山岡拓也「オセアニアにおける旧石器時代の考古学研究」
本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A01「アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2019年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 25)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P92-98)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。
更新世のオセアニアの地域区分は、オーストラリアとニューギニアとニア・オセアニアの島嶼部となります。更新世の期間中、ニューギニア島やタスマニア島はオーストラリア大陸と接続しており、サフル大陸(サフルランド)を形成していました。サフル大陸へ拡散できた人類は現生人類(Homo sapiens)のみと考えられていますが、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)がニューギニア島まで拡散した可能性も提示されています(関連記事)。ただ、その可能性が高いとは言えないので、ここでは現生人類のみがサフル大陸へと拡散した、との前提で述べていきます。
サフル大陸への現生人類の到達年代については、47000年前頃との見解が有力になりつつありましたが、2017年に、65000年前頃までさかのぼる、との見解(関連記事)が提示されています。ただ、この見解に対する批判もあります(関連記事)。サフル大陸における現生人類の最初の出現年代がどこまでさかのぼるのか、当分は議論が続きそうです。サフル大陸に拡散した現生人類は、その後でビスマルク諸島やソロモン諸島にも拡散し、34000年前頃までにはソロモン諸島北部にも到達しました。
オセアニアの旧石器時代石器群の特徴は、石核石器が卓越していることと、定形的な二次加工のある剥片石器が乏しいことです。石核石器として、磨製石斧やくびれのある石斧とともに馬蹄形石核があり、主要な剥片石器にはスクレイパー類やその中の拇指状掻器があります。またオーストラリアでは、旧石器時代の時点ですでに磨製石斧が使用されていました。ニューギニア島ではくびれのある石斧も石器群の中に含まれています。更新世にさかのぼる可能性があるくびれのある石斧を含む石器群は、オーストラリア南部のカンガルー島の遺跡でも発見されており、カルタン文化と呼ばれています。もう一つの特徴的な石核石器とされた馬蹄形石核は、平坦な打面から周縁をめぐるように剥離された石核で、オーストラリアの北部・南東部・西部・タスマニア島など広範囲で発見されています。この馬蹄形石核は、従来、石核石器としてとらえられていたものの、近年では、実験結果などに基づき、石核石器(道具)というよりは石核として認識されています。
こうした石核石器に加えて、石器群には剥片石器のスクレイパー類が共伴しますが、タスマニアにおいては拇指状掻器という小形の石器が石器群に含まれます。タスマニアの遺跡は少なくとも35000年前頃までさかのぼりますが、24000年前頃以降に拇指状掻器を組成する石器群が出現し、1万年前頃まで継続します。オーストラリアでは完新世の石器群に日本のナイフ形石器と類似する急角度の二次加工(Backing)で成形された小形の剥片石器(幾何学形細石器、Backed artifacts)があり、更新世の石器群にも含まれます。更新世にさかのぼる幾何学形細石器も発見されています。急角度の二次加工は、タスマニア島のボーン洞窟で3万年前頃から確認されることから、急角度の二次加工の技術はオーストラリアでは少なくとも3万年前頃から二次加工技術のレパートリーの一つと考えられています。
オーストラリアでは、磨石は更新世末から完新世初頭にかけての15000~12000年前頃に定着するとされていましたが、オーストラリアの南東部に位置するクディー・スプリング遺跡では35000年前となる多数の磨石の破片が出土しています。それらの磨石の残渣分析の結果から、イネ科植物の種子加工に用いられていたと推定されており、28000年前頃の拇指状掻器2点が発見されています。ただ、近年の動物遺存体の年代測定の結果、この遺跡の層序は乱れていると指摘されており、更新世の磨石などをめぐっては、信頼できる層序と年代からの裏づけが必要となります。その他に、オーストラリア北部のナウワラビアI遺跡やマラクナンジャII遺跡(マジョベベ遺跡)でも更新世の層序から磨石が出土しています。
またオーストラリアでは、これらの石器が含まれていない石器群も多く発見されています。たとえば、オーストリア西部のデビルズ・レア遺跡では、オーストラリアで最長期間にわたる更新世の考古資料が発見されており、1000点以上の石器が出土していますが、その石器群は小形剥片で特徴づけられるとされています。また、上述のように、一般的にオーストラリアの更新世石器群においては、スクレイパー類が多く含まれ、実際に様々なスクレイパーの分類がこれまでに示されてきましたが、そうしたスクレイパーの多様なあり方は、それぞれスクレイパーの種類が意図して作り出されたというよりは、刃部の再生の結果生じたのではないか、との解釈も提示されています。
オセアニア地おいては開地の遺跡に加えて貝塚や洞窟などの遺跡もあり、石器以外の有機質の考古資料も得られています。そうした考古資料から、サフル大陸において、アフリカやヨーロッパでの研究が進められている、「現代人的行動」のパッケージを構成する要素がどのように出現しているのかも検討されています。具体的には、交換ネットワーク、鉱物資源の獲得、装身具、芸術や象徴的表現、埋葬、経済的集約化、骨器やその他の有機質資料、新しい石器技術などです。
サフル大陸において、交換ネットワークの存在は、4万年前頃以降に確認されています。サフル大陸内や北東に位置する島々との間で海棲貝類・オーカー・石器石材について、産地から遠く離れた遺跡で出土する事例があることから、かなり広域で運搬あるいは交換されていた、と分かっています。鉱物資源の獲得に関わる情報として、石器石材の獲得に関する情報があります。石器石材の採掘の証拠は24000年前頃にさかのぼりますが、石器石材の採掘がより一般的になるのは磨製石斧などが交換される完新世後半と分かっています。
装身具については、ビーズなどの製作が42000年前頃に遡り、ツノガイや小さなイモガイ、カンガルー類の骨、イタチザメの歯で作られたビーズ(あるいはペンダント)などの例があります。線刻礫については、25000年前頃までさかのぼる事例があります。芸術や象徴的表現については、オーカーの利用が42000年前頃まで遡り、岩絵については4万年前頃までさかのぼる可能性があります。埋葬については、おもにマンゴー湖が取り上げられており、最古の事例は4万年前頃までさかのぼります。
経済的な集約化に関しては、貝類・カンガルー類・イネ科植物の種子の加工に利用されたと推定されている磨石などの事例があります。サフル大陸の各地での淡水棲貝類の貝塚が残されており、最古の事例は4万年前頃で、海棲貝類の貝塚はサフル大陸の北西と北東に位置する島々で発見されており、少なくとも 33000年前頃までさかのぼります。オーストラリア(サフル大陸)の遺跡で海棲貝類などの海産資源が本格的に利用されるのは完新世半ばで、更新世での利用はあまり明確ではないものの、いくつかの遺跡で出土しており、3万~2万年前頃と推定されています。
また、タスマニア島では3万年前頃以降にカンガルー類(ベネットワラビー)に特化した狩猟が行なわれ、骨製尖頭器が狩猟具として用いられていました。上述のように、イネ科植物の種子を加工するための磨石が更新世の遺跡でも発見されていますが、それも経済的な集約化の例とされています。クディー・スプリング遺跡の磨石の出土例に基づけば35000年前頃までさかのぼりますが、上述のように層序の信頼性に疑問が呈されており、磨石が出土している他の遺跡の出土例に基づけば、磨石の出現年代は2万年前頃となります。
骨器やその他の有機質資料については、骨製尖頭器の出土事例があり、古いものは約22000年前頃までさかのぼります。骨製尖頭器が出土した遺跡の大半は、タスマニア島を含むサフル大陸南部に位置します。骨製尖頭器は狩猟具の先端部として用いられたほか、動物の皮の穴あけや石器の二次加工で用いられたと考えられています。石器については、新しい石器製作技術ととらえられるものとして、磨製石斧・拇指状掻器・急角度の二次加工のある小形幾何学形石器が挙げられています。
このように、サフル大陸における「現代人的行動」のパッケージは、その全要素が最初からそろっていたわけではなく、その後の約3万年間を通して付け加わっていった、と示されています。サフル大陸の最初期の遺跡では、「現代人的行動」のパッケージの全要素を確認できるわけではないものの、サフル大陸に舟で渡ってきて多様な環境へ適応し、独自の物質文化を残したことを考えると、サフル大陸に最初に到達した現生人類は行動上の現代性を備えていた、と想定されます。それを踏まえると、「現代人的行動」を示すパッケージとされた行動リストのみでは、現生人類の行動上の現代性を評価できない、と指摘されています。最初期の遺跡で認められず、その後時間の経過とともに「現代人的行動」のパッケージの要素が付け加わっていく要因は、人口密度や人口圧の増大にあると考えられますが、それのみがパッケージの要素が付け加わる要因ではないようです。
オーストラリアにおける象徴的表現の出現状況については、芸術・装身具・石器に表現されるスタイルが検討されています。その結果、象徴的表現に関わる各要素は更新世では散発的に認められるのみで、それらが充分に考古資料で認められるようになるのは7000年前頃の完新世半ばであるとされ、その時期に新たな情報伝達経路を必要とする人口規模に達したのではないか、と推定されています。また、サフル大陸における現代人的行動の出現状況については、最終氷期極大期(LGM)以降に顕在化する、とも指摘されています。その背景として、環境が厳しくなる中で退避可能ないくつかの地域に集団が集まり、それぞれの地域で人口圧が増大し、それぞれの土地での許容限度に達したからではないか、と推定されています。
このように、サフル大陸では、「現代人的動」のパッケージを構成する要素が現生人類の拡散当初にはそろわず、LGMあるいは完新世以降に出揃っていくことが注目され、その要因について議論されてきました。一方で、現生人類がサフル大陸に到達し拡散する過程で、多様な環境に適応していることに注目した見解もあります。サフル大陸やアジアでの事例を踏まえると「現代人的行動」を単一あるいは単純な人工遺物や行動のセットとしてではなく、出会った様々な環境に社会的・経済的・技術的な手段で適応できる能力としてとらえる方が、地球規模での現生人類の拡散を考えるさいに、生産的な議論が行なえる、というわけです。
この他に現代人的行動と関わる事例として、上述のタスマニア島における、LGM以降に拇指状掻器が卓越し、カンガルー類(ベネットワラビー)に特化した狩猟が行なわれ、骨製尖頭器が狩猟や動物の(毛)皮の穴あけなどに利用されていたことがあります。これに関しては、寒冷地での適応行動であり、カンガルー類は食料と毛皮で利用され、毛皮でより複雑な衣類が製作されていた、との見解が提示されています。またニューギニア島では、49000~36000年前頃にさかのぼる、炭化したパンダナスの果実やヤムイモのデンプン粒が出土しており、植物利用に関わる情報が得られています。コシペ遺跡やその周辺の遺跡から出土している磨製石斧は、有用な植物を育てるために、森林の木々を伐採するために用いられていた、と推定されています。
「現代人的行動」に関わる研究については、2000年代初頭までは主にヨーロッパやアジア西部やアフリカで進められてきたようですが、それ以降、それらの地域とは人類の歴史や地理的な条件が大きく異なるオセアニアの考古資料に基づいて、「現代人的行動」に関わる議論が進められてきました。また、LGMのタスマニアの事例は、南半球の高緯度地域における寒冷地適応の具体的な在り様が示されている点で重要です。動物資源に大きく依存する点や、動物の皮の加工と関わる搔器の利用が卓越する点は、北半球のユーラシア高緯度地域における後期旧石器時代(上部旧石器時代)の諸事例と共通する一方で、ユーラシア高緯度地域の石器群で一般的に認められる石刃技法は、タスマニアのLGMの石器群では確認されていません。これは、石刃技法が環境に適応するために発明される技術であるというよりは、文化的に伝達されることで獲得される技術であることを示しているかもしれません。
参考文献:
山岡拓也(2020)「オセアニアにおける旧石器時代の考古学研究」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2019年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 25)』P92-98
更新世のオセアニアの地域区分は、オーストラリアとニューギニアとニア・オセアニアの島嶼部となります。更新世の期間中、ニューギニア島やタスマニア島はオーストラリア大陸と接続しており、サフル大陸(サフルランド)を形成していました。サフル大陸へ拡散できた人類は現生人類(Homo sapiens)のみと考えられていますが、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)がニューギニア島まで拡散した可能性も提示されています(関連記事)。ただ、その可能性が高いとは言えないので、ここでは現生人類のみがサフル大陸へと拡散した、との前提で述べていきます。
サフル大陸への現生人類の到達年代については、47000年前頃との見解が有力になりつつありましたが、2017年に、65000年前頃までさかのぼる、との見解(関連記事)が提示されています。ただ、この見解に対する批判もあります(関連記事)。サフル大陸における現生人類の最初の出現年代がどこまでさかのぼるのか、当分は議論が続きそうです。サフル大陸に拡散した現生人類は、その後でビスマルク諸島やソロモン諸島にも拡散し、34000年前頃までにはソロモン諸島北部にも到達しました。
オセアニアの旧石器時代石器群の特徴は、石核石器が卓越していることと、定形的な二次加工のある剥片石器が乏しいことです。石核石器として、磨製石斧やくびれのある石斧とともに馬蹄形石核があり、主要な剥片石器にはスクレイパー類やその中の拇指状掻器があります。またオーストラリアでは、旧石器時代の時点ですでに磨製石斧が使用されていました。ニューギニア島ではくびれのある石斧も石器群の中に含まれています。更新世にさかのぼる可能性があるくびれのある石斧を含む石器群は、オーストラリア南部のカンガルー島の遺跡でも発見されており、カルタン文化と呼ばれています。もう一つの特徴的な石核石器とされた馬蹄形石核は、平坦な打面から周縁をめぐるように剥離された石核で、オーストラリアの北部・南東部・西部・タスマニア島など広範囲で発見されています。この馬蹄形石核は、従来、石核石器としてとらえられていたものの、近年では、実験結果などに基づき、石核石器(道具)というよりは石核として認識されています。
こうした石核石器に加えて、石器群には剥片石器のスクレイパー類が共伴しますが、タスマニアにおいては拇指状掻器という小形の石器が石器群に含まれます。タスマニアの遺跡は少なくとも35000年前頃までさかのぼりますが、24000年前頃以降に拇指状掻器を組成する石器群が出現し、1万年前頃まで継続します。オーストラリアでは完新世の石器群に日本のナイフ形石器と類似する急角度の二次加工(Backing)で成形された小形の剥片石器(幾何学形細石器、Backed artifacts)があり、更新世の石器群にも含まれます。更新世にさかのぼる幾何学形細石器も発見されています。急角度の二次加工は、タスマニア島のボーン洞窟で3万年前頃から確認されることから、急角度の二次加工の技術はオーストラリアでは少なくとも3万年前頃から二次加工技術のレパートリーの一つと考えられています。
オーストラリアでは、磨石は更新世末から完新世初頭にかけての15000~12000年前頃に定着するとされていましたが、オーストラリアの南東部に位置するクディー・スプリング遺跡では35000年前となる多数の磨石の破片が出土しています。それらの磨石の残渣分析の結果から、イネ科植物の種子加工に用いられていたと推定されており、28000年前頃の拇指状掻器2点が発見されています。ただ、近年の動物遺存体の年代測定の結果、この遺跡の層序は乱れていると指摘されており、更新世の磨石などをめぐっては、信頼できる層序と年代からの裏づけが必要となります。その他に、オーストラリア北部のナウワラビアI遺跡やマラクナンジャII遺跡(マジョベベ遺跡)でも更新世の層序から磨石が出土しています。
またオーストラリアでは、これらの石器が含まれていない石器群も多く発見されています。たとえば、オーストリア西部のデビルズ・レア遺跡では、オーストラリアで最長期間にわたる更新世の考古資料が発見されており、1000点以上の石器が出土していますが、その石器群は小形剥片で特徴づけられるとされています。また、上述のように、一般的にオーストラリアの更新世石器群においては、スクレイパー類が多く含まれ、実際に様々なスクレイパーの分類がこれまでに示されてきましたが、そうしたスクレイパーの多様なあり方は、それぞれスクレイパーの種類が意図して作り出されたというよりは、刃部の再生の結果生じたのではないか、との解釈も提示されています。
オセアニア地おいては開地の遺跡に加えて貝塚や洞窟などの遺跡もあり、石器以外の有機質の考古資料も得られています。そうした考古資料から、サフル大陸において、アフリカやヨーロッパでの研究が進められている、「現代人的行動」のパッケージを構成する要素がどのように出現しているのかも検討されています。具体的には、交換ネットワーク、鉱物資源の獲得、装身具、芸術や象徴的表現、埋葬、経済的集約化、骨器やその他の有機質資料、新しい石器技術などです。
サフル大陸において、交換ネットワークの存在は、4万年前頃以降に確認されています。サフル大陸内や北東に位置する島々との間で海棲貝類・オーカー・石器石材について、産地から遠く離れた遺跡で出土する事例があることから、かなり広域で運搬あるいは交換されていた、と分かっています。鉱物資源の獲得に関わる情報として、石器石材の獲得に関する情報があります。石器石材の採掘の証拠は24000年前頃にさかのぼりますが、石器石材の採掘がより一般的になるのは磨製石斧などが交換される完新世後半と分かっています。
装身具については、ビーズなどの製作が42000年前頃に遡り、ツノガイや小さなイモガイ、カンガルー類の骨、イタチザメの歯で作られたビーズ(あるいはペンダント)などの例があります。線刻礫については、25000年前頃までさかのぼる事例があります。芸術や象徴的表現については、オーカーの利用が42000年前頃まで遡り、岩絵については4万年前頃までさかのぼる可能性があります。埋葬については、おもにマンゴー湖が取り上げられており、最古の事例は4万年前頃までさかのぼります。
経済的な集約化に関しては、貝類・カンガルー類・イネ科植物の種子の加工に利用されたと推定されている磨石などの事例があります。サフル大陸の各地での淡水棲貝類の貝塚が残されており、最古の事例は4万年前頃で、海棲貝類の貝塚はサフル大陸の北西と北東に位置する島々で発見されており、少なくとも 33000年前頃までさかのぼります。オーストラリア(サフル大陸)の遺跡で海棲貝類などの海産資源が本格的に利用されるのは完新世半ばで、更新世での利用はあまり明確ではないものの、いくつかの遺跡で出土しており、3万~2万年前頃と推定されています。
また、タスマニア島では3万年前頃以降にカンガルー類(ベネットワラビー)に特化した狩猟が行なわれ、骨製尖頭器が狩猟具として用いられていました。上述のように、イネ科植物の種子を加工するための磨石が更新世の遺跡でも発見されていますが、それも経済的な集約化の例とされています。クディー・スプリング遺跡の磨石の出土例に基づけば35000年前頃までさかのぼりますが、上述のように層序の信頼性に疑問が呈されており、磨石が出土している他の遺跡の出土例に基づけば、磨石の出現年代は2万年前頃となります。
骨器やその他の有機質資料については、骨製尖頭器の出土事例があり、古いものは約22000年前頃までさかのぼります。骨製尖頭器が出土した遺跡の大半は、タスマニア島を含むサフル大陸南部に位置します。骨製尖頭器は狩猟具の先端部として用いられたほか、動物の皮の穴あけや石器の二次加工で用いられたと考えられています。石器については、新しい石器製作技術ととらえられるものとして、磨製石斧・拇指状掻器・急角度の二次加工のある小形幾何学形石器が挙げられています。
このように、サフル大陸における「現代人的行動」のパッケージは、その全要素が最初からそろっていたわけではなく、その後の約3万年間を通して付け加わっていった、と示されています。サフル大陸の最初期の遺跡では、「現代人的行動」のパッケージの全要素を確認できるわけではないものの、サフル大陸に舟で渡ってきて多様な環境へ適応し、独自の物質文化を残したことを考えると、サフル大陸に最初に到達した現生人類は行動上の現代性を備えていた、と想定されます。それを踏まえると、「現代人的行動」を示すパッケージとされた行動リストのみでは、現生人類の行動上の現代性を評価できない、と指摘されています。最初期の遺跡で認められず、その後時間の経過とともに「現代人的行動」のパッケージの要素が付け加わっていく要因は、人口密度や人口圧の増大にあると考えられますが、それのみがパッケージの要素が付け加わる要因ではないようです。
オーストラリアにおける象徴的表現の出現状況については、芸術・装身具・石器に表現されるスタイルが検討されています。その結果、象徴的表現に関わる各要素は更新世では散発的に認められるのみで、それらが充分に考古資料で認められるようになるのは7000年前頃の完新世半ばであるとされ、その時期に新たな情報伝達経路を必要とする人口規模に達したのではないか、と推定されています。また、サフル大陸における現代人的行動の出現状況については、最終氷期極大期(LGM)以降に顕在化する、とも指摘されています。その背景として、環境が厳しくなる中で退避可能ないくつかの地域に集団が集まり、それぞれの地域で人口圧が増大し、それぞれの土地での許容限度に達したからではないか、と推定されています。
このように、サフル大陸では、「現代人的動」のパッケージを構成する要素が現生人類の拡散当初にはそろわず、LGMあるいは完新世以降に出揃っていくことが注目され、その要因について議論されてきました。一方で、現生人類がサフル大陸に到達し拡散する過程で、多様な環境に適応していることに注目した見解もあります。サフル大陸やアジアでの事例を踏まえると「現代人的行動」を単一あるいは単純な人工遺物や行動のセットとしてではなく、出会った様々な環境に社会的・経済的・技術的な手段で適応できる能力としてとらえる方が、地球規模での現生人類の拡散を考えるさいに、生産的な議論が行なえる、というわけです。
この他に現代人的行動と関わる事例として、上述のタスマニア島における、LGM以降に拇指状掻器が卓越し、カンガルー類(ベネットワラビー)に特化した狩猟が行なわれ、骨製尖頭器が狩猟や動物の(毛)皮の穴あけなどに利用されていたことがあります。これに関しては、寒冷地での適応行動であり、カンガルー類は食料と毛皮で利用され、毛皮でより複雑な衣類が製作されていた、との見解が提示されています。またニューギニア島では、49000~36000年前頃にさかのぼる、炭化したパンダナスの果実やヤムイモのデンプン粒が出土しており、植物利用に関わる情報が得られています。コシペ遺跡やその周辺の遺跡から出土している磨製石斧は、有用な植物を育てるために、森林の木々を伐採するために用いられていた、と推定されています。
「現代人的行動」に関わる研究については、2000年代初頭までは主にヨーロッパやアジア西部やアフリカで進められてきたようですが、それ以降、それらの地域とは人類の歴史や地理的な条件が大きく異なるオセアニアの考古資料に基づいて、「現代人的行動」に関わる議論が進められてきました。また、LGMのタスマニアの事例は、南半球の高緯度地域における寒冷地適応の具体的な在り様が示されている点で重要です。動物資源に大きく依存する点や、動物の皮の加工と関わる搔器の利用が卓越する点は、北半球のユーラシア高緯度地域における後期旧石器時代(上部旧石器時代)の諸事例と共通する一方で、ユーラシア高緯度地域の石器群で一般的に認められる石刃技法は、タスマニアのLGMの石器群では確認されていません。これは、石刃技法が環境に適応するために発明される技術であるというよりは、文化的に伝達されることで獲得される技術であることを示しているかもしれません。
参考文献:
山岡拓也(2020)「オセアニアにおける旧石器時代の考古学研究」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2019年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 25)』P92-98
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