飯山陽『イスラム2.0 SNSが変えた1400年の宗教観』

 河出書の一冊として、河出書房新社から2019年11月に刊行されました。本書の「イスラム2.0」とは、イスラム教をめぐる新たな状況を意味します。その契機となったのがグローバル化の進展とインターネットの普及で、それ以前が「イスラム1.0」とされます。「イスラム1.0」、つまりイスラム教の始まりから20世紀末まで、イスラム教徒の大半は知識層である一部のイスラム法学者を介してしかイスラム法を知るしかありませんでした。イスラム法学者は、時の権力層の庇護を受けるため、権力層を擁護する必要があり、『コーラン』とハディースに忠実ではないこともありました。ただ、「イスラム1.0」の時代には、大衆が直接的に『コーラン』とハディースを理解することは困難だったため、イスラム法学者の見解(もちろん、複数の学派があるわけですが)を受け入れるしかありませんでした。

 しかし、「イスラム2.0」の時代には、インターネットを介して『コーラン』とハディースに直接触れられるイスラム教徒の数が激増しました。すると、『コーラン』とハディースからテロも厭わないジハード主義を読み取るのは論理的なので、じゅうらいの政権寄りのイスラム法学者の見解は『コーラン』とハディースに照らして間違っている、と理解する人々が増加していき、それがイスラム主義・原理主義的傾向を強化し、さらにはテロも厭わないジハード主義者を次々と生み出していき、それは「穏健な」イスラム教の代表例とされてきたインドネシアでも同様である、というのが本書の大まかな見通しです。と言いますか、むしろ「穏健な」もしくは「緩い」イスラム社会だったインドネシアのような地域でこそ変化は激しい、と本書は指摘します。

 本書はこうした見通しのもと、ヨーロッパの「リベラル」な政治エリートたちによる、イスラム教は本来寛容で平和的な宗教であり、イスラム教徒移民やイスラム教自体は脅威ではなく、差別や経済格差こそが同化・統合を阻み、移民やその二世をテロに走らせるのだ、といった言説が、今やヨーロッパで広く大衆から支持を失っており、エリート層も方針を転換しつつある、と指摘します。本書は、「イスラム2.0」の時代に『コーラン』とハディースに直接触れてイスラム主義的性格を強めたイスラム教徒が、ヨーロッパにおいてLGBTなど「リベラル」的価値観を攻撃している、と指摘します。イスラム教と「リベラル」な西洋近代の価値観とは相容れないところが多分にあり、ヨーロッパで頻発するジハード主義者のテロの根本的な要因は、差別や経済格差といった社会問題ではなく、価値観の大きな違いに原因がある、というわけです。本書はその根拠として、一定以上の裕福な階層においても、イスラム主義・原理主義的傾向が強くなり、自爆テロを行なう者(家族単位の事例もあります)もいることを挙げています。

 ただ本書は、「イスラム2.0」の時代においてイスラム教徒では原理主義的傾向が強くなっていることにたいして、棄教という反動も起きている、と指摘します。棄教には、神への信仰は失わないものの、1日5回の礼拝やハラールが非合理的だと考える「軽い」ものから、無神論にまで至る「本格的」なものまであります。こうした人々の多くは、自由と寛容という西洋近代の価値観に触れて魅了され、イスラム教に疑問を抱くようになっていきました。また本書は、ヨーロッパだけではなくイスラム教圏でも、「リベラル」なイスラム教知識人の間でイスラム教の改革運動が起きていることを指摘します。「イスラム国」は『コーラン』とハディースという啓示文字通り解釈しているのであり、問題はイスラム教の側にある、というわけです。本書は、「イスラム国」がイスラム教の唯一の正統的な解釈の在り様とは言えないにしても、イスラム教の伝統的解釈の中から出現したことを強調します。

 こうしたイスラム教圏におけるイスラム教改革運動を強力に推進しているのがエジプトのシシ政権です。イスラム教には、神は宗教・生命・理性・子孫・財産の保全という「立法目的」のために人間に法を与えたので、ある法を特定場面に適用することでその「立法目的」が損なわれると予想される場合、その法の適用を回避しなければならない、という「マスハラ理論」があります。「マスハラ理論」を用いると、『コーラン』とハディースの変更なしに、異教徒との共存も可能となります。しかし、「マスハラ理論」はイスラム法の規範全ての適用の回避も可能とするので、歴史的にその運用は抑制されてきた、とも本書は指摘します。また本書は、シシ政権の試みに関しても、「イスラム2.0」の時代において原理主義的傾向の強まる大衆に、直ちに広く支持されるわけでもないことを指摘しています。本書は、イスラム教改革運動がどの程度成功を収めるのか定かではなく、イスラム教徒の人口増加率が高いという現状から、イスラム教が世界で支配的になった時に、「イスラム国」のような統治が杞憂に終わらない可能性を警告します。

 本書はこのように現状認識を述べたうえで、イスラム教徒とどう共生すべきなのか、最終章で提言しています。大別すると、普遍真理を争わない、法の遵守の徹底、日本の常識を押しつけない、レッドラインを越えない、となります。具体的には、『コーラン』を否定したり冒涜したりしない、酒や豚を口にするよう勧めない、賭博や占いに誘わない、イスラム教の規範に合理的説明を求めないなどです。今後、日本人とイスラム教徒との接触機会は増えていくでしょうから、本書の実用的な提言は有益だと思います。

 本書に対しては、「リベラル」派を中心に、イスラム恐怖症を煽っているとか、差別的とかいった批判が多いだろう、と思います。自分の周囲のイスラム教徒は「過激派」ではなく、異教徒とも話しあい、また理解しあえる人物だ、と主張する「リベラル」派は少なくないでしょう。じっさい、上述のように、本書でも「リベラル」的というか、西洋近代との共存を目指すようなイスラム教改革運動も取り上げられています。差別や経済格差が縮小していけば、そうした「リベラル」なイスラム教改革運動が支持を集め、民族的にも宗教的にも多様な人々が共存する社会も実現するだろう、というような見通しを抱いている「リベラル」派は少なくないかもしれません。じっさい、イスラム教にテロも厭わないようなジハード主義者を生み出す強固な内在的論理が備わっているとしても、行動に移すのはごく一部なわけで、テロを減らすためには、やはり環境こそが重要ではないか、との議論もあるでしょう。イスラム教の今後の影響力拡大の根拠とされるイスラム教徒の人口増加率の高さにしても、それが啓示に由来する側面はとても否定できないにしても、環境変動にさほど影響を受けずにずっと続くのか、疑問は残ります。

 しかし、「リベラル」派と深く付き合うようなイスラム教徒の大半は知的エリートでしょうから、立場上西洋的な「リベラル」派と話を合わせているか、「リベラル」的な価値観をかなり内面化している可能性があり、イスラム教は本質的に平和な宗教とか、差別や経済格差こそがイスラム教徒によるテロの温床とかいった「リベラル」的言説を真に受けるのは危険ではないか、とも思います。確かに、「リベラル」派のイスラム教およびイスラム教徒認識は、真理の一面を把握しているのかもしれません。しかし、それがイスラム教の本質・主流なのかというと、「リベラル」派が深く付き合うようなイスラム教徒から直ちにイスラム教の「本質」を理解した気になるのは危険だろう、と門外漢ながら思います。「啓示の宗教」であるイスラム教に、テロも厭わないジハード主義へと向かわせる内在的論理と、「リベラル」な西洋近代とは多分に相容れない価値観があり、ジハード主義者はグローバル化の進展とインターネットの普及により世界規模で増加している、という本書の見通しは基本的には妥当と思います。

 それを踏まえたうえで、日本人もイスラム教およびイスラム教徒と付き合っていかねばならないのでしょうが、私も含めて西洋近代の価値観に強い影響を受けた日本人には、精神的にたいへんきつい状況と言えるでしょう。もちろん、現代日本のような世俗社会で暮らすイスラム教徒の側には、本書が指摘するように大きな精神的ストレスがあるのでしょうが。あるいは、中国のような高度な情報技術を活用しての抑圧的な管理体制は、イスラム教の過激派のテロを押さえ込むのにかなり有効かもしれず、その意味で「イスラム2.0」の時代には「中国モデル」を採用する国が増えていくかもしれません。ただ、中国的な体制では失うものがあまりにも多いため、日本がそうならないよう、私も微力ながら努めていきたいものです。著者の前著『イスラム教の論理』(関連記事)を読むと、本書をさらによく理解できると思います。

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