西秋良宏「アフリカからアジアへ」

 朝日選書の一冊として朝日新聞出版より2020年2月に刊行された西秋良宏『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』所収の論文です。現生人類(Homo sapiens)には固有の「現代的行動」があり、そのために世界中に拡散して非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)を置換した、との見解が以前は有力でした。しかし本論文は、拡散期の現生人類の行動が多様であることから、この見解に疑問を呈しています。また、現生人類は拡散していく過程で、行動や文化を発展させてきた、とも指摘されています。現生人類が世界中の多様な環境に適応できた理由として、古代型ホモ属とは異なる生得的な認知能力の高さを想定する見解が根強いことを、本論文は指摘します。ただ本論文は、古代型ホモ属と現生人類との間に学習行動の違いは見られるものの、それが生得的な能力差を反映しているのか、考古学的証拠だけでは判断が難しい、と慎重な姿勢を示します。それは、学習の在り様や各集団の文化的特徴を決める要件はあまりにも多岐にわたっているからです。

 そこで本論文は、社会の総合力が学習行動の違いに関わっていたのではないか、と推測します。総合力とは、歴史あるいは文化です。古代型ホモ属も現生人類も、文化の力に依拠して生存していたことに違いはありません。本論文は、拡散先の自然環境および先住集団との関係を検証しています。拡散先の自然環境が故地と類似し、先住集団が存在しないか希薄、あるいは外来文化をそのまま受容した場合や、先住集団が拡散集団に駆逐した場合、故地の文化がそのまま拡散先でも維持されます。拡散先が故地とは異なる自然環境だった場合、それに応じて故地とは異なる技術を発展させます。先住集団や同時に拡散してきた複数集団の技術が混合する場合も想定されます。本論文は、ヒトの拡散を議論するには、少なくとも、集団の拡散先の自然環境、先住集団との関係、その相互作用の三つを考察する必要がある、と指摘します。それにより、古代型ホモ属から現生人類への交替が急速に進んだ地域、両者の共存が長かった地域、現生人類の拡散がなかなか進まなかった地域が分かれたかもしれない、というわけです。

 アジアの自然環境は多様で、考古学的証拠も多様です。本論文が着目したのは、石器製作技術の違いです。石刃・小石刃の分布は、生物地理区分での旧北区とよく一致します。ただ、生物地理区分は近年改訂が提案されており、たとえば中国と日本は新たな地理的区分(中国・日本区)として設定されています。本論文は、新旧の地理的区分のどちらが考古学的証拠の解釈に適切なのか、判断は難しい、と慎重な姿勢を示します。ただ本論文は、中国・日本区のような中間的な地理的区分を設定すると、更新世における石器製作技術の変動と気候変動とを組み合わせて説明できるかもしれない、と指摘します。寧夏回族自治区の水洞溝1遺跡の4万年前頃の上部旧石器時代初頭の石器群は、西方由来と推測されるものの、定着したわけではなく、本格的な石刃石器群が定着するのは寒冷期となる2万数千年前の細石刃文化になり、中間的な地域では気候変動により考古学的証拠も異なってくる、というわけです。同じく中間的な日本列島でも、初期の上部旧石器は南方を主体としつつも北方要素も一部見られ、寒冷期となる2万数千年前に押圧剥離技術による細石刃石器群が定着します。

 本論文は一方で、拡散先の生物地理的環境に初期現生人類の文化・技術が大きく影響された、との想定とは異なるかもしれない事例として、オーストラリアを挙げています。オーストラリアの環境は、アジア南東部の森林地帯とは異なり、内陸に砂漠や草原地帯が広がります。しかし、オーストラリアの初期現生人類で石刃や小石刃が発達したわけではありません。本論文は、アジア南部や南東部の森林地帯で西方の技術がフィルタリングされ、それ以降に再興された要素もあれば、そうではなかった要素もあるかもしれない、と指摘します。本論文は、自然環境と技術との単純な対応が見られない場合には、文化伝達理論が有効かもしれない、と指摘します。

 本論文は現生人類と古代型ホモ属との文化的交流の可能性も取り上げています。現生人類にとってユーラシア中緯度地帯以北は新天地となり、それ以前から適応していた古代型ホモ属の防寒技術を採用した可能性がある、というわけです。たとえば、皮なめしに特化した道具とされる骨製のヘラは、ネアンデルタール人の遺跡の方でより古いものが見つかっており、ネアンデルタール人から現生人類への文化的影響の証拠になるかもしれない、と指摘されています(関連記事)。また、竪穴で暖を取るタイプの住居遺構も、ネアンデルタール人遺跡でより古い事例が喫県されています。

 石器製作技術における古代型ホモ属と現生人類との交流の可能性の事例として、本論文はアジア西部を挙げています。アジア西部は、現生人類とネアンデルタール人の共存期間が最も長い地域と考えられており、7万~5万年前頃には両者の遺骸が複数の遺跡で発見されています。本論文は、ルヴァロワ(Levallois)技術で製作された、小さい尖頭器を特徴とするタブン(Tabun)B型石器群に注目しています。タブンB型と共伴している人類遺骸はすべて、現時点ではネアンデルタール人です。ネアンデルタール人はヨーロッパ起源と考えられますが、これと類似したヨーロッパの石器技術はまだ知られていません。二次加工の尖頭器はヨーロッパからアジア中央部までのネアンデルタール人分布域で一般的でしたが、レヴァントのタブンB型石器群のように無加工のルヴァロワ尖頭器をと要する例はほとんど知られていません。本論文は、アフリカ北部の初期現生人類において、二次加工せずにルヴァロワ石器を利用する文化が一般的だったことから、ネアンデルタール人のタブンB型は現生人類との交流の結果発展したのではないか、と推測しています。

 本論文は、チンパンジーでも飼育下では現代人の指導に従って石器を製作する事例が知られており、それよりもずっと近縁な関係にあるホモ属の各種間で文化的な交流や伝達もあっただろう、と指摘します。文化の拡散・定着には若い世代への継承が必要となりますが、それを、親から子への垂直伝達、親世代の他人から伝えられる斜行伝達、子と同世代の間で伝えられる水平伝達に分類する見解があります(関連記事)。親世代から継承される場合、現生人類から古代型ホモ属への確率が0ではない限り、古代型ホモ属から現生人類への技術継承はあり得る、と予測されます。現生人類集団の侵入と交替がゆっくり起きた場合、古代型ホモ属の文化が継続するように見えます。また、現生人類と古代型ホモ属は交雑しましたから、垂直伝達のみでも古代型ホモ属の文化が現生人類集団に浸透することもあり得ます。

 本論文は、アジア各地への現生人類の拡散を考えるうえで、まず証拠のそろっているヨーロッパの事例を取り上げます。20万年以上前にギリシアまで現生人類が拡散した、との見解も提示されていますが(関連記事)、それよりもさらにヨーロッパ奥地にまで拡散したのか定かではなく、現生人類がヨーロッパに広範に拡散したのは、5万年前頃以降の上部旧石器時代初頭集団です。ただ、当初は中部旧石器時代に典型的なムステリアン(Mousterian)遺跡も多数あり、ネアンデルタール人と現生人類が共存していた、と考えられます。ネアンデルタール人は4万年前頃までに絶滅し、その背景として5万~4万年前頃の複数回のきょくたんな寒冷期が挙げられています。4万年前頃、プロトオーリナシアン(Proto-Aurignacian)式の小石刃石器群を有する現生人類集団がヨーロッパに拡散しており、ヨーロッパへの現生人類の拡散は大きく2回あった、と考えられます。

 こうした二段階による交代劇を理論的に予想したのが第6章(関連記事)です。本論文は、ネアンデルタール人と現生人類の共存を可能にしたのは、一つには環境で、アジア西部では、砂漠を現生人類が、森林をネアンデルタール人がおもに開発していました。生態的地位が異なっていた、というわけです。ヨーロッパでは、ネアンデルタール人の継続的な人口減少により、侵入してきた現生人類の利用可能な空間が拡大していた可能性も指摘されています。共存を可能にしたもう一つの要因は、第二波の現生人類集団にはネアンデルタール人集団を圧倒する高い技術があった、ということです。アジア西部では上部旧石器時代初頭の技術、ヨーロッパでは上部旧石器時代前期のプロトオーリナシアンの小石刃技術です。

 広範なアジアの他地域について同じモデルで説明できるのか、議論の対象となり得ます。本論文は、北回りでは現生人類の侵入と古代型ホモ属との交替が速やかに起きたように、南回りでは共存期間が長かったかもしれないように見える、と指摘します。中国南部では、4万年以上前に現生人類が到来した、との見解が提示されている一方で、石器技術は前代からの剥片石器群が継続しています。こうした対照性は共存に適した生態的地位の有無に依存するのかもしれない、と本論文は推測します。草原地帯よりも森林地帯の方が集団は分断されるので、共存の可能性は高く、島嶼部ではなおさらである、というわけです。

 現生人類と古代型ホモ属との「交替劇」に関しては、第6章も指摘するように人口も要因になると考えられます。本論文はこれに関して、かりに現生人類と古代型ホモ属との認知能力が同じだとしても、アフリカからは常に高い技術を有したヒト集団が出現したはずだ、との見解を取り上げています。ヒトの文化や行動は時間の経過により新たなものが創造されたり、改良されたりしますが、集団内で継承されるため蓄積して複雑さを増していきます。ヒトは他人から学ぶ社会学習を発達させているので、それが「文化的歯止め」となり、集団内に文化要素が留まります。この場合、歴史のある大集団は、社会学習により蓄積された他の集団よりも多くの文化を保有しています。人口が圧倒的に多く長期にわたる文化蓄積を経験したアフリカの現生人類集団と、出アフリカ後のユーラシアで新たな文化蓄積を果たさねばならない古代型ホモ属の小集団では、技術のレパートリーの原資や蓄積に差があって当然と予測できる、というわけです。本論文は、古代型ホモ属から現生人類への交代劇を文化の視点から理解するには、文化進化の理論研究をさらに深めていく必要がある、と指摘しています。


 なお、西秋良宏編『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』の本論文を除く各論文の記事は以下の通りです。

門脇誠二「現生人類の出アフリカと西アジアでの出来事」
https://sicambre.seesaa.net/article/202002article_38.html

西秋良宏「東アジアへ向かった現生人類、二つの適応」
https://sicambre.seesaa.net/article/202002article_39.html

Robin Dennell「現生人類はいつ東アジアへやってきたのか」
https://sicambre.seesaa.net/article/202002article_40.html

海部陽介「日本列島へたどり着いた三万年前の祖先たち」
https://sicambre.seesaa.net/article/202002article_46.html

高畑尚之「私たちの祖先と旧人たちとの関わり 古代ゲノム研究最前線」
https://sicambre.seesaa.net/article/202002article_48.html

青木健一「現生人類の到着より遅れて出現する現代人的な石器 現生人類分布拡大の二重波モデル」
https://sicambre.seesaa.net/article/202002article_51.html


参考文献:
西秋良宏(2020B)「アフリカからアジアへ」西秋良宏編『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』(朝日新聞出版)第7章P221-244

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