サモアの人口史

 サモアの人口史に関する研究(Harris et al., 2020)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。オセアニアへの人類の移住には、2回の大きな波がありました。最初の波は遅くとも5万年前頃までに起きたと考えられ、パプア諸語集団とオーストラリア先住民集団の祖先が、サフルランド(更新世の寒冷期にはオーストラリア大陸・ニューギニア島・タスマニア島は陸続きでした)とその近辺の島々に到来しました。2番目の波は5000年前頃に始まったオーストロネシア語集団で、アジア南東部島嶼部から最初にニアオセアニアへと到来し、その後でリモートオセアニアへと拡散しました。遺伝学的研究では、この最初のオーストロネシア語集団は最小限度パプア集団と交雑した、と推測されています(関連記事)。しかし、リモートオセアニアの現代オーストロネシア語集団は20~30%程度のパプア人系統を有しており、おそらくは80~50世代前(1世代30年として2400~1500年前)のオーストロネシア語集団とパプア集団との交雑に起因します。

 本論文は、リモートオセアニアに植民したオーストロネシア語集団の子孫である現代サモア人の遺伝的多様性を調査し、以前には考古学的データのみで処理されていた複数の歴史問題に取り組みます。考古学的データからは、複雑な装飾のラピタ土器を含む類似した物質文化を特徴とする生物学的および言語学的に関連する集団により、サモア諸島への最初の定住は2880~2750年前頃に起きた、と推測されています。この装飾土器はサモア諸島では比較的急速に消滅し、その後すぐに装飾のない土器に置換され、サモア諸島の最初の定住から700~800年ほどの遺跡で発見されます。サモア諸島のこれら初期の遺跡は、同年代の近隣となるトンガやフィジーのずっと豊富な考古学的記録とは対照的で、サモア諸島人口史が不明な理由となっています。

 これは、サモア諸島初期集団の人口規模に関する議論の手がかりとされ、小規模で孤立した集団を反映している、との見解が提示されています。しかし、相対的な島の沈下と陸地の堆積により破壊もしくは転置されたのであって、サモア諸島初期集団の規模は大きかったか、少なくとも他のリモートオセアニア集団と同等だった、との仮説も提示されています。また、2000~1500年前頃に、ミクロネシアのカロリン諸島経由でサモア諸島への第二次移住があり、交雑もしくは部分的置換が起きた、との見解も提示されています。装飾のない土器は、1500~1000年前頃に考古学的記録から消えます。このすぐ後に、複雑なサモア諸島の首長制が出現して、サモア人が東西ポリネシアへと航海し、主要な人口統計学的変化が起きた、と示唆されます。サモア諸島の過去には多くの問題が残っており、一般的な遺伝学的研究ではオセアニア集団の標本抽出が不足しているため、遺伝的手法はまだこの研究には含まれていません。

 近現代史では、18世紀にヨーロッパ西部系の人々がサモアに到来した影響について議論があり、19世紀早期にはサモアにおけるヨーロッパ系の政治的支配が確立しました。ヨーロッパ西部系の人々はサモアに病気をもたらし、先住民の人口激減をもたらしました。20世紀初期には、アジア東部の移民労働者がサモア諸島西部に到来しました。こうした近現代における移民が、サモア諸島の人口史を混乱させました。現在、サモア集団の97%は、首都のアピア(Apia)を含むウポル(Upolu)島と、サバイイ(Savai’i)島に居住しています。本論文は、サモアにおける初期と最近の人口動態の解明のため、主要な2島の4国勢調査地域33村の1197人の高網羅率(平均約38倍)となる全ゲノム配列を分析しました。4国勢調査地域は、サバイイ島のSAV、ウポル島のAUA・NWU・ROUで、都市部がAUA(263人)・NWU(358人)、農村部がSAV(253人)・ROU(323人)です。このうち、血縁関係者を除いた969人の常染色体17058431ヶ所の多様体が特定されました。これが、古代および現代人類のゲノムデータと比較されました。

 主成分分析では、サモア人はオセアニア集団と最も密接で、次がアジア東部集団です。ADMIXTURE分析では、419人のサモア人はそのゲノムの少なくとも99%がほぼ単一のクラスタに由来します。このクラスタは他のオーストロネシア集団でも顕著で、パプア人・サモア人・他のオーストロネシア集団の系統を組み合わせているようです。本論文で分析されたサモア人では、非オセアニア系統は最小限しか見られません。これは、4人の祖父母全員がサモア人という分析対象者の条件と一致します。アフリカ系統の大半はアフリカ西部出身、ヨーロッパ系統はおもにヨーロッパ西部出身で、これはヨーロッパによるサモアの植民地化の歴史と一致します。アジア東部系統は、おもに中国南部とメコン川流域です。中国からサモアへの移民労働者の到来は19世紀以降となりますが、これは中国でも南部出身者だったことを示します。

 DMIXTURE分析では、サモア人のゲノムにおけるパプア人系統の比率は平均24.36%です。また、パプア人系統はサモア人において均一に分布しており、この混合はサモアへの到達の前に起きたかもしれません。しかし、パプア系統との複数回の交雑の可能性は除外されません。また、このパプア人系統は、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)ではなく、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)系統と相関しており、サモア人のゲノムにおけるデニソワ人系統が、パプア人系統との交雑を通じて入ってきたことを示唆します。サモア人のゲノムにおけるパプア人系統の割合は、ポリネシア集団でもトンガ人の35.38%よりも低くなっています。ラピタ文化集団によりトンガとサモアが植民された後、80~50世代前(1世代30年として2400~1500年前頃)にリモートオセアニアへのパプア集団の拡大に伴い、オーストロネシア集団との第二の交雑の波があった、と推測されています。この第二の交雑の波は、リモートオセアニアのラピタ文化地域全体では均一ではなかったかもしれません。

 稀な多様体に注目すると、農村間同士よりも都市部と農村部とで共有の度合いが高い、と明らかになりました。また都市部では、全調査地域と共有する比較的稀な多様体が見られます。これは、農村部から都市部への非対称的な移住を示唆しており、サモアにおける都市化パターンと一致しています。都市化は、非オセアニア系集団との交雑にも影響を及ぼした可能性があります。都市部住民のゲノムでは、アフリカ・アジア東部・ヨーロッパ系統が農村部より増加しています。

 18世紀以降、サモア諸島にはヨーロッパ人が到来し、植民地化していきました。その過程で、ヨーロッパ人の持ち込んだ感染症により、10世代前(300年前頃)にサモアの人口は減少し、5世代前(150年前頃)に回復し始め、その後は指数関数的に人口が増加しました。サモアにおけるこのボトルネック(瓶首効果)は、現代サモア人の遺伝的構造に影響を及ぼしています。サモア人と非サモア系との交雑は、ボトルネック後に起きた可能性が高そうです。なお、1918年のインフルエンザ大流行(いわゆるスペイン風邪)では、サモア人におけるボトルネックは観察されませんでしたが、サモア西部では死亡率が20%に達した、と推定されています。推定されるウポル島とサバイイ島の有効人口規模の推移からは、35~30世代前(1050~900年前頃)に両集団が分岐した、と推測されます。ウポル島の有効人口規模(75400人)はサバイイ島のそれ(33600人)より大きく、遺伝的多様性の違いとも一致します。

 サモアの有効人口規模の歴史は100世代前(3000年前頃)の成長期から始まり、ラピタ文化集団がサモア諸島に定住したとされる考古学的な推定年代と一致します。しかし、有効人口規模は100世代前から35~30世代前まではひじょうに低く、この期間の最小推定値は700~900人、最大推定値は3300~3440人です。これは、初期集団の規模が小さかったという仮説を支持します。これは、この時点で恐らくはより大きな集団規模を有した他のオセアニア集団と異なります。この期間のサモアの集団規模の小ささは、オーストロネシア集団の拡大中に他でも見られた急速な移住過程と、サモアにおける限定的な沿岸移住に、部分的に起因するかもしれません。ただ、この期間のサモアの考古学的記録はまばらなので、これは一つの潜在的な可能性にすぎず、サモアの人口規模の小ささの理由の特定には、追加の考古学的データが必要です。

 35~30世代前(1050~900年前頃)に人口増加の長い期間が始まり、ウポル島とサバイイ島の人口史も分岐していき、有効人口規模は1万人を超えます。これは、景観の変化が広く見られる期間に起き、そのほとんどは農耕に起因する可能性が高く、推定される複雑な首長制の起源と一致します。これと関連するかもしれないのは、上述した、67~50世代前(2000~1500年前頃)にミクロネシアのカロリン諸島経由でサモア諸島への移住があったという仮説で、本論文で推定された人口増加時期に先行します。他の重要な文化的変化もこの時期に起きた、と報告されてきました。50~33世代前(1500~1000年前頃)には土器が消滅し、33~17世代前(1000~500年前頃)に開拓地が増加しました。極端な仮説になりますが、本論文で推定されたサモアの有効人口規模の分岐と増加は、先住の創始者集団と交雑し、置換したかもしれない、サモアにおける新たな集団の到来に起因するかもしれません。この場合、現代サモア人のゲノムにおけるパプア人系統の割合が均一であることから、新たな到来集団はすでにパプア人と交雑していた、と考えられます。

 サモアの初期の人類史については議論があり、上述した2000~1500年前頃の集団置換の可能性も含まれます。本論文の遺伝的データは、35~30世代前(1050~900年前頃)にウポル島とサバイイ島の集団が分岐し、それに続いて人口が増加していった、と推定し、潜在的な集団置換を支持します。また、100世代前(3000年前頃)から始まる小さな成長期間と、その後の約70世代(2100年間)の人口低迷も示されます。これは、ラピタ文化の到来とその早期の小さな人口希望を支持する考古学的知見と一致します。しかし、完全な集団置換があった場合、35~30世代前以前の人口史は、元々のラピタ文化集団ではなく、新たな侵入集団を反映しています。古代DNAの証拠なしには、集団置換があったのか、何らかの他の事象が人口増加に結びついたのか、結論を出せません。確かなのは、35~30世代前に明らかな人口動態の変化があり、長く深刻なボトルネックの後に指数関数的な人口増加が始まった、ということです。したがって、この前にサモアに大きな集団が存在していたのならば、完全な集団置換はなさそうです。

 現代サモア人が96~92世代前(2880~2750年前頃)の移住集団の子孫なのか、あるいは33世代前(1000年前頃)の移住集団の子孫なのかに関わらず、サモアの人口構造はおそらくつい最近形成されたものでしょう。稀な多様体の共有は、一般的な多様体に偏った分析よりも、詳細な人口構造と最近の人口統計学的事象をよく解明します。主成分分析ではでは識別できなかった、最近起きた都市化の兆候は、稀な多様体の共有に注目することで観察されました。これは、人口統計学的研究には高網羅率の全ゲノム配列が必要であることを示しています。

 サモアにおいては、35~30世代前(1050~900年前頃)に人口が増加したものの、10世代前(300年前頃)には人口が崩壊し、それはヨーロッパ人の到来による可能性が高く、その後に5世代前(150年前頃)になって指数関数的に人口が増加しています。ウポル島集団はサバイイ島集団よりも遺伝的多様性が高く、現代サモアの人口構造はつい最近の都市化により推進されてきました。現代人の遺伝的データから、サモアの詳細な人口史が明らかになり、それは以前の考古学的研究を補強するとともに、サモアの人口史はごく最近の集団規模の変化の動的な期間を特徴としている、と明らかになります。この研究は、肥満および関連疾患の最近の増加というサモアにおける公衆衛生問題の解決にも寄与し、それはオセアニア全域における将来の研究にも役立つ、と期待されます。


参考文献:
Harris DN. et al.(2020): Evolutionary history of modern Samoans. PNAS, 117, 17, 9458–9465.
https://doi.org/10.1073/pnas.1913157117

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