遺伝的近縁性と親近感

 遺伝的近縁性と親近感に関して考えさせられる発言をTwitterで見かけました。以下に引用します。

日本人のDNAのゲノムを調べれば、誰もが半島にゆかりがあることがわかる。それなのにヒステリックに嫌韓に走る人の気が知れない。屈折した自己嫌悪だ。

 現代日本人は遺伝的には、北海道のアイヌ、本州・四国・九州を中心とする「本土」、南方諸島の琉球という3集団に大きくは区分されます。このうち人口比率で他の2集団を圧倒している「本土集団」は、世界の他地域の集団との遺伝的比較において、とくに朝鮮民族と近縁とは言えるでしょう。その意味で、日本人は「半島にゆかりがある」と言っても大過はないでしょうが、遺伝的近縁性を根拠に嫌ってはならないと主張することもまた問題だろう、と思います。

 自分の血縁者を身びいきすることは霊長類で広く見られ、人間も例外ではありませんから(関連記事)、遺伝的により近いと判断した集団に親近感を抱くことは、「自然な行為」とも言えます。しかし、だからといって、そうあるべきだとか、嫌ってはならないとか、嫌うのはおかしいとか主張することは、自然主義的誤謬として批判されるべきです。あくまでも一般論ですが、両親など身近な血縁者であっても、信用ならない人間であれば、忌み嫌う権利はあって当然です。これを遺伝子ではなく文化に置き換えても同様で、文化的に近縁だから嫌ってはならない、という理屈は通りません。

 人間にも身びいきは強く見られ、それはかなりの程度生得的なものでしょうが、それは血縁者に限定されず、土地・学業・職業・宗教(思想)など様々な縁でも見られることです。こうした血縁関係だけに束縛されない柔軟性こそ人間の特徴で、それには大きな争いをもたらす側面もあるとはいえ、友好的な関係をもたらす側面も強くあります。血縁であれ文化であれ、どれかが近いから仲良くすべきとか嫌うべきではないとか嫌う人間はおかしいとかいった発想は、人間の重要な特徴である柔軟性を損なうものだと思います。そうした発想は人間社会を硬直化させ、大きな損害をもたらしかねませんし、何よりも、発言主の主観とは異なり、帝国主義時代の人種主義と強く通ずる危険性があると思います。その意味で、上述の発言にはまったく同意できません。

 2002年に日本と韓国でサッカーワールドカップが共催された時、サッカーには興味のない私にも、なぜ同じ(東)アジアの韓国ではなく対戦相手のヨーロッパの方を応援する日本人がいるのか、といった反応がマスコミやネットで目に入ってきました。この場合、遺伝的にも文化的にも、日本人はヨーロッパ人よりも韓国人の方と近いではないか、という意味合いが込められていたのでしょう。しかし、上述のように人間関係は多様な縁で構成されるものであり、地縁・血縁・(総合的な)文化を優先させねばならない、といった固定観念は有害です。

 私はサッカーには興味はないので、サッカーファンの気持ちを実感できませんが、競馬ファンである自分の心理から推測して、強いチームが完勝することを望み、地縁・血縁・文化的近縁性よりも優先した、という人も少なからずいたように思います。先月(2019年7月)、イギリスでキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスが行なわれ、日本からシュヴァルグランが出走し、私もそれなりに応援したものの、それよりもずっと強くイギリスのエネイブルの方を応援しました。まあ、競馬は個体単位、サッカーは団体単位という違いはありますが。それはさておき、サッカーに疎い私でも、アジアよりヨーロッパや南アメリカの方がずっと高水準と知っているので、韓国とヨーロッパの強豪国が対戦した場合、後者を応援する日本人のサッカーファンがいても不思議ではないと思います。

 もちろん、自国開催(共催)ということで、サッカーファンとは言えないような日本人で一時的に強い関心を抱いた人は少なくないでしょうし、韓国への嫌悪・蔑視などといった感情から韓国の対戦相手を応援した日本人も少なくなかったでしょう。しかし、たとえそうした感情から韓国の対戦相手を応援する人がいた場合、蔑視という感情自体は批判の対象になるとしても、同じ(東)アジアだから日本人はヨーロッパよりも韓国を応援すべきという意見は、素朴というか「自然」な感情の発露ではあるものの、とても同意できません。個体・団体の違いやスポーツ・文芸・音楽などの違いに関わらずどの分野でも、血縁や地縁などよりも優先する基準があったとしても、その基準自体にとくに問題がなければ、責められるべきではないと思います。

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