渡邊大門『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか 一次史料が語る天下分け目の真実』
PHP新書の一冊として、2019年9月にPHP研究所より刊行されました。本書は、1600年9月15日(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)の関ヶ原合戦の戦闘にまつわる見解・俗説を検証しているというより、関ヶ原合戦を長期の政治過程の転機として把握したうえで、そこへと至る政治情勢に関する見解・俗説を取り上げています。こうした本書の構成の前提として、関ヶ原合戦自体は1600年9月15日の西軍の戦術で結果を逆転できるものではなく、その時点ですでに勝敗は決定的になっていた、との認識があります。本書のこの認識は基本的に妥当で、政治情勢に関する見解・俗説を検証対象としたのは妥当だと思います。
本書から窺える重要な教訓は、結果からの推測に陥らないよう、慎重に考えねばならない、ということです。たとえば、徳川家康は豊臣秀吉没後すぐに、あるいは秀吉の死が間近に見えてきた時点から、独自の政権(幕府)を開き、やがては豊臣氏を滅ぼす計算で行動していた、といった認識です。これは、それなりに一般層に浸透しているように思います。しかし本書からは、家康が豊臣政権の枠内で権勢を拡大していき、それに対する反発・警戒・恐怖が反家康陣営を結成させて関ヶ原合戦に至った、と窺えます。家康の行動にしても、秀吉という求心力の強い最高権力者が没して政治情勢が不安定な中で、まず豊臣政権の枠内で徳川家の安泰を図った、という側面が多分にあるように思います。しかし、おそらくは家康が当初は意図しない形で関ヶ原合戦に至り、その結果として、家康の地位は飛躍的に向上し、ついには幕府を開くことになりました。おそらく本書が指摘するように、織田信長没後の秀吉の行動にも、そうした側面が多分にあったのでしょう。
結果論に陥らないよう注意しなければならないという点で言えば、そもそも史料自体が結果論から作られている場合も少なくない、と本書からは窺えます。これは、おもに編纂史料など二次史料に当てはまりますが、そこに所収されている書状でも、結果論に基づく偽作の可能性が高いものもあるようです。本書は、関ヶ原合戦において石田三成と上杉家重臣の直江兼続が事前に共謀していたとする説の根拠となる書状(編纂史料に所収)は、関ヶ原合戦の結果として上杉家が所領を大幅に削減された責任を、すでに家が断絶していた直江兼続に押しつけるための創作だった可能性が高い、と指摘します。なお、有名な「直江状」については、古くから偽作説が主張されてきましたが、その後は肯定説も提示され、現在でも議論が続いているようです。本書は、後世の創作・捏造・改竄である可能性を提示していますが、真偽を確かめるには原本の出現を待つしかない、とも指摘しています。
本書から窺える重要な教訓は、結果からの推測に陥らないよう、慎重に考えねばならない、ということです。たとえば、徳川家康は豊臣秀吉没後すぐに、あるいは秀吉の死が間近に見えてきた時点から、独自の政権(幕府)を開き、やがては豊臣氏を滅ぼす計算で行動していた、といった認識です。これは、それなりに一般層に浸透しているように思います。しかし本書からは、家康が豊臣政権の枠内で権勢を拡大していき、それに対する反発・警戒・恐怖が反家康陣営を結成させて関ヶ原合戦に至った、と窺えます。家康の行動にしても、秀吉という求心力の強い最高権力者が没して政治情勢が不安定な中で、まず豊臣政権の枠内で徳川家の安泰を図った、という側面が多分にあるように思います。しかし、おそらくは家康が当初は意図しない形で関ヶ原合戦に至り、その結果として、家康の地位は飛躍的に向上し、ついには幕府を開くことになりました。おそらく本書が指摘するように、織田信長没後の秀吉の行動にも、そうした側面が多分にあったのでしょう。
結果論に陥らないよう注意しなければならないという点で言えば、そもそも史料自体が結果論から作られている場合も少なくない、と本書からは窺えます。これは、おもに編纂史料など二次史料に当てはまりますが、そこに所収されている書状でも、結果論に基づく偽作の可能性が高いものもあるようです。本書は、関ヶ原合戦において石田三成と上杉家重臣の直江兼続が事前に共謀していたとする説の根拠となる書状(編纂史料に所収)は、関ヶ原合戦の結果として上杉家が所領を大幅に削減された責任を、すでに家が断絶していた直江兼続に押しつけるための創作だった可能性が高い、と指摘します。なお、有名な「直江状」については、古くから偽作説が主張されてきましたが、その後は肯定説も提示され、現在でも議論が続いているようです。本書は、後世の創作・捏造・改竄である可能性を提示していますが、真偽を確かめるには原本の出現を待つしかない、とも指摘しています。
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