筒井清忠編『昭和史講義 【戦前文化人篇】』
ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2019年7月に刊行されました。すべて筒井清忠氏編の、『昭和史講義─最新研究で見る戦争への道』(関連記事)、『昭和史講義2─最新研究で見る戦争への道』(関連記事)、『昭和史講義3─リーダーを通して見る戦争への道』(関連記事)、『昭和史講義 【軍人篇】』(関連記事)の続編となります。いずれも好評だったのか、続編が刊行されたのは喜ばしいことです。
●筒井清忠「まえがき」P9~17
本論考はまず、昭和戦前の日本文化全体についてのまとまった本はなく、それは大きく思潮の変わった激変期だったことが根本にある、と指摘します。昭和前期には格差の大きい社会のなか、左翼的思潮が多くの文化人・知識人を捉え、思想・文学・映画・演劇・美術にまで及びました。それが、満洲事変の頃から左翼は弾圧もあって衰退し、多くの文化人・知識人は軍国主義支持へと転向していきます。それが敗戦により、再度左翼的なものが復活します。このように時世が短期間で激変するなか、戦中をなかったようにしたい文化人・知識人も多く、昭和戦前の文化史を扱うことはそうした古傷に触るため、昭和戦前の日本文化全体を扱った本はなかった、というわけです。しかし、この激変期の当事者たちがほとんど去った今、気兼ねすることなく客観的に扱える時期になった、と本論考は本書の意義を指摘します。
第1講●牧野邦昭「石橋湛山―言論人から政治家へ」P19~35
石橋湛山は言論人として出発しましたが、早くから普通選挙運動のような政治にも関わっていきます。湛山の名声が高まったのは、浜口内閣の金解禁と緊縮財政を批判したからで、これ以降、その経済的知見を政府に高く評価され、政府関係の仕事も引き受けるようになります。その結果、湛山は財界人・学者・評論家・官僚・軍人などの結節点的存在になり、それが戦後に政治家を志したさいに役立ちました。ただ、湛山の名声が高まっていくなか、日本は湛山の主張した「小日本主義」とは反対の方向へと向かっていき、湛山も満洲や華北が日本の勢力下にあることを既成事実として認めていくようになります。それでも湛山は、経済のブロック化には反対し、その基本的な思想を堅持した、と本論考は指摘します。
第2講●苅部直「和辻哲郎―人間と「行為」の哲学」P37~50
和辻哲郎には「日本人の伝統的心性」を正当化しているという評価もあり、それは的外れではないものの、普遍性と特殊性を強く意識し、同時代のヨーロッパの哲学・民族学・人類学を取り入れていったところもある、と指摘されています。和辻は、特殊性を強く意識した点では日本と西洋にそれぞれ独自の思想があり、価値を序列化するような姿勢を排する点で文化相対主義的なところがありましたが、一方で、1930年代から1945年までに猛威を振るった、人間倫理の普遍性を拒否するかのごとき「日本精神」論の誤りも指摘しており、和辻の議論には単純な読み方を許さないような複雑さが見られます。
第3講●佐々木閑「鈴木大拙―禅を世界に広めた国際人」P51~67
鈴木大拙の世界観を形成するうえで重要な『大乗起信論』は、古代インドの仏教哲学書ではなく、6世紀に中国で漢文資料から寄せ集めて自己の見解を盛り込んだ継ぎ接ぎだった、と明らかになっているそうです。鈴木大拙の世界観において重要な「霊性」とは、思想というよりも思想を作成するための書式で、代入する変数により思想は異なってくる、と指摘されています。鈴木大拙が大日本帝国の戦争を支持し、ナチズムに理解を示したことと、第二次世界大戦後に軍国主義批判を展開したことについても、確定性のない書式としての霊性の表れと評価されています。
第4講●赤坂憲雄「柳田国男―失われた共産制を求めて」P69~84
本論考は柳田国男を、農村から都市へと移住してきた近代日本の知識人の一人と把握し、置き去りにしてきた過去としての農村を嫌悪や侮蔑で語るか、柳田のように「同情ある回顧」で語るかにより、見えてくる日本文化の風景は大きく異なってくる、と指摘します。また本論考は、正統的な保守主義者である柳田が、伝統的な村落に潜む「共産思想」を見出していた、と指摘します。そこには、伝統的村落を貧しくしたものは「外部資本の征服」だった、という認識もあった、というのが本論考の見通しです。
第5講●千葉俊二「谷崎潤一郎―「今の政に従う者は殆うし」」P85~99
谷崎潤一郎の作家人生にとって転機となったのは1923年の関東大震災で、この後、谷崎は関西に移住します。この関東大震災は、ヨーロッパの第一次世界大戦と同じく、思潮の大きな転機になった、と本論考は指摘します。ヨーロッパにおいては、悲惨な戦争を防げなかったことから理性による合理主義への限界が強く意識されるようになり、日本では、プロレタリア文学とモダニズム文学が勃興し、既成文壇の作家たちは動揺していき、芥川龍之介の自殺もその文脈で起きた、と本論考は解釈しています。また本論考は、戦前・戦後を通じて、谷崎が「今の政に従う者は殆うし」という姿勢を貫き、『春琴抄』は昭和初期の混乱した現実から逃避して関西に残る日本の伝統美に閉じ籠ろうとした作者の気持ちが象徴されているのではないか、との伊藤整の評価は谷崎がひじょうに喜んだ、という逸話を紹介しています。
第6講●前田雅之「保田與重郎―「偉大な敗北」に殉じた文人」P101~116
保田與重郎は第二次世界大戦後、抹殺状態に置かれていた、と本論考は指摘します。それは、保田が戦争協力者にして若者を死に赴かせた張本人とみなされたからだろう、と本論考は指摘します。保田は戦後、公職追放となりましたが、「思想探偵」として参謀本部に密告する役割を果たしていた、とさえ言われました。保田が懲罰的に応召されていることからも、これは妄言と考えるべきなのでしょうが、戦後における保田への一般的な評価を反映している、と言えそうです。しかし本論考は、戦後の保田への批判はどれも的外れで、批判の多くは自分の罪を保田に押しつけたか、黙って批判に追随したのだろう、と指摘しています。
第7講●藤井淑禎「江戸川乱歩―『探偵小説四十年』という迷宮」P117~134
本論考は江戸川乱歩の小説を、初期の本格ミステリー、中期の通俗長編、晩期の少年探偵団ものに分類し、中期の通俗長編が乱歩自身の低評価により過小評価されてきた、と指摘します。ただ、乱歩の自己評価の根拠とされてきた『探偵小説四十年』が、異なる時代の自伝を継ぎ接ぎした、言わば増築に次ぐ増築を重ねてきたものなので、これまでその利用には問題があった、と本論考は指摘します。
第8講●伊藤祐吏「中里介山―「戦争協力」の空気に飲まれなかった文学者」P135~150
中里介山は戦前にはひじょうに著名な作家で、その代表作である『大菩薩峠』は長いだけではなく、深く面白く、その主人公である机龍之助は丹下左膳や木枯し紋次郎などに受け継がれるほどだった、と本論考は高く評価します。さらに、同時代の芥川龍之介は、百年後に名を遺すのは純文学作家よりも中里の方だろう、と予想しました。しかし、中里の知名度は現在では低く、本論考はその理由として、仇討物語として始まった『大菩薩峠』に仇討を超えた価値を見出した中里が『大菩薩峠』を粗雑に編集し、本文を読んだだけでは物語の流れが分からなくなってしまったことを指摘します。戦前の読者は、演劇や映画や口コミを通じて、『大菩薩峠』がどのような話なのか、認識していましたが、時代の経過に伴いそうした共通認識が失われると、『大菩薩峠』は一気に忘れられた、というわけです。また、中里は文学報国会への加入を拒否した珍しい作家でしたが、それは戦争反対を意味していたのではなく、『大菩薩峠』の成功により名誉と財産を得て自意識の肥大化した中里が、作家として報国の念を離れたことはない特別な存在だ、と自分を規定していたからでした。
第9講●牧野悠「長谷川伸―地中の「紙碑」」P151~167
長谷川伸は苦労人の作家でした。実家は裕福だったものの長谷川が子供の頃に没落し、母親とも生き別れとなり、父親からは実質的に棄てられたのも同然の境遇でした。そこから作家として大成した長谷川は、庶民への哀憐の念を込めて作品を描き出していった、と本論考は評価します。作家として大成した長谷川はまた、表立った戦意高揚の文章を公表することは少なかったものの、広義の戦争協力者としては他の作家を圧倒していただろう、と本論考は指摘します。長谷川の功績としては弟子の育成もあり、山岡荘八や池波正太郎などがいます。
第10講●竹田志保「吉屋信子―女たちのための物語」P169~185
吉屋信子は少女小説の作者として知られ、一人の女性と生涯を共にした同性愛者として、その先駆性が注目されています。同時代に、女性同士で共同生活を送った事例は他にもありますが、長期にわたって良好な関係を継続したことは特筆される、と本論考は評価します。ただ本論考は、それは吉屋が当時の女性としては破格の経済力と地位を獲得できたからこそ可能だったことであり、単に二人の愛情や意志の強さだけに還元して特権的に語ってしまうことは、当時の女性たちの絆を過小評価することになるだろう、と指摘します。
第11講●川本三郎「林芙美子―大衆の時代の人気作家」P187~201
林芙美子は行商人の子供として生まれ、生涯庶民からの視点を貫いた、と本論考は評価します。林は戦争に協力した作家として指弾されます。本論考も、中国の民衆に対する加害者意識が林に欠けているところは責められるべきだ、と指摘します。しかし、林は単に戦意高揚を煽り、戦争を賛美したのではなく、その視点は黙々と任務を果たす下層の兵士たちにあった、と本論考は指摘します。こうした弱者への共感という点では、戦前・戦中・戦後において林は一貫していた、というのが本論考の評価です。
第12講●林洋子「藤田嗣治―早すぎた「越境」者の光と影」P203~221
本論考は藤田嗣治を、20世紀前半にあって、誰よりも早く国際性と多文化性を持ち合わせた「越境」者ゆえの光と影を一身に背負った存在と位置づけています。藤田の戦争協力は戦後になって強く批判されましたが、戦争記録画の中でもアッツ島玉砕以降の一連の「玉砕図」が、現在ではむしろ厭戦的に見えるのに対して、「今日腕を奮つて後世に残す可き記録画の御用をつとめ得る事の出来た光栄をつくづくと有り難く感ずるのである」といった文章の方は、むしろ戦意高揚的に映る、と本論考は評価しています。
第13講●萩原由加里「田河水泡―「笑い」を追求した漫画家」P223~240
本書で取り上げられている人物については、石橋湛山を除いて全員、詳しく知らないと言ってもよいくらいなのですが(石橋湛山についても、さほど詳しいわけではありませんが)、田河水泡の妻が小林秀雄の妹であることも知りませんでした。田河の代表作である『のらくろ』については、内務省より打ち切りを勧告された、という話が伝わっていますが、本論考は、それだけではなく、『のらくろ』の人気が低下していったこともあるのではないか、と推測しています。のらくろが一兵士から士官へと昇進するにつれて、頭の固い上司の裏をかいて飄々と生きるという作品の魅力が薄れていったのではないか、というわけです。
第14講●井上章一「伊東忠太―エンタシスという幻想」P241~256
法隆寺の柱の膨らみを古代ギリシアの建築技法であるエンタシスと結びつけ、それはアレクサンドロス大王の東征によるヘレニズムの結果であった、という現在でも日本社会では根強そうな見解を強く主張して広めたのが伊東忠太でした。これは、インド以東の建築文化を侮る西洋史家に対する強い反発がもたらしたものでもありました。しかし、アジア中央部にはエンタシスは見当たらず、そもそもアレクサンドロス大王の百年ほど前に、ギリシアではエンタシスは用いられなくなりました。法隆寺の柱の膨らみの起源としては、北魏が有力なのですが、近代日本において、北魏よりもヨーロッパ文化の源流たるギリシアの影響という言説の方が受け入れられやすかった、というわけです。
第15講●片山杜秀「山田耕筰―交響曲作家から歌劇作家へ」P257~278
本論考は、山田耕筰が1920年代に歌曲作家として成功するまで、「行きすぎた西洋近代派」で、当時の日本の文化・経済水準に合わず、名誉でも富でも本人が満足するような成功を収められなかった、と指摘します。山田は日本の前近代の民謡や三味線音楽に疎く、当時の日本人の求める音から浮き上がった「西洋派」と認識されてしまった、というわけです。その失敗を踏まえた山田は、日本伝統の音感の研究と活用を心がけ、1920年代に「赤とんぼ」などの歌曲で成功していきました。しかし、山田の本心は歌曲作家としての成功ではなく、オーケストラ曲やオペラなどの大規模音楽で、山田の著名な歌曲や童謡が生涯の限られた時期に偏っていることもそのためだった、と本論考は指摘します。
第16講●筒井清忠「西條八十―大衆の抒情のために生きた知識人」P279~298
本論考は、大正期から昭和前期にかけて、日本の詩と歌は大きく変わった、と指摘します。まず、ほぼ全体的に文語文から口語文へと変わっていきました。また、童謡が現れ、子供向きの歌に詩人が大きく関わっていったことも世界的に異例でした。これは、地方の歌の変化として日本中を覆う新民謡の時代へとつながるとともに、各学校・地域・会社・組合など、あらゆる集団で歌が作られ、歌われるようになり、新聞・雑誌・映画などを通じて広がっていきました。本論考は、この大変動の中心にいてそれを領導したのが西條八十で、西條を「大衆化されたロマン主義」の中心人物だった、と評価しています。西條は童謡雑誌での活動を始めますが、本論考は、大正期童謡運動は明治期における上からの西洋音楽強制への反動で、これが昭和前期における下からのナショナリズムの一つの基礎になった、と指摘します。また本論考は、近代の方が地域的差異化を希求したのであり、前近代の方が共通性は高かった、とも指摘しています。
●筒井清忠「まえがき」P9~17
本論考はまず、昭和戦前の日本文化全体についてのまとまった本はなく、それは大きく思潮の変わった激変期だったことが根本にある、と指摘します。昭和前期には格差の大きい社会のなか、左翼的思潮が多くの文化人・知識人を捉え、思想・文学・映画・演劇・美術にまで及びました。それが、満洲事変の頃から左翼は弾圧もあって衰退し、多くの文化人・知識人は軍国主義支持へと転向していきます。それが敗戦により、再度左翼的なものが復活します。このように時世が短期間で激変するなか、戦中をなかったようにしたい文化人・知識人も多く、昭和戦前の文化史を扱うことはそうした古傷に触るため、昭和戦前の日本文化全体を扱った本はなかった、というわけです。しかし、この激変期の当事者たちがほとんど去った今、気兼ねすることなく客観的に扱える時期になった、と本論考は本書の意義を指摘します。
第1講●牧野邦昭「石橋湛山―言論人から政治家へ」P19~35
石橋湛山は言論人として出発しましたが、早くから普通選挙運動のような政治にも関わっていきます。湛山の名声が高まったのは、浜口内閣の金解禁と緊縮財政を批判したからで、これ以降、その経済的知見を政府に高く評価され、政府関係の仕事も引き受けるようになります。その結果、湛山は財界人・学者・評論家・官僚・軍人などの結節点的存在になり、それが戦後に政治家を志したさいに役立ちました。ただ、湛山の名声が高まっていくなか、日本は湛山の主張した「小日本主義」とは反対の方向へと向かっていき、湛山も満洲や華北が日本の勢力下にあることを既成事実として認めていくようになります。それでも湛山は、経済のブロック化には反対し、その基本的な思想を堅持した、と本論考は指摘します。
第2講●苅部直「和辻哲郎―人間と「行為」の哲学」P37~50
和辻哲郎には「日本人の伝統的心性」を正当化しているという評価もあり、それは的外れではないものの、普遍性と特殊性を強く意識し、同時代のヨーロッパの哲学・民族学・人類学を取り入れていったところもある、と指摘されています。和辻は、特殊性を強く意識した点では日本と西洋にそれぞれ独自の思想があり、価値を序列化するような姿勢を排する点で文化相対主義的なところがありましたが、一方で、1930年代から1945年までに猛威を振るった、人間倫理の普遍性を拒否するかのごとき「日本精神」論の誤りも指摘しており、和辻の議論には単純な読み方を許さないような複雑さが見られます。
第3講●佐々木閑「鈴木大拙―禅を世界に広めた国際人」P51~67
鈴木大拙の世界観を形成するうえで重要な『大乗起信論』は、古代インドの仏教哲学書ではなく、6世紀に中国で漢文資料から寄せ集めて自己の見解を盛り込んだ継ぎ接ぎだった、と明らかになっているそうです。鈴木大拙の世界観において重要な「霊性」とは、思想というよりも思想を作成するための書式で、代入する変数により思想は異なってくる、と指摘されています。鈴木大拙が大日本帝国の戦争を支持し、ナチズムに理解を示したことと、第二次世界大戦後に軍国主義批判を展開したことについても、確定性のない書式としての霊性の表れと評価されています。
第4講●赤坂憲雄「柳田国男―失われた共産制を求めて」P69~84
本論考は柳田国男を、農村から都市へと移住してきた近代日本の知識人の一人と把握し、置き去りにしてきた過去としての農村を嫌悪や侮蔑で語るか、柳田のように「同情ある回顧」で語るかにより、見えてくる日本文化の風景は大きく異なってくる、と指摘します。また本論考は、正統的な保守主義者である柳田が、伝統的な村落に潜む「共産思想」を見出していた、と指摘します。そこには、伝統的村落を貧しくしたものは「外部資本の征服」だった、という認識もあった、というのが本論考の見通しです。
第5講●千葉俊二「谷崎潤一郎―「今の政に従う者は殆うし」」P85~99
谷崎潤一郎の作家人生にとって転機となったのは1923年の関東大震災で、この後、谷崎は関西に移住します。この関東大震災は、ヨーロッパの第一次世界大戦と同じく、思潮の大きな転機になった、と本論考は指摘します。ヨーロッパにおいては、悲惨な戦争を防げなかったことから理性による合理主義への限界が強く意識されるようになり、日本では、プロレタリア文学とモダニズム文学が勃興し、既成文壇の作家たちは動揺していき、芥川龍之介の自殺もその文脈で起きた、と本論考は解釈しています。また本論考は、戦前・戦後を通じて、谷崎が「今の政に従う者は殆うし」という姿勢を貫き、『春琴抄』は昭和初期の混乱した現実から逃避して関西に残る日本の伝統美に閉じ籠ろうとした作者の気持ちが象徴されているのではないか、との伊藤整の評価は谷崎がひじょうに喜んだ、という逸話を紹介しています。
第6講●前田雅之「保田與重郎―「偉大な敗北」に殉じた文人」P101~116
保田與重郎は第二次世界大戦後、抹殺状態に置かれていた、と本論考は指摘します。それは、保田が戦争協力者にして若者を死に赴かせた張本人とみなされたからだろう、と本論考は指摘します。保田は戦後、公職追放となりましたが、「思想探偵」として参謀本部に密告する役割を果たしていた、とさえ言われました。保田が懲罰的に応召されていることからも、これは妄言と考えるべきなのでしょうが、戦後における保田への一般的な評価を反映している、と言えそうです。しかし本論考は、戦後の保田への批判はどれも的外れで、批判の多くは自分の罪を保田に押しつけたか、黙って批判に追随したのだろう、と指摘しています。
第7講●藤井淑禎「江戸川乱歩―『探偵小説四十年』という迷宮」P117~134
本論考は江戸川乱歩の小説を、初期の本格ミステリー、中期の通俗長編、晩期の少年探偵団ものに分類し、中期の通俗長編が乱歩自身の低評価により過小評価されてきた、と指摘します。ただ、乱歩の自己評価の根拠とされてきた『探偵小説四十年』が、異なる時代の自伝を継ぎ接ぎした、言わば増築に次ぐ増築を重ねてきたものなので、これまでその利用には問題があった、と本論考は指摘します。
第8講●伊藤祐吏「中里介山―「戦争協力」の空気に飲まれなかった文学者」P135~150
中里介山は戦前にはひじょうに著名な作家で、その代表作である『大菩薩峠』は長いだけではなく、深く面白く、その主人公である机龍之助は丹下左膳や木枯し紋次郎などに受け継がれるほどだった、と本論考は高く評価します。さらに、同時代の芥川龍之介は、百年後に名を遺すのは純文学作家よりも中里の方だろう、と予想しました。しかし、中里の知名度は現在では低く、本論考はその理由として、仇討物語として始まった『大菩薩峠』に仇討を超えた価値を見出した中里が『大菩薩峠』を粗雑に編集し、本文を読んだだけでは物語の流れが分からなくなってしまったことを指摘します。戦前の読者は、演劇や映画や口コミを通じて、『大菩薩峠』がどのような話なのか、認識していましたが、時代の経過に伴いそうした共通認識が失われると、『大菩薩峠』は一気に忘れられた、というわけです。また、中里は文学報国会への加入を拒否した珍しい作家でしたが、それは戦争反対を意味していたのではなく、『大菩薩峠』の成功により名誉と財産を得て自意識の肥大化した中里が、作家として報国の念を離れたことはない特別な存在だ、と自分を規定していたからでした。
第9講●牧野悠「長谷川伸―地中の「紙碑」」P151~167
長谷川伸は苦労人の作家でした。実家は裕福だったものの長谷川が子供の頃に没落し、母親とも生き別れとなり、父親からは実質的に棄てられたのも同然の境遇でした。そこから作家として大成した長谷川は、庶民への哀憐の念を込めて作品を描き出していった、と本論考は評価します。作家として大成した長谷川はまた、表立った戦意高揚の文章を公表することは少なかったものの、広義の戦争協力者としては他の作家を圧倒していただろう、と本論考は指摘します。長谷川の功績としては弟子の育成もあり、山岡荘八や池波正太郎などがいます。
第10講●竹田志保「吉屋信子―女たちのための物語」P169~185
吉屋信子は少女小説の作者として知られ、一人の女性と生涯を共にした同性愛者として、その先駆性が注目されています。同時代に、女性同士で共同生活を送った事例は他にもありますが、長期にわたって良好な関係を継続したことは特筆される、と本論考は評価します。ただ本論考は、それは吉屋が当時の女性としては破格の経済力と地位を獲得できたからこそ可能だったことであり、単に二人の愛情や意志の強さだけに還元して特権的に語ってしまうことは、当時の女性たちの絆を過小評価することになるだろう、と指摘します。
第11講●川本三郎「林芙美子―大衆の時代の人気作家」P187~201
林芙美子は行商人の子供として生まれ、生涯庶民からの視点を貫いた、と本論考は評価します。林は戦争に協力した作家として指弾されます。本論考も、中国の民衆に対する加害者意識が林に欠けているところは責められるべきだ、と指摘します。しかし、林は単に戦意高揚を煽り、戦争を賛美したのではなく、その視点は黙々と任務を果たす下層の兵士たちにあった、と本論考は指摘します。こうした弱者への共感という点では、戦前・戦中・戦後において林は一貫していた、というのが本論考の評価です。
第12講●林洋子「藤田嗣治―早すぎた「越境」者の光と影」P203~221
本論考は藤田嗣治を、20世紀前半にあって、誰よりも早く国際性と多文化性を持ち合わせた「越境」者ゆえの光と影を一身に背負った存在と位置づけています。藤田の戦争協力は戦後になって強く批判されましたが、戦争記録画の中でもアッツ島玉砕以降の一連の「玉砕図」が、現在ではむしろ厭戦的に見えるのに対して、「今日腕を奮つて後世に残す可き記録画の御用をつとめ得る事の出来た光栄をつくづくと有り難く感ずるのである」といった文章の方は、むしろ戦意高揚的に映る、と本論考は評価しています。
第13講●萩原由加里「田河水泡―「笑い」を追求した漫画家」P223~240
本書で取り上げられている人物については、石橋湛山を除いて全員、詳しく知らないと言ってもよいくらいなのですが(石橋湛山についても、さほど詳しいわけではありませんが)、田河水泡の妻が小林秀雄の妹であることも知りませんでした。田河の代表作である『のらくろ』については、内務省より打ち切りを勧告された、という話が伝わっていますが、本論考は、それだけではなく、『のらくろ』の人気が低下していったこともあるのではないか、と推測しています。のらくろが一兵士から士官へと昇進するにつれて、頭の固い上司の裏をかいて飄々と生きるという作品の魅力が薄れていったのではないか、というわけです。
第14講●井上章一「伊東忠太―エンタシスという幻想」P241~256
法隆寺の柱の膨らみを古代ギリシアの建築技法であるエンタシスと結びつけ、それはアレクサンドロス大王の東征によるヘレニズムの結果であった、という現在でも日本社会では根強そうな見解を強く主張して広めたのが伊東忠太でした。これは、インド以東の建築文化を侮る西洋史家に対する強い反発がもたらしたものでもありました。しかし、アジア中央部にはエンタシスは見当たらず、そもそもアレクサンドロス大王の百年ほど前に、ギリシアではエンタシスは用いられなくなりました。法隆寺の柱の膨らみの起源としては、北魏が有力なのですが、近代日本において、北魏よりもヨーロッパ文化の源流たるギリシアの影響という言説の方が受け入れられやすかった、というわけです。
第15講●片山杜秀「山田耕筰―交響曲作家から歌劇作家へ」P257~278
本論考は、山田耕筰が1920年代に歌曲作家として成功するまで、「行きすぎた西洋近代派」で、当時の日本の文化・経済水準に合わず、名誉でも富でも本人が満足するような成功を収められなかった、と指摘します。山田は日本の前近代の民謡や三味線音楽に疎く、当時の日本人の求める音から浮き上がった「西洋派」と認識されてしまった、というわけです。その失敗を踏まえた山田は、日本伝統の音感の研究と活用を心がけ、1920年代に「赤とんぼ」などの歌曲で成功していきました。しかし、山田の本心は歌曲作家としての成功ではなく、オーケストラ曲やオペラなどの大規模音楽で、山田の著名な歌曲や童謡が生涯の限られた時期に偏っていることもそのためだった、と本論考は指摘します。
第16講●筒井清忠「西條八十―大衆の抒情のために生きた知識人」P279~298
本論考は、大正期から昭和前期にかけて、日本の詩と歌は大きく変わった、と指摘します。まず、ほぼ全体的に文語文から口語文へと変わっていきました。また、童謡が現れ、子供向きの歌に詩人が大きく関わっていったことも世界的に異例でした。これは、地方の歌の変化として日本中を覆う新民謡の時代へとつながるとともに、各学校・地域・会社・組合など、あらゆる集団で歌が作られ、歌われるようになり、新聞・雑誌・映画などを通じて広がっていきました。本論考は、この大変動の中心にいてそれを領導したのが西條八十で、西條を「大衆化されたロマン主義」の中心人物だった、と評価しています。西條は童謡雑誌での活動を始めますが、本論考は、大正期童謡運動は明治期における上からの西洋音楽強制への反動で、これが昭和前期における下からのナショナリズムの一つの基礎になった、と指摘します。また本論考は、近代の方が地域的差異化を希求したのであり、前近代の方が共通性は高かった、とも指摘しています。
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