山本秀樹「現生人類単一起源説と言語の系統について」
言語系統やその起源については明らかに勉強不足なので、比較的近年の知見を得るために本論文を読みました。本論文はPDFファイルで読めます。本論文は、現生人類(Homo sapiens)アフリカ単一起源説を大前提として、言語系統について考察しています。言語学において現生人類アフリカ単一起源説の影響はまださほどないものの、その意味は小さくなく、しばしば珍説とされてきた「人類言語単一起源説」の可能性も浮上する、と本論文は指摘します。本論文は2013年の講演会の文書化なので、2019年11月時点では情報はやや古くなっています。その点にも言及しつつ、以下に本論文の内容を備忘録的に述べていきます。
まず、本題とはほとんど関わらないのですが、本論文では180万年前頃以降とされている人類の出アフリカは、現在では200万年以上前までさかのぼる、とされています(関連記事)。「Y染色体アダム」、つまり現代人のY染色体DNA系統の合着年代について、本論文では6万~8万年前頃との見解が採用されていますが、その後、338000年前(95%の信頼性で581000~237000年前の間)という研究(関連記事)と、239000年前頃(95.4%の信頼性で321000~174000年前の間)という研究(関連記事)が提示されています。本論文は、「ミトコンドリア・イヴ」、つまり25万~15万年前頃と推定されている(関連記事)現代人のミトコンドリアDNA(mtDNA)系統の合着年代の方が「Y染色体アダム」より古いので、人類言語単一起源説の考察ではY染色体の方は考慮しない、と述べていますが、現時点では「ミトコンドリア・イヴ」よりも「Y染色体アダム」の方が古くなります。
本論文の認識で何よりも問題となるのは、「ミトコンドリア・イヴ」以前の現生人類の系譜をひく人類は現存しないので、「ミトコンドリア・イヴ」の時点で言語があれば、「彼女」の言語こそ「世界祖語」と言える可能性が高い、としていることです。しかし、「ミトコンドリア・イヴ」は現代人のmtDNA系統における合着年代を示しているにすぎず、「Y染色体アダム」がそうであるように、他のDNA領域、つまり核DNAに注目すると、また異なる合着年代が示されます。当時存在した「ミトコンドリア・イヴ」以外の人々でも、もちろん核DNAは現代人にまで継承されているわけで、そうした人々のmtDNA系統は現代人に継承されていないとしても、言語が現代人に継承されている可能性は高いでしょう。逆に、「ミトコンドリア・イヴ」の帰属する集団の言語が、大きく異なる他集団の言語に駆逐・置換された可能性も低くありません。
このように本論文の認識には疑問が残りますが、伝統的な比較言語学による系統証明方法の限界のために、言語学では現生人類アフリカ単一起源説への注目が高まらない、との本論文の指摘は興味深いと思います。本論文は、語彙を基本に系統証明を試みる比較言語学的手法が有効なのは過去8000年、もしくはせいぜい1万年にすぎない、と指摘します。これは、単なる偶然の一致を越えて基礎語彙が共有される期間がこの程度だからです。そうした限界を超えようとした研究もあり、ノストラ語族という大語族を提示した研究もあるものの、その手法には多くの批判が寄せられ、とても通説とはなっていません。ただ本論文は、手法の誤りもしくは稚拙さが結論の誤りを証明しているとは限らない、と注意を喚起しています。
本論文は、現代人の言語系統の問題に関して、まず人類がいつ言語を獲得したのか、考察しています。本論文は、現生人類に言語があったことは多くの研究者の間で前提とされているようだ、と指摘します。そこで言語の獲得時期について焦点となったのは、現生人類の近縁系統であるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)でした。ネアンデルタール人については、現代人のような言語を話せなかっただろう、との見解が以前には有力でしたが、その後、舌骨の研究や舌下神経管から、ネアンデルタール人も現代人とほぼ同様に音声言語を使えたのではないか、との見解が提示されています。これは、ネアンデルタール人と現生人類の最終共通祖先の段階で、現代人にかなり近い音声言語能力があったことを示唆します。本論文は、現生人類も最初から言語を有していただろう、と指摘します。
本論文が言語単一起源説との関連で注目したのは、5万年前頃に現生人類の文化に飛躍的な発展があったとする見解(創造の爆発論)です(関連記事)。創造の爆発論では、5万年前頃の現生人類における飛躍的な文化発展は神経系の遺伝的変異を基盤としており、現代人のような複雑な言語活動もここで初めて可能になった、と想定されます。本論文は、現代人の主要な祖先集団が6万年前頃にアフリカからユーラシアに拡散したとすると、現代人のような複雑な言語は現生人類の出アフリカ後に獲得されたことになるので、言語単一起源説は必ずしも成立しない、と指摘します。それでも本論文は、不用意に文化的な発達と言語の発達を関連づけることには慎重でなければならない、と指摘します。ただ、本論文は創造の爆発論を誤読しているところがあり、創造の爆発論では、飛躍的な文化発展の基盤となった神経系の遺伝的変異は現代人の主要な祖先集団の出アフリカ前とされており(そうでなければ、各地で複雑な言語活動を可能とする遺伝的変異が独自に起きたことになります)、言語単一起源説と創造の爆発論は矛盾しないと思います。創造の爆発論の5万年前頃という年代も、6万年前頃という現代人の主要な祖先集団の出アフリカの年代もあくまでも幅のある推定値であり、それぞれ確定的ではありません。
本論文がもう一つ注目したのは、発話能力との関連が指摘されているFOXP2遺伝子に関する研究です。本論文は、現代人型のFOXP2遺伝子の出現時期について、10万~1万年前頃の可能性が最も高く、20万年以上前にさかのぼることはない、という研究を紹介していますが、FOXP2遺伝子が言語能力にのみ関与しているのか不明で、言語能力の獲得には複数の遺伝子が関与している可能性もあるので、FOXP2遺伝子は言語獲得時期の推定の決定的根拠にはならないかもしれない、と指摘します。この本論文の指摘は妥当だと思います。本論文では言及されていませんが、ネアンデルタール人のFOXP2遺伝子も現代人型です(関連記事)。また、本論文の後の研究では、FOXP2遺伝子の発現に影響を及ぼすFOXP2遺伝子の周辺領域において、ネアンデルタール人と現代人とで違いがある、と指摘されています(関連記事)。ただ、これが言語能力とどう関わっているのかは、まだ不明です。
本論文はまとめとして、遺伝学的研究の進展により現生人類アフリカ単一起源はほぼ確 実となったものの、それにより直ちに言語単一起源説が成立するかというと、以前と比較してその可能性が高くなったとは言えても、現段階では一つの仮説に留まり、結論は保留せざるを得ない、との見解を提示しています。この見解は妥当なところだと思いますが、現生人類の起源に関しては、もはや単純なアフリカ単一起源説では通用しなくなりつつあることも重要だと思います。一つには、現生人類とネアンデルタール人との交雑が明らかになったことですが、より重要なのは、アフリカ全体の異なる集団間の複雑な相互作用により現生人類は形成された、との見解(関連記事)が有力になりつつあるように思われることです。この見解では、現生人類アフリカ単一起源説を前提としつつも、現生人類の派生的な形態学的特徴がアフリカ各地で異なる年代・場所・集団に出現し、比較的孤立していた複数集団間の交雑も含まれる複雑な移住・交流により現生人類が形成された、と想定されます。そうすると、現代につながるような言語は、単一起源というよりは、潜在的に言語能力を有する各集団が独自に発展させ、その相互交流・融合・置換の複雑な過程で形成されていった、とも考えられます。まあそれでも、ネアンデルタール人と現生人類の共通祖先の段階の最初期言語を「世界祖語」と言えなくもありませんが、それは本論文の想定する「世界祖語」とは大きく異なるものだと思います。
参考文献:
山本秀樹(2013)「現生人類単一起源説と言語の系統について」千葉大学文学部講演会
まず、本題とはほとんど関わらないのですが、本論文では180万年前頃以降とされている人類の出アフリカは、現在では200万年以上前までさかのぼる、とされています(関連記事)。「Y染色体アダム」、つまり現代人のY染色体DNA系統の合着年代について、本論文では6万~8万年前頃との見解が採用されていますが、その後、338000年前(95%の信頼性で581000~237000年前の間)という研究(関連記事)と、239000年前頃(95.4%の信頼性で321000~174000年前の間)という研究(関連記事)が提示されています。本論文は、「ミトコンドリア・イヴ」、つまり25万~15万年前頃と推定されている(関連記事)現代人のミトコンドリアDNA(mtDNA)系統の合着年代の方が「Y染色体アダム」より古いので、人類言語単一起源説の考察ではY染色体の方は考慮しない、と述べていますが、現時点では「ミトコンドリア・イヴ」よりも「Y染色体アダム」の方が古くなります。
本論文の認識で何よりも問題となるのは、「ミトコンドリア・イヴ」以前の現生人類の系譜をひく人類は現存しないので、「ミトコンドリア・イヴ」の時点で言語があれば、「彼女」の言語こそ「世界祖語」と言える可能性が高い、としていることです。しかし、「ミトコンドリア・イヴ」は現代人のmtDNA系統における合着年代を示しているにすぎず、「Y染色体アダム」がそうであるように、他のDNA領域、つまり核DNAに注目すると、また異なる合着年代が示されます。当時存在した「ミトコンドリア・イヴ」以外の人々でも、もちろん核DNAは現代人にまで継承されているわけで、そうした人々のmtDNA系統は現代人に継承されていないとしても、言語が現代人に継承されている可能性は高いでしょう。逆に、「ミトコンドリア・イヴ」の帰属する集団の言語が、大きく異なる他集団の言語に駆逐・置換された可能性も低くありません。
このように本論文の認識には疑問が残りますが、伝統的な比較言語学による系統証明方法の限界のために、言語学では現生人類アフリカ単一起源説への注目が高まらない、との本論文の指摘は興味深いと思います。本論文は、語彙を基本に系統証明を試みる比較言語学的手法が有効なのは過去8000年、もしくはせいぜい1万年にすぎない、と指摘します。これは、単なる偶然の一致を越えて基礎語彙が共有される期間がこの程度だからです。そうした限界を超えようとした研究もあり、ノストラ語族という大語族を提示した研究もあるものの、その手法には多くの批判が寄せられ、とても通説とはなっていません。ただ本論文は、手法の誤りもしくは稚拙さが結論の誤りを証明しているとは限らない、と注意を喚起しています。
本論文は、現代人の言語系統の問題に関して、まず人類がいつ言語を獲得したのか、考察しています。本論文は、現生人類に言語があったことは多くの研究者の間で前提とされているようだ、と指摘します。そこで言語の獲得時期について焦点となったのは、現生人類の近縁系統であるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)でした。ネアンデルタール人については、現代人のような言語を話せなかっただろう、との見解が以前には有力でしたが、その後、舌骨の研究や舌下神経管から、ネアンデルタール人も現代人とほぼ同様に音声言語を使えたのではないか、との見解が提示されています。これは、ネアンデルタール人と現生人類の最終共通祖先の段階で、現代人にかなり近い音声言語能力があったことを示唆します。本論文は、現生人類も最初から言語を有していただろう、と指摘します。
本論文が言語単一起源説との関連で注目したのは、5万年前頃に現生人類の文化に飛躍的な発展があったとする見解(創造の爆発論)です(関連記事)。創造の爆発論では、5万年前頃の現生人類における飛躍的な文化発展は神経系の遺伝的変異を基盤としており、現代人のような複雑な言語活動もここで初めて可能になった、と想定されます。本論文は、現代人の主要な祖先集団が6万年前頃にアフリカからユーラシアに拡散したとすると、現代人のような複雑な言語は現生人類の出アフリカ後に獲得されたことになるので、言語単一起源説は必ずしも成立しない、と指摘します。それでも本論文は、不用意に文化的な発達と言語の発達を関連づけることには慎重でなければならない、と指摘します。ただ、本論文は創造の爆発論を誤読しているところがあり、創造の爆発論では、飛躍的な文化発展の基盤となった神経系の遺伝的変異は現代人の主要な祖先集団の出アフリカ前とされており(そうでなければ、各地で複雑な言語活動を可能とする遺伝的変異が独自に起きたことになります)、言語単一起源説と創造の爆発論は矛盾しないと思います。創造の爆発論の5万年前頃という年代も、6万年前頃という現代人の主要な祖先集団の出アフリカの年代もあくまでも幅のある推定値であり、それぞれ確定的ではありません。
本論文がもう一つ注目したのは、発話能力との関連が指摘されているFOXP2遺伝子に関する研究です。本論文は、現代人型のFOXP2遺伝子の出現時期について、10万~1万年前頃の可能性が最も高く、20万年以上前にさかのぼることはない、という研究を紹介していますが、FOXP2遺伝子が言語能力にのみ関与しているのか不明で、言語能力の獲得には複数の遺伝子が関与している可能性もあるので、FOXP2遺伝子は言語獲得時期の推定の決定的根拠にはならないかもしれない、と指摘します。この本論文の指摘は妥当だと思います。本論文では言及されていませんが、ネアンデルタール人のFOXP2遺伝子も現代人型です(関連記事)。また、本論文の後の研究では、FOXP2遺伝子の発現に影響を及ぼすFOXP2遺伝子の周辺領域において、ネアンデルタール人と現代人とで違いがある、と指摘されています(関連記事)。ただ、これが言語能力とどう関わっているのかは、まだ不明です。
本論文はまとめとして、遺伝学的研究の進展により現生人類アフリカ単一起源はほぼ確 実となったものの、それにより直ちに言語単一起源説が成立するかというと、以前と比較してその可能性が高くなったとは言えても、現段階では一つの仮説に留まり、結論は保留せざるを得ない、との見解を提示しています。この見解は妥当なところだと思いますが、現生人類の起源に関しては、もはや単純なアフリカ単一起源説では通用しなくなりつつあることも重要だと思います。一つには、現生人類とネアンデルタール人との交雑が明らかになったことですが、より重要なのは、アフリカ全体の異なる集団間の複雑な相互作用により現生人類は形成された、との見解(関連記事)が有力になりつつあるように思われることです。この見解では、現生人類アフリカ単一起源説を前提としつつも、現生人類の派生的な形態学的特徴がアフリカ各地で異なる年代・場所・集団に出現し、比較的孤立していた複数集団間の交雑も含まれる複雑な移住・交流により現生人類が形成された、と想定されます。そうすると、現代につながるような言語は、単一起源というよりは、潜在的に言語能力を有する各集団が独自に発展させ、その相互交流・融合・置換の複雑な過程で形成されていった、とも考えられます。まあそれでも、ネアンデルタール人と現生人類の共通祖先の段階の最初期言語を「世界祖語」と言えなくもありませんが、それは本論文の想定する「世界祖語」とは大きく異なるものだと思います。
参考文献:
山本秀樹(2013)「現生人類単一起源説と言語の系統について」千葉大学文学部講演会
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