1990年代のネアンデルタール人への低評価
ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)への評価は19世紀における発見以降、大きく変容してきました(関連記事)。ネアンデルタール人への評価がとくに厳しかったのは、ネアンデルタール人のミトコンドリアDNA(mtDNA)が解析され、現代人とは異なる分類群であることが明らかになった1997年から、ネアンデルタール人と現生人類との交雑が有力説になった2010年5月までだと思います。ただ、この間のネアンデルタール人への評価の低さは、それ以前の議論を踏まえたものだったというか、その「発展型」だったように思います。
1980年代後半~1990年代前半にかけて、現生人類(Homo sapiens)の起源をめぐり、アフリカ単一起源説と多地域進化説との間で激論が展開されました。その中で、アフリカ単一起源説側において、ネアンデルタール人への評価をひじょうに低く推定する見解が目立つようになってきたのは、多地域進化説を強く意識したからではないか、と思います。多地域進化説を否定するために、現生人類とネアンデルタール人との違い、さらに言えば後者にたいする前者の優位を強調しようとしたのではないか、というわけです。その代表的な一般向け書籍(Stringer, and Clive., 1997)の訳者あとがきにて、河合信和氏は以下のように指摘しています(P367)。
総合的に見て、本書で一貫している論調は、ネアンデルタール人の「半人前」ぶりである。こんな程度で氷河期のヨーロッパをネアンデルタール人はよく生き延びられたものだ、といささか首を傾げたくなる。寒冷適応していたとはいえ、もう少し彼らに高い文化度を認めてやらないと、二万七千年前(サファラヤの最後のネアンデルタール人)までは生きられなかったのではなかろうか。新人に比べて、ネアンデルタール人に対する著者の態度はかなり厳しいと思う。
今となっては、河合氏の指摘は的確なものだったと思います。現生人類の起源に関して、近年の傾向は多地域進化説の「復権」とも解釈とも解釈できるかもしれませんが(関連記事)、あくまでも部分的なものであり、多地域進化説が妥当だったとまではとても言えず、アフリカ単一起源説が基本的には正しかった、と評価すべきでしょう(関連記事)。上記の河合氏の指摘はおもに考古学での評価についてですが、近年では、ネアンデルタール人と現生人類との技術・社会行動・認知能力の違いは考古学的には確証できない、とも指摘されています(関連記事)。私は、認知能力においてネアンデルタール人と現生人類との間で潜在的な違いがあっても不思議ではないというか、その可能性が高いものの、ネアンデルタール人も現生人類に可能な行動の多くが可能だろう、と考えています。
なお、ネアンデルタール人への評価の変遷に関して、「白人」のご都合主義によりネアンデルタール人の評価が好転した、という言説を取り上げたことがあります(関連記事)。これは、白饅頭(御田寺圭)氏という影響力の強いTwitterアカウント(あくまでも私の基準では)が、
「ネアンデルタール人がヨーロッパ人と混血していた」という事実が明らかになった途端、ネアンデルタール人想像図がイケメン化した現象、僕は忘れません。
と言及したこともあり、ネットではそれなりに浸透しているように思います。しかし、改めて確認してみると、その呟きは削除されていました。削除理由が批判されたからなのか否かまでは、確認できませんでしたが。御田寺圭氏は最近では大手サイトにも寄稿しており、ネットでは「論客」の一人として認知されるようになりつつあるのかもしれませんが、その「リベラル」を腐すような言説には、とても「リベラル」にはなれないと自覚している私のような不勉強で「魂の悪い」人間(関連記事)が安易に飛びついてはならない、と自戒すべきなのでしょう。
参考文献:
Stringer CB, and Clive G.著(1997)、河合信和訳『ネアンデルタール人とは誰か』(朝日新聞社、原書の刊行は1993年)
1980年代後半~1990年代前半にかけて、現生人類(Homo sapiens)の起源をめぐり、アフリカ単一起源説と多地域進化説との間で激論が展開されました。その中で、アフリカ単一起源説側において、ネアンデルタール人への評価をひじょうに低く推定する見解が目立つようになってきたのは、多地域進化説を強く意識したからではないか、と思います。多地域進化説を否定するために、現生人類とネアンデルタール人との違い、さらに言えば後者にたいする前者の優位を強調しようとしたのではないか、というわけです。その代表的な一般向け書籍(Stringer, and Clive., 1997)の訳者あとがきにて、河合信和氏は以下のように指摘しています(P367)。
総合的に見て、本書で一貫している論調は、ネアンデルタール人の「半人前」ぶりである。こんな程度で氷河期のヨーロッパをネアンデルタール人はよく生き延びられたものだ、といささか首を傾げたくなる。寒冷適応していたとはいえ、もう少し彼らに高い文化度を認めてやらないと、二万七千年前(サファラヤの最後のネアンデルタール人)までは生きられなかったのではなかろうか。新人に比べて、ネアンデルタール人に対する著者の態度はかなり厳しいと思う。
今となっては、河合氏の指摘は的確なものだったと思います。現生人類の起源に関して、近年の傾向は多地域進化説の「復権」とも解釈とも解釈できるかもしれませんが(関連記事)、あくまでも部分的なものであり、多地域進化説が妥当だったとまではとても言えず、アフリカ単一起源説が基本的には正しかった、と評価すべきでしょう(関連記事)。上記の河合氏の指摘はおもに考古学での評価についてですが、近年では、ネアンデルタール人と現生人類との技術・社会行動・認知能力の違いは考古学的には確証できない、とも指摘されています(関連記事)。私は、認知能力においてネアンデルタール人と現生人類との間で潜在的な違いがあっても不思議ではないというか、その可能性が高いものの、ネアンデルタール人も現生人類に可能な行動の多くが可能だろう、と考えています。
なお、ネアンデルタール人への評価の変遷に関して、「白人」のご都合主義によりネアンデルタール人の評価が好転した、という言説を取り上げたことがあります(関連記事)。これは、白饅頭(御田寺圭)氏という影響力の強いTwitterアカウント(あくまでも私の基準では)が、
「ネアンデルタール人がヨーロッパ人と混血していた」という事実が明らかになった途端、ネアンデルタール人想像図がイケメン化した現象、僕は忘れません。
と言及したこともあり、ネットではそれなりに浸透しているように思います。しかし、改めて確認してみると、その呟きは削除されていました。削除理由が批判されたからなのか否かまでは、確認できませんでしたが。御田寺圭氏は最近では大手サイトにも寄稿しており、ネットでは「論客」の一人として認知されるようになりつつあるのかもしれませんが、その「リベラル」を腐すような言説には、とても「リベラル」にはなれないと自覚している私のような不勉強で「魂の悪い」人間(関連記事)が安易に飛びついてはならない、と自戒すべきなのでしょう。
参考文献:
Stringer CB, and Clive G.著(1997)、河合信和訳『ネアンデルタール人とは誰か』(朝日新聞社、原書の刊行は1993年)
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