瀧浪貞子『持統天皇 壬申の乱の「真の勝者」』

 中公新書の一冊として、中央公論新社から2019年10月に刊行されました。本書は、小説など創作では、冷酷な人物として描かれることが多いように思われる持統天皇(鸕野讚良)の伝記です。本書は持統を、強靭な精神力の持ち主で、自身の血脈に固執する、激しい情念に燃える生一本な性格の人物と把握しています。この持統の個性と決断が、譲位の制度化をもたらし、不執政天皇への道を開きました。平安時代以降に頻出する幼少天皇も、持統の選択の延長線上にある、と言えるでしょう。また本書は、持統の決断が女帝の在り方も変えた、と指摘します。息子の草壁皇統に拘った結果、女帝の役割は中継ぎに限定されてしまった、というわけです。

 本書は読みやすく、なかなか興味深い内容になっていますが、全体的に独特な見解が目立ち、やや困惑してしまいました。もちろん、門外漢で近年は古代史の勉強が停滞している私の感想ですから、本書の見解が近年では通説的立場にあるのかもしれません。しかし、女帝はそもそも当面の政治的緊張緩和のために必要とされた、との見解には説得力があると思いますが、女帝の息子には皇位継承権がなかった、との見解には疑問が残ります。本書は、推古「天皇」の「皇太子」として息子の竹田ではなく甥の厩戸が立てられたことなどを根拠としていますが、そもそも推古朝において皇太子制に類するものがあったのか、ということから問題にすべきではないか、と思います。また、『隋書』を根拠に皇太子制的なものが当時から存在したとしても、推古即位時には竹田がすでに死亡していた可能性も考えられます。当然本書は、皇極「天皇」の治世における中大兄(天智天皇)の皇位継承権も認めておらず、乙巳の変により中大兄には「天皇」即位の可能性が開け、孝徳「天皇」の皇太子になった、と指摘します。しかし、孝徳没後に皇極が重祚したことについては(斉明天皇)、孝徳の「皇后」で中大兄の妹の間人に即位を断られたので、皇極が仕方なく重祚し、中大兄はすでに皇太子だったので、皇位継承権を失わなかった、と本書は説明します。正直なところ、これはかなりご都合主義的な解釈ではないか、と私は考えています。

 壬申の乱の要因について本書は、天智が長男の大友皇子を即位させようとしたからだ、と主張します。これは一般にも広く浸透している見解と同じように見えて、かなり異なります。本書は、天智の次はすでに大海人(天武天皇)の即位が決まっており、大海人は東宮(皇太子)に立てられていたので、天智は大海人の次に大友を即位させるよう、大海人に要請し、これに対して自分の息子を即位させようとしていた大海人もその妻である鸕野讚良も不満を抱き、大友(近江朝廷)打倒を当初から計画して、大海人は出家して鸕野讚良とともに吉野に一旦退いたのではないか、と推測します。確かに、大海人と病床の天智とのやり取りは、本書の見解の方がすっきりします。大海人は、自分には皇位(大王位)への野心はないと意思表示したうえで、大友はまだ即位させるには若いので、まずは天智の「皇后」である倭姫王が即位すればよいと進言した、というわけです。ただ、そもそも大海人に即位資格が認められていたのか、ということが問題になると思います(関連記事)。大海人は天智朝において「大皇弟」と呼ばれていましたが、これは本質的には天皇(大王)の弟という意味にすぎず、すでに甲子の宣などで政治的存在感を示していた大海人に対する敬称だった、とも考えられます。大海人は東宮に立てられたという『日本書紀』の記事は、大海人を正当化する捏造だった可能性も低くはないと思います。まあ、私も自分の見解にさほど自信があるわけでもないので、本書の見解が間違いだと断定するつもりはまったくありませんが。

 夫の天武と息子の草壁死後の持統について、『万葉集』の編纂に関わり、天武を神に祭り上げ、草壁を原点とする「草壁皇統」の創出と孫の珂瑠(文武天皇)の即位に尽力した、との本書の見解はおおむね妥当だと思います。本書は、天武を神に祭り上げて草壁を皇統の原点としたのは、当時天武の息子が複数存命で、天武を皇統の原点とすると軽の即位にとって脅威だったからだ、と推測しています。もっとも、凡庸で体も弱い草壁と、優秀な大津という本書の対比は通俗的にすぎるかな、とも思います。じっさいにそうだった可能性は高いかもしれませんが、本書ではこの対比が確定した大前提とされているように思えたので、そこは引っかかるところです。

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