大西秀之「アイヌ民族・文化形成における異系統集団の混淆―二重波モデルを理解するための民族史事例の検討」
本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究B01「人類集団の拡散と定着にともなう文化・行動変化の文化人類学的モデル構築」の2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 21)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P11-16)。この他にも興味深そうな報告があるので、今後読んでいくつもりです。
アイヌ民族・文化の形成過程は、日本列島だけでなくアジア北東部を対象とする歴史学や人類学にとって主要な研究課題の一つとなっています。この問題に関しては、これまで考古学・歴史学・民族学・自然人類学などさまざまな分野において取り組まれてきました。アイヌ民族の起源に関しては、縄文時代の集団に直接的にさかのぼり、アイヌ民族は北海道「縄文人」の「直系」で「純粋な子孫」である、というような説が、一般層に浸透しているだけではなく、学界でも一定以上の支持を得てきました。しかし、こうしたアイヌ民族・文化の起源に関する言説は、遺伝学や自然人類学などにより今では否定されています。中世併行期の北海道には、遺伝的にも文化的にも異なる系統の集団によって担われていた、擦文文化とオホーツク文化が並存していました。これらの文化の考古資料の性格はひじょうに異なり、それぞれの担い手の集団も遺伝的に異なっていた、とすでに1930 年代には指摘されていました。そのため、これらの異系統集団・文化が、中世併行期以降のアイヌ民族・文化の形成にどのように関連しているのか、注目されてきました。
本論文はこうした点を踏まえ、おもに考古学と民族誌のデータを用いて、アイヌ民族・文化の形成過程を検証しています。具体的には、擦文文化とオホーツク文化が次の中世併行期のアイヌ民族・文化の形成にどのような関係・貢献を果たしたのか、ということです。本論文はとくに、中国大陸や本州以南など外部社会からの影響によって引き起こされた擦文文化とオホーツク文化の接触・融合により、中世併行期のアイヌ文化が形成されてゆく過程に焦点を当てています。それにより、これまで往々にして縄文文化・時代から直接的かつ単線的に説明されてきたアイヌ民族・文化の形成史を再検討し、新たな展望を提示する、というわけです。本論文は、こうした視点が同時に、狩猟採集社会における二つの異系統集団の接触・融合を理解するための事例研究にもなるだろう、と指摘しています。
北海道の時代区分は、縄文時代までは本州・四国・九州を中心とする「本土」と大きな違いはありません。大きく変わるのは「本土」の弥生時代以降で、北海道は続縄文時代と区分されます。その後の北海道は、擦文文化とオホーツク文化の並存期を経て、中世アイヌ期→近世アイヌ期→近現代と移行います。ただ本論文は、中世以降の「アイヌ期」という用語について、アイヌ民族・文化が中世になって形成された、と誤解させかねず、これは考古学上の用語の問題にすぎず、中世アイヌ期の前後で人間集団に明確な断絶はなく、むしろ遺伝学や自然人類学ではその間の連続性が確認されている、と指摘しています。
北海道と「本土」の歴史的展開の違いについて本論文は、さまざまな要因の関与のなかで生起しているため、単一要因で容易に説明できないものの、基本的には自然生態環境の違いや近隣社会との関係に起因する、と概括的にまとめています。ただ本論文は、北海道史の最大の特徴として、近代になって開拓移民が押し寄せるまで、社会や文化は「本土」の多数派集団とはエスニシティを異にするアイヌの人々によって担われていた、と指摘します。しかし、アイヌは無文字社会だったので、自らの歴史を記録することはありませんでした。そのため北海道の時代区分は、基本的に考古学などの調査研究に基づいて構築されたものです。
上述のように、中世アイヌ期の前後で、人間集団の連続性が指摘されています。しかし本論文は、少なくとも物質文化の側面では、数多くの大きな相違が確認できる、と指摘します。上述のように、中世アイヌ期の前には、擦文文化とオホーツク文化という考古資料の大きく異なる2文化が並存し、それぞれの担い手は遺伝的系統が異なっている、と指摘されています。そのため、遺伝的にも文化的にも系統を異にする擦文文化とオホーツク文化が、次の中世アイヌ期の形成にどのように関係しているか、ということが重要な研究課題となります。
擦文文化は、紀元後700~1200年頃に北海道と本州北端に分布していました。その生計戦略は、続縄文文化から引き継がれた狩猟・漁撈・採集と一部粗放的な穀物栽培に基づいていた、と推測されています。擦文文化の出土遺物組成に関しては、石器の出土量と器種がひじょうに乏しい、と指摘されています。こうした特徴の背景については、主要な道具が石器から鉄器に代わっていた、と推測されています。じっさい、擦文文化の遺跡からは、刀子(ナイフ)や縦斧・横斧などの鉄器が出土しています。ただ、これらの鉄器は擦文文化集団そのものが生産したのではなく、本州以南の地で生産された移入品と推測されています。擦文文化集団は、続縄文文化に系譜がたどれる在地系の人々によって主に構成されており、現在のアイヌ民族の直接の祖先である、と広く認識されています。ただ、その文化複合は、本州北部の強い影響や類似性が認められることから、本州北部からの集団移住が同文化の形成に関与していた可能性も指摘されています。
オホーツク文化は、北海道だけでなく日本列島でも最も独特な文化の一つです。オホー ツク文化は、紀元後600~1000年頃にサハリン南部・北海道北東部沿岸・千島列島に分布していました。その生計戦略に関しては、顕著な特徴として海浜での漁撈や海生哺乳類の狩猟、また沿岸域に形成される集落や居住パターンなどがから、徹底した海洋適応に基づいていた、と想定されています。オホーツク文化の出土遺物組成は、擦文文化と比較すると、石 器・骨角器・金属器などの多様な原材料から製作された、さまざまな道具一式から構成されています。またオホーツク文化でも、自から製作したわけではないものの、数種類の鉄器が使用されていました。これらの鉄器は、アムール川流域の大陸側で生産され、北方経路からサハリン経由で導入されていた、と推測されています。さらに、この経路に関しては、鉄器にとどまらず、数々の文物や情報などをオホーツク文化にもたらしていた可能性が指摘されています。オホーツク文化集団は、擦文文化を含む北海道在来の人々とは遺伝的系統が異なる、と推測されています。オホーツク文化集団の系統に関しては、形質的・遺伝的特徴から、アムール川流域やサハリンのアジア北東部集団との近縁性が指摘されています。そのため、オホーツク文化に関しては近年まで、アイヌ民族・文化の形成には直接関係がない、との認識が定着していました。
擦文文化とオホーツク文化は、700~900年頃に北海道で並存していましたが、それぞれ異なる生活圏に分布し、基本的には相互交流などの接触関係はひじょうに限定的でした。しかし、10世紀頃に両文化は急激に接触融合していきます。また、こうした接触融合は、北海道の東部と北部で別々に進展した、と考古資料から確認されています。本論文は、資料的にも豊富で研究の蓄積が進んでいる、トビニタイ文化と考古学的に設定された北海道東部の事例に焦点を当てています。トビニタイ文化は、オホーツク文化が擦文文化から人工物や生産・生業技術や居住パターンや生計戦略などの数々の要素を段階的に受け入れ、最終的に擦文文化に吸収・同化されていく移行段階と推定されています。たとえば、トビニタイ文化集団は、最初期のトビニタイ土器を、オホーツク文化の製作技術を用いて、擦文式土器の模様・装飾・器形を模倣して製作していましたが、最終段階ではその技術を完全に習得し、擦文式土器そのものとしか判断できないものを製作するようになります。同様の現象は、住居構造や道具組成などでも確認されています。これらの事例から、トビニタイ文化は、最終的には少なくとも物質文化側面では、擦文文化そのものと区別がつかないものになります。
一方、擦文文化の側には、オホーツク文化と接触融合し、トビニタイ文化を形成する証拠や動機は確認されていません。そのため、トビニタイ文化は、オホーツク文化側が積極的に擦文文化に同化吸収された過程と想定されています。遺伝学でも、考古資料から導かれたオホーツク文化集団の擦文文化集団への同化吸収が確認されており、現在のアイヌ民族はオホーツク文化集団の遺伝子を相当な割合で継承している、と明らかになっています(関連記事)。北海道東部におけるオホーツク文化と擦文文化の接触融合が起きた理由として、環境変動や政治社会的影響などが提示されています。しかし、そうした仮説の大部分は、具体的かつ充分な考古学的証拠に基づくものではない、と指摘する本論文は、考古資料から両文化の接触融合の要因を検証できる対象として、トビニタイ文化の鉄器を挙げています。
まずトビニタイ文化の鉄器に関しては、その形態的特徴に基づいて、オホーツク文化から擦文文化に類似するものに置換した、と指摘されています。つまり、トビニタイ文化における鉄器の供給源は、アムール河流域を中心とする北方経路から、本州以南からの南経路に移行した、と推測されます。またオホーツク文化の分布圏は、本州以南の鉄器供給経路と直接的には接していないため、擦文文化を介して鉄器を入手していたと推測されます。もしそうだったなら、北海道東部のオホーツク文化集団は、日常生活を営む上で不可欠な鉄器の安定供給を確保するため、擦文文化との関係性の構築が不可避となり、両文化集団の接触融合が進んだ、と考えられます。こうした接触融合は、オホーツク文化の期間よりも遥かに多くの量の鉄器をトビニタイ文化集団に安定的に供給し、その結果として、日々の社会生活を維持するために不可欠な道具のほとんどを石器から鉄器に置き換えることができた、と推測されます。
こうした歴史展開を踏まえると、北海道におけるオホーツク文化集団もまた、アイヌ文化形成の潮流に関与している、と理解できます。なぜならば、「原アイヌ期」とされる擦文文化期から中世アイヌ期への移行は、「本土」における交易ネットワークと地域分業への統合過程に起因すると想定されるからです。つまり、遺伝的・文化的に擦文文化集団と異なる系統とされるオホーツク文化集団の消長もまた、アイヌ文化形成の展開のなかの一潮流に統合される、という理解が可能となるわけです。
本論考は最後に、アイヌ文化形成におけるオホーツク文化の役割について考察しています。オホーツク文化のなかには、中世以降のアイヌ文化形成において重要な関与を果たし、現在までのアイヌの文化遺産として引き継がれている要素が少なからず指摘されています。その最も顕著な事例の一つとして、イオマンテと呼称されるクマの送り儀礼が挙げられます。この儀礼は、アイヌ社会において最も重要な文化的実践とみなされています。しかし、現在まで擦文文化には、クマ送り儀礼の痕跡と言えるような考古資料はきわめて限定的にしか確認されていません。これに対してオホーツク文化の遺跡からは、クマなど動物の送り儀礼に関連すると推察される遺物や遺構が数多く検出されています。この他、アイヌ民族・文化の言語や象徴実践などにも、オホーツク文化に由来すると推察される痕跡が少なからず指摘されています。
こうした事例から、オホーツク文化集団は、遺伝的にも文化的にもアイヌ民族・文化のもう一つの源流である、と理解できます。この見解は、従来、縄文文化・時代から直接的かつ単線的に語られてきたアイヌ集団の歴史に対する再考と新たな展望を開くものとなるだろう、と本論文は指摘します。さらに本論文は、資料的に限定された先史考古学にとっても、時間的に限定された民族誌調査にとっても、アプローチが困難な異系統集団の接触・融合の仮定と要因を追究する上で、擦文文化とオホーツク文化は有用な参照事例となるだろう、との見通しを提示しています。
参考文献:
大西秀之(2019)「アイヌ民族・文化形成における異系統集団の混淆―二重波モデルを理解するための民族史事例の検討」『パレオアジア文化史学:人類集団の拡散と定着にともなう文化・行動変化の文化人類学的モデル構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 21)』P11-16
アイヌ民族・文化の形成過程は、日本列島だけでなくアジア北東部を対象とする歴史学や人類学にとって主要な研究課題の一つとなっています。この問題に関しては、これまで考古学・歴史学・民族学・自然人類学などさまざまな分野において取り組まれてきました。アイヌ民族の起源に関しては、縄文時代の集団に直接的にさかのぼり、アイヌ民族は北海道「縄文人」の「直系」で「純粋な子孫」である、というような説が、一般層に浸透しているだけではなく、学界でも一定以上の支持を得てきました。しかし、こうしたアイヌ民族・文化の起源に関する言説は、遺伝学や自然人類学などにより今では否定されています。中世併行期の北海道には、遺伝的にも文化的にも異なる系統の集団によって担われていた、擦文文化とオホーツク文化が並存していました。これらの文化の考古資料の性格はひじょうに異なり、それぞれの担い手の集団も遺伝的に異なっていた、とすでに1930 年代には指摘されていました。そのため、これらの異系統集団・文化が、中世併行期以降のアイヌ民族・文化の形成にどのように関連しているのか、注目されてきました。
本論文はこうした点を踏まえ、おもに考古学と民族誌のデータを用いて、アイヌ民族・文化の形成過程を検証しています。具体的には、擦文文化とオホーツク文化が次の中世併行期のアイヌ民族・文化の形成にどのような関係・貢献を果たしたのか、ということです。本論文はとくに、中国大陸や本州以南など外部社会からの影響によって引き起こされた擦文文化とオホーツク文化の接触・融合により、中世併行期のアイヌ文化が形成されてゆく過程に焦点を当てています。それにより、これまで往々にして縄文文化・時代から直接的かつ単線的に説明されてきたアイヌ民族・文化の形成史を再検討し、新たな展望を提示する、というわけです。本論文は、こうした視点が同時に、狩猟採集社会における二つの異系統集団の接触・融合を理解するための事例研究にもなるだろう、と指摘しています。
北海道の時代区分は、縄文時代までは本州・四国・九州を中心とする「本土」と大きな違いはありません。大きく変わるのは「本土」の弥生時代以降で、北海道は続縄文時代と区分されます。その後の北海道は、擦文文化とオホーツク文化の並存期を経て、中世アイヌ期→近世アイヌ期→近現代と移行います。ただ本論文は、中世以降の「アイヌ期」という用語について、アイヌ民族・文化が中世になって形成された、と誤解させかねず、これは考古学上の用語の問題にすぎず、中世アイヌ期の前後で人間集団に明確な断絶はなく、むしろ遺伝学や自然人類学ではその間の連続性が確認されている、と指摘しています。
北海道と「本土」の歴史的展開の違いについて本論文は、さまざまな要因の関与のなかで生起しているため、単一要因で容易に説明できないものの、基本的には自然生態環境の違いや近隣社会との関係に起因する、と概括的にまとめています。ただ本論文は、北海道史の最大の特徴として、近代になって開拓移民が押し寄せるまで、社会や文化は「本土」の多数派集団とはエスニシティを異にするアイヌの人々によって担われていた、と指摘します。しかし、アイヌは無文字社会だったので、自らの歴史を記録することはありませんでした。そのため北海道の時代区分は、基本的に考古学などの調査研究に基づいて構築されたものです。
上述のように、中世アイヌ期の前後で、人間集団の連続性が指摘されています。しかし本論文は、少なくとも物質文化の側面では、数多くの大きな相違が確認できる、と指摘します。上述のように、中世アイヌ期の前には、擦文文化とオホーツク文化という考古資料の大きく異なる2文化が並存し、それぞれの担い手は遺伝的系統が異なっている、と指摘されています。そのため、遺伝的にも文化的にも系統を異にする擦文文化とオホーツク文化が、次の中世アイヌ期の形成にどのように関係しているか、ということが重要な研究課題となります。
擦文文化は、紀元後700~1200年頃に北海道と本州北端に分布していました。その生計戦略は、続縄文文化から引き継がれた狩猟・漁撈・採集と一部粗放的な穀物栽培に基づいていた、と推測されています。擦文文化の出土遺物組成に関しては、石器の出土量と器種がひじょうに乏しい、と指摘されています。こうした特徴の背景については、主要な道具が石器から鉄器に代わっていた、と推測されています。じっさい、擦文文化の遺跡からは、刀子(ナイフ)や縦斧・横斧などの鉄器が出土しています。ただ、これらの鉄器は擦文文化集団そのものが生産したのではなく、本州以南の地で生産された移入品と推測されています。擦文文化集団は、続縄文文化に系譜がたどれる在地系の人々によって主に構成されており、現在のアイヌ民族の直接の祖先である、と広く認識されています。ただ、その文化複合は、本州北部の強い影響や類似性が認められることから、本州北部からの集団移住が同文化の形成に関与していた可能性も指摘されています。
オホーツク文化は、北海道だけでなく日本列島でも最も独特な文化の一つです。オホー ツク文化は、紀元後600~1000年頃にサハリン南部・北海道北東部沿岸・千島列島に分布していました。その生計戦略に関しては、顕著な特徴として海浜での漁撈や海生哺乳類の狩猟、また沿岸域に形成される集落や居住パターンなどがから、徹底した海洋適応に基づいていた、と想定されています。オホーツク文化の出土遺物組成は、擦文文化と比較すると、石 器・骨角器・金属器などの多様な原材料から製作された、さまざまな道具一式から構成されています。またオホーツク文化でも、自から製作したわけではないものの、数種類の鉄器が使用されていました。これらの鉄器は、アムール川流域の大陸側で生産され、北方経路からサハリン経由で導入されていた、と推測されています。さらに、この経路に関しては、鉄器にとどまらず、数々の文物や情報などをオホーツク文化にもたらしていた可能性が指摘されています。オホーツク文化集団は、擦文文化を含む北海道在来の人々とは遺伝的系統が異なる、と推測されています。オホーツク文化集団の系統に関しては、形質的・遺伝的特徴から、アムール川流域やサハリンのアジア北東部集団との近縁性が指摘されています。そのため、オホーツク文化に関しては近年まで、アイヌ民族・文化の形成には直接関係がない、との認識が定着していました。
擦文文化とオホーツク文化は、700~900年頃に北海道で並存していましたが、それぞれ異なる生活圏に分布し、基本的には相互交流などの接触関係はひじょうに限定的でした。しかし、10世紀頃に両文化は急激に接触融合していきます。また、こうした接触融合は、北海道の東部と北部で別々に進展した、と考古資料から確認されています。本論文は、資料的にも豊富で研究の蓄積が進んでいる、トビニタイ文化と考古学的に設定された北海道東部の事例に焦点を当てています。トビニタイ文化は、オホーツク文化が擦文文化から人工物や生産・生業技術や居住パターンや生計戦略などの数々の要素を段階的に受け入れ、最終的に擦文文化に吸収・同化されていく移行段階と推定されています。たとえば、トビニタイ文化集団は、最初期のトビニタイ土器を、オホーツク文化の製作技術を用いて、擦文式土器の模様・装飾・器形を模倣して製作していましたが、最終段階ではその技術を完全に習得し、擦文式土器そのものとしか判断できないものを製作するようになります。同様の現象は、住居構造や道具組成などでも確認されています。これらの事例から、トビニタイ文化は、最終的には少なくとも物質文化側面では、擦文文化そのものと区別がつかないものになります。
一方、擦文文化の側には、オホーツク文化と接触融合し、トビニタイ文化を形成する証拠や動機は確認されていません。そのため、トビニタイ文化は、オホーツク文化側が積極的に擦文文化に同化吸収された過程と想定されています。遺伝学でも、考古資料から導かれたオホーツク文化集団の擦文文化集団への同化吸収が確認されており、現在のアイヌ民族はオホーツク文化集団の遺伝子を相当な割合で継承している、と明らかになっています(関連記事)。北海道東部におけるオホーツク文化と擦文文化の接触融合が起きた理由として、環境変動や政治社会的影響などが提示されています。しかし、そうした仮説の大部分は、具体的かつ充分な考古学的証拠に基づくものではない、と指摘する本論文は、考古資料から両文化の接触融合の要因を検証できる対象として、トビニタイ文化の鉄器を挙げています。
まずトビニタイ文化の鉄器に関しては、その形態的特徴に基づいて、オホーツク文化から擦文文化に類似するものに置換した、と指摘されています。つまり、トビニタイ文化における鉄器の供給源は、アムール河流域を中心とする北方経路から、本州以南からの南経路に移行した、と推測されます。またオホーツク文化の分布圏は、本州以南の鉄器供給経路と直接的には接していないため、擦文文化を介して鉄器を入手していたと推測されます。もしそうだったなら、北海道東部のオホーツク文化集団は、日常生活を営む上で不可欠な鉄器の安定供給を確保するため、擦文文化との関係性の構築が不可避となり、両文化集団の接触融合が進んだ、と考えられます。こうした接触融合は、オホーツク文化の期間よりも遥かに多くの量の鉄器をトビニタイ文化集団に安定的に供給し、その結果として、日々の社会生活を維持するために不可欠な道具のほとんどを石器から鉄器に置き換えることができた、と推測されます。
こうした歴史展開を踏まえると、北海道におけるオホーツク文化集団もまた、アイヌ文化形成の潮流に関与している、と理解できます。なぜならば、「原アイヌ期」とされる擦文文化期から中世アイヌ期への移行は、「本土」における交易ネットワークと地域分業への統合過程に起因すると想定されるからです。つまり、遺伝的・文化的に擦文文化集団と異なる系統とされるオホーツク文化集団の消長もまた、アイヌ文化形成の展開のなかの一潮流に統合される、という理解が可能となるわけです。
本論考は最後に、アイヌ文化形成におけるオホーツク文化の役割について考察しています。オホーツク文化のなかには、中世以降のアイヌ文化形成において重要な関与を果たし、現在までのアイヌの文化遺産として引き継がれている要素が少なからず指摘されています。その最も顕著な事例の一つとして、イオマンテと呼称されるクマの送り儀礼が挙げられます。この儀礼は、アイヌ社会において最も重要な文化的実践とみなされています。しかし、現在まで擦文文化には、クマ送り儀礼の痕跡と言えるような考古資料はきわめて限定的にしか確認されていません。これに対してオホーツク文化の遺跡からは、クマなど動物の送り儀礼に関連すると推察される遺物や遺構が数多く検出されています。この他、アイヌ民族・文化の言語や象徴実践などにも、オホーツク文化に由来すると推察される痕跡が少なからず指摘されています。
こうした事例から、オホーツク文化集団は、遺伝的にも文化的にもアイヌ民族・文化のもう一つの源流である、と理解できます。この見解は、従来、縄文文化・時代から直接的かつ単線的に語られてきたアイヌ集団の歴史に対する再考と新たな展望を開くものとなるだろう、と本論文は指摘します。さらに本論文は、資料的に限定された先史考古学にとっても、時間的に限定された民族誌調査にとっても、アプローチが困難な異系統集団の接触・融合の仮定と要因を追究する上で、擦文文化とオホーツク文化は有用な参照事例となるだろう、との見通しを提示しています。
参考文献:
大西秀之(2019)「アイヌ民族・文化形成における異系統集団の混淆―二重波モデルを理解するための民族史事例の検討」『パレオアジア文化史学:人類集団の拡散と定着にともなう文化・行動変化の文化人類学的モデル構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 21)』P11-16
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