後期旧石器時代の石器群の担い手についてですが、中期旧石器時代の石器群については、河南省の霊井(Lingjing)遺跡の下文化層(第11層:OSLで125000~105000年前頃) でDQ群とともに非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)の「許昌人」が発見されています(関連記事)。許昌人が種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)である可能性も指摘されています。河北省侯家窰遺跡の上文化層(ウラン系列法で125000~104000年前頃もしくはOSL で60000±8000~69000±8000年前頃)では、DQ群もしくはD群とともに古代型ホモ属の許家窰人が発見されています。中国北部では、これらより新しい年代の確実な古代型ホモ属の出土例は知られていません。そのため現時点では、中国北部で古代型ホモ属の生存が明確なのは、酸素同位体ステージ(OIS)5までとなり、以後、OIS3(4万年前頃)の現生人類(Homo sapiens)である田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)人が確認されるまで、その住人の動向は不明です。他には、内モンゴル自治区シャラオソゴル遺跡群の楊四溝湾・范家溝湾・米浪溝湾・劉家溝湾などの地点で、海洋酸素同位体ステージ(MIS)5となるシャラオソ層群において、D群ともに現生人類あるいはネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)的な特徴をもつ人骨が出土していますが、評価が定まっていません。また、年代測定がなされていない遼寧省鴿子洞遺跡では、D群とともに頭頂骨・側頭骨・膝蓋骨の破片が出土しました。それらの形態的な特徴は現生人類と変わらない、と報告されています。さらに、山西省西溝遺跡(ウラン系列法で5万年前頃)では、D群とともに出土した人骨が現生人類と同定されています。

 後期旧石器時代では、上述のように田园洞窟遺跡で現生人類の遺骸が発見されており(42000~39000年前頃)、赤色顔料片が共伴しています。周口店山頂洞(35100~33500年前頃)では、DQ類・各種磨製骨器・装身具・赤色顔料などともに現生人類の山頂洞人が出土しています。山西省峙峪遺跡(36200年前頃)でもD群に伴って現生人類の峙峪人が出土しました。これらの報告からは、後期旧石器時代の中国北部の人類は現生人類のみだった、と考えられます。

 本論文は最後に、中国北部の中期旧石器時代と後期旧石器時代の石器群間にも見られる連続性、4万年前頃以降の後期旧石器的な要素の付加と石器群の漸移的な変化、古代型ホモ属と現生人類の年代などに基づいて、中国北部における中期旧石器時代から後期旧石器時代への変化のシナリオを提示しています。まず、41500~40000年前頃以前には、中期旧石器時代OIS5まで、中国北部には古代型ホモ属集団のみが分布していました。その後、現生人類集団が中国西南部を含む中国南部から中国北部へ拡散し、在地の古代型ホモ属集団と置換しました。田園洞人の年代(42000~39000年前頃)から、4万年前頃には置換が完了していたと考えられます。古代型ホモ属集団から現生人類集団に引き継がれたか、両集団ともに鋸歯縁石器集団(D群・DQ群・DP群など)を使用していました。なお、中国南部の現生人類集団の北上時期に関しては、河南省織機洞第8・9層(MIS4~MIS3初頭?)など、中国南部に普遍的な石英砂岩を多用し、礫器を多くもつ石器群(PF群)の中国北部における動向に注意を向ける必要がある、と本論文は指摘します。

 41500~40000年前頃、B群の担い手である現生人類集団が西方もしくは北方から中国北部に侵入し、鋸歯縁石器群集団を保持する在地の現生人類集団と接触しました。4万年前頃以後、中国北部の在地現生人類集団が西方の現生人類集団と接触し、小石刃やダチョウ卵殻製装身具などのあらたな要素を受容して、鋸歯縁石器群の変容が進行し、後期旧石器的な石器群(UP群)や台形石器や背付き尖頭器をもつ石器群(TB群)などが派生します。28000~27000年前頃以後、北方の後期旧石器時代前期もしくは中期の担い手集団が中国東北部に南下し、在地の新人集団が後期旧石器時代前期や中期の石器技術を受容します。そのさい、細石刃技術が発明され、受容した石器群に組み込まれていた小石刃技術と置換し、細石刃石器群(M群)が成立して、中国北部に拡散しました。


参考文献:
加藤真二(2020)「いくつかの事例からみる中国北部における後期旧石器の開始について」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2019年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 25)』P23-30

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