アフリカ東部における4万年以上前までさかのぼる人類の高地への進出

 中期石器時代のアフリカ東部における人類の高地(海抜2500m以上)への進出を報告した研究(Ossendorf et al., 2019)が公表されました。『サイエンス』のサイトには解説記事(Aldenderfer., 2019)が掲載されています。高地は、酸素濃度が低く、低温で乾燥しており、紫外線量が多く、食資源に乏しいので、人類には厳しい環境です。そのため、人類による高地への拡散は、人類史でかなり最近になってからのことと考えられてきました。高地は熱帯雨林や北極圏や砂漠とともに人類にとって極限環境なので、そうした環境に拡散できた人類は現生人類(Homo sapiens)だけだった、との見解も提示されています(関連記事)。

 高地への人類の早期進出の事例は、チベット高原やアンデス高地で確認されています。アンデス高地では、海抜4000m以上での12000年前頃の人類の痕跡が確認されており、おそらくはある程度長期的な居住で、季節的だった、と推測されています(関連記事)。チベット高原では、海抜4000m以上での12000~7400年前頃の人類の痕跡が確認されており、通年の居住だったと推定されています(関連記事)。チベット高原の事例では人類遺骸は確認されていませんが、どちらも担い手は現生人類と考えて間違いないでしょう。

 チベット高原に関しては、近年になって、さらに古い高地における人類の痕跡が報告されています。一方は、チベット北部のチャンタン(Changthang)地域にある、海抜約4600mに位置する尼阿底(Nwya Devu)遺跡です(関連記事)。4万~3万年前頃と推定されている尼阿底遺跡では人類遺骸は発見されていませんが、現生人類である可能性が高そうです。現代チベット人のゲノム解析から、チベットへの最初の移住は6万~1万年前頃で、最終氷期極大期(LGM)を通じて小規模な人類集団が継続した、と推測されています。尼阿底遺跡の人類集団は、現代チベット人の祖先の一部だったかもしれません。もっとも、上記解説記事は、尼阿底遺跡は人類の永続的な居住地だったのか、考古学的には確証されておらず、報告者たちも慎重な姿勢を示している、と指摘しています。

 もう一方は、海抜約3280mとなる中華人民共和国甘粛省甘南チベット族自治州夏河(Xiahe)県の白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)で発見された16万年以上前と推定されているホモ属の下顎骨で、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)と分類されています(関連記事)。こちらは、現生人類ではない人類の高地への進出として初めて確認された事例となります。しかし、上記解説記事は、白石崖溶洞下顎骨に関しては、考古学的データが提示されていないことから、現時点では現生人類ではない人類による高地適応の確定的な事例ではない、と指摘します。

 現生人類の起源地であるアフリカにおける高地への人類の適応は、中期石器時代以前に関してはほとんど知られていません。アフリカの山地は湿潤で、低地が乾燥している時期には、他の生物と同様に人類にとっても、待避所になった可能性があります。じっさい、以前の研究では、エチオピア高原の海抜2400m地点において、ガデブ(Gadeb)で150万~70万年前頃、メルカクンチュレ(Melka Kunture)で150万年前頃~中期石器時代となる、人類の短期利用の可能性が指摘されています。これらで発見された石器と類似したアシューリアン(Acheulean)様式の握斧が、エチオピアの海抜3000mの開地遺跡で発見されており、50万~20万年前頃と推定されていますが、確実な年代測定ではないことから、上記の解説記事は人類による早期の高地進出の確実な事例として扱うことには慎重です。

 本論文は、アフリカ東部における人類の高地への早期進出を検証するために、エチオピアのベール山脈(Bale Mountains)を調査しました。ベール山脈では、海抜4200mで黒曜石が確認されており、剥片石器が豊富に発見されています。黒曜石の産地から10kmほど離れ、700mほど低い海抜3469mにあるフィンチャハベラ(Fincha Habera)岩陰遺跡では、人類の痕跡を含む河川堆積物が発見されています。この堆積物の新しい層は過去800年のもので、家畜の排泄物が確認されていますが、より古い層の排泄物は人類のものと推定されています。加速器質量分析法(AMS法)による放射性炭素年代測定では、下層の年代が47000~31000年前頃となる中期石器時代と推定されました。フィンチャハベラの中期石器時代石器群は、海洋酸素同位体ステージ(MIS)3後期となる同年代のエチオピアの後期石器時代の石器群といくつかの点で類似している、と本論文は指摘します。フィンチャハベラ遺跡の黒曜石は、ほぼ完全にベール山脈のもので、14点の石器は、化学組成分析により、海抜4200mの黒曜石で製作された、と明らかになりました。

 フィンチャハベラ遺跡の住民は、デバネズミの地域固有種(Tachyoryctes macrocephalus)を食べており、とくに中期石器時代の堆積層では動物群の93.5%を占めます。このデバネズミの骨の分析から、おもに焼いて食べられていた、と推定されています。フィンチャハベラの齧歯類の骨には、ハイエナによる消費を示唆する痕跡は確認されていませんが、ハイエナの排泄物からはデバネズミの骨が発見されています。その他には、ウシ科も食べられていたようです。ダチョウの卵殻の断片も確認されており、低地から持ち込まれた、と推測されています。

 人類がベール山脈高地に拡散し始めた45000年前頃には、氷河が黒曜石産地から数百mほどまで迫っており、フィンチャハベラ遺跡から10kmほど離れた地点まで氷河に覆われていたことになります。この氷河が、人類も含めて当時の生物にとっての水源になった、と推測されます。本論文は考古学的データから、フィンチャハベラが繰り返し居住地として用いられた、と推測しています。食資源としてデバネズミがあり、氷河からは水が供給されたので、人類にとって長期の居住が可能だっただろう、というわけです。ただ本論文は、ベール山脈高地における中期石器時代の人類の永続的な居住を証明するには、同時代の他の遺跡の確認が必要で、現時点では永続的な居住は証明も否定もされていない、と慎重な姿勢を示します。フィンチャハベラ遺跡で発見されたダチョウの卵殻と由来不明の石英製石器からも、中期石器時代における高地のフィンチャハベラの人類集団が低地と関わっていたのは確実と本論文は指摘します。ただ本論文は、当時のこの地域では低地と高地の人類集団が共存していただろうと考えており、ベール山脈が待避所だったとする見解には否定的です。

 本論文は、アフリカ東部において47000~31000年前頃に人類集団が海抜3469mの高地を繰り返し利用していただろう、との見解を提示します。ただ本論文は、それが永続的なものだったのか、まだ確証はない、と慎重な姿勢を示します。あるいは、季節的な利用だったのかもしれません。本論文は、ベール山脈が乾燥期における人類の待避所だったとする見解には否定的で、低地集団と高地集団の共存の可能性を指摘していますから、そうだとすると、集団間の交易が行なわれていたのでしょう。その場合、高地の黒曜石と低地の(装飾品としての)ダチョウの卵殻が交換されていたのかもしれません。フィンチャハベラ遺跡の人類集団は、現生人類だった可能性がきわめて高いでしょう。


参考文献:
Aldenderfer M.(2019): Clearing the (high) air. Science, 365, 6453, 541–542.
https://doi.org/10.1126/science.aay2334

Ossendorf G. et al.(2019): Middle Stone Age foragers resided in high elevations of the glaciated Bale Mountains, Ethiopia. Science, 365, 6453, 583–587.
https://doi.org/10.1126/science.aaw8942

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