人種差別的な「科学的研究」の批判
人種差別的な「科学的研究」を批判したサイニ(Angela Saini)氏の書評(Saini., 2019)が公表されました。サイニ氏が取り上げたのは、エヴァンス(Gavin Evans)氏の著書『Skin Deep: Journeys in the Divisive Science of Race』です。エヴァンス氏は南アフリカ共和国生まれの「白人」です。エヴァンス氏は、1981年にジンバブエでヒッチハイクをした時、アフリカの黒人の精神的能力は限定的なので、何かを発明することはないだろう、と話した二人組に遭遇しました。エヴァンス氏は、こうした人種差別が科学的装いで主張されている現状を批判しています。
サイニ氏は、現在では、人々が人種として考えている概念に遺伝的根拠はない、ということは常識的になっており、もはや繰り返す必要ない、との見解もあるかもしれないものの、現在の政治環境は、人口集団間の深くて確固たる違いという概念が持続していることを示している、と指摘します。人種の違いとその程度を調べる研究は、ある程度生物学から排除されてきて、人間の遺伝的多様性の大部分は、現在では個人的なものと理解されています。つまり、異なる人口集団の人々が同じ集団の人々とよりも遺伝的に類似する、という事例も珍しくないわけです。このように、人種という概念に遺伝的根拠がないことは明らかであるものの、人種差別・地域的な文化の違いの概念・医学や雇用や公式データ収集といった日常的な場面で、「白人」のような人種分類が用いられており、人種に遺伝的根拠はない、という事実にたいしてあまりにも無知な現状がある、とサイニ氏は指摘します。
エヴァンス氏は著書において、人種的固定観念の二つの焦点である、スポーツと知性を取り上げています。スポーツに関しては、たとえば、ケニアのマラソン選手の世界規模での大会の成功に関して、遺伝的基盤を想定する人々もいます。しかし、エヴァンス氏は、「白人」のイギリス人選手がそうした成功を収めた時には一般化されない、と注意を喚起します。運動能力に関するそうした主張は、人種差別に深く浸った、怠惰な生物学的本質主義である、とサイニ氏は指摘します。
エヴァンス氏は知能に関して、IQの強い遺伝性を主張するプロミン(Robert Plomin)氏の双子研究を詳細に分析しています。エヴァンス氏は、人口集団間の遺伝的違いを示唆する人々もいるものの、IQには順応性がある、と指摘します。エヴァンスは、貧しい家に生まれたならば、IQ改善の最良の方法は幼児の頃に裕福な家の養子になることだ、と提案します。裕福な家庭の養子なると、IQは12~18の上昇が期待されるからです。また、IQテストは人間の知性の真の複雑さと多様性を把握できない、と研究により示されてきました。言語・政治・慣習・宗教・食性の微妙なちがいの理解なしに人種は議論できず、それらは、多くの人が「人種的な」違いと認めるものの大半を構成する、とエヴァンス氏は主張します。
現代の政治は、恐れることなく「科学的」人種差別に対抗することを要求する、とサイニ氏は主張します。そうした「科学的」人種差別に加担する研究者たちは、進化的圧力が人口集団間の心理的違いをもたらした、と主張している、とエヴァンス氏は批判します。たとえば、『一万年の進化爆発 文明が進化を加速した』(関連記事)の著者であるコクラン(Gregory Cochran)氏とハーペンディング(Henry Harpending)氏です。2009年にメリーランド州ボルティモアで開催された「西洋文明の保護」会議で、ハーペンディング氏は、「私はアフリカで趣味のある人を見たことがない」と述べました。エヴァンス氏は、IQが非科学的過程に偽りの根拠を与えるものとして批判しています。さらに、IQに限らず、「科学的」人種差別主義者が学術的な用語で差別を煽っている、とエヴァンス氏は問題にしています。サイニ氏は、現在、本書のような生物学的人種を否定する科学的な議論がまだ必要だと主張しています。
以上、ざっとサイニ氏の書評を見てきました。しかし、「社会正義の活動家」たちによる進化学への攻撃を批判している(関連記事)、昆虫の行動を研究している生物学者のライト(Colin Wright)氏は、この書評を批判しています。ライト氏は、「人種区分」は社会的構成概念としても、人口集団はそうではない、という見解を支持しています。まあ厳密には、現代人の概念は全て社会的構築とも言えるでしょうが、そうした極端な相対主義は、分類・区分して程度の違いを見出す能力がとくに発展した現生人類(Homo sapiens)の特徴を全否定したものだと私は考えており、依拠しようとはまったく考えられません。
それはさておき、ライト氏はサイニ氏の書評に関して、単一の遺伝子座に焦点を当て、遺伝子座間の相関構造を無視している、と批判します。ライト氏は、一般に「人種区分」と呼ばれるものは、根底にある入れ子的な遺伝的構造の低解像度の描写で、サイニ氏の書評に象徴される、「社会的正義」の側は、そうした入れ子構造の研究まで非難している、と指摘します。人口集団間の遺伝的違いは存在し、それは単一の遺伝子座を根拠に否定できるような単純化されたものではない、というわけです。
私も基本的には、ライト氏の批判に同意します。正直なところ、サイニ氏の書評にはかなり疑問が残ります。世界規模のマラソン大会で、「黒人」のケニア選手が活躍したら「人種」の遺伝的基盤が言われるのに、「白人」のイギリス選手が活躍してもそうした一般化はされない、とするエヴァンス氏の見解をサイニ氏は支持しています。しかしそれは、マラソンのトップクラスをほぼ「黒人」が占めているからにすぎず、過去に「白人」が優勢だった時代の競技において、遺伝的基盤が根拠とされていたことは珍しくないわけです。
もちろん、ライト氏が指摘するように、「人種」は入れ子的な遺伝的構造の低解像度の描写にすぎませんから、たとえばマラソンでの活躍に関しては、他の「人種」よりも遺伝的多様性がきわめて高い「黒人」というほとんど意味のない枠組みではなく、アフリカ東部、その中でも特定の集団の遺伝的構成に注目することは当然ですし、おそらく何らかの人口集団的な遺伝的基盤があるのだろう、と私は予想しています。任意に設定した2集団間に遺伝的構成の違いがあるのは当然なので、特定の運動能力において、集団間で有意な遺伝的(潜在的)違いがあっても不思議ではない、と私は考えています。
これは知能に関しても同様だと思います。サイニ氏はエヴァンス氏の見解を引用し、IQが知能の測定として不完全で、環境により変動するものだと強調します。確かにその通りですが、IQがそれなりに広範な知能を測定する手法として優れていることも確かでしょうし、地域的なものであれ、民族的なものであれ、「人種」的なものであれ、人口集団間で有意な潜在的(遺伝的)違いがあっても不思議ではない、と私は考えています。ただ、運動能力もそうですが、知能も無数に設定することが可能なので、ある「能力」では人口集団AがBに対して「潜在的(遺伝的)に優位」でも、別の「能力」ではその逆といった場合は珍しくないでしょうし、何よりも、大半の「能力」は、人口集団間の差よりも内部の個人間の差の方がはるかに大きいだろう、と私は予想しています。
その意味で、ある人口集団の構成員だから**が得意だとか苦手だとか決めつけることは、人種差別として批判されるべきだとは思います。しかし、運動にしても知能にしても、「能力」における人口集団間の遺伝的(潜在的)違いの検証を人種差別的研究と批判して排除することは、大問題だと思います。遺伝学の分野でも、ライク(David Reich)氏は著書にて、人口集団間において実質的な遺伝学的差異があるのに、「正統派的学説」の立場から、それを無視したり、研究を抑制したりするようなことが続けば、集団間の実質的な遺伝学的差異の確たる証拠を提示された時に右往左往して対処できなくなるし、また抑圧により生じた空白を似非科学が埋めることになり、かえって悪い結果を招来するだろう、と懸念を表明しており(関連記事)、私もライク氏の懸念に同意します。
参考文献:
Saini A.(2019): Sports and IQ: the persistence of race ‘science’ in competition. Nature, 571, 7766, 474–475.
https://doi.org/10.1038/d41586-019-02244-w
サイニ氏は、現在では、人々が人種として考えている概念に遺伝的根拠はない、ということは常識的になっており、もはや繰り返す必要ない、との見解もあるかもしれないものの、現在の政治環境は、人口集団間の深くて確固たる違いという概念が持続していることを示している、と指摘します。人種の違いとその程度を調べる研究は、ある程度生物学から排除されてきて、人間の遺伝的多様性の大部分は、現在では個人的なものと理解されています。つまり、異なる人口集団の人々が同じ集団の人々とよりも遺伝的に類似する、という事例も珍しくないわけです。このように、人種という概念に遺伝的根拠がないことは明らかであるものの、人種差別・地域的な文化の違いの概念・医学や雇用や公式データ収集といった日常的な場面で、「白人」のような人種分類が用いられており、人種に遺伝的根拠はない、という事実にたいしてあまりにも無知な現状がある、とサイニ氏は指摘します。
エヴァンス氏は著書において、人種的固定観念の二つの焦点である、スポーツと知性を取り上げています。スポーツに関しては、たとえば、ケニアのマラソン選手の世界規模での大会の成功に関して、遺伝的基盤を想定する人々もいます。しかし、エヴァンス氏は、「白人」のイギリス人選手がそうした成功を収めた時には一般化されない、と注意を喚起します。運動能力に関するそうした主張は、人種差別に深く浸った、怠惰な生物学的本質主義である、とサイニ氏は指摘します。
エヴァンス氏は知能に関して、IQの強い遺伝性を主張するプロミン(Robert Plomin)氏の双子研究を詳細に分析しています。エヴァンス氏は、人口集団間の遺伝的違いを示唆する人々もいるものの、IQには順応性がある、と指摘します。エヴァンスは、貧しい家に生まれたならば、IQ改善の最良の方法は幼児の頃に裕福な家の養子になることだ、と提案します。裕福な家庭の養子なると、IQは12~18の上昇が期待されるからです。また、IQテストは人間の知性の真の複雑さと多様性を把握できない、と研究により示されてきました。言語・政治・慣習・宗教・食性の微妙なちがいの理解なしに人種は議論できず、それらは、多くの人が「人種的な」違いと認めるものの大半を構成する、とエヴァンス氏は主張します。
現代の政治は、恐れることなく「科学的」人種差別に対抗することを要求する、とサイニ氏は主張します。そうした「科学的」人種差別に加担する研究者たちは、進化的圧力が人口集団間の心理的違いをもたらした、と主張している、とエヴァンス氏は批判します。たとえば、『一万年の進化爆発 文明が進化を加速した』(関連記事)の著者であるコクラン(Gregory Cochran)氏とハーペンディング(Henry Harpending)氏です。2009年にメリーランド州ボルティモアで開催された「西洋文明の保護」会議で、ハーペンディング氏は、「私はアフリカで趣味のある人を見たことがない」と述べました。エヴァンス氏は、IQが非科学的過程に偽りの根拠を与えるものとして批判しています。さらに、IQに限らず、「科学的」人種差別主義者が学術的な用語で差別を煽っている、とエヴァンス氏は問題にしています。サイニ氏は、現在、本書のような生物学的人種を否定する科学的な議論がまだ必要だと主張しています。
以上、ざっとサイニ氏の書評を見てきました。しかし、「社会正義の活動家」たちによる進化学への攻撃を批判している(関連記事)、昆虫の行動を研究している生物学者のライト(Colin Wright)氏は、この書評を批判しています。ライト氏は、「人種区分」は社会的構成概念としても、人口集団はそうではない、という見解を支持しています。まあ厳密には、現代人の概念は全て社会的構築とも言えるでしょうが、そうした極端な相対主義は、分類・区分して程度の違いを見出す能力がとくに発展した現生人類(Homo sapiens)の特徴を全否定したものだと私は考えており、依拠しようとはまったく考えられません。
それはさておき、ライト氏はサイニ氏の書評に関して、単一の遺伝子座に焦点を当て、遺伝子座間の相関構造を無視している、と批判します。ライト氏は、一般に「人種区分」と呼ばれるものは、根底にある入れ子的な遺伝的構造の低解像度の描写で、サイニ氏の書評に象徴される、「社会的正義」の側は、そうした入れ子構造の研究まで非難している、と指摘します。人口集団間の遺伝的違いは存在し、それは単一の遺伝子座を根拠に否定できるような単純化されたものではない、というわけです。
私も基本的には、ライト氏の批判に同意します。正直なところ、サイニ氏の書評にはかなり疑問が残ります。世界規模のマラソン大会で、「黒人」のケニア選手が活躍したら「人種」の遺伝的基盤が言われるのに、「白人」のイギリス選手が活躍してもそうした一般化はされない、とするエヴァンス氏の見解をサイニ氏は支持しています。しかしそれは、マラソンのトップクラスをほぼ「黒人」が占めているからにすぎず、過去に「白人」が優勢だった時代の競技において、遺伝的基盤が根拠とされていたことは珍しくないわけです。
もちろん、ライト氏が指摘するように、「人種」は入れ子的な遺伝的構造の低解像度の描写にすぎませんから、たとえばマラソンでの活躍に関しては、他の「人種」よりも遺伝的多様性がきわめて高い「黒人」というほとんど意味のない枠組みではなく、アフリカ東部、その中でも特定の集団の遺伝的構成に注目することは当然ですし、おそらく何らかの人口集団的な遺伝的基盤があるのだろう、と私は予想しています。任意に設定した2集団間に遺伝的構成の違いがあるのは当然なので、特定の運動能力において、集団間で有意な遺伝的(潜在的)違いがあっても不思議ではない、と私は考えています。
これは知能に関しても同様だと思います。サイニ氏はエヴァンス氏の見解を引用し、IQが知能の測定として不完全で、環境により変動するものだと強調します。確かにその通りですが、IQがそれなりに広範な知能を測定する手法として優れていることも確かでしょうし、地域的なものであれ、民族的なものであれ、「人種」的なものであれ、人口集団間で有意な潜在的(遺伝的)違いがあっても不思議ではない、と私は考えています。ただ、運動能力もそうですが、知能も無数に設定することが可能なので、ある「能力」では人口集団AがBに対して「潜在的(遺伝的)に優位」でも、別の「能力」ではその逆といった場合は珍しくないでしょうし、何よりも、大半の「能力」は、人口集団間の差よりも内部の個人間の差の方がはるかに大きいだろう、と私は予想しています。
その意味で、ある人口集団の構成員だから**が得意だとか苦手だとか決めつけることは、人種差別として批判されるべきだとは思います。しかし、運動にしても知能にしても、「能力」における人口集団間の遺伝的(潜在的)違いの検証を人種差別的研究と批判して排除することは、大問題だと思います。遺伝学の分野でも、ライク(David Reich)氏は著書にて、人口集団間において実質的な遺伝学的差異があるのに、「正統派的学説」の立場から、それを無視したり、研究を抑制したりするようなことが続けば、集団間の実質的な遺伝学的差異の確たる証拠を提示された時に右往左往して対処できなくなるし、また抑圧により生じた空白を似非科学が埋めることになり、かえって悪い結果を招来するだろう、と懸念を表明しており(関連記事)、私もライク氏の懸念に同意します。
参考文献:
Saini A.(2019): Sports and IQ: the persistence of race ‘science’ in competition. Nature, 571, 7766, 474–475.
https://doi.org/10.1038/d41586-019-02244-w
この記事へのコメント